94 運命がわたしを選んだのなら
キヤラを支持していた人たちは、浮かれた夢から醒めたように急激に減り始めている。
その変わりに、とでもいうのだろうか、僕たちの試合の映像が徐々にいろんなところに露出しはじめた。それは英雄譚を語るのには余計な部分……道化師人形の中身とかを省いて、ルレオリによって改変された都合のいい情報なわけだけれど、学院が支持を取り戻していくにつれて皆の気持ちも穏やかになったような気がする。
もちろん火種がすっかり消えてしまったわけじゃない。
みんなの心の中でくすぶったまま、再び大きくなる時を待っている。そういう気配を、街行く人々の何気ない会話の端々に感じる。
きっと、まだ《救世主》に望みをかけている人たちはいるだろう。
勇者が何もかもを、問題の全てを一瞬で解決してくれる、とは……なんてばかばかしくて、救いようのない空想だろう。でもそういう単純な解決策を望むのが、人の心なのだ。
紅華たちは雄黄市に潜伏しているらしいと噂のゲリラ組織の調査をしている。
ノーマンは元団長の行方を追っている。なにも終わってはいないのだ。
僕はというと、あれからおよそ一週間。
海市をぶらぶらしている。とくに用事もなくショウウィンドウを眺めたり、知り合いになった野良猫に挨拶したりして過ごす日々だ。
暇をしているわけではなく、ようやく地理を覚えてひとりでも外出できるようになった、というところを褒めてもらいたい。
街頭のモニタに先日の戦いの映像が流れているのを横目に、通り過ぎる。
向かい側から女性が歩いてきたので、脇に避ける。まだ暑いというのに、チェックのコートと帽子、茶色のズボンにブーツにサングラスという格好だった。
隣を通り過ぎる瞬間、すかさず彼女は僕の側に詰めてきて、腕を取って微笑んだ。
帽子の下から、一筋、桃色の髪の毛の束が落ちた。
「んふふ♪ わたしよ」
「……キヤラ、何してるんだ?」
あまり、驚かなかった。
またどこかでこんな風に会うような気はしてたし。
彼女は僕と腕を組みながら、ぐいぐい引っ張り気味で街路を歩いていく。
「そろそろ藍銅にもどろうかしら、と思って。お別れを言いにきたの♪」
みょうなところで律儀な奴だ。
「君がいるってことは、シロネもそばにいるんだな」
「そうね……どこかで夢を見ていることでしょう。でも、きっと見つからないわよ」
「だろうね。きみが眠らない限り、シロネも存在しないわけだし……そもそも、シロネには肉体が無いんだからね」
考えれば考えるほど、複雑怪奇な二人組だ。
ルレオリを挟んで均衡を保ってる、やじろべえみたいなふたり。
永遠に出会わないふたりだ。
「さてさて、わたしが藍銅にもどっちゃうまえに、先生は何か聞きたいことがあるんじゃないかしら?」
キヤラがおどけた調子で言う。
話してくれるというのなら、話してもらおうか。
「何故人を殺すの?」
いきなりの不躾な問いかけに、キヤラは肩を竦めてみせた。
「殺したいわけではないのよ。ただね、誰でもわかる理屈として、みんなが……そう、みんな、命には何者にも代えられない価値があると思ってるでしょう? それが奪われるかもしれないとか、奪われてしまったとか、そういうことが人の心を動かすのにうってつけの動機になるの。だからよ」
「たったそれだけ?」
やっぱり、彼女は僕には理解できない存在だ。
彼女は他者を重んじることができない。大魔女としての才能がそうさせるのか、それとも脳のどこかが壊れてるのかもしれないけど、狂ってる。
「でもね、これでもね、そういうことをやめよう、としたこともあったわけよ」とキヤラは軽すぎる口調で言う。「驚くべきことに、そんなことしちゃいけないよって、わたしに言ってくれた人がいたの」
それまで、考えたこともなかった、と彼女は呟く。
まるで、驚嘆すべき天才の思考だと言わんばかりに。
誰もが持つ命というものに、ほんとうに価値があるのだということ。
失われた誰かは二度と戻らないのだということ。
「でもその考えは、私を取り巻く世界では通用しなかった。藍銅公姫という存在に、慈悲も情動も不要。だから、逃げた」
それが誰のことなのかは、明らかだ。
シロネが、彼女に教えたのだ。
どんな人にも、誰にも代えられない価値があるのだということ。
その人を守るために命を賭けて戦う誰かがいるのだということ。
僕が会ったシロネは、とてもではないがそんな正論を口にするような人物じゃなかった。彼はキヤラを生かすためなら何でもするような人間だろう。
「吸血鬼になったのはきみでなく、シロネだよね」
「バレていたか……というほどのことでもないわね。わたしたちの肉体はもうほとんど死んでいるようなものだし……むしろルレオリの力で再生したシロネの体のほうが、圧倒的に生きているのよね♪ 不思議なものだわ」
