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浅黄色の風【執筆中】

今年も見事に花開いた東山の桜を一目見ようと、清水寺界隈は今日も多くの見物人で賑わっている。

群集を掻き分け、浪人体の背が高く線の細い青年と、結綿髷を結い黄格子の着物が良く似合う少女が目を輝かせながら人込みを縫うように歩いていた。

「歳三さん、歳三さん!」

「土方さあーん、早くしないと置いていきますよう!」

その後ろから続く少し猫背気味の、洒落た黒い麻羽織を纏う美男が重そうな風呂敷を手に怒鳴り散らす。

「総司てめえ、軽い荷物ばかり持ってるんじゃねえ!」

漆黒の長い髪を靡かせながら江戸訛りの一喝を放った美男は、先を歩く二人の荷物持ちと化していたようだ。

「ごめんなさい、歳三さんもう少しですから…」

三味線を抱えた少女が、申し訳なさそうに荷物持ちに駆け寄る。

「悪いのは利津じゃねえ…あいつだ。あの屁の役にも立たない能天気馬鹿だってんだよ。」

「え?土方さん屁とか言わないでくださいよー。これからお弁当食べるって言うのに。」

両手が塞がり殴るに殴れない歳三と呼ばれた美男を、総司という青年がからかいながら先を歩いてゆく。

はらはらとした面持ちで美男の横を沿い歩いている利津と言う少女が、その重い弁当を作ったのだろう。

彼らの向かう先には、喧騒から離れた長閑な畑の片隅に立派な桜が一本咲き誇っていた。

「わーい到着。土方さん、早く茣蓙ひいてくださいよ、お利津ちゃんが座れないじゃないですか。」

「てめえ…どの口でそんなこと言いやがんだ!」

弁当を置くと素早く背中に背負わされていた茣蓙を片手で振り回し、今までの鬱憤を晴らすかのように総司へ打ち込んだが、のらりくらりとかわされてしまった。

「まあまあ、せっかく綺麗に桜も咲いているんですし…ほら、お二人のお好きな出汁巻きも沢山作ってきましたから。」

利津は重箱を広げ準備をしつつ困ったように笑って仲介に入るが、一向に二人の言い合いは収まらない。

半年前までの利津ならただ見守るしかなかっただろう、しかし今は違った。

「うーるーさーい!」

と叫ぶや否や。

右側歳三の口には出汁巻き卵(出汁)

左側総司の口にも出汁巻き卵(加糖)

