22 正論
瞳を閉じると、と女の柔らかな声が耳元でうたう。
やわらかで優しく囁くような声音を震わせて。
夜闇にひとり取り残された女の寂しさと、いつか恋しい人が帰ってくるのではないかと期待する心をさざ波のような音律にかえて歌い上げる。
彼女はそれを浸るように聞き、瞳は何か別の光景を見つめているかのようだった。
何か……とは、そう。彼女の瞳を優しく覗き込む誰か。日々のくだらないこと、彼女にとっては取るに足らないことを、それがあたかも世界の特別な真理であるかのように語りかける言葉。名もなき花や、浜辺の貝殻を取り上げて、贈り物にかえてしまう魔法の掌……。
それが合図であるかのように、桃色の髪が風に靡いた。
「……んふ♪」
両耳に入れた小さなイヤホンを外し、歌詞の世界から抜け出た彼女はサングラスを少しだけずらし、生の瞳で修練場を見下ろす。そこに、小柄な少年がいる。並みいる一流魔術師たちの中で、まるで自分ひとりが平凡なんだ、という顔をしているし、実際そうだろう。髪だけが絵本のなかの魔術師らしい夜色をしていた。
「不思議ね……マスター・プリムラの術中に容易くはまっていたくせに、使う魔法は熟練の魔術師が尻尾巻いて逃げ出すほどよ。あれがこの国の《竜殺し》なの? くるくる表情が変わってか~わい~♪」
「討伐を成功させたのは騎士団団長のほうなのでは?」と、同じくサングラスと帽子で容貌を隠した女が応える。
「ああ、あいつ」
視線の先で、白い影が振り返る。銀の視線が、キヤラを射抜いた。
キヤラはひらり、と掌を振ってみせた。
「あれも面白いけど、世界面白人物列伝に加えるにはまだまだだってところね~。それよりセンセーの魔法、見た?」
「はい、お姉さま」
「あの子、たぶん登場人物を取り込んでるわ」
「……どういう意味です?」
「そのままの意味♪ オルドルの力を最大限発揮するには、あれしかないのよね。本人がそこまで計算に入れてやったのかは若干、疑問だけど、対策を講じる必要があるわね♪」
キヤラは踵を返し、修練場に背を向ける。
「お姉様、どこに? 本命の試合を見学するのでは?」
「それは貴女におまかせ~♪ 少し探しものをしてきます。きっと私のかわいい妹ちゃんは今回の試合を参考に、もし万が一、彼らと敵対することになったなら、という観点で最低三十通りは戦術を組み立てておいてくれるに違いないわね」
キヤラは返事も訊かずに行ってしまう。
残された彼女は、修練場のほうに視線を戻し「もう!」と小さく文句を言った。
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僕らの試合のときもかなり盛り上がっていたと思ったけれど……。
やはり本命は竜鱗学科どうしの真っ向勝負だったらしい。
修練場の周囲には屋台も出たりしてるし、観客の数がそもそも違っていて、観覧席に空席が見えないほどだった。竜鱗学科が出る初戦なのに、もう決勝戦の空気なのだ。
マスター・カガチや、同僚のサカキはいわゆる新聞部の生徒たちや、学院の外からわざわざやってきた記者の質問に答えていた。
マスター・サカキを初めて意識したが、カガチとは雰囲気が全然違う。
前衛戦闘職だけあって体つきががっしりしているのは同じなのだが、メガネをかけていてどちらかというと大人しそうな、知的なイメージ。インタビューにも、カガチがメインで答え、補足があればおずおず口を挟む程度ででしゃばらない。
それに、所持してる武器が、剣ではなく杖だ。この国の人たちは皆、杖を所持しているから不思議ではないのだが、竜鱗騎士では見たことが無いタイプだ。
それにしても、僕たち勝利者へのインタビューがあってもいいんじゃないか?
