エピローグ
一歩足を踏み入れた瞬間から、生ごみのにおいが鼻に突く部屋だった。
何年も洗われることを忘れ切ったカーテンの隙間から昼の太陽が差し込んで、部屋をじっとりと生ぬるい温度に上げていた。
彼女は酒の瓶や脱いだ衣服が散乱したリビングの床で目を覚ました。
スーツの上着は皺だらけのまま。彼女自身は気がつくことはなかったが、髪の間から流れ落ちた血がシャツの襟もとを赤く染めていた。
痛みを訴える思考は、酒によるものだろうと勘違いしていたのだ。
先ほどから何度も鳴らされているインターフォンの音のほうが耳障りだった。
彼女は立ち上がると、服を整える間もなく大股で歩き、ごみを蹴り飛ばしながら玄関に向かった。
目覚めた瞬間から、彼女は脈絡のない怒りを抱いていた。
自分の感情をコントロールできないのは生来のものだ。その訳もわからない怒りに背を押されるように、誰かも確認せず、扉を開ける。
そこにはいつものマンションの煤けた廊下と近すぎる高架を通り抜けていく列車の騒音と振動があり、ますます気忙しい気持ちにさせる。
「うるさいわね! なんなのよ、朝っぱらから! 押し売り!? 金なんかないからね」
「いや、今は昼……あ、いやまちがえた」
呼び鈴のまえに、制服を着た少年がいた。
呼び鈴を押す間隔のわりには、おどおどとした様子で、俯いている。
天然なのか、もっさりと顔にかぶさる黒髪がうざったい。レンズの分厚い眼鏡のせいで、表情も読めない。
「あの、すみません……椿君はご在宅ですか? ボク……えと、中学の頃の友人で《フジワラ》って名前なんですけど……聞いてませんかね……?」
椿、という名前を聞いて、無意識に部屋の中をみる。
そういえば、どこにもいない。
普通に考えれば登校している時間だけど、そうではない、と何か勘のようなものが働く。
「椿……どこ……?」
彼女は部屋に取って返す。
自室にもいない。鞄や教科書が残ったままだ。
「えと、お姉さん、ですよね」
後ろから、見覚えのない友人とやらが声をかける。
彼女は次々にトイレや洗面所の扉を開き、覗く。
妙に体が軽い。連日の飲酒による影響も、今日はなぜだか全く感じられなかった。
「それってお世辞のつもり? あたしは、どうみても――……おばさん……」
言葉が続かない。
曇った洗面台の鏡に映しだされた彼女の髪は、加齢も乾燥もはねのけて黒々と輝いている。
手入れを怠って荒野と化していた肌はふっくらとして、まるで……少女だ。
「誰だよ、これ……」
彼女は……日長楓は、何故だか若返っている自分の姿を眺め、唖然として立ち尽くしていた。