…が利津によってそれぞれの口に詰め込まれ、喧嘩は仲裁された。

「…んまい。」

「…美味しい。」

ばつが悪そうに利津をはさんでそれぞれが着席すると、利津は満足げに弁当を開きお茶を振舞う。

「なんか…中身までうちのミツ姉さんに似てきましたね。」

「…そうだな…。」

思わず二人は青く澄んだ空を仰ぐ。

郷里に残した頭の上がらない恩人と、何事もなかったかのように三味線を爪弾く利津を見比べては、どうかそれ以上同化しないでくれ…とお互い願っていたに違いなかった。


 芹沢一派を掃討し、早半年が過ぎた。

それは利津が会津藩御預、新選組の壬生屯所に住み込みで働き始めてから、既に半年経ったことを意味している。

利津は幹部付の女中兼、花街の監察として隊内で認知されていた。

男所帯の隊内で、利津の身に危害が加わらないよう常に伍長以上の隊士が目を光らせているし、何よりも利津を重用している副長に目をつけられれば即切腹なのだ。

平隊士からすれば快く思う、思わないという次元ではない。

しかし言い換えるのなら、今の新選組副長並びに試衛館一派にはそれだけの権限がある。

こう述べると正に深窓の姫扱いだが、彼女の仕事はそんな扱いとは裏腹に日々忙しいものだった。

「なあ利津、また刃こぼれしちまったんだけど…ごめんな。」

縁側で三味線の調律をしている利津を見つけ、申し訳なさそうに大刀を手渡した小柄な青年が、面目なさそうに頭を掻く。

「藤堂さん、気にしないで下さい。これも私の仕事なんですから。」

受け取った刀をすらりと抜き取ると、確かにこのまま巡察に出れば命を落としかねない状態である。

「そろそろその『藤堂さん』ってのやめようぜ…。平助さんでいいのにさ。」

軽口をたたいているが、これでも彼は一隊を率いる組長なのだ。

これだけ刃こぼれする修羅場を毎日のようにくぐり抜けていることを、刀は物語っている。

まあそれは彼以外の隊士にも、言えることなのだが…。

「…藤堂さん。また骨に当てちゃったんですね…明日の巡察までには間に合わせます。」

本当に見た目と太刀筋は比例しないですね、と思わず口に出る。

この小さな体躯で骨まで相手を断つとは、斬られた相手も予想だにしなかったであろう。

「宜しく。でも八っつあんなんて見た目そのままだし、近藤さんもそうかな。」

「なんだなんだ、また俺の噂話で盛り上がってんのか?どの武勇伝だよ、平助。」

豪快な笑いと共に現れた『八っつあん』こと永倉新八が、平助の尻をバチンと良い音をさせて叩く。

「お前は自意識過剰、こいつの武勇伝てのは花街での馬鹿話だからお利津に聞かせる話じゃねえだろが…」

続いて巡察帰りと思わしき色白長身の隊士が槍を携え、井戸へ水を求めてやってきた。

「あ、原田さん手ぬぐいお持ちしますね。」

「ああ、いいよいいよ!おーい斉藤。手ぬぐい持ってきてくれー。」

原田はぶんぶんと手を振り、廊下を曲がってきた隊士に声をかける。

道場で平隊士の稽古をつけた帰りと見受けられる斉藤だった。

「暫時待て。俺も汗を流しにそちらへ向かう。」

廊下を音もなく歩いていた斉藤が、首だけ振り返り返事を返す。

「もうこれだけ暖かいと、巡察や稽古の後はしっかりと汗を拭かなければ風邪を引いてしまいますね局長。」

「そうだなあ山南さん。隊士の皆にも体調管理をしっかりとさせねばいかんな。」

中庭に面した局長室の障子は麗らかな春の陽気により開け放たれ、局長の近藤と副長の山南は監察からの報告を吟味していたが、陽気に誘われるがまま中庭へと顔を出しにきたようだ。