とは、思っていても言わない。
なんだかんだ面倒臭いし、それにカガチやサカキのコメントが気になる理由は校内戦の注目度からじゃない。
彼らが連れてきているのはそれぞれの一押しの生徒たち、つまるところ将来有望な竜鱗騎士たちだ。
とくに学院の外から来ている記者の興味の対象は、校内戦の勝者ではない。
将来だれがどうやって自分たちを竜から守ってくれるのか、ということなのだ。
ちなみに人に囲まれているのは、彼ら二人だけではなかった。
「リブラ医師、この症例について意見をうかがいたい!」
突然、校内戦の追加の参加者として現れた玻璃・ブラン・リブラの周囲には生徒たちの人だかりができていた。別に、彼の顔形が少しばかり人より華やかで金のありそうなにおいがするから、というわけではない。
集まっているのは制服の色からして、医療魔術科生だ。
中には研究生や偶然居合わせた医師なんかも紛れている。リブラはにこやかで人当たりのいい笑顔を向けながら質問に答えたり、求められればサインをしたりと、忙しい。
もちろんみんながみんな彼を知っているわけではなく、その騒ぎを不思議そうに見ている僕らのような生徒もいる。
リブラは医療魔術の達人で《医聖》と呼ばれている。
「へえ……王姫殿下の侍医……つまり、もの凄く腕のいい医者ってことか」
ウファーリはそれがどんな立場なのかピンとはきていないみたいだった。僕も彼女と似たようなものなので、その気持ちはすごくよくわかる。ただ、こっちは命と健康に直結するだけに取り囲んでいる人たちは真剣そのもので、とうとう話は腰痛や片頭痛の相談にまで広がりだしたので、助けを求める瞳を見ないふりで僕とウファーリはその場を離れた。
まあ、日頃は翡翠宮に引っ込んで王族や貴族ばかりを専門に診ている医者だ。
少しは庶民の生活に貢献してくれてもいいだろう。
「先生、天藍、こっち!」
ウファーリの案内で立見席の比較的空いているところに陣取る。
他人との距離が近すぎて、天藍アオイは少し居心地が悪そうだ。そもそもここにいるのも、マスター・カガチ戦が気になるからであってそれ以上でも以下でもない、といったところだろう。
強いて僕らが一緒にいる意味もない。
「お祭り騒ぎで楽しいな!」
ウファーリだけが明るい顔だ。
「そうかなあ? うるさくて僕は苦手」
しかも、周囲の人たちが僕の顔を見て「ああ、あのパンツの人」とか言っているのを無視しなくてはならず、それが耐え難い屈辱だ。
公開処刑じゃないか、あんなの。
「ウファーリも、友達とかと観たいならそっちに行っていいよ」
そう言うと、彼女は少しむくれて、黙りこんだ。
やっぱりだ。
確かめたわけではないが彼女は他の生徒たちとの関係がうまくいっていない。
ウファーリには特殊な能力があるし、天藍ほどいかれてはいないが、同じく好戦的な性格だ。
……あれ? なんか僕のまわりこんなのばっかりだな。
でも違いもある。
天藍は自分の性格に疑問を持ったことは生涯で一度もない、といった人物だが、ウファーリは変わりたいと願っている。
時間が解決してくれるといいんだけど……。
そうして試合開始を待っていると。
「あの、すみません……失礼します。ありがとうございます、通してほしいんです」
と、人垣の向こうから妙に礼儀正しい声が聞こえてきた。
振り返り、僕はびっくりした。
向こうからやって来るのは背の高い、真面目そうな、竜鱗学科の好青年、天河テリハだった。
幸い桃簾イチゲはいないらしいが、出場選手が試合直前に何をやっているのだろう。
彼は僕らを見つけ、清々しい笑顔をみせた。
「マスター・ヒナガ。少しよろしいですか」
「何しに来たの、君」
敵に塩でも送りにきたのかな。
「一回戦、拝見しました。素晴らしい試合でした」
握手を求めてくるので、適当に応じる。