「君はわざと負けたフリをした。吸血鬼になったから、肉体を銀が傷つける、という演技までした」
「そうね♪」
「ニムエを殺すよう君たちを差し向けたのも、シロネだ」
「そうよ。仕組んだのは彼。彼の言うことを聞いたのが私……私はシロネの操る可愛らしいお人形。ただ、それだけなの」
可愛らしいお人形、という表現が、僕の気持ちを暗くさせる。
藍銅という国の都合のいい人形だったキヤラを、シロネは救おうとしたんじゃなかったのか……。
おそらく彼はキヤラを失って、変わってしまったんだ。
逃避行が失敗して、キヤラは死んでしまった。
何もかも物語のようには上手く行かなくて、ハッピーエンドはあまりにも遠くて、絶望だけが残った。
最期の瞬間、シロネは良心とか、善とか、そういうものを信じていた心を失って、ねじくれて、そして夢の世界に閉じ籠ってしまったんだ。
自分と彼女だけが生きている世界へと。
きっと辛いことは、人を成長させたりしない。痛みが他人の痛みを教えることはないんだ。
暴力を振るわれながら、何かしらの教訓を得る人間なんているだろうか? ただ痛みと恐怖を堪える時間があるだけなのに……。
「どうして彼の言うことを聞くの? シロネがそう望んでいるから?」
「愛していたから」とキヤラは言う。ごく当たり前のことを告げるみたいに。
「半分は血の繋がった弟を?」
「あら、いけない?」
いや、問題は血の繋がりとかではない。
その答えを聞くのは、もう二度目だ。
百合白さんもそう言った。天藍アオイを愛しているから……。
彼女たちの語る《愛》は、僕が知ってる聞きかじりの知識とは何故だか違う。
「誰かを愛することを知っているなら、なぜ、その愛とかいうものの半分でも他人へ向けられないんだ」
「そういうものなのよ。だって、そうでしょう。あなたは私を愛せる?」
僕は答えを飲み込んだ。
不快だが、それは見事な回答だった。
無理だ。ミィレイや、テリハたちにした仕打ちを、絶対に許すことなんかできない。その邪悪さを愛することなんて、誰にも絶対に不可能だ。
それと同じく、彼女も弟以外の存在を愛することはない。
「だったら、なおさら……どうして僕を《弟》だなんて呼んだんだ」
キヤラはサングラスの奥で、橙色の瞳を細めた。
「貴方をはじめてみたとき、思ったのよ。アナタとわたしは似てるわって」
正直に言おう。
「同じにされたくない。僕は狂ってなんかいない」
「んふふ♪ そうかしら。貴方は自分が何者なのか、はっきりと声に出して言えないでしょう。自分の魂がここにあるとか、そんなおこがましいこと、言えないわよね」
キヤラは「わたしもよ」と言って、組んだ腕に力をこめた。
彼女の頭部が僕によせられて、ぴったりと重なりあう。
道行く人たちが怪訝そうな顔で通りがかり、車輛は過ぎ去っていって、それでも街は滞りなく動きまわる。
僕たちは止まって寄り添っているが、実際のところは、ここにいるのかどうかもわからないふたりだった。
シロネが目覚めたら、消えてしまうキヤラ。
何度も肉体を捨てて、記憶だけで構成された僕。
「わたしたち、本当はどこにいるのかしら。もしもシロネと出会わなければ、いまごろどこにいたのかしら。少なくとも、シロネをあんなひどい人にすることもなかったわね……」
その表情は、ぼんやりとして、公姫として振る舞う彼女とは何もかもちがう。
僕にみせている彼女の顔は、たぶん、いつも違ってた。
「君は、ほんとに僕に殺されたかったの?」
キヤラは答えなかった。
ただ黙って、僕の服を掴んで、そしてなにかに耳を澄ませるように瞼を閉じていただけ。
「……行くわ」
囁き声を残して、彼女の姿が消える。
ちょうど僕が金杖に手を伸ばした瞬間、シロネが目覚めて彼女を守ったのだ。
街はいつも通りで、どこにも彼女の姿はない。
シロネの姿も、同じく見当たらない。
僕の怒りは宙ぶらりんのまま。
店先で、音楽が流れてる。
雑音まじりの、古い音源だ。
女の人の声。異世界人がきいても、どこか古めかしい骨董品みたいな音だった。
運命がわたしを選んだのなら、
わたしは貴方にさらわれてもいい。
選ばれたのが、あなただったら……。
恋の歌らしい。
キヤラが最後に歌ったのは、この曲のアレンジだ、ということに気がつく。
だからなんだ、っていう話だ。
僕は彼女を選ばなかった。
僕は彼女を救わなかったし、終わらせもしなかった。
ただそれだけの話だ。
それだけの……。
『帰ろうよ』
オルドルが言う。
心はどうしようもなく動揺していた。
ここはいったいどこで、自分が何者なのかわからない。
だけど……だけど。
いまは知ってる。自分に何ができるのかを。
どんなに辛い瞬間でも、深呼吸をして、一歩を踏み出すことができる。
立ち向かうことができる。
自分のために、そして、誰かのために……。