利津も眼を細めてこの平和な春を、全身に光を浴びて満喫していた。

「ただーいま!」

冗談めかした明るい声がしたかと思うと、不意に目の前を何かに遮られる。

「さて誰でしょう!」

利津にはこんなことをするのが、約一名しか思い当たらないのだが。

「沖田さんでしょう?今、藤堂さんの刀を持ってるから危ないですよ?」

「ちぇ、良く判ったね。正解したお利津ちゃんには、僕と二人きりで一日過ごす権利を…」

おちゃらけて言いかけた総司の台詞を、鈍い音がかき消した。

「馬鹿は休み休み言え!冗談は顔だけにしろ!」

「歳三さん、お帰りなさい。お茶、すぐお持ちしますね?」

歳三に殴られて頭を抱えて悶えている総司を、相変わらず眉間に皺を寄せた歳三が腕を組んで見下ろしていた。

「ああ、幹部全員分頼む。これから話し合うから、局長室までな。それから今夜はまた座敷に出てくれ…それと…」

「何なら…お着替えも手伝いましょうか?」

帰るなり目も合わせず次々と用件を伝える歳三にむっとした利津は、少し困らせてやろうとわざとそんな言葉を投げかける。

「ああ頼む…って、そんなこたぁ連れ添う相手だけにしろ、馬鹿野郎!」

柄にもなく頬を紅潮させ利津の額をぺしんと叩く歳三は、平隊士に恐れられる鬼副長の顔とは対を成す、彼の本当の姿だ。

「お利津ちゃんは女子だから、野郎じゃないけどねー。」

歳三に殴られた頭を擦りながら、懲りずに総司がすかさず揚足をとる。

この朗らかな彼でさえ、刀を抜けば鬼神のごとく敵を切る夜叉に変わるのだ。

「こら総司、トシさんをからかうんじゃないよ。皆局長室に集まりましたぞ。」

「源さん悪いな、助かるよ。ほら、総司お前も早く来い。」

皆から『源さん』と呼ばれ親しまれている、試衛館一派の良心とも言える井上が総司を咎めると、流石の総司も素直に頷き後を着いてゆく。

「あ、そうそうこれをお茶請けに持ってきてね。」

別れ際に総司に風呂敷包みを手渡され、勝手場で湯を沸かしている間に包みを開けた。

小さな紙切れが桜餅の包み紙に紛れており、そこには歳三の字で何か書かれている。

― 今晩祇園万亭 六ツ半 ―

「万亭かあ…。少し気合入れなきゃ、お座敷追い返されちゃうわね。どの着物にしよう…」

ふつふつと沸き上がるお湯と共に、利津の地方魂も熱を帯びたのだった。


 