「カッコ悪いところを見せちゃったね」
「そんなことはありません。非竜鱗魔術であれだけの魔術はそうそうみられません。その年で幻術を極められているとは、流石は最年少でマスターと呼ばれるだけはあります」
褒められているような、そうでもないような。上から目線なのは気のせいかな。
「ところで、今日は……アオイは?」
きょろきょろとあたりを窺う。
天藍のことをアオイ、と呼ぶ人物を初めて見たので、僕は珍動物を発見したかのような心持ちだ。
しかし、肝心の天藍の姿は忽然として消えていた。
『キミが来る直前に逃げて気配を遮断してる』
オルドルが言うと、テリハは気がついて、不思議そうに僕の金杖と水筒を見た。
「天藍に何か用事でも?」
「いえ、そうではなく……。あの、妙なことをお聞きしますが、先生は天藍と仲がいいのしょうか?」
僕はその言葉について考える。
「仲が良い、の定義によるな。でも……あいつ、みんなに言われてるほど他人の言うことを聞かないやつでも、血も涙もない冷血漢でもないよ」
どうしてテリハがそんなことを聞いてくるのかよくわからないが、僕はこれまでのことを振り返りつつ、思ったことを言っておく。確かに僕やウファーリを術に巻き込んだり、容赦なく竜鱗を振らせたりはしていたし、やめろと言ったって聞かない。
でも冷たく見えるだけで、中身はちがう。と、思う。
「妥当な意見なら耳を貸すし、どうしても協力しなければいけないギリギリの状況でなら手を貸してくれるときもある。なんていうか……手を抜いたり、妥協したりってことができないだけで、あいつと本当に対等に戦えるやつなら肩を並べて一緒に戦えるんだと思う」
そんな奴がいるのか、という疑問はあるにしろ。
テリハはぼうっとしたような表情で僕の話を聞いていた。しかし突然、といっていいタイミングで「そうですよね!」と声のトーンを上げてきた。
そして表情を輝かせ、興奮した様子で僕の両手を握りしめた。
「やっぱり、先生はよくわかってらっしゃいます。そうなんです。アオイはみんなが言うほどひどいやつじゃないんですよ!」
「えーっと……つまり、どういうこと?」
論点がよくわからない。
テリハは何故か、少しばかり照れ臭そうに言う。
「あ、自分ばかり喋ってしまい、失礼しました。天藍が入学してきてからというもの、彼が孤立しているのを心配していたのです。ですが、さっきの試合を見て……先生とは連携のようなものがとれている気がして、嬉しくて」
「はあ……」
連携をとっている、というか、僕があいつのやり方に合わせ、そして勝手に窮地に追い込まれた僕が死なないよう、あいつが最低限の援助をしただけなのだが。
それにしてもテリハの心配は真面目な上級生、として、だろうか。
こっちの疑問は置いて、彼は熱弁を振るう。
「竜鱗騎士とはいえ、大切なことは他の方々と変わりません。連帯と団結、助け合いの精神で、個の力はより強力になる。竜鱗騎士という重責を負い、女王国の民の皆さんの盾となり剣となって戦う以上、彼もそうあるべきですし、そうできるはずです」
そんなの、言われるまでもない、というド正論だが……彼の眼差しはまっすぐで、力強い。
過剰なまでに一点の曇りもない清々しい顔だった。
「この試合で、そのことを彼に示したい。そう思っています」
「あ、そう……」
「私たちの試合を見るよう、天藍に伝えてください。失礼します!」
彼は軽くジャンプし、背中から漆黒の翼を広げる。
観覧席を蹴って、直接、競技に入って行った。
『気の抜けた返事して、どしたの?』
「……自分でもわからない」
大義名分は立派だし、天藍が協調性とかコミュニケーションの大切さを学んでくれるならこっちも願ったり叶ったりではあるのだが。
曖昧な返答しか返せない僕がここにいるのはどうしてなのだろう。




