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91 勇者よ、目覚めよ

 空には薄く雲がかかっていた。

 翡翠宮に向かった僕らは、テリハたちが到着していないと見るや先回りのために医府の手前に着地する。

 僕はオルドルの魔術で周囲に警戒網を張り巡らせる。

 天藍も即座に蓮座を広げ、臨戦態勢に入っている。微かな魔力が放射されて、その髪が闇の中でほのかに光っていた。

「応急処置しかできなかったけど……大丈夫?」

「問題ない。まだ保つ」

 素っ気ない返事がかえってくるが、袖から覗く腕にまで、細かい鱗の紋様が現れはじめてる。

 怪我よりも、精神の限界が近い。

 どんどん人間離れしていくみたいだ。

 しかも限界がどこにあって、何が起きるかわからないだけに、怖い。

「……はやく終わらせて帰ろう」

 マスター・カガチがいるのだから大事にはならないはずだ。

 テリハだって、ここに来るまでに消耗しているはず。

 自分たちの足場さえあやふやなまま、僕たちは夜空を睨み上げていた。

 そのとき。

 背中側から、閃光が走った。

 それを感じた瞬間、天藍が視界を遮り、翼を広げた。

 感じた、と思ったときには耳をふさがれて地面に抑え込まれていた。

 続いてイヤな音が広がる。

 爆裂とか、破壊とかの音とは違う。


「なにっ、なにが起きた!?」

「医府からだ」


 魔術によって感覚を広げていたせいで頭の中がぐわんぐわんと唸ってる。

 医府の建物が騒がしい。そっちの方向から何人かが走り出すのが見えた。

 間違いなく非常事態だ、と思う。

 どうする。

 迷った思考が銃声と銃火によって打ち払われ、僕と天藍は瞬時に駆けだした。

 散り散りになった人たちの中から、何やら一際素早い奴が走り出す。

 顔はわからないが、肩に荷物……いや、人を担いでる。俯いていてわかりにくいが、あの顔立ちは古銅イオリのそれだった。

 誰かが、医府を攻撃して古銅イオリを連れだしたのだ。

 他の連中は警備に任せるとして、僕らは連れ去られる古銅の背中を追いかける。


「何あれ、めちゃくちゃ早くないか……!?」


 こちらは魔法を使いながら走っているのに、距離が一向に縮まらない。

 天藍でさえ追いつけない。既に徒歩の速度じゃない。

 つまり、この時点で厄介なことが起きていると断言できる。

 建物の屋根に上がり、ショートカットして追いかける。

 先行する天藍が不意に足を止める。その隣まで行き、僕も足を止めた。

 目の前には開けた空間。

 石畳の床に棒立ちになる人影を、月あかりが照らす。

 雲が流れ、わずかに光が差し込んでいた。

 長めの金色の髪をした、若くて華やかな男。肌は白く、瞳は青い。

 天藍とはまた違った意味で人目を引く容貌だ。


「団長……」


 ひどく狼狽した声が聞こえてくる。隣から。

 天藍は呟いたきり、身じろぎもせずに、目の前の光景に見入っている。

 団長。その言葉の示すところは、ひとつ。


 竜鱗騎士団団長。

 それも、銀麗竜の侵攻に一人で立ち向かい失踪してしまった、噂の元団長のほうだ!


 何故、突然彼が翡翠宮に舞い戻って、古銅を連れだしたんだろう。

 答えはどこにもない。僕らに見えているのはただ目の前の光景だけだ。

 元団長とやらは視線だけを背後に投げている。

 彼は首筋に手を当てていて、その甲から血が流れている。

 視線の先には、床に転がっている古銅イオリの姿があった。

 荷物をただ取り落した、なんてミスだとは思えない。

 異様な緊張感がある。

 震えるような声音だった。

 怯えているようでもある。

 いったい何が起きているんだろう。異常な出来事が二つ、三つと重なって、最早自分がどうすべきかという単純な事柄でさえ、決定できない。

 闇の中に目を凝らすと、古銅イオリの手元で何かが輝いているのが見えた。

「……?」

 それは先端が尖り、もう片方の先に薔薇の飾りがついた金属の棒――女性用の簪のように見えた。

 たぶん、あれは……紅華のものだ。

 彼女が髪に薔薇を飾っていたのを、僕は間近で見ていた。

 紅華が医府から暴動を起こした人々の前に、古銅を連れ出した夜のことだ。

 医府で隔離していた彼にとっては、薬剤が抜ける瞬間も、混乱に乗じて簪を手に入れる瞬間も、その夜にしか存在しない。

「そんな、もしかして……起きてたの……か……!?」

 目覚めていたとして、どうして誰にもそのことを知らせなかった?

 武器を手に入れ、再び眠りについたのか? まるでチャンスを待つみたいに……。

 そんなのって、普通じゃない。


『ツバキ……これから先、ボクはキミを守れないかもしれなイ……』

「え?」


 オルドルの声が震える。

 それと同時に目の前で、古銅イオリが起き上がる。

 操り人形が宙に吊られていくように滑らかな動きで。

 待ち望まれた勇者が、とうとう夢から醒めたのだ。

 赤味がかった髪、乾いた肌。前髪から覗く瞳が、なんだか暗い。

 彼は軽く欠伸を漏らすと手の中の簪をくるりと回し、逆手に握りこむ。その手を顎によせ左半身を前に出す。そして深く身を沈めた。

 嘘だろ、戦うつもりか……?

