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95 魔女

 離陸間際の旅客機の中。

 親子連れや勤め人たちで騒がしい機内に、季節外れのコートに両手を突っ込んだ少年が席に座っている。

 帽子を目深にかぶり人目を避けている様子だった。

 空席の隣に女性が腰かけて座席が軽く軋む音を立てた。

「よくやってくれましたね、シロネ」

 シロネは何も言わずに前を睨んでいる。

 隣に座ったのは、全身が輝いている女性だった。

 放つ光は眩しすぎるほどなのに、他の乗客は誰もその存在に気がついていない。それどころかシロネそのものにも気がつかないようだ。

 この二つの座席だけは、世界から切り取られたようにひっそりとしていた。

「……言われたことは全部やりましたよ、アイリーン。勇者を連中に渡すなんて、何が楽しいんだかわかりませんけど……でも仕事は仕事です。血と勇気の祭典でツバキと戦い、わざと勝利を譲り、こうして帰ってきた。全ては貴女の望み通りです」

 シロネはふん、と鼻を鳴らす。

 光輝の魔女の存在を、彼はよく知っていた。

 青海文書の管理人にして、その力は並の読み手を凌駕する。

 夢の中でなら万能そのものであるルレオリの読み手をもってしても、立ち向かえない謎の《人格》だ。

「ええ、とても満足のいく結果です」

「しかし、あの《勇者》……青海の魔術師から魔法を無理やりに引き出す能力、もしもすれ違っていたら、私も危なかったでしょう」

「あなたは気に入りませんでしたか?」

「二度とお目にかかりたくはない存在ですね」

「そう……? 残念です。彼はとても才能があるのですよ。彼もまた、翡翠女王国の運命の糸につながる大事な存在なのです」

 シロネは光輝く魔女を睨みつける。

「オルドルの読み手は一瞬で死にましたよ」

 それは咎めるような、そして青海の魔術師たちを少なからず、己と命運を共にする《同胞》と考えているふしのある眼差しだった。

「ええ、ほかの魔術師たちもみんなそうでしょう」

 アイリーンはその反応をおもしろがっている。

 表情は読めないのに、喜色満面のその顔が目に浮かぶような興奮した声音だった。

 他人の命のことなど歯牙にもかけない言い方は、生前のキヤラによく似ていた。

「それでも、魔法使いは勇者を選ぶものよ。そうでなければね……」

「まあ、なんでもいいです。私はキヤラを存在させ続ける力があなたから得られるなら、それで。小間使いでも奴隷でも好きに扱えばよろしい」

「信頼していますよ、シロネ」

 アイリーンの輝きが強まる。

 シロネはその光を嫌悪する表情を一瞬浮かべたが、最後は受け入れた。

 彼が、祭典に際して使用した魔法の代償のほとんどすべては、アイリーンによって免除されているからだ。もしもまともに代償を受けていれば、シロネはあっという間に廃人と化して、かなり早い段階でオルドルに負けていただろう。

 オルドルの代償をまともに受けながら戦うマスター・ヒナガのやり方は狂気そのものだが……それゆえに、ある程度の自由が担保されている。

 反対に、シロネには自由意志など存在していない。

 キヤラを存在させ続けるという目的のためには、この魔女に逆らうという選択肢は消えてしまう。

 それがわかっていて、アイリーンはシロネを小間使いのように使っているのだ。


 最初から……青海の魔術師となることを選んだそのときから、ずっとだ。


 それでも、彼にはキヤラの声が聞こえなくなり、その面影がこの世界から永遠に失われるという事実を受け入れられなかった。心の弱さゆえでも、いつかのときと同じように姉妹たちがじゃれあう姿をみることができるのならば、何度でも夢の世界へと足を運ぶ。

 それがシロネの選択だった。

 暴力のない、人が人に価値をつけなくてもいい。

 永遠に輝き満ちる世界へと。

 何度でも。何百年でも。

 一瞬ののち、光輝の魔女の姿は消えていた。

 シロネの姿もない。

 旅客機の乗客は窓の外をみて驚きの声を上げている。

 周囲を市警の車輛が取り囲んでいたからだ。

 黒髪の魔術捜査官が先刻、彼らが座っていた席を確認し、苛々したようすで舌打ちをする。

 その姿は何人かの関心を引いたが、それだけであった。

 それが、誰かの大事な出来事の、一幕を終えた姿だと気がつきはしない。

 夢は消えてなくなって、やがて忘れ去られる。


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