14 愚者の復活
体を湖に浸していた。
冷たい。
手足に感覚がない。
そこは湖のほとりにある銀色の森だった。
物語と同じように、銀色の美しい木々が枝葉を伸ばし、そこらじゅうを、小さな動物たちが駆けまわる。鳥や蝶が舞い、花々が咲き誇る。
木も草も生き物も、すべてが銀でできていた。
隣には僕と同じ顔をした少年が、地面に寝そべりながら、僕の顔を眺めている。
長く、手入れされない黒髪の間から、赤い瞳が狂気の弧を描いている。
真っ赤な口元からは血錆のいやな臭いがする。
額からは鹿の角が伸び、腰から下も、茶色の滑らかな鹿の皮で覆われ、四つの細長い肢と蹄が見えた。
半人半鹿の化け物は、赤い舌をちろりと出し、舌なめずりしてみせる。
そして上半身だけで起き上がると、両手で僕の頭を掴み、湖から引きずりあげる。
鼻先を近づけて臭いを嗅ぎ、にたりと笑ってみせた。
その瞬間、絶叫が耳をつんざく。
金切り声、嗚咽、懺悔、救いを乞う哀れな犠牲者たちの合唱だ。
清純だった森の大気は血煙の舞う極悪な光景に代わり、木々は枯れ、枝に貫かれた犠牲者たちの死体がぶら下がる。
腐った死肉を、動物たちが食む。
いつもの幻覚だろう。
青海文書はときどきこういう幻を僕に見せるのだ。
でも、今日の幻覚はいつもと違い珍しい。この形態をしたオルドルを見るのは久しぶりだ。
いつもは気取った靴を履き、きちんと足のある少年の姿をしている。
「オルドル……なのか……?」
オルドルは何も言わず、語らず、大きく口を開けた。
「あっ……ああっ……!」
白い人間の歯が並ぶ口腔が、僕の首筋に食らいつき、絶叫を毟り取る。
皮膚を食い破り、筋肉を裂き、骨を噛み砕き、血を啜って咀嚼する。
言葉は言葉にならず、悲鳴は音にもならない。
喉に空いた穴からひゅうひゅうと音が漏れ出るだけ。
バケモノの晩餐はまだまだ続く。
体中を食いつくすまで終わらない。
オルドルの体の向こうに、光が見えた。
輝く女だ。あまりにも眩しく、容貌ははっきりしない。
ただ鈴の音のような声がふってくる。
「どうする? もうやめてもいいのよ……それとも、続ける? あなたしだいよ、ツバキ……そう、すべては《貴方しだい》なのよ」
そうしている間にも食人鬼は腹を裂き、内臓を引きずりだし、眼窩から眼球を吸い出し、頭蓋を割って脳髄を舐め、何もかもを食らい尽くそうとする。
肉と血の捧げものこそが、彼の魂の根源だからだ。
発散されない絶望と絶叫が精神をゆっくり苛み、痛みが自我を壊していく。
声が出ない。
声が出ないからこそ、憎しみは溢れかえる。
やめろ。
殺してやる。
絶対に許されない。
絶対に忘れるものか。
許さない。
助けて、助けろ。
やめろ、僕に触るな。
やめろ!
