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別にたいしたことをしたわけでもないのに「サービスするから」と美沙が言ったのは、もちろん牧田を客として引き込もうとしてのことだろう。
これが美沙がついた最初の嘘。
その言葉を信じて少ない小遣いをかき集めた牧田が来店したのは、あの出会いから一週間ほど過ぎてのことであった。
彼女は最初、ドアのところで一礼した牧田に不審の視線を向け、記憶をたどるように小首をかしげた。考えてみれば通りすがりに手を貸してくれただけのおっさんの顔など記憶しているわけがない。社交辞令を真に受けた牧田のほうがおかしいのだ。
それでも、ふと記憶に思い当たったのか、美沙は頭のてっぺんに抜けるような声を上げた。
「やっだ~、いらっしゃ~い」
安っぽい。
こういう店へは男同士の付き合いで幾度か来たが、見栄をはってもう少し高級な店ばかりを選んでいた気がする。狭い店内に派手なソファとガラス製のテーブル、それにぺらぺらとしたドレスで着飾った女がひしめくここは、熱帯魚屋の水槽を思わせる息苦しさだ。居心地が悪いことこの上ない。それでも牧田は空いているテーブルに通された。
美沙が他の女に耳打ちしていたのは、自分が後で接客するつもりで、ヘルプを頼んだのだろう。牧田についたのは『ウララ』という、やはり若い女であった。
席についたウララが最初にしたことは密告であった。こういった接客業では不躾な、酷く見苦しいことではあるが、トップの座から美沙を引きおろそうと、この女なりに必死であったのだと分かっている。
「おじさんも、美沙に騙されたクチですかぁ?」
「いや、私は……」
「美沙は本当に嘘つきだから、信用しないほうが良いですよ~。あ、知ってますぅ? あの子、結婚してて、子供もいるんですよぉ~」
来いと言われたから来ただけだ。娘ほども年の離れた美沙とどうにかなるつもりなど、牧田には毛頭ない。だから気のない相槌を返しただけであったが、これがウララの気分を逆なでしたらしく、彼女は不機嫌そうに鼻を鳴らして黙り込んだ。
美沙が来るまではたった10分ほどであったが、その間が長い無言の行であったことは言うまでもない。ウララは、頭を下げてヘルプの礼を述べる美沙に言葉一つ、視線すらくれずにテーブルを立った。
「いや、女の世界っていうのは、怖いねえ」
牧田の言葉に、隣に座った美沙は声を潜めた。
「ウララ、何か言ってました?」
「君が結婚していて、子供もいるって」
「ああ」
酷く冷め切った声だ。きっと何もかもお見通しの上でヘルプを頼んだに違いない。
すう、と一呼吸置いた後、美沙は甲高く笑い出した。それは隣のテーブルの客に対する演出か。
「そんなわけがないじゃないですか~、こんな仕事、旦那がいたら怒られちゃいますよ~。子供がいるのは本当だけど、ちょっとフクザツな事情があって旦那はいないんです~」
これが美沙が牧田についた二つ目の嘘。
彼女にはちゃんと夫がいる。離婚などしていなければ、今でも幸せに暮らしているはずだ。それでもこのときの牧田には、深い事情まで知るつもりなどなかった。
「そういうことにしておいてね」
耳打ちされた言葉にただ頷いただけである。
美沙はそんな牧田に安心しきった笑顔を見せた。あれは営業用の笑顔などではない、心底からの信頼の表情だったのだと、今でも思う。
「おじさん、本当に良い人だね」
それに続く彼女の言葉は、甘えたの幼児を思わせる、小生意気な命令口調であった。
「だから、それを飲んだら帰りなさい。今なら延長なしだから、安いよ」
「いや、でも……」
「無理しないの。おじさん、どうせお小遣い少ないんでしょ」
「む……たしかに」
「そういう人には安く、その代わり回数多く通ってもらうっていうのが、わたしのやりかたなの!」
これも嘘だ。それっきり、店へ誘われることはなかったし、行ったこともない。
それでも私は散歩の時間を少し遅くにずらし、仕事を終えた彼女と立ち話などする仲になっていた。