番外編 椿とはじめての料理
混じり気のない黒髪の合間から、少し赤味がかった瞳がちらりと覗く。
アーモンド型のきれいな瞳だ。何故、それを前髪でさりげなく隠してしまうのか……その答えはなんとなく聞けないままでいる。
アリスは黙って、前髪を留めるための髪飾りを渡した。
鉄のフライパンを火にかけ、バターを温めて溶かす。
溶いた卵を流し入れ、揺すりながら弱火で火を通し、片側に寄せてあの、なんともいえないふかふかのオムレツの形を作る。
把手を掴む手が自然と緊張する。心を落ち着け――いざ。
「あっ……!」
どちらのものともいえない声が上がった。
力が入り過ぎたらしい。柔らかなオムレツがフライパンから離れ宙を舞う。
彼は咄嗟に、落ちて来る黄色いオムレツをフライパンを動かして受け止めた。
「セーフ……!」
「お見事ですにゃ!」
魔法学院の若き教師、日長椿は額に浮かんだ汗を拭った。
あとは、用意した小さなランチボックスにオムレツをうつせば完成だ。
思わぬ健闘ぶりにアリスがパチパチと拍手を送ると、固く結ばれた口元を緩める。ここに来たばかりの頃……そして思わぬ騒動に巻き込まれてしまってからというもの、どことなく強張った表情を浮かべていたのが、しだいに柔らかくなってきているのが感じられた。
「ご指導ご鞭撻のほどどうもありがとうございました、アリスさん。行って来ます」
椿少年は丁寧にぺこりと頭を下げる。
弁当箱を大切そうに抱え、部屋を出て行く。
入れ替わりに、警備員の制服を着た赤毛の青年が入って来た。
「お昼ごはんを御相伴に預かりに来ましたよ――っと。うわ、なんだこりゃ」
イネスはテーブルの上に積み上げられたオムレツ、計、五つに眉を顰める。
「先生がオムレツを作りたいと言っていたので、さっきまで練習してましたのにゃ」
「ああ……成程。あのくらいの年の男の子が、料理なんかするわけないですからね」
自分の青春時代を思い出したのか、うんうんとうなずいている。
「でも、それにしては綺麗なオムレツだな……」
もしも初めてなら、ここには練習台になった無惨な卵の塊、あるいはスクランブルエッグが並んでいるはずだ。
「それはアリスが作ったやつですにゃ」
「え?」
日長椿は、確かに料理の初心者だった。最初は卵を割るの出さえ覚束なく、挙句の果てにオムレツを地面に落としてごみにしてしまった。
これは長丁場になるぞ、と覚悟していたところ、作っているところを見せてほしい、と言い出した。
それで、計五回、アリスが台所に立ち、オムレツを作って見せたのだ。
彼はそばに腰かけたり、反対側に回ったりしながら、その手つきをじっと観察していた。
「それで――あとは一発でしたにゃ。驚きですにゃ」
あれが才能というものか……。本人はきょとんとしていたが。
アリスは腕組みをしながら難しい顔で首を傾げていた。
~~~~~
天市、玻璃家の居館は静まり返り、何もかもに生気がなく、意志がなく、セピアに褪せた空気が漂っていた。そのまま壁や天井が脆く崩れ落ちて廃墟になってしまっても、なんら遜色ないようにみえる。
そう感じさせているのは、やはり人気がないせいと、そして周囲の人々が何とはなしに、ここを避けているせいもあるだろう。
海市が銀華竜の攻撃にあった一件について、玻璃家の養女マリヤが深くかかわっていたことは、世間には知らされていない。
それでも、死と避けがたい不幸の気配は空気を介して漂うものなのだ。
この家の若き主、リブラはマリヤが亡くなったことは家人にさえ伝えず、遠い親戚がみつかったので出て行かせたというわかりやすい嘘を貫きとおした。
理由はどうあれ、マリヤが王姫殿下を害そうとしたことにかわりはない。いかなる宗教によってでも弔うことはできず、墓所で眠ることさえ許されない。
もちろん彼女がそれを望んだとはとても思えない。
それはむしろ残された者にとっての、耐え難い苦痛だった。
少し荒れた庭を通り、ノッカーを三度鳴らす。返事はなく、ただ鍵が開いた。
魔術か仕掛けかははっきりしない。
リブラは中庭に面した部屋で、一葉の写真を手に、俯いていた。
椿は声をかけようとしたが、その背中があまりにも小さく見えて、そう見えたという事実に打ちのめされてもいた。
でも、ここで踵を返したら――きっと何も変わらない。
両手をぎゅっと握り、部屋に入った。
「……火を」
と、声がした。喉の掠れた声だ。
「取ってもらえませんか」
暖炉の上に、マッチを入れた箱がある。
それを持っていくと、リブラは一本すって、写真に火をつけようとする。
椿は慌てて、腕を掴んで止める。
写真にうつっていたのは、金色の髪の少女。マリヤだ。
そのとき、ようやく……。
疲れ切った青年医師の瞳が、青い制服に着られた頼りなげな少年の姿を視界に入れた。
「……ごめん」
そう言って俯いた。
謝罪の意味は、《マリヤに手をかけて、ごめん》……。
この歳若い少年が、竜と繋がり女王国を脅かした《魔女》を殺したのだ。
「……僕がいけないんだ、僕が卑怯なまねをしたから。人殺しだから……」
そこまで言って、彼は口を閉ざした。
無意識のうちに許しを求めていた自分に気がついたのだろう。
贖罪、という言葉がある。
文字通り罪を贖うこと、贖おうとすることだ。
けれど実際には、できないことのほうが多いと知らしめるための言葉なのかもしれない。
「……写真を焼くのは、記録を残すことを許されていないからです。あなたのせいではない」
リブラは落ち着いた声音でそう言った。
火をつけられ、少女の姿は焼け焦げ、消えていく。
どちらも無言で見送るしかなかった。
「あなたが罪の重さを感じることは何一つありません。むしろ、責められなければならないのは我々のほうです。貴方がいなければ、紅華様を救うことはできなかった」
「でも」
「もうやめましょう。彼女はいなくなり、銀華竜は死んだ。後悔を積み重ねても何もかわらないのですから……私が言うことではないかもしれませんがね」
なおも言い募る少年に、リブラは無理やり笑ってみせる。痛々しく、引きつった笑みを。
椿は何か言いたげだったが、言葉をしまい、代わりに持ってきた包みを差し出した。
「……これ、差し入れ」
「私に?」
「何にするか迷ったんだけど……入院したとき、手作りのお菓子をもらってさ、うれしかったから。真似で悪いけど……」
言葉は切れ切れで、罪悪感から、うまく形にできないでいる。
「それじゃ。もう帰る」
さすがに居づらくなったのだろう。
少年はぎこちない再会を後にして、足早に館を出て行った。
ひとり残された医師は弁当箱のフタを開けて、目を見張る。
出会ったばかりの頃、彼が何もわからないままに痛みに耐えていた頃のことが思い出され、苦い感情に変わる。
「……許してくれる、ということでしょうか」
マリヤの命を奪った少年に、何も思わなかったわけではない。すべてが自分のせい、己の実力も覚悟もたらず、異世界の少年に罪をなすりつけたせいなのに、喪失の大きさに耐えきれず、憎しみを感じたこともある。
けれど。
それ以上に自分を許せないであろう少年は、リブラを責めもしなかった。
彼と紅水紅華が過酷な運命に引き入れなければ……。
殺人の罪に苛まれることもなかっただろうに。
視線が、自然と少年の背中を追いかける。
少女の死は、今は遠く。
やつれた横顔には小さな決意と、意志の光があった。