92 《おはよう》
――おはよう。
――おはよう。
――よく眠れた?
――うん、眠れたよ。
――おかえり。
――ただいま。
意識の浅いところで夢をみた。
女の子が泣いている。
水晶の粒のような涙を流してる。
わたしが触れたのはあなたひとり。
そう言って泣いている。
かわいそうに。その濡れたように艶やかな髪の毛を撫でてあげたかったけれど、でも、僕はもう、《彼女が触れた僕》ではないんだ。
どうやったら、元に戻れるのだろう?
百合白さんを見つけた僕に。
天藍が見ていた僕に。
彼女が触れた僕に。
その方法がみつかりそうにないことが悲しい。
悲しくて堪らなくて、泣きながら起きた。
生ぬるい涙の温度が気持ちが悪い。口の中がひどく乾いてる。
そこはベッドの中で、天井は図書室のもので、少しだけ開いたカーテンから、白っぽい朝の光が差し込んでいた。
静かだ。ほんとうに朝なんだろう。
隣を見ると、眠りの妖精みたいな顔をした美貌の少年が、椅子に腰かけ、剣を支えにして目を閉じていた。その白い瞼が落ちるから、人はみな眠るのだとでも言いたげな、健やかな眠りだ。
僕が身じろぎしただけで、真珠のような瞼がパチリと開く。
繊細な睫の先から光が零れたかのように、銀色の瞳が輝いた。
「……おはよう」
声をかけると、天藍アオイは二度瞬きして、むすっとした表情を浮かべる。
「ずっとここにいたの?」
「そんなはずあるか」
朝食を買ってきた、といって、カップに入った飲み物と紙袋に入ったサンドイッチを見る。
「……いつ起きるかもわからないのに?」
眉間に深い、とてつもなく深い皺を寄せている。
「……私は義理を欠くような人間ではない」
「義理とは……」
「捨てるぞ」
「食べる食べる」
寝起きのせいか魔術のせいか、怠くて仕方ないので行儀悪くもベッドの上でただ飯にありつく。
何もかもがぼんやりとしているが、そのうちに思考も冴えてくるだろう。
カップの中身はミルクと砂糖がたくさん入った紅茶だった。
なんというチョイス。
左右非対称の妙な顔で天藍を見つめたため、天藍は部屋に置いていた銀のフォークを握りしめへし折るという示威行為に出た。ゴリラがウンコ投げるようなもんだ。全然怖くない。
こいつにも病人を労わる気持ちがあったとは……。
そしてそのカテゴリに僕を放り込むこともあるのだと思うと驚愕の事実だ。
食事をしながら試合の後の話をした。あまり思い出したくないが、そういう訳にもいかないだろう。
僕は再生後、丸一日眠っていたらしい。
前より一日少なくなった。……まあ、前よりは進歩がある。
それよりも、あの後のことだ。
見事に僕が死んだ後、元団長は、騒動に乗じて逃走した。古銅のほうも、僕の魔法の残りを使って、現在行方不明中。
正確には逆……おそらく、元団長は古銅を追って天市を脱出した、らしい。
「あれは、ほんとにみんなが話の端々に出してた元団長ってやつなの……? カガチが騎士団に居た頃の……」
おそるおそる訊ねる。
天藍は大口を開けてパンを引きちぎり、咀嚼しながら答える。魚卵の粒と魚肉、野菜にからくて甘い黄色いソースがかかった、僕の頭の中の辞典に名前のない料理だ。
本当になんだこれ。よくわからない。
「どうやらそのようだ。金紅アレキ。七天の適合者のひとり、十八鱗騎士」
「じゅうはっ……ち……!」
天藍が平然と「そうだ」と言ったこともさることながら、適合率のやばさがいよいよ際立つ。天藍は二十鱗で暴走が確定する。そこからたった二枚引いただけ。
それとも、イブキの六倍、と考えればいいのか。
竜鱗狂瀾を使ったら……その魔術はいったいどれくらいの破壊をもたらすのだろう。想像もつかない。
「でも、なんでそんなすごいやつが古銅を誘拐しようとしてたんだ……?」
「直後に《雄黄市解放同盟》から声明が出た。ただし、本物のな」
前々から、雄黄市で活動している武装組織というものがいたらしい。
彼らの目的は雄黄市の奪還で、敵は竜。名前を持たないというか、どんな組織なのかが明らかになっていなかったが、ここに来て正式に名乗りを上げた、ということらしい。
キヤラが避難民を煽り、追い風が吹いたと思ったのだろう。
金紅アレキとやらは、銀麗竜を退けたあともあの土地に残って戦い続けている……。
それが、才能十分な古銅を連れにやって来たってことか。
「それよりも、勇者とはいったいなんなんだ?」
勇者が剣に触れた瞬間、無尽蔵に魔法が引き出された。
強制的にだ。
「わからないけど……たぶん、そういう力のことなんだ。オルドル、そうだろ?」
『間違いじゃない。ボクら青海の魔術師は、彼にだけは逆らえナイ……王様が命じたからネ。全ての魔術師は、勇者と共に竜を倒せっテ。それが物語の《お話》なワケだし』
「勇者は青海の魔術師なの?」
『それはチガウ。勇者は魔法使いが選ぶ』
「選ぶ……お前が泉から子を取り出したみたいにか」
『そう。ボクが選んだもの、あるいは《泉の魔術師とともに竜を倒した者》が、勇者となる確率が高い。つまり……』
「古銅イオリのそばに、《泉の魔術師》がいるってことか」
古銅はかなりはっきりと自分の力を自覚してた。
物語のことを知ってるんだ。異世界の人間なのに、どうして……。
まだよくわからないこともあるけど、もしもまた古銅に会うことがあったら、僕は非常に不利だ。また一瞬で死にかねない。
「テリハはどうなった?」
天藍によるとテリハはカガチらに捕縛され、ヒギリたちとともに謹慎を受けている。
王姫殿下の寛大な処分によって、この件は学院の預かりとなった。
死んではいない。そう聞いて、ほっとしたような、苦いものを感じる。
テリハたちのことは僕が起こした行動の行き着く先にある。
もちろん、古銅がここに来たのは偶然だ。でも、偶然がどちらに転ぶかを見切れなかったのも、僕だ。
そう考えると途端に食べ物は全部口の中で味のしない石ころになり、飲み物は泥に変わった。
その迷いを見透かしたように、天藍はぶっきらぼうに言う。
「喜べ、勝者はお前だ」
「……喜べるわけないだろ。犠牲者が出てるのに」
「俺には関係のないことだが、お前は背負いすぎる。人の生き死にの面倒をみるのは神だけでいい」
食事を終え、天藍は席を立つ。パンくずひとつ残さない見事な食べっぷりだ。
「午後に百合白殿下が女王国に戻られる。茶番はそれまでだ」
彼女が戻ってくる……複雑さの上に、胃が痛くなる事実を知らされてしまった。
これまで天藍が自由でいられたのは百合白さんがいなかったからだ。
「それまでに、行くぞ」
「へ? どこに?」
今日は休日のはずだ。
天藍はいきなり不機嫌になる。
「学院だ。茶番を終わらせると言ったはずだぞ。それとも、無理矢理服を脱がされたいか?」
「……着替えるから、少し部屋から出といてくれる?」
よくわからないけど、多方面でとてつもなく危険な絵面になる気がして、僕は自ら着替えて望まない職場に出かける準備をすることにした。




