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アンクレットは男からの戦利品、アクセサリーを贈りたがる男たちに指輪の代わりにねだるのだという……そんな彼女の言い訳を思い出しながら、牧田は今日もコンビニへと向かっていた。
8月も半ばを過ぎて、真夜中だというのに風の中にもはっきりとした熱気を感じる。そんな夏風に頬を撫でられるたびに、あの日の光景を思い出す。
美沙は、身につけたアンクレットさえも嘘つきだ。男への隷属の証のように足首を枷られながらも、彼女は誰に傅くつもりもない。夫という立場を手に入れた男にさえ、だ。
けっして縛られない自由の証に、右の足首に巻いた金の鎖……あの夜、それに絡めとられ、縛られたのは自分のほうだと、牧田は強く自覚している。だからといって美沙と一歩進むような愚行を犯すつもりはまったくなかった。
あれは心底の嘘つき女だ。幾人もの男に許した体など抱いたところで、心までは決してよこさないだろう。それが口惜しい。
ならば今の関係のままでいいのではないか、と牧田は考えた。
安穏と居座ってきた居心地の良い家庭を捨てて色恋に賭けるには、いささか年をとりすぎた。美沙も男と遊ぶことはあっても、家庭を捨ててまでとは思っていない節がある。おそらく失うものの方が多い恋だ。
それに、彼女がくれた一言が心の端に引っかかっている。
――お父さんみたい。
あれは他の男たちのように体の慰みにされる関係ではないという、最高の賛辞だ。ならば無理などしなくても――
考えがまとまらないうちに、コンビニの前につく。もっともまとまるわけのない思考ではあるが。
そして美沙は……雑誌コーナーをガラス越しに覗き込むが、その女の姿はなかった。
「今夜も男漁りか」
わざと下卑た言い方をしたのは自嘲もこめてだ。あんな尻の軽い、しかも年の離れた女に現を抜かすなんてどうかしている。
牧田は家へ帰ろうと踵を返した。別に買い物があるわけでなし、本当にただ散歩のついでに寄っただけなのだと強く思いながら。
その歩みは、いつもの雑居ビルの前で止まった。営業の終わった暗い階段の下に、一人の女が蹲っている。膝を強く抱えて顔を伏せているが、細いシルエットは見間違えようがない、美沙だ。
「そんなところでどうした」
牧田の声に、女は顔を上げる。その左頬が薄明かりの下でも解るほどに腫れ上がっていた。
「どうした、それは!」
「ああ、ちょっとお客さんとトラぶっちゃってね」
店の中でのトラブルなら、店が対処するはずだ。だとすれば彼女を殴ったのは、店の関知しない『プライベートな付き合い』のある客だろう。
「なにがあった?」
「いくつかの嘘がばれただけよ」
色恋営業を真に受けた男が彼女の遊び癖を知り、逆上したというところだろうか。しかし、語ろうとしない彼女にそれを問う勇気は牧田にはなかった。代わりに問う。
「警察へは?」
美沙は首を横に振った。
「じゃあとりあえず病院か! それを手当てしなくちゃ!」
ぐい、と引き上げようとする牧田の手を、美沙は振り払う。
「やめて。冷やしておけばこんなの、すぐひくんだから」
「いや、病院へ行った方が……」
「病院も、警察もダメ! 旦那にばれちゃう!」
そうだ、大人の嘘には責任が付きまとう。彼女が今まで嘘で積み上げてきたものを守るには、今夜のことを夫に隠すための更なる嘘を重ねなくてはならないのだ。
「その腫れはたぶんしばらく残るぞ。旦那さんにはなんと言うつもりだ?」
「ファミレスの方のバイトで、転んでぶつけたって言う」
「それで旦那さんは納得するのか?」
「大丈夫、さっきバイトの友達に、口裏を合わせてくれるように電話したから」
「ふむ」
危うい女だ。男を誘うための嘘には長けているというのに、その嘘はまるで幼い子供がとっさに思いついた言い訳のようではないか。
「とりあえずコンビニへ行こう。なにか冷やす物くらい売っているさ」
牧田が差し出した手を、美沙は素直に握った。
「おじさん」
「うん?」
「帰りたくない」
陳腐な誘いの言葉だ。
「だからってここにずっと居るわけにもいかないだろう」
「でも、帰りたくない」
牧田だって家庭のある身だ。まさか妻の居る家にミサを連れ帰るわけにはいかない。ならば行き先など一つしかないだろう。いや、本当は他にも選択肢はあったのかもしれない。それでもそのときは他の行き先など思いつきもしなかった。
ここから少し歩けば小さな安ホテルがある。コンビニで袋入りの氷を買って、美沙をそこへ連れて行こう。朝まで腫れた頬を冷やしてやる、ただそれだけだ。
「おじさん」
不意に美沙がしなだれかかってくる。父親に甘える子供のしぐさではなく、におい立つ欲情をこすり付けるような、いやらしく身をくねらせた女のしぐさだ。
「私は『お父さんみたい』なんじゃないのか」
「ああ、あれ……」
美沙の体がさらに押し付けられた。胸の柔らかさがに腕が沈む。
そして美沙の声も……幾分沈んでいた。
「わたし、うそつきだから」