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美沙は酷い嘘つきだ。
子供がいることはむしろ自慢にしているくらいだが、夫がいることは店では内緒だ。その夫君には『ファミレスの夜間パート』ということにして夜蝶として働いている。
「でも、明細が無いとばれちゃうじゃない? だから、昼間は本当にファミレスで働いてるんだよ?」
そのすべてをあけすけに話してくるのだから、牧田にとって美沙は性質の悪い女であった。そして美沙が客の何人かと肉体関係があることも知った。
なんのことはない、若い体をもてあましているからこの仕事を選んだだけだ。もちろん稼ぎがよいことや、彼女がいかにも水商売向きの性格であることも考慮するべきだが、少なくとも彼女は、その仕事を心底から楽しんでいた。
今日も夜半過ぎての散歩のついでに、牧田はコンビニに立ち寄る。あくまでもついでだ。
美沙と約束したことは一度もない。それでも男とのデートなどない日には、彼女は必ずここにいる。雑誌など立ち読みしながら牧田を待っているのだ。だから牧田は毎日このコンビニを覗かないわけにいかないのだが、あくまでも散歩のついでなのだから苦ではなかった。
美沙がいない日は『獲物』を見つけた日だ。次の来店をせがむためのデートなり、気に入った相手とのつかの間の恋人ごっこなり、どちらにしろ男といる事にかわりはない。そんな日は、さすがの牧田も少々複雑な気分になる。
夫がいるのに他の男とセックスなぞするのは、世間一般では不倫と言うのではなかろうか。いちど諭してやるべきか……。
しかし、雑誌コーナーに佇んでつまらなそうにページをめくる姿を見てしまうと、どうしても臆してしまうのだ。もし小うるさい説教などして、彼女が二度と来てくれなくなったらと、その気持ちが口をふさぐ。
今日は美沙がいた。雑誌に目を落とす彼女に向けて、ガラスのこちらからこんこんと合図を送る。美沙は顔を上げ、牧田の姿を認めるとにぱっと顔全体で笑った。
この後は彼女の帰路の途中まで、ちょうど牧田の帰路と左右に分かれる小道まで並んで歩くだけである。コンビニで買った缶コーヒーなど飲みながら他愛もない会話を交わす、それ以上のことなどなにもない。
誓っていおう、この時点で牧田と美沙の間には肉体的な接触などなかった。
それでも心は近しいところにあったのだと信じたい。彼女は実にいろいろなことを、隠すことなく話してくれた。母親が3回も離婚していること、父親がいないこと、兄弟が多いこと、そういった身の上話に始まり、自慢の子供たちがどれほどかわいいか、夫とそれなりに上手くやっていること、それに、将来の夢……
「わたしね、お店をやりたいの」
歩きながら聞いたそれは、女児が将来の憧れを友人と話すときのような無邪気な言葉だった。
「軽いお酒と料理を出すガールズバーで、昼は主婦層狙いでランチをだすの」
だがしっかりと現実味を帯びた夢でもあった。
「今のお店で稼いだお金は、そのために貯金してあるの。お店を立ち上げるためには、まだまだ少ないけどね」
どれほど美沙が嘘つきでも、これだけは間違いのない本心からの夢であった。だからこそ牧田は彼女をきつく諭すことができずにいた。
「ねえ、お店って、光熱費いくらくらいかかるのかな?」
牧田にそんなことがわかるはずはない。だから考えて込む。言葉が途切れる。
美沙は、そんな牧田を見て小さく笑う。
「おじさんは、本当に良い人ね」
「良い人か?」
「うん、そんな考えなくても、適当なこと言っちゃえばいいじゃない」
「だって、本気なんだろ」
「もちろん! でも、それはわたしの本気であって、おじさんがそんなに本気になることなんてないじゃない」
「それもそう……か?」
「うん、本当に良い人」
その後の美沙の言葉は寂しげなつぶやき、それも短く一言。
「お父さんみたい」
その真意はよくわからなかった。三回も代わった父親の中に牧田に似た男がいたのかもしれないし、理想像のようなものかもしれない。それでも、少なくとも『男』として見られていないということだけは伝わった。
そこで言葉に困る必要などなかったのだ。牧田も美沙を『女』としてみているわけではない。年齢とともに体力も落ちたのか、そういう欲求を感じることもめっきり減った。
だからこそ、意味ありげに長い沈黙を作りたくはなかった。
「そういえば、その足輪、この前のとは違うんだな」
とっさに思いついたのがそれだっただけだ。以前は細い鎖に小さな石だったが、彼女が今日つけているそれは、猫を模ったチャームがついた少し太めのものだ。
「足輪? やだぁ、アンクレットっていうのよ」
美沙は立ち止まってスカートのすそを少し上げる。右足首が無防備に晒された。
「知ってる? 左足首のアンクレットは男に隷属している証。でも、右足首につける意味はね……浮気OKってことなの」
美沙の足首を覗き込んだ牧田は自分の中の『男』が枯れていないという事実に当惑した。ズボンの中がぐいっと狭くなる感覚を、軽く腰を引いてごまかす。
これが隷属の印だというなら本当に隷属しているのは、街灯もまばらな田舎道の月明かりの下で枷鎖を晒す女ではなく、道路に膝をつきそうなほど身をかがめた牧田のほうだろう。そもそも日常の中で他人の足元にひれ伏すような、こんなに屈辱的なポーズをとることなどないだろう。
女王陛下のつま先にキスする許しを求めるような、このポーズは、ひどく、熱い……夏の気配を含んだぬるい風が牧田の前髪を揺らして通った。