 無茶だ。相手は竜鱗騎士、それも天藍やカガチを越えるかもしれない人物なのだ。

 だが、止める間もなく少年の体が地面を蹴り出した。

 しなやかな獣が走り出す瞬間を見ているみたいだ。

 あっという間に団長の目の前に辿り着き、再び地面を蹴り上げて宙に舞いあがり、逆さまになって体を捻る。

 まるで重力を忘れた曲芸だ。

 天地を逆転させた古銅と立ったままの元団長が視線を交わしていた。

 古銅は上半身を地面と平行に捻り、簪の先端を見つめてくる左目に撃ち込んだ。

 それは恐るべき行動だった。

 こいつは、気持ちが悪くなるくらいの正確さで、見も知らぬ相手を殺しにかかったのだ。

 元団長は差し出した掌で攻撃を受け止める。指先が触れるか触れないかのところで、攻撃が防がれると悟った古銅の体が反対側に捻られた。

 空中の、なんの支えもないところでだ。左の肩口を抜けた体が吸い寄せられるかのように地面に降り、すばやく右脇の下を狙う。

 それもまた読まれていたとみるや、地面に飛び込んで前転、滑りこみながら距離を離す。

 たった数秒の間の目もくらむような出来事だ。


「なんだ……? あの動き。生身のはずだよな?」

「魔力残滓が観測できない。そのはずだ」


 元団長が踏み込み、剣を鞘から抜く。

 そだけの動きが肉眼では捉えられないほど、凄まじく速い。斬り込まれたら絶対に避けきれない。

 団長は油断なく一文字に斬りつける。

 だがそれを、古銅は後ろに倒れて回避した。

 きん、と小さな音がして、鉄片が飛ぶ。

 ――簪を刃に当てて、わずかに到達時間を遅らせている!?

 元団長は攻める手を緩めない。次々に繰り出される斬撃を、身を引き、飛びはね、とにかく避けまくる。僕には何が起きているのかまったく追いかけられていないが、古銅は体中を切り裂かれながらも、その剣筋を完全に見切っている。

 あり得ない。

 身分証を見る限り、古銅イオリはただの日本人の民間人ってことになっている。

 魔法なんか知らないはずだ。生身で、竜鱗騎士の身体能力に拮抗している。

 チート……という言葉が頭に浮かぶ。生来のものだ。

 もともとが、何故かは知らないが物凄く強いんだ。

 馬鹿みたいな結論だが、そうとしか思えない。

 古銅は斬られまくってなんの用も足せなくなった簪を捨てる。

「暴れん坊さんだね!」と元団長は邪気のない笑顔をみせる。「さて、手持ちの武器がなくなったみたいだけど、どうする?」

 万事休す、だ。勇者が規格外なのは確かだが、団長は魔術もまだ使ってない。

 どうするのかと見守っている僕らの前で、古銅はそう言って手を差し出した。

 僕に向けて。

「――剣をくれ、オルドル」

『ツバキ、逃げろ!』

 オルドルが叫ぶ。

 だがその声に込められた感情は、まったく別のものだ。

 本来、僕の感覚を越えることはないのに、オルドルの感情が僕に雪崩れ込んでくる。

 それは、歓喜だ。

 あふれんばかりの喜びが体を満たし、震わせる。

 気がつくと、僕の手から金杖が離れていた。

 そして、古銅の周囲を無数の剣が連なって環になり、囲んでいる。

 古銅はその中の一振り――黄金に輝く柄に手を重ねた。

 その瞬間、黄金の細剣が宙から降り注ぎ、銀の蔦が元団長の体を絡め取る。

 霧が全てをまやかしで包み、魔力の湖が広がり、銀色の枝葉を茂らせた森が出現する。


「なんだ、あれは! お前がやってるのか!?」


 天藍の声に、僕は答えられない。

「――かはっ」

 口から鮮血が零れたからだ。

 質問そのものの答えは、イエスだ。

 僕の体を通して、オルドルが魔術を使っている。無限に、無制限に。

 代償を支払っているのも、僕だ。

 何が起きているのかわからないが、古銅にはその能力がある。

 キヤラが言っていたことが真実なら――古銅は《勇者》で、これはそういうことなんだろう。

『限界まで来てるヨ、蘇生する!』

 自分の意志でなく、内臓が次々に食われていく。

「ツバキ、死ぬな!」

 天藍の必死な顔が見える。

 バカ、何やってるんだ。

 はやく追え。元団長とやらをここで逃がすわけにはいかない。

 古銅もだ。

 そして、テリハも。

 それにしても、今回は長かった。

 みんなで戦って、合宿に行って……あと、イブキのバイト先に遊びに行ったし、晩餐会っていうのにも出た。それからキヤラと街を歩いて。

 その記憶すべて、僕のもの。日長椿という名前の、日長椿ではない、誰かの。

 僕の……。

 僕のものだ。

 違うだろうか。

 もう痛みはあまり感じなくて、そんなどうでもいいことばかり考えてしまう。

 でも、もしも……。

 もしも、だけれど。

 この僕という存在に固有の魂があるとしたら、同じ顔をした間抜けを何人も何人も見送らなければならない天藍の気持ちはどんなものだろう……。

 最後に、紅華の悲しそうな顔を思い浮かべた。

 薔薇の花の香りと一緒に。

 僕と関わる人たちが、悲しい顔ばかりするのはなぜだろう。


 おやすみ、とオルドルが言った。

 うん、おやすみ。


 だから、どうか、みんなも。

 良い夢を。



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