27 壊れた旋律、氷炎のアステリズム
極彩色の光。
脳髄に直接叩きこまれているかのような重低音、地鳴りのような音楽。
眼下のダンスフロアでは青いスカートに白い前掛けの少女たちと燕尾服にシルクハットの男たちが芋虫や巨大な猫と踊っている非常に奇怪な光景があった。変人の妄想か、それとも奇人の悪夢といった趣向の風景がいったい何をモチーフにしたものなのか、彼女は知らない。集っている大半の者たちにとって、どうでもいいことだ。
ただドレスコードに従いさえすれば、ここの主が時間の制限なく、客たちを集わせてくれ、無法を許すという事実がありさえすればいい。
だから、彼女の意識を現実に引き戻すのは、ここでは無遠慮な友人の声だけなのだ。
「ミィレイ、こんなところで遊んでて大丈夫なの?」
「ん~? 明日の《校内戦》のこと?」
少女はフロアにいる女の子たちと同じ青いワンピースに幼稚なエプロンドレス姿で頭を悩ませる。煙草とアルコールの臭いが充満する店内で、彼女が二十以下の小娘だと思う人間はいても、まさか魔法学院の生徒だと思う物は皆無だろう。
「いいんだよ、あんなの……先生の見栄だよね。十五歳の新人教師にいいようにやられたくはないっていう」
「そうなの?」
「そうだよう。大体、クジの都合で竜鱗学科に当たってたらどうするの。今日の試合みたいなマスター・サカキの、あの考えなしの魔術馬鹿の攻撃食らったら、今頃死んでたよ」
普段、学校では絶対に口にできない教師の悪口。
あしざまにこき下ろしてやれば、それが呪文になり魔法にかかったかのように、彼らがその通りのくだらない人間になったように、そうさせたのが自分であるかのように感じられた。酷くくだらない優越感でも渇望を心地よく満たしてくれる。
ミィレイは明日の第三試合でマスター・オガル教室の一員としてマスター・ヒナガとそして天藍アオイと対戦する。けれどオガルの専門は《占術》だった。
一応、戦術は伝えられてはいるが勝ち目が薄いことは彼女も友人もわかっている。
ただマスター・ヒナガにいいようにやられたくないというのは教師の気持ちを代弁しているようで、その実、彼女の本心でもあった。
日頃、日の目を見ない魔術――魔術かどうかも怪しい――を専門に勉強し続け、少しは報われることがあってもいいじゃないか、という気持ちがミィレイの無意識下に潜んでいた。ヒナガが影でなんと呼ばれているのか少女はよく知っている。《竜殺しの魔術師》、《天才少年》、そこに《赤薔薇の騎士》というのが新しく加わった。
そんなふうに華々しく賞賛を浴びたい、という気持ちがあるのだ。
「でも、凄いのは騎士団長サマを味方につけてるからでしょ~? あいつが味方するなんて、藍銅共和国の王子様、という話もあながち嘘じゃないかもね」
どうやら新しい仇名が加わる日も近いらしい。
何故、とミィレイは考える。ヒナガと自分と、いったい何がちがうのだろう、と。
ウサギ頭に赤いジャケットを着た給仕が、《私を飲んで》というメッセージカードが添えられた幻覚剤入りの飲み物を勧めてくる。
友人は連れて来た男友達とそれを楽しみたいらしい。
ミィレイそのまま戻らないつもりで中座した。
物陰に行って首筋から小さな駒を引き抜く。ボードゲームに使われる女王の駒に赤く輝く針がついている。
だが針の正体は圧縮された《魔術》であり、すぐに針そのものが消えて、駒も元の小さな宝石を抱いた子猫のフィギュア、といった姿に戻ってしまった。傷口さえ残らない。
すぐに黒と赤と白と、奇怪な幻想で満たされた空間が崩壊して行き、テーブルと寝台と、教科書と筆記具が並ぶ簡潔な自室、という日常の光景が戻ってくる。
指先は、まだ非現実の臭いに痺れているような気がした。
もちろん理性では知っている。あの空間では酒を飲もうが煙草を嗜もうが、はたまた薬物に手を出そうとも《魔術通信網》の世界から解き放たれれば残り香さえ消え失せ、無かったことになるのだと。
全ては意識の上で起きたことであって、肉体とは関係が無い。それでいて五感が再現され、まるで現実で起きているように感じられる非現実だからこそ、危険な愉しみに触れてみたい、と思う人たちが現れ、それを提供する者たちが現れもする。
ただ、ミィレイはこの遊びに飽きかけていた。
魔術通信網でなら、彼女は何にでもなれる。エプロンドレス姿の少女にも、金髪に白い肌、黄金の冠を頭に乗せた美しい女王にだってなれる。
けれど、たった一晩だけの喜びなど、貴重な時間を費やしてまですることじゃない。
ふと我に返ると、家の中が妙に静かだな、と思った。
校内戦に出場するということがばれてしまい、さっきまで彼女の家族は大騒ぎだったのだ。奨学生の一人で、大して裕福ではないミィレイが出場選手に選ばれることが名誉に思えたからだろう。
勝ち目がないと知っている娘にとっては、うざったくて仕方がない反応だとわかっていても、夕飯は豪華になった。
「お母さん……?」
ミィレイは部屋を抜け出した。
家の明かりは全て落ちていた。
居間にも人気はなく、母親も、父親も、弟の部屋ももぬけの空だった。
戸惑っていると、台所から物音がする。
物音というか泣き声だ。
不審者かと思ったが、それは女の子の声に聞こえ、彼女は恐る恐るそちらに向かった。
「誰……!?」
暗がりに同い年くらいの少女がうずくまっていた。
華奢な体を紫色のワンピースに包み、背中を丸めて涙を流している。
「うっ……うぅっ……ふえっ……うえぇっ……」
「どうしたの、体調でも悪いの」
不法侵入者であると知りながら、やさしさと親切心からそう聞いてしまった。
「ちがうの……あなた、ここがどこかわかる……?」
ここがどこか?
