47 過去の重し
ぱあん! と高い音が鳴った。
衝撃で一瞬、目の前の景色が飛んで、真っ白になる。
天藍に抱えられて運動場に降りた僕の顔を見た途端、宿舎から走り出して頬を張り飛ばしたのは、他ならない若き青年医師……リブラだった。
彼は肩に白い長外套を羽織り、その下は皺のよったシャツとスラックス姿のままだった。
怒りはそこで収まらず、襟首を物凄い力で掴む。
「紅華様から連絡がありました。貴方はっ…………なんてことを!!」
思いのほか、強い怒声だった。
「なぜ、貴方の身分を詐称させたのか本当にわからないんですか!? 元の世界に戻れなくなるのは古銅イオリだけじゃない、他ならない貴方がそうなる可能性があったからだっ!!」
そこまでひと呼吸で言い切って、それからリブラは悲愴な表情を浮かべた。
リブラに追いついたカガチに羽交い絞めにされて引き離され、やっと解放される。
僕は唖然としながらも、紅華のことさえ絡まなければリブラがどれだけ気の優しい青年だったかを思い出した。
だからこそ、彼はあえて釘を刺すようなまねをしたんだということに、遅ればせながら気がついたのだ。
どっと疲労が戻ってくる。緊張と、体の冷えと……これからの不安と、それらにタールでも混ぜてこねたような、重たくて仕方が無い疲労だ。
「何があったかは推測するほかありませんが。とりあえず、今日の予定は白紙にしましょう。休みです」
カガチはそう言うと、抵抗する気を失ったリブラを離し、宿舎へと戻って行った。
~~~~~
「僕はマスター・ヒナガ。日長椿。藍銅共和国の王子でもなんでもない。古銅とおなじ異世界から来た!」
その言葉を発した瞬間、体温が一、二度下がった気がした。
「君たちを……救うために」
無茶だった。僕に救世主の真似事なんてできっこない。
「嘘つき」
突然、女の子の声がした。
紅華じゃない。金色の髪を三つ編みに結った少女が人垣の間から僕を見つめていた。それはマリヤそっくりの姿をしていた。
「そんなんじゃないくせに……あなたは実の母親にひどいことをして、あっちにいられなくなって、ここに逃げ込んできたただの弱虫……」
もちろん、あの場所にマリヤはいなかった。
「そうね。あなたが何をしたのか、直接知ってるのは私だけですもの。罪悪感がなせるわざですわね」
僕は彼女を必死に無視する。
あのとき、僕の前には全てを奪われ、打ちひしがれた父親がいたんだ。
「だが……君にも家族がいるはずだ」
彼は冷酷になりきれない声でそう言った。
いないわ、とその隣でマリヤが言う。
そう……マリヤは亡霊なのだ。僕の頭の中にずっと巣食っている。
「いまの僕は王姫殿下に忠誠を誓った騎士だ。覚悟はできています」
虚しい返答だった。僕を待っている人なんて、元の世界に帰っても、誰一人としていない。
「王姫殿下!」と、誰かが叫んだ。
紅華はそちらに手を伸ばし、何か大切なものを受け止めるように握りしめ、その掌を胸に押しあてていた。
「我らが師に……!」
重なるように、声が上がった。
それは学院の教師を讃える言葉だった。
偉大な知恵に、我らが師に。
同じ言葉がさざ波のように広がっていく。
それは、助けてと声を枯らして叫ぶ、必死に縋りつく切なる懇願だった。
――夢はそこまでだ。
数時間の睡眠を終え、時間きっちりに宿舎で目覚める。そこには息子を失った両親も、暴徒もなく、罵声も聞こえてこない。もちろん、マリヤの気配もない。
デモ隊は説得に応じて撤退した。
それはまるで魔法のような光景だった。みんなが僕を見つめ、僕がほんものか、にせものなのかを見極めようとしていた。そして……嘘みたいな話だが、彼らは武器を置いて去って行った。
はなから彼らは特定の誰かに率いられた集団ではなく、本来は人を傷つけるような人たちでもなかったのだ。ただ救いを求め、傷を癒す方法を知らなかった人たち。
その疲れ切った歩みは救世主を得た喜びではなく、ずっと堪え続けてきた忍耐の日々が明日も続く、その重みを引きずったそれだった。
時刻は夜明け前だった。
帰ってきた直後、ほかの学生たちは僕のことを知っているようではなかった。でももう少ししたら、先程の経緯は外部に漏れてしまう確率が高まる。
あそこには何百人という人がいて、情報を囲いこむことなどできない、というのはこれまでの経験でわかってる。
そうなる前に宿舎を抜け出した。教官の上着は着る気になれず、置いて行った。
太陽が出る直前の時刻。
周囲はじゅうぶんに明るい。
風は爽やかで、ここが現実なんだって教えてくれる。
「――――あそこか」
宿舎裏側には、崖がある。
その上に人影が見えた。
予想通り、白くて痩せた体が、剣を振るっている。
体を動かす度に、刃と背中から頬にかけて埋め込まれた竜鱗が光を反射して輝いた。
崖の高さは二十メートルほどだが、山肌のなだらかな部分を辿れば、まあ行けない距離ではなそうだ。オルドルの野生を信じるならば、だけど。
「《昔々、ここは偉大な魔法の国》」
魔法を使い、浮石を慎重に避けつつ、魔法を使った体は軽々と高所に上がっていく。
やがて、剣が空を切る音が聞こえてきた。
崖の上に這い上がる。
天藍はこっちには視線もやらずに、構えをひとつひとつ試し、丁寧に確認している。戦いの最中によく使ってる型だ。
「――何しに来た」と声をかけてくる。
「見学」
ずいぶん長くひとりで剣を振るっていたのか、少し息が上がり、汗をかいている。
天藍は仮想の敵めがけて鋭い突きをはなつ。刃はすぐに引かれ、次の動きに繋がっていく。きれいな動きだ。よく慣れてて、無駄が無い。一日二日、なんて短期間じゃなく、ずっと、ずうっと、こうして地道な練習を続けてきたんだろう。朝日を刃が反射して煌めく。きれいだ。
刃みたいな色の瞳が細まり、こっちを向いた。
タオルを取れ、と仕種で伝えてくるので、親切にも投げてやった。
「腹芸をするつもりはない。何か言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「……昨日の感想を聞きにきた」
「お前が異世界人だとかそういう話か」
ずばり、言われると……気分が重い。
こいつのことだ。興味ない、とか言うんだろうな。
そう思ったけれど、天藍の返答は意外なものだった。
「……知っていた」
「え?」
「確信はなかったが、そういう可能性があると思っていた」
「……何を、どこまで知ってるんだ……?」
天藍の銀色の瞳に、読めない感情が浮かぶ。
「銀華竜戦の直後、お前が体を再生したときに記憶を読み取った」
「――――な」
なんで。
声が出なくなる。息も吸えないくらいに、苦しい。
天藍は何を知っている?
僕が異世界人だっていうことと……。
それから、僕が母親を殺したことも……なのか……?
知られたくなかった、と感じている自分がここにいる。