~~~~~
「――――やめろッ!!」
喉が裂けそうになるほど強く叫び、勢いよく起き上がる。
「…………あれ?」
あたりを見回し、首をひねる。
視界に入ったのは見知った天井、風景だった。
市民図書館の二階。
僕の部屋。カーテンの色も、絨毯柄も、記憶にある懐かしいものだ。
『ま~~~たやったのォ? キミ、バカなの? バカなんじゃないの? もしかして、ねえねえ、告白しちゃいなよ~でないとウザイから!!』
うるさい喋り声が、ベッドサイドの水筒から聞こえてきてほっとする。
寝具から抜け出し、水筒を手に取る。
「オルドル、喋れるんじゃないか。どうして黙ってたんだよ」
会話の相手は水の中にいるわけではなく、強いていうなら金杖と共にある。
水を媒介に魔法で喋っているのだ。
『ここのところ徹夜続きだったから、日中は寝てた~』
ふあ~あ、と欠伸する気配がある。
「……寝てた?」
『ま、それはさておき。キミがどうしてそんなに考えなしのバカなのかって話合いを続けない? 魔女には関わるなって忠告したよネ? 忠告を無視した挙句、死んでるんじゃ全くフォローのしようがない』
そうか……僕はあのアパートで、動く死体に殺された。
僕は異世界からやって来たただの日本人の高校生で、背後からの死者の刺客に気がつく能力は無い。
今更だけど、無力過ぎる。
オルドルは女王国の医療技術でも蘇生不可能になった僕の体を喰い、魔術によって再生させ、そこに《これまでの記憶》を乗せた。
僕は、あの場で死んだ次の僕だ。
いわゆる魂というものが連続した状態での復活とは、残念ながら違う。
「どうせ、生きてるんだか死んでるんだか、まだ人間なんだかわからないじゃないか」
『……忠告はしておく。再生のペースが落ちてきてるヨ』
「ペースが落ちて来てる……?」
『キミの肉体を再構成しにくくなっている、というコトだ。理由は不明』
「オマエの魔法は万能なんじゃなかった?」
『ボクは万能さ。ということは、キミのほうに問題がある、ということだ。銀華竜戦でかなり無茶をしたんだ。注意したほうがいい』
僕自身に問題がある……? まあ、問題だらけではあるけれど。
『再生するとき、何か異常が無かった?』
と、言われても。
いつも、再生……引き継ぎの間の出来事は、思い出せない。曖昧模糊としていて、言葉にはならないのだ。
「喋れるんなら、聞きたいことが色々あるんだけど」
『ああ……古銅イオリのこと? ――その話は、来客の前ではしないほうがいいんじゃない?』
来客?
首を巡らせると、水筒が乗っているテーブルの端で、クヨウ上級捜査官がつまらなさそうな顔で新聞を読み、煙草を吸っていた。
「い……いるなら言ってくださいよっ!!」
「一時間前に扉を三度ノックし、お邪魔します、と礼を尽くして部屋に入ったつもりだ。ちなみに、アリスさんには手土産の菓子を渡し、警備員君と時候の挨拶をかわした」
絶対に嘘だ。クヨウ捜査官がそんなことをするはずない。
そこで、彼女の憐れむような視線が僕の下半身に向いていることに気がついた。
イヤな予感がする。
そう、つまり――恥ずかしさや屈辱を押さえこみ、自分が今、独り言をしていた(ように第三者からは見える)ということを認めるのには、時間が必要だった。
それに加え、もうひとつ重大な問題もある。
「慌てずとも、標準的だ。病気の兆候も見られない。私は未婚でしかも女性だが、検死でよく見るので気にしない。直腸に体温計を突っ込んだこともある。ああ、もちろん男性だ」
「そういう問題じゃない!!」
僕はバスルームに飛び込んだ。
全裸で。
「死体と比べるのもやめろ!」
パニック状態で叫んだ。
手持ちが無くて、着替えの服というものを持っていないため、寝る時は全裸で過ごしていたのがどう考えても仇になった。下着くらい、とアリスとイネスが心配してくれていたのだが、貸しをつくるのがイヤで拒み続けた結果がこれだった。
どう考えても非は自分にあるが、屈辱が拭えない。
急いで制服に着替えた。
クヨウ捜査官が礼節をわきまえない女性である、というのは、少し語弊があった。
彼女は僕の部屋に不法侵入もしくは家宅捜索しに来たわけではなく、単純に見舞いに来てくれたのである。
あのとき……僕がアパートでゾンビに刺されたときだ。僕のみっともない悲鳴で異常に気がついた彼女は、倒壊の危険を押して駆けつけてくれた。
そして、怪我ひとつなく倒れている僕を発見した。
オルドルの魔術が働き、肉体の再生は完了していたのだろう。
しかし心肺蘇生が完全ではなく、彼女は死んだものと思った。
医者を呼び、それが到着したころ、僕は心臓の鼓動と呼吸を取り戻した。
だが意識だけが戻らず――けれど外傷もなく、医者にもどうしようもない。
それで、学院で住居を調べ、図書館まで送り届けてくれたのだ。で、一応の義務として、息があるかどうか毎日確かめに来ていた、というわけだ。
「それならそうと言ってくれれば……いや、言っていても全裸は防げなかった」
『いいじゃない。キミもう、一部の方々には大腸も小腸も見られているよ? 脳漿が弾けるところだって見てもらったじゃない。立派なド変態だよ』
「内臓を見せつけて喜ぶってどういう変態だよ!」
高校一年生が目覚めるには前衛的過ぎる性癖だ。
絶対にいやだ。