「なんや、また長州のお侍はん達が京にいらしてはるらしいなあ。」

祇園万亭、由緒あるこの料亭には並の芸舞妓では座敷に上げてもらえない。

無論、客も又然りである。

「きよ香姉さん…私、大丈夫でしょうか。」

芸妓の控え部屋では少し緊張した面持ちの利津が、きよ香という芸妓と女将からの呼出を待っていた。

「ふふふ…何もそんなに緊張せんと、いつも通りでよろしおす。それよりも今此処においやす芸妓には、気ぃつけなあきまへんえ。」

きよ香の目線の先には、同じ座敷に呼ばれたであろう別の芸妓がこちらへ歩み寄ってきた。

「きよ香姉さんお久しぶりどすな、同じお座敷なんてほんにめずらしいわあ。」

「あらすず羽ちゃん…ということは…お客はんはあのお方?」

このきよ香に負けず劣らず芯の強そうな、すず羽という芸妓の名前を、利津は何度か耳にしたことがあった。

確か、『勤皇芸妓』と呼ばれていたはずだ。

勤皇芸妓とは尊皇攘夷過激派の浪士と懇意な芸妓や、自分自身が尊王攘夷思想を抱いている場合にそう呼ばれる。

「それは会ってのお楽しみどす。そちらのお若い地方はんは、姉さんの御贔屓?」

きよ香は、あのお方と言った時にそっと利津に目配せをしていた。

幾松の馴染には恐らく、歳三が情報を得たい人物がいるのだろう。

そうであれば、こちらは気取られるわけにはいかない。

「お初にお目にかかります、利津どす。よろしゅうお頼申します。」

平静を装って何事もないように挨拶をし、すず羽と眼を合わせる。

「お利津はん、東国の出身やないどすか?三味線も少し…珍しい細工やね。」

利津としては京訛にも気をつけたつもりだったのだが、あっさりと見破られてしまったことに少し焦りを感じた矢先。

「さ、すず羽ちゃん。女将が呼んではるわ。お客はんもお待ちかねどすえ?」

「へえ、ほないきましょ。」

きよ香の助け舟にほっと胸を撫で下ろし、三味線をきつく握りながら座敷へ向かう。

すず羽ときよ香に続き座敷へ上がる前に三つ指をつき、深々と頭を垂れた刹那。

「あれ?また僕に会いに来てくれたのかな、久しぶりだね地方さん。」

聞き覚えのある声の主が、跪きそっと利津の手を掴む。

「く…久遠さん?」

歳三らが芹沢一派を襲撃した晩、何故か歳三の前に現れた謎の人物である。

利津はどうしてか、この尊皇攘夷思想を掲げる不思議な青年に気に入られていた。

「浅黄色の着物か…成る程ね、色白の君には良くお似合いだ。気乗りしなかったけど、来て良かったよ、桂さん。」

「君は地方にまで手を出しているのか?松陰先生に今のお前を見せてやりたいよ。」

桂と呼ばれた武士は呆れ顔で久遠を嗜める。

「また桂さんの説教が始まる前に、きよ香一曲頼むよ…地方さんも。」

「久遠、まだ地方が揃っていないじゃないか。」

「大丈夫ですよ、この地方さんの三味線は素晴らしいですから。きっと桂さんも気に入ってくださる筈です。」

ちらりと利津と眼を合わせ、久遠が曲を催促する。

「なんや、久遠はんはこの地方はんをえろうお気に入りどすなあ。」

すず羽が不満げに口を尖らせるが、先輩のきよ香にも促されてしぶしぶと立ち位置に付いた。

兎に角何か情報を得るためには、今は穏便に済ませるしかない。

利津はすっと短く息を吸い込み、音色を響かせ始めた。

一分の乱れもない二人舞。

きよ香が舞の名手だというのは周知だが、すず羽もよくきよ香の動きに合わせている。

そんな最中でも、やはり久遠は利津を食い入るように見つめていた。

視線を痛いほどに感じながら弾き続けるのは、利津にとって気持ちの良いものではない。

利津のやりにくさを除いては、桜のように切ない春の余韻を残す舞も滞りなく終わり、芸妓の二人はそれぞれに得意客の隣で酌をし始めた。

「それで?桂さん。わざわざお忙しいのに僕に説教にきたんですか?」

「馬鹿言うな、そんなに僕とて暇ではない。用件はわかっているんだろう。」

僕…と言っているということと、すず羽が贔屓の桂は長州の人間で間違いないだろう。

「お断りします。僕はこうやって女と酒があればいい人間ですから。」

久遠も長州に関係する人間と考えて良さそうだが、どうやら桂とは協力関係にはない。

「騙されんよ。君は何か自分の目的があって動いているだろう。」

「流石桂さんですね…。僕は利害関係が一致した相手となら、どんな勢力とでも手を組みますよ。たとえ薩摩の芋でもね。」

