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プロローグ









 月のない暗闇だった。









 そこが翡翠女王国海市の府裁判所地下であることも認識できなかっただろう。

 《彼》は血塗れで天を仰いでいた。

 その有様は血液の入ったバケツをぶちまけて身体でも洗おうとしたかのようで、かろうじて判別できるのは《彼》はまだ少年の面差しをしていて、刃渡り二十センチほどのナイフを握り締めているという事実だけだった。

 その背後で複雑な転移術式を編みながら、異世界と翡翠女王国を繋ぐ《扉》はゆっくりと閉まって行き、やがてただの石扉となった。

 少年は吐息の代わりに口腔からどろりと血の塊を吐いた。

 生きているのか、死んでいるのかもはっきりとしない――いや、辛うじて生きてはいる。

 瞳に暗黒を湛えた生ける屍となり果てて、それでもなお命の吐息をはき続けていた。

 己を現世に繋ぎ止める、それだけのために。


 かつん、と靴音が鳴る。


 血塗れの《彼》は、ぐるりと首を回して音がした方向に見開かれた両瞳を向けた。

 血の赤の中にぽっかりと空いた二つの空洞……見る者を総毛立たせる虚ろな眼差し。人というよりバケモノのそれが、大階段を優雅に降りて来る、赤薔薇を飾ったドレスに身を包んだ少女を見据えた。

 可憐な小さな足が、狂気の具現に近づいて行く。

 彼女の隣には水晶の杖を持った若い男がつき従っていた。


「――前回と似たような状況だな。文書の所持は?」

「認められません。青海の魔術師ではなさそうです」


 そんな会話のやりとりがある。

 それに刺激されたか、血塗れの少年が立ち上がろうとした。

 ふらつく足取りで階段に向かって一歩を踏み出す。

 その怪我の具合では、とても歩けるはずがない――誰もがそう判断するだろう。

 けれど、やがて気がつく。

 二歩目を踏み込む足取りが思ったよりも強い……。


 ……ふっ。


 不意に短く、それでいて鋭い呼吸の音が聞こえた。

 次の一瞬、《彼》は瀕死の怪我人であることをやめた。

 少年は捕食者の動きで相当離れた距離をほんの数歩で詰め、ばねに弾かれた弾丸のように二人に襲いかかってきたのだ。

「お逃げ下さいっ!」

「リブラっ!!」

 悲鳴が重なる。《彼》は獣の如く、長杖を持つ男を乱暴に引きずり倒すと、馬乗りになり首筋に向けてナイフを振り下ろした。

 刃は庇った両掌を貫き、力任せに喉笛を食いちぎろうと深く押し込まれていく。


「うううッ!!」


 少年の唇から鮮血に濡れた唸り声が漏れ出てくる。


「うう、ううううううっ!!!!」


 切っ先が喉の皮膚を薄く裂いて不意に止まる。そこまでだった。

 残された体力をすべて使い切ったか、《彼》はまるで糸の切れた人形のように倒れ込んだ。

「…………なんて身体能力だ」

 リブラ、と呼ばれた男はまだ緊張の取れない顔で、恐怖により止まっていた呼吸を再開した。

「すぐに翡翠宮に連れて戻ろう。このことはくれぐれも他言無用とする、いいな」

「はっ……」

 苦心して掌に刺さった刃を抜き、治癒の呪文をかける。

 傍らでそれを手伝う少女の鮮やかな紅色の瞳は、やや不安げに曇って見える。

 視線に気がつくと、彼女はその表情のまま無理に微笑をつくった。

「何故かはわからないが……この異邦者が何者であろうとも、その運命には関与できない気がする……彼とは違って。これは魔女の勘だ」

 彼、と言った者のことをリブラもまた思い出す。

 それほど長い時間が経ったというわけでもないのに、その人物のことを思い出すのには懐かしさと痛みが必要だった。

 彼は彼であり、目の前の《彼》とは似て非なる者だった。

 二人はある種の後悔と、苦さをも噛みしめる。



 その人物の名は――日長椿。



 

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