9 けだもの
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寝台の上で、安らかな寝息を立てる少年がいる。
古銅イオリは寝返りを打つことすらせず、ただひたすら眠り続けている。
それは投薬のせいだった。
彼が興奮し、再び暴力的な行為に出ないよう、せめて治療が完了するまではこの状態にしておく、ということらしい。
治療の方針に口を出す権利は、看護師である《彼女》には無かった。
そもそも女王のためだけに存在する医療機関に部外者の患者がいること自体が奇妙な出来事で、世間一般の常識が通用する患者でないことは明らかだった。
実際に、医府ではこの患者に対する箝口令が敷かれていて、治療に当たるのも担当医であるリブラ様と信頼のおける看護師だけ。
「ふふ……よく眠ってるわね……」
どんな事情があれ、寝台の上で眠っている彼が《ごく普通の》十代の少年であることに代わりはない。
何となく、実家にいる年の離れた弟のことなどを思い出しつつ、彼女は傍らのコンソールに向かう。指定の位置に身分証代わりの腕輪をかざすと、空中に簡単なキーボードが浮かぶ。患者の医療情報を管理するためのものだ。魔術によるものも、計器によって得たデータも、まとめられ、ここで閲覧できる。というか、外部からはアクセスできない。
古銅イオリの担当医と看護師でなければ閲覧できない類の情報が収められているのだ。
認証が必要だと警告を何度も送ってくるが――それをごまかせることを、彼女は知っていた。ごまかせる、というと少し違うかもしれない。
とにかく、彼女は腕輪をかざすだけでいい――欲しい情報は誰かが奪う。
いったい、誰が……?
そう思ったが、頭痛を覚え、それ以上のことは考えられない。
体調が悪い、仕事が忙しくて寝不足が続いているから……仕事が忙しい?
こんな、海市での勤務のように患者がひっきりなしに運びこまれてくるような病院じゃなくて、数少ない王族とか、宮の来訪者とかが、具合が悪くなるのを待っていればいいところで……でも、まあ、どんな仕事だって大変だ。仕事がないことがストレスになることもある。
少しだけ理論を欠いた考えではあるが、彼女はそう納得した。
気がつくと、腕時計の針がとんでもないところを指していた。
いけない。時刻を過ぎそうだ。
退勤時間はまだだけれど、今日は待ち合わせがあるのだ……誰と?
それはわからない。
でも、待ち合わせがある。
彼女はその確信に従って、仕事場を出た。
天市の一角に、職員寮というべきものがある。
まあ、大昔は女中とか、そういうのが控えていたところだ。だが、そこにいなければいけない時間は決まっていて、現在は海市にマンションを借りてもいいことになっている。
彼女は天市を抜けて、そちらの自宅に戻った。
高級なマンションだ。
一階にはドアマンと警備員が立っていて、内部に不審者が立ち入らぬよう、警備は万全だ。
急ぎ足で自室に入ると、生臭いにおいがたちこめていた。
どうして……一週間、帰らなかったせいかしら。
腐るようなものは何も置いていないはずだけど、人のいない家なんてそんなものかもしれない。
自分以外は誰も済んでいない部屋。きちんと片づいて、ベージュのラグが敷かれただけのリビングに、人がいた。
「誰……? 警備を呼ぶわよ?」
人、というのはあまりに不躾な表現だった。
それは少女だった。
なんというか、完璧な《少女》だった。
それも美少女と呼ぶにふさわしいもの全てを備えていた。
にきびもしみもない白い肌、勝気な猫のようなオレンジの瞳。それから、完璧な軟らかさと、一度でいい、触れたら死んでしまうという呪いがかかっていてもいいから、指先を差し入れて梳いてみたくなる、輝かしい髪――それも、鮮やかなピンク色をした髪だ。
唇がまた、素晴らしく小さくて、愛らしくて、甘いキャンディみたいな味を連想してしまう。その唇に触れたら、どんなだろう――少女でありながら、どこか女でもある。そういう人物だった。
「警備を呼ぶわよ、ですって? んふふ♪」
彼女は何がおかしいのか、含み笑いを零した。
「少し見ない間にずいぶんお利口に成長しちゃったみたいね~。わかっていたことではあるんだけど、困ったわ。どうしよう?」
彼女は唇をぺろりと舐めてみせた。
その舌の色が真っ赤で、《煽情的》。そう、煽情的というのだ。こういうものは。
彼女はそういう記憶を呼び覚ます。
彼女がその真っ赤で《煽情的》なブーツでラグを踏みつけ、近づいてきたので――声をあげる。
「近づかないで! 大声を出すわよ。護身用の武器だってあるわ!」
「それは参るわ。でもね――そう、そうしないほうがいいと思うな♪」
彼女は言った。
「どうして?」
「だぁって、私はあなたに呼び出されたんだもの。そうでしょ?」
「呼び出されて? なんのために……」
「つまり、親しい関係なのよ、私たち。とても親密なの♪」
彼女はどんどん距離を詰めて来る。
「知らないわ、あなたなんて」
「そうね。お互い、あまりたくさんのことは知らないほうがいいわ♪ あなただって、職場に知られたくないでしょ、隠れてこんなこと――してるなんて」
とうとう、壁際まで追いつめられた。
彼女はシャツの上から、その長くてほっそりして、しかしピンクと黒で塗り分けられた鮮やか過ぎるネイルのせいで、繊細さは消えたそれで、乳房を掴んだ。
「キスしましょ♪」
「どうして」
「恋人はそうするものだからよ♪」
そうだ、恋人だから――恋人は、そうするものだ。
彼女は唇に食らいついてくる。
柔らかくて、口紅のにおい、感触がする。乱暴なそれがだんだん深くなり、舌が差し入れられ――そして。
彼女の意識はそこで途切れ、活動を停止した。
ピンク髪の美少女は、頬にかかった髪を乱暴に払い、唇に《紙切れ》を咥えて離れた。
その紙切れを、舌によって口中から引き出された看護師の女は、その場に崩れ落ちる。肌色をしていた肌も、眼球も、髪の毛も何もかもが土塊になって、壊れてしまった。
あとには服とバッグ、靴が放り出された。
「おえっ……ジブンが土人形であることさえ忘れるなんて。完璧すぎるって、罪ね♪」
バッグから、腕輪を取り出す。
「大人しくこれを渡してくれていればいいのよ、まったく。ようやく材料が揃ったわ、へとへとよ、もぉ……ま、もっとも、あなたのモデルになった女ほど強情ではなかったわね。あの女も、もっとスナオに身も心も預けてくれていれば、命までは奪わなかったのにね♪」
彼女はバスルームに、笑みを向ける。
「じゃっ、さよなら~♪」
そこから、この部屋に満ちている腐臭がどうしようもなく漏れ出てくる。
部屋の気密性の高さが、今はまだそれが外に出るのを防いでいるが……一歩でも踏みこめば、閉め切られた浴室に何があるかを想像することができるだろう。
彼女は部屋を出ていく。
檻から放たれた凶悪な獣のように、軽快に。
「待っててね、みんな♪ 待っててね、紅華ちん♪ ああ、でも少し不安。でも大丈夫。私たちの国の女は、所詮みんな魔女。いやらしくてふしだらな魔女なんだからっ♪」
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