番外編9 果ての光
日が暮れて練習が終わったあとも、合宿所のあちこちに明かりがついたままだ。
どこかから話し声が聞こえてくる。
マスター・サカキとリブラ医師が最新の魔術理論に関して意見を交わしている。
遊び相手を失ったカガチがウファーリと駒遊びをしている。意外な組み合わせだろう。ウファーリ側の参謀を務めるのがイチゲだということも含めて。
ヒギリはナツメや赤毛の警備員とカードゲームに興じているが、同じイカサマを何度も食らって負けが込み、いかにもつまらなさそうだ。
いずれも普段の天藍なら視界の内側にも入らないような光景だった。
あの明かりの下にある連帯や友情といったものは彼には必要のないものだ。
戦いになれば、絆は《もしかすると日常に戻れるのではないか》という望みごと、断ち切らねばならなくなる。そんなものを手に入れたとしてどう扱っていいのか、わからないでいるのだ。
彼は食堂に入って行った。
騒々しい声や人の気配が絶えたそこに突っ伏して眠る少年がいる。
「ツバキ」
名を呼ぶと、彼はバネ仕掛けの人形のように飛び起きて敬礼し「なんでありまふか、イブキ軍曹! 今日の皿洗いは終わりましたでふよ!」と妙な報告を上げて来る。
天藍は椅子を足で蹴飛ばした。
「ふごっ」
変な声を上げてひっくり返った足を掴んで引きずり、運んでいく。
「自分から剣術を教えろとか言い出したくせに遅刻するとはいい度胸だ」
「悪い、悪かった! 許してっ、あだだ!」
屋内の練習場に放り込むと、無防備に転がっていって積み上げられたマットにぶつかって止まった。
無造作に模擬刀を投げると、きれいに額で受け止める。
溜息を吐きたくなるほどの見込みのなさだ。
「……本当にやるつもりか?」
「い、入れ替わり作戦のこと?」
「試合の当日まで数日、付け焼刃にしかならん」
ツバキはさほど落胆した様子ではなかった。
彼はただ《提案》しただけなのだ。
戦いの経験が無いなりに、考え、たとえ無謀であっても提示するだけ。
それは天藍にとっても不思議な経験だった。
普通、物心ついた頃には竜鱗騎士として育成を受けていた彼に、戦いについて意見しようなどという一般人はいない。
まして隣に立って、文字通り身も心もすり減らして戦おう、などという者は。
「構えろ」
椿は模擬刀を拾い上げ、体の正面に両手で構える。
珍しい構え方だ。
天藍が片手で構えると、椿の体が強張るのが見てとれた。恐怖や脅えが体の柔軟さを奪っている。それ以上に問題なのは切っ先の位置が少し低いことだ。
天藍はひと息に踏み込んで喉を突いた。
「げほっ……手加減とか、できないのかよ」
「すると思うか? その構えなら切っ先の高さは相手の喉の位置に……」
構えを直し、もう一度、全く同じ動きで突く。剣先が触れ合い、刃は遮られる。
逆に相手に隙が生まれれば瞬時に攻撃に転じることができ、防御に回るのも早い。
なかなか隙のない構えだ。
「これは暴力だが、すべてに意味がある。突き詰めれば技術になる」
ツバキはまだ痛むらしい喉を手で押さえ、不思議そうな顔をしていた。
「もしかして、気遣ってる?」
何も考えてなさそうな瞳がこちらを見つめてくる。
「そうやって訊くまではな」
「僕は大丈夫だよ。さあ続きをやろう」
椿は作りものめいた笑みを浮かべる。
きっと、その皮の一枚下に、誰にも言えない冷たくて暗い感情を押し殺しているのだろう。
「お前を叩きのめしても、学びがない。まずは見ろ、とにかく詰め込め」
一通りの構えを見せたあと、天藍は刃を肩口に乗せて大きく振りかぶり、切っ先を地面の下に向ける。そこから踏み込み、切り下ろす動きをみせる。
「こう?」
椿は剣を抱えじっと見つめていたが、不意に立ち上がり、真似をする。
タイミングも、踏みこむ歩幅もほぼ同じ。
才能というには何か薄ら寒いものを感じながら、天藍は構えに戻った椿の前に立ち、別の構えを見せる。
切っ先を天井に向け、柄を右肩口に寄せ、半身になる。
「同じことをもう一度」
椿が振り下ろすタイミングに合わせ、刃を押しだす。
上からの斬撃を止めつつ、手先を動かし、切っ先で肩口を裂いて元に戻る。
「次は立場を入れ替える」
立ち位置を替え、構えを入れ替える。
それを繰り返す。
違う動き、違う剣捌き、足運びに移行しながら、覚えこむまで何度も繰り返す。
椿は持ち前の才能で全てを模倣していく。ただし模倣であって、それは強さにはならない。疲労すれば剣先がぶれるし、力が弱く、刃に重みが乗らない。
まるで劣化した自分がそこにいるかのようだ。
剣のことを何も知らなかった頃の自分だ。
幼く、孤独で、恐ろしい夢ばかり見ていた頃の……。
手に入れられないものばかりに手を伸ばしていたあの頃の。
戦えば、強くなれば、存在を許してもらえると思っていたあの頃の……。
ツバキも同じだ。
誰からも見捨てられて絶望し、ここに来た。
弱者の生存を、社会は、世界は許さない。
だが、戦いと暴力だけはその存在を許容する。挑み続ける間だけ、誰にも望まれぬ魂に意味が生まれるのだ。
いったい、この先に何があるのだろう?
戦い、キヤラに勝ち、そして何が……。
栄光の幻想のその先に、何が。
「もう一度」
そう繰り返す限り、剣戟は無限に続く。
らせんのように繰り返し、表と裏が翻る。
剣が触れ合い、響き、揺れて。
打ち合わされて小さな光になる。
指先で燃えていた暖炉の炎も、頬にふりかかる雪のひとひらも、孤独も称賛の声も勝利も全ての望みさえもがいま、この瞬間だけは遠ざかる。
やがてすべての疑問は消え、戸惑いも去り、ただ刃だけが翻る。
手元にあるのは一振りの剣。
剣を構える魔術師がひとり。
瞬きのうちに消える小さな光が、無限に灯る。