ミィレイは気がついた。少女の首筋に紫色の大輪の花が咲き、その中心に美しい宝石の蝶が飛んでいることに。
それは魔術通信網に接続するために必須の、術式が込められた端子だった。これを体内に差し込むことによって、たとえ正しい魔術を学んだことがなくても、通信網の世界に接続することができる。
つまり、ここはまだ魔術通信網によって構築された《誰かの意識の内側》ということになる。
ぞっとした。なぜなら目の前にある空間は、彼女が過ごしている家の中そのものだからだ。間取りも、調度品も、置かれた小物も、床や天井の汚れの位置まで、一緒だ。
「ごめんね……こんなことしたくなかったんだけど……し、仕方ないの」
彼女は宝石のように輝く瞳から、大粒の涙を零し、可憐な顎や唇を濡らしながら言う。
「ここは、あ、あたしが構築した迷宮の中で、あ、あなたはもう出られないの……そうしないと、お姉様た、たちに……ごめ、ごめんなさぁい……」
ミィレイは首筋に手を伸ばす。自分の端子は刺さっていない。
しかし彼女の意識は網に捕えられたままだ。本当の体には刺さっているはずなのだが、どうしてもそれを知覚することができない。
このままでは現実に帰還できなくなる……。
危険を感じ、走り出す。
助けを呼ばなくては。誰でもいい。通信網に接続する誰かに、このことを知らせなくては。
玄関を出てすぐ、彼女は立ち竦んだ。
耳元で大きな音楽が、調子はずれの交響曲が鳴り響く。
そこは黒と白に塗り分けられた盤面のようなダンスフロアで、エプロンドレスを着た女の子と、燕尾服の帽子売りたちが並んでミィレイを待ち構えている。
床にはイモ虫が這いつくばり、天井で縞々尾の猫が駆ける。誰かがフラミンゴの頭を床に打ちつけて砕く絶叫が、咲き誇る薔薇を赤白に塗り分ける労働に従事させられる紙人間たちの苦悶の声が、そこここで響く。
後退りして家に戻り、ミィレイは自分の部屋まで駆け戻った。
鏡にうつる姿は亜麻色の髪をした少女ではなく、金髪に黄金の冠を戴き、病的なまでに白い肌をした女王だった。
ミィレイは絶叫を上げた。
音楽が近づいてくる。
~~~~~
ホログラム映像から飛び出しそうな爆炎が修練場を蹂躙し尽していった。
貴重な二回戦目の試合の記録映像だ。
そこは炎の戦場で、マスター・サカキが絶対の規律である。彼が許さなければ、すべての生物は息をすることもままならないのだ。
これくらいの威力の魔術は、銀華竜の一件で見かけた軍用魔術しか知らない。
っていうか、あれを考案しているのがサカキなんだっけ?
凄まじい火力はマスター・サカキの息の音も止めそうな有様だ。天藍アオイの攻撃も生ぬるい。自陣にまで及ぶ攻撃を、彼はどうやって退けているんだ? その疑問はすぐに晴れた。
しばらく後、火炎と煙が退くと、サカキの陣営が見えた。
マスター・サカキは二枚の大盾を構えた生徒に守られていた。
盾、というより壁、といったほうが正しいかもしれない。
それを支えるのは碧チドリと碧アカザの二名。
僕が見ているのは二人が同時に同じ竜鱗魔術を使っている、そういう光景だった。
『二人が移植しているのは、同じ竜の鱗、みたいだネ』
オルドルが嫌そうに解説してくれる。
サカキは双子に同じ竜鱗を移植させ、二人組になって魔術を使わせることで十鱗騎士相当の能力を引き出している。この方法ならひとりひとりの能力が低くとも……もしくは弱く移植に適さない竜鱗の力でも、頭数を揃えることで高度な魔術を使うことができる。
「鱗の枚数が少なく済めば、移植のリスクも低くなるよな」
どうやら、彼は自分だけに飽き足らず、自分の教え子たちも使って自分の理論を実践しているようだ。
あれ、それって人体実験って言わないかな。
オルドルは長い長い溜息を吐く。
『考えてもムダだ、ツバキ……残念ながらネ。あのクソ竜野郎が自分のやっていることの意義や意味を理解しているハズが無い。頭の中にはあるのはただ《可能そうだからやる》、ソレだけしかない』
「……どうしてそういう、喋ったこともない相手の正確な分析ができるわけ?」
『ボクがそうダカラ』
こいつは自分が世界の中心で、全ての物事と人間が自分の想い通りに動く、と信じている節がある。きっと、そういうかわいそうな病気なのかもしれない。
少なくともサカキは生徒たちに慕われていたはずだ。自己中心的なオルドルとは違う。
続きを再生する。
マスター・カガチ側は火炎と衝撃に包まれて、ほぼ絶望的に見える。
だが、同じく煙が晴れたそこには、無傷のマスター・カガチが腕組みしたまま、にこやかに微笑んでいた。
周囲には炭化した大量の木片が落ちている。
確か昔の日本建築には耐熱性を上げるため、予め表面を焼いた杉を使うことがあったらしいけれど……だからって燃えないわけじゃない。相性が最悪とわかっていながら、馬鹿みたいな正攻法だけであの爆炎を防ぎきったようだった。
「おい、時間だぞ」
声とともに、運ばれる子猫のごとく首根っこをむんずと掴まれる。
親猫のほうにぐるりと顔を向けると、ひどくつまらなさそうな銀の虹彩があった。