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終章 この世で一番嘘つきな――

 私と美沙がどう一夜を過ごしたか、それは言わぬが華というものだろう。

 ただヒントを一つだけ……私は翌日、アンクレットを買った。美沙に直接会うこともなく、店宛に届けさせて、それきりだ。

 程なくして、彼女があの店をやめたことを知った。ミサと親しいことを知っていた店のボーイが、所用で通りかかった私を呼び止めて教えてくれた。

彼女の嘘を知っている暴力的な客が居るとあっては、勤め続けるのも難しいことだろう。妥当な判断だ。しかし、彼女がどこに行ったのかまでは、ボーイですら知らないことだった。

 あの夜は、彼女がついた嘘の一つなのだろうと最近では思う。彼女のような若い娘が私を男として見ていたかどうか、あやしいものである。おそらくは本当に父親の代用品だったのではないだろうか。だから、ただの感謝の贈り物感覚で、身を隠す前にたった一度の情けをかけただけだろうと。

 彼女の嘘は完璧だった。

 しかし私は、嘘をつきとおすことができなかった。自分の気持ちを隠して彼女の『父親』を演じ続けることなどできなかったのだ。あの夜、私はただの男だった。

 それだけが悔やまれる。


 そして私は定年を迎えた。相変わらず作家としての芽は出ないが、こうして執筆は続けている。妻との関係も良好で、定年お疲れ様の小旅行など計画してくれた。隣県の小さな温泉地の格安旅館を予約しただけのことだが、宿は小さいながらも良いところで夕食もうまかった。出湯も浴槽の底が見えないほどの黒湯で、数十年の勤めの疲れを洗い流すに十分な泉質であった。

 帰り道は高速を使わず下道にしたのだが、これだけがよろしくなかった。県境に近い町で少し迷い、住宅地に入り込んでしまったのだ。昼飯時をだいぶ過ぎてのことだ、腹が減っていた。

「ねえ、あなた、どこでもいいから食べ物屋さんがあったら、入っちゃいましょうよ」

「ああ、そうだな」

 そんなことを話していたのだから、その店に入ったのは本当に偶然だ。運命なんかじゃない。

 白塗りの、ガラス張りの、どこか温室を思わせる小じゃれた店には3台分の駐車場しかない。看板も白地に濃いブルーの飾り文字というシンプルなものだ。駐車場の隅っこにはこの店の子供のものだろうか、三輪車が転がっていた。

 白い木枠のドアを押して店内に入る。ちぃりんと澄んだドア鈴の音。

「すいません、お昼の部はもう終わりなんです」

 サロンで手を拭いながら出迎えてくれたのは、懐かしい、細い女だった。

「あら」

 スーパーで知人と行きあったときのような軽い驚きの声だった。だから私の方から仰々しい挨拶をするのもおかしいと思ったのだ。わたしは軽く目礼しただけだった。

 妻だけが他人だ。なにを気にすることもなく、女店主に尋ねる。

「ごめんなさいね、道に迷ってしまって、このあたりに他にご飯を食べられるようなところ、あるかしら?」

「この先の国道へ出ればうどん屋がありますけど……」

 その女は笑った。この店はその愛嬌でそれなりに儲かっているだろうと思わせる、愛想の良い笑顔だった。

「座ってください、簡単なものしか作れないけど」

「え、でも」

「いいんです、おじさんには昔お世話になったから」

 まるであの夜のことなど何もなかったかのような、裏のない口調だった。妻も、娘より若い女と私に艶夜があった事など、よもや思いもしないのだろう。

 ガラス越しに差し込む日差しは暖かく、店内は静かであった。

「おじさんは今でも大切な……『お父さんみたいな人』だから、特別サービスです」

 私と妻をテーブルに案内して、彼女は調理場へと向かう。その後姿もやはり細く、すうっと右の足首までを視線でなぞれば、そこに金の鎖はなかった。

 しかし左の足首、清潔感あふれる白いソックスを控えめに彩る細い金色を、私は見逃さなかった。小さな星のモチーフをちりばめたそれは確かに私が贈ったものだ。

「どうかしましたか、あなた?」

 怪訝そうな妻に向かって、私はほころびそうになる口元を引き締めて首を振ってみせた。

「いや、なんでもない」

 彼女は嘘つきな女だ。私は彼女の本当の名前すら聞かされていない。だから、あのアンクレットも嘘をついている。


 美沙――この世で一番うそつきな女――


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