「…夏に大掛かりな策が実行される。君にも加わって欲しい。」

― 夏に長州が何かを仕掛けてくる…! ―

「…お利津ちゃん、もう外してええよ…?」

話し合いが核心に迫ってきたが、新選組と関わりがあることは久遠に知れている。

これ以上利津がここに居続ければ、久遠はより一層怪しむだろう。

今後これ以上の身の危険を回避するには、そろそろ潮時であった。

「…私はこれで失礼いたします。」

きよ香に耳打ちされ利津が小声で暇を告げると、久遠は一瞬鋭い眼差しを向けたが咎められることもなく座敷から下がることができた。

― 早く歳三さんに知らせないと…! ―

急く気持ちを抑え、足早に玄関へ向かおうと控え部屋の襖を空けた利津の前にはまだ座敷に居たはずの久遠が立ち塞がっていた。

「久遠はん…?お手水どしたらこちらではなくて…。」

心臓が飛び出そうな驚きを隠しながら、そろりそろりと久遠の脇を通り抜けようと試みるが、それは許されなかった。

「地方さん、また何をそんなに急いでいるのかな?僕は君に聞きたいことが沢山あるんだから、逃げないでよ。」

不適に微笑を浮かべながら、じりじりと利津を壁際に追い詰める。

「何も…私なんかが久遠さんにお話できることなんてないどすけど…。」

「…今日は逃がさない。」

久遠は壁に手をつき、利津に覆いかぶさる様に退路を塞ぐ。

間近で見る久遠の顔立ちは、歳三とはまた違う部類の端正な顔立ちだった。

歳三が研ぎ澄まされた美しさなら、彼は花開くような鮮やかさを思わせる。

「君とあの壬生狼は、どういう関係なの?」

利津の眼をしっかりと捕らえた色素が薄い薄茶の瞳に、薄っぺらな嘘など見抜かれてしまいそうだ。

壬生狼と呼ぶあたり、やはり新選組を嫌悪している。

「…何の事どすか…?」

「兄弟?それとも恋仲…にしては男が淡白かな。」

質問しながらも、久遠は利津から離れようとはしない。

利津が常に持ち歩いている懐刀に手を伸ばそうか、と思案し始めた時。

「そんな事、お前に答える必要なんざねえよ。」

利津の耳元に添えられていた腕を捻り上げながら、歳三が冷たい視線で久遠を射貫いていた。

「…また君か。無粋だな、こちらは半年振りの逢瀬だっていうのに。何故此処に、君がいるんだい?」

歳三の手を簡単に振り解くと、苦々しげに利津から離れる。

「淡白で悪かったな。局長の付き添いで送ってきただけだ。」

庇うように利津を腕に抱え殺気を漲らせながら久遠と対峙する歳三は、麗しい鬼の姿のようだった。

「こんな浅黄色の着物まで着せて、この娘に首輪でもしたつもりかい?」

新選組は巡察の際、斬り合いや視界の悪い時でも敵味方の区別がつくよう、隊服として浅黄色のダンダラ羽織を着用していた。

「…俺はこいつの兄代わりだ。お前みてえな害虫がついたら困るんだよ。」

お互い声を荒げることなく静かに対峙しているが、強い気迫のぶつかり合いは真剣での斬り合いを思わせるが如くである。

「…ふん。これ以上此処で、君と話すことは無駄だ。」

今は手を引くことに決めた久遠は、踵を返してきよ香たちの待つ座敷へと足を向ける。

「ああ、そうだ。」

思い出したように久遠が振り返り、歳三を見据えて不敵に笑う。

「今夏、都が焼け野原になるかもしれないよ。君たちに阻止できるかな…お手並み拝見といきますか。」

驚きを隠しながらも歳三が利津の顔色を伺うと、真実だと利津はこくりと頷いてみせた。

「…手前、そんな事を俺に話すなんざ、どういう料簡だ…。」

歳三は攘夷派の企む計画を自ら漏らす久遠の心中が読めないことに苛立ちを覚え、利津を抱く腕に思わず力をこめる。

「…じゃあね、地方さん。今度は邪魔が入らないよう、会いに行くよ。」

久遠は利津にひらりと手を振り、何事もなかったかのようにゆっくりと廊下の奥へ消えていった。

「京の街を火の海…?」

ぞっとするような計画を聞かされた歳三の頭の中は、既にめまぐるしく思考を巡らせているようで、固まったようにその場から動かない。

「とっ…歳三さん…痛いっ。」

「…どうした。」

「その…腕がきついんですけど…。」

身動きもできないほど歳三の腕に抱かれていた利津が、恥ずかしさで消え入りそうな声でその戒めを解くよう申し出た。

しかし歳三は悪びれる様子もなく、まだ考え事に耽っている。

「ああ…悪い。屯所へ戻ろう、今後の対策を練るぞ。」

身を反転させると料亭の玄関を早足に通り抜け、すごい速さで花街の喧騒をすり抜けてゆく。

