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 牧田の記憶が確かなら、それは定年まで残すところ後数年という年の、7月に入ったばかりのことだった。晴れてはいたが、月は出ていなかったかもしれない。

 『記憶が確かなら』というのは老化ではない。美沙との関係が酷く曖昧なものであったのと同じように、彼女を思い出そうとすると存在のすべてが曖昧なものだったように思うのだ。

 これは、彼女が嘘つきだったせいかも知れない。

 嘘で巧みに男を誘導し、取り込み、自分を理想の女のように見せる、そんな手練によって出会いの記憶すら書きかえられているのではないかという気さえしてくるのだ。

 いや、やめておこう。彼女は私に対しては正直だったのだし、ここでの私は登場人物の一人に過ぎない。あれがどんな女であったか、私の決めつけが混じるのは拙いだろう。 

 

 ともかく、牧田は女に出会った。それは安飲み屋の集合したビルの、出入り口でのことだった。

 女は酷くけばけばしい、むしろババくさいほどの深紅のサテン地のドレスを着ていた。大きく肩が開いた、とても日常には着ないようなデザインのそれは、彼女がこの雑居ビルのいずれかの店に羽を下ろした夜の蝶であることを物語っていた。

 女は酔いで足のもつれた客と思しき男に肩を貸し、どうやらタクシーなど待っている様子であった。店着のまま、荷物なども持っていないところを見ると、アフターなどではなく、ただの見送りなのだろう。

 しかし、男はガタイのいい中年なのだが、いかにも親しげに体を摺り寄せ、卑猥に笑いながら何かの言葉を女の耳に吹き込んでいる。少なくともただの客ではなく『上客』なのだろう。女はそれに愛想の良い笑顔を返していた。

(営業用の笑いだな)

 コンビニの手前で足を止めた牧田は、必要以上に甲高い女の笑い声からそれを見て取った。きゃらきゃらと脳天に抜けるような声は酔いにおぼれたフリだ。おそらくは男をいなし、思わせぶりな言葉で次の来店の約束でも取り付けているのだろう。とすれば、上客ではあっても男女の深い関係などない。哀れな財布男の片思いに違いない。

 ――これについては後日、牧田は女に聞いたことがある。「あのときの客の名前を覚えているか」と。女は少し首をかしげ、長いこと考えてから「誰だっけ?」と返した。だから、牧田の観察眼もたいしたものではあったのだが――

 そのとき、ロータリーを回ってきたタクシーが女の前でドアを開いた。女は男をタクシーに乗せようとした。それだけのことだが、男はだらしなく酔っている。がくんがくんと揺れるひざには縁石の段差を越えることすら容易ではないらしく、女は酷く手こずっていた。

(酔っ払いに関わるのはごめんだ)

 だが、今まで愛想よく笑っていた女が困った表情をみせたから、ただ、それを見かねたから、駆け寄った牧田はアスファルトの上に座り込もうとする男を支えた。

「大丈夫か?」

 短くたずねれば、反射的な言葉が男から返ってくる。

「ああ、大丈夫、大丈夫」

 おそらくは自分が誰と会話しているのかさえわかっていないだろう。「大丈夫か」と聞かれれば「大丈夫だ」と応える、定型どおりの会話だ。牧田はそれに苦笑しながら、男をタクシーに押し込んだ。

 走り出したテールランプを確かめて女が安堵の表情を浮かべる。それが客前では絶対に見せないような、いかにも厄介な客から解放されたことを思わせる間抜けた表情だったので、牧田は小さく笑息を漏らした。

 女は怪訝を浮かべて牧田を見上げる。

「ありがとうございます、助かりました」

 これも通りいっぺんの、定型の会話だ。女の上目遣いは客を誘う媚ではなく、自分が笑われた原因を探そうと、牧田の表情の動きを油断なく追っている。

 笑いをしまいこんだ牧田は、精一杯に渋面を作ってその女を見下ろした。

(ずいぶんと若いな)

 それが、牧田が美沙に抱いた第一印象である。

 赤いドレスは店のお仕着せなのか、それとも年齢を隠すために自ら選んだものなのか知らないが、少なくとも張り詰めた白い肌の美しさまで打ち消せるほどのものではない。身のこなしも軽やかで、いかにも若々しい。だが、二十歳に届かぬ子供のように浮ついているわけでもなく、24~5歳だろうと牧田は目星をつけた。

 いくつにしろ、自分の娘よりも若い娘であることに違いはない。彼女の表情をじろじろと観察するのが急に気恥ずかしくなって、牧田は視線をおろす。これは逆にその体の線をなぞるような形になって不躾であったのだが、おかげで牧田は美沙という女の全体像を知ることができた。

 細い女だ。今時の娘はみな細いのだから、これが標準かとも思うが、すっきりと細い娘。それでもドレスの胸元は形よく膨らんでいるのだから目のやり場に困る。腰周りはくびれてはいるものの、体のバランスからしたら少し太目かもしれない。それが逆に男を知っている女の体だと主張するようでいやらしい。

 そして、長いドレスを無意味になぞった牧田の視線は、彼女の右足首に巻きついた細い金の鎖に止まった。

(ブレスレット?)

 いや、足首につけるのだから、足輪というべきか。

 小さな石を一つだけつけたそれが『アンクレット』というものだと牧田が知ったのは、それからしばらくしてのことである。


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