利津も置いていかれまいと必死に後を追い、人気の少なくなった四条を過ぎた頃にやっと歳三が足を止める。

「…利津、見ろ。春の月だ。」

歳三は手でひさしを作り、眩く輝く月を愛おしそうに見つめていた。

― こんな顔、するんだ。 ―

「綺麗、ですね。歳三さんみたい。」

上がった息を整え、胸に手を当てながら深く深呼吸してみる。

美しい月と歳三の横顔を重ねて利津が思わず見惚れて呟くと、歳三が振り返り利津を凝視した。

「どちらかといえばお前だろう。特に今日は…いつもより綺麗じゃねえか。」

「ええっ?こ、これは万亭にあがるので、いつもより頑張ったというか…。」

あっさりと歳三に褒められたことに狼狽しながらも、嬉しさのあまり声が裏返る。

「あの害虫に見初められたのも無理ねえな…。ったく、兄としては気が気じゃねえぜ。」

他意のなかった歳三の褒め言葉を、少し残念に思う自分に気づかないまま、利津は歳三と並んで月を見ながら歩き出す。

「私は…久遠さんについていきませんよ。」

「知ってるさ。お前は今だって、必死に俺を追いかけてきたじゃねえか。」

まるで利津が歳三から離れないと確信しているように、穏やかな微笑を利津に向ける。

「…たまには並んで歩かせてください…っ!」

何時も歳三は深く思案した後、鉄砲玉のように飛び出してゆく。

いつもいつも、相手を追いかけてばかりいるのは、利津の性分に合わないと自分で判っている。

そんな利津は春の月に照らされた歳三の顔を見ながら、残りの道のりをずっと並んで歩いて行った。


 「土方さん…仲良く並んで歩いてくるっていうのは、感心できないんですけどねえ。」

屯所に帰るなり出迎えたのは、たすきがけに団扇を手にした総司の不機嫌そうな一言だった。

「なんだ総司。祇園祭にゃあまだ早いぞ、予行演習か?」

「祇園祭って、こんな団扇使いましたっけ?」

その見慣れない姿に、歳三と利津はお互い顔を合わせて首を傾げる。

「仲良くボケるの禁止!お二人がお疲れだろうと思って、お風呂を沸かしておきました。」

腕組し鼻息荒げて得意満面にそう言いながらも、歳三に団扇を突きつけにじり寄る。

「でも土方さんはやっぱり駄目です。役得だったんだから、使わせてあげません!」

「役得?…ああ、抱き心地は悪くなかった。」

歳三は少し思案した後何でもないことのように言ってのけると、ニヤリと意地悪く笑い草履を脱いで玄関に上がる。

「っ…そんな事考えてたんですか?てっきり何にも考えてなかったのかと…。」

抱かれていたときよりも顔を真っ赤にして、利津はその場で抗議しなかった事を後悔していた。

「だっ…抱き心地って?歳三さん、何したんですか今度は!」

「土方だってつってんだろ!もう俺は風呂入って寝るぞ、朝一で局長室へ集合するように幹部連中に伝えとけ。」

五月蝿そうに総司の横を通り過ぎ、言葉通り入浴後には即寝てしまう勢いで自室へ入っていく歳三を、総司は動揺のあまり追いかけられなかったようである。

「おおっ!相変わらず土方さんは手が早いねえ、お利津ちゃんもやっぱり美男にゃ弱いかあ。」

騒ぎを聞きつけて、玄関に程近い部屋から永倉と原田がひょっこり顔を出す。

「馬鹿、新八。お利津は初めてかもしれねえだろ、あんまり騒ぐなよ。」

「いや、永倉さん原田さん。あの、そうではなくてですね…。」

打ちひしがれている総司の隣には、いつの間にか藤堂と斉藤が立っていた。

「仕方ねえよ総司、相手が悪かったんだ。だってあの土方さんだぜ?」

そう言いながら藤堂が総司の手から団扇を抜き取って、顔を扇いでやっている。

「副長は女子にかけても、百戦錬磨の戦歴をお持ちだ。」

逆側からは斉藤が慰めにもならない言葉を総司にかけ、肩をぽんぽんと叩いていた。

「これは許婚なんて冗談が、本当になる日も近いですかねえ…?」

「それが本当なら由々しき事態だ、俺からトシにきちんと責任を取るようによく言っておこう。」

万亭での会合から戻った山南と近藤が玄関先での状況を瞬時に把握し、それぞれに思う所を口にしている。

「おい利津、風呂が空いたからお前も早く…。何してんだみんな集まって。」

早くも風呂上りの歳三が利津を探しに登場し、この異常事態に眼を丸くしている。

「聞いたぜ土方さん、お利津ちゃんとのこと!」

「聞こえちまっただけだけどな。」

「優しくしてやったのかよ!」

「…流石ですね。」

「おめでとうございます。」

皆が一斉に湯上りの歳三に声をかける。

歳三はまだ髪も半乾きのまま着流しに手ぬぐいを持った無防備な姿で、事態が把握できていない。

「お利津殿と懇ろになったのだろう?トシ、きちんとけじめはつけるべきだ!」

近藤が歳三に詰め寄ると、ほか全員もその後ろからわらわらと歳三の顔を覗き込む。

近藤の一言ですべてを理解した歳三は、自身が発した言葉を反省しつつも、風呂上りのほてり顔をさらに上気させて真実を話した。

「庇って腕に抱いただけで…別にやましい事はしてねえ!」

「そ、そうですよ。歳三さんがそんなことするわけないじゃないですか!」

やっと聞き入れてくれそうな雰囲気に乗じて、利津も慌てて否定する。

「なんだよ、誰だ早とちりしたの!」

「お前だろ?」

「良かったな総司…ってわかんないけど。」

「副長は心得ていらっしゃる。」

「残念ですねえ…。」

「ああ、非常に残念だが。トシも大人になったのだなあ…。」

真実がはっきりするとあっという間に全員が解散し、当初の三人だけが取り残された。

「ったく何だってんだ…おい総司!利津が風呂に入るんだから、ちょっと見張っててやれ。」

未だ地蔵のように立ち尽くしている総司に、歳三が目の覚めるような言葉をかけてやると、みるみる顔に血の気が戻ってきたのが見て取れる。

「沖田さん、お願いします。」

利津も総司なら安心できると言い、総司の背中を押して風呂の方向へ歩き出した。

「う…うん。そうだよね、永倉さんとか来たら心配だもの。」

「念のため、ですよ。では歳三さんお休みなさい。ちゃんと髪、乾かしてくださいね!」

まだぎこちなく歩いている総司とそれを宥めながら歩く利津を見送った歳三は、思わず苦いため息を漏らした。

「…あいつのせいで気がたってたのか、俺は。」

歳三はその夜、春の月が照らす庭を眺めながら、答えの出ぬ自問自答を何度か繰り返して床についた。


 祇園祭まで残すは数日、じりじりと焼け付くように太陽は容赦なく大地を照らす。

京の夏は江戸出身の試衛館一派を、じわじわといたぶっていた。

「お利津ちゃん…僕もう食べられない…。」

そう力無く呟くと、総司が水羊羹を三つ食べ進めたところで手を止めた。

「ええっ?沖田さん、どこか悪いんじゃありませんか?お医者様に見ていただきましょう。」

縁側で盥に水を張り、脚を浸けて涼みながら利津の姉が差し入れに持ってきてくれた水菓子を食べていたのだが、総司の様子が何時もと違う。

「何か食欲なくて…巡察まで昼寝してくる…。」

重そうな足取りで裏庭へ消えてゆく総司を心配そうに見つめている利津に、通りすがりの近藤がそう心配するなと声をかけた。

「総司は昔から暑さに弱くてなあ。特にこちらの夏は江戸とは比べ物にならないから、参っているんだろう。」

「暑気負けで動けない隊士の方も、多いみたいですね…。」

東国出身者の多かった新選組隊士は、盆地特有の気候に翻弄され、体調を崩す者が多く見受けられた。

「山南さんの腕にもあまり良くないだろう、この暑さでは…。」

会津藩御預となった頃に起きた不逞浪士との切り合いで、山南は左腕をひどく負傷していた。

辛うじて傷口は塞がったようなのだが、時に握力が弱くなることが見受けられ、此処最近それが顕著になってきた。

「それなら今日は何か精がつく様なものを、食事にお出ししますね。」

「そうかい?ありがとう、よろしく頼むよ。」

近藤がゆっくりと大きな溜息をついた所に、町人体の監察が何やら報告に現れた。

「局長!ああ、お利津さんもいてるんですな。こりゃ丁度良い。」

「山崎君。ご苦労だったね。」

歳三が大坂で見つけてきたこの好青年は、人懐こい笑顔が得意だが印象に残らないという監察として天賦の才を持つ人物だった。

ある時は大富豪、ある時は行商人や髪結い問屋だったりもする。

変装ばかりしているので、利津が街中ですれ違っても見抜ける自信は全くない。

「私ですか?最近お座敷にも出てないから、お役に立てますかね…。」

利津は久遠との一件で、歳三から暫くお座敷禁止令が出ているのである。

祇園界隈の動向は斉藤が聞き込みを行い、お座敷での密談に関してはきよ香に一任し、利津へ文を届けてもらう様手筈を整えた。

きよ香が何故そこまで新選組もとい幕府側への協力を惜しまないのかという疑問は感じたが、今の状況を鑑みるとそのようなことを考えている時間さえ惜しかったのだ。

「とりあえず、副長室で土方さんがお待ちですさかい。」

山崎に促され、近藤の後に従い副長室に向かう。

「トシ、入るぞ。」

「ああ。」

肩幅の広い近藤の後ろからひょっこり中を伺うと、歳三の傍に斉藤ときよ香が通されているのが見えた。

「姐さん!」

「お利津ちゃん、久しぶりどすなあ!少しやつれたんと違う?」

何やかや雑用させられとるんやろ…ときよ香が疑惑の眼差しで歳三を見遣る。

「そんな事無いですよ、ほら私江戸の生まれなのでこちらの暑さには弱くて…!」

利津は慌てて手を振って、歳三及び新選組への疑念を全力で否定した。

「きよ香殿。確かにうちは男所帯でお利津さんに大分助けられてはいるが、ぞんざいになど扱っていないことは私が保障しますよ。」

近藤が穏やかな笑顔で利津の扱いを確約すると、きよ香はほっとした様に言葉の棘を無くす。

「まあウチも会津の生まれどすから、この暑さに慣れるのに数年かかりましたけど。」

「そのわりに、訛りに違和感が無いな。」

歳三が疑われた仕返しといわんばかりの質問を投げかける。

「副長、彼女の身元は俺と容保様が保証します。どうかそのような詮無きお言葉は…。」

珍しく斉藤が歳三に強く進言すると、歳三が苦笑しながら頷いた。

「…あの、どういう意味でしょうか…?」

あまりに素直に受け入れる歳三と『容保様』という単語に、利津は恐る恐る疑問に思うことを口に出した。

「彼女は会津藩主であり京都守護職、松平容保様が側室佐久様の命を受けている間者だ。」

斉藤がさらりと身元を明かすと、きよ香は主人から下賜された懐剣を取り出す。

「これは、葵の紋。」

将軍家並びに御三家にしか許されない葵の紋が入った懐剣が、きよ香の身の上を何よりも表していた。

思わず近藤の口からも、感嘆の声が上がる。

「斉藤に聞くまでは、俺も怪しんでたんだがな。」

歳三も葵の紋を目の前にし、顎に手を当てながらまじまじときよ香の懐剣に見入ってしまう。

利津は歳三の隣で驚きのあまり、懐剣に刻まれた紋を凝視したまま口をぱくぱくさせていた。

「お利津ちゃん、堪忍な。まさかあんたが新選組と関わるなんて思いもせえへんかったから。」

座敷と違い、普段より薄化粧のきよ香が驚いている利津の顔を見ながら、少し申し訳なさそうに言葉を濁す。

「いえ、あの…私なら大丈夫ですから。本題に…。」

利津は何とか状況を飲み込もうと冷静さを取り戻すために深呼吸し、きよ香に微笑みかけた。

「そうだな。山崎君、斉藤君、報告を頼む。」

そう近藤が切り出すと、丁度良い具合に総司が人数分のお茶を淹れて現れた。

まるでどこかで聞き耳でも立てていたのではないかという位だ。

「とりあえず結論から言いますと、長州の奴等が良く出入りしている場所を特定できました。」

「怪しいんは、四条で炭薪屋をやっている桝屋ですわ。」

「うちが聞いたところによると、何やら桂はんも幾度か出入りしとるようどす。」

それぞれの話を腕組してじっと聞きながら、目を閉じていた近藤が暫く思案した後、言葉短く歳三に同意を求める。

「…トシ、今晩にでも。」

「ああ…総司、お前は誰が良いと思う?」

「そうだなあ…僕って言いたいところですけど、体調も良くないし。悔しいけど永倉さん、かな?」

歳三の顔を覗き込みながら、その心の内を察するようにニコニコと永倉を指名した。

「よく分かってんじゃねえか。利津、新八呼んできてくれ!面白くなってきやがったぜ…。」

いつもの涼やかな歳三の瞳が、獣のようにぎらりと光る。

利津はその先のことを思い巡らせる彼に、少なからず畏怖を感じてしまったのだった。


永倉へ歳三からの伝言を伝え、勝手場でお茶のお替りを淹れていると、白い腕がすっと茶碗を差し出した。

「お利津ちゃん、堪忍な…?」

手伝いがてら様子を見に来たきよ香が利津の肩に手を置き、謝罪の言葉を口にする。

「いいえ、姐さんには京へ来たときからお世話になり通しで…。謝られるような事は、何も。」

きよ香に向き直りその手を握ると、利津は思いが伝わるようぎゅっと力を込めた。

「お利津ちゃんはほんまに、ええ娘やなあ…。だから皆心配しはるんやね。」

「私、そんなに頼りないでしょうか…?もっと役に立ちたいのに、皆さんに助けて頂いてばかりで。」

利津はしょんぼりと肩を落とし、お茶の葉を急須へ入れながら溜息をつく。

そんな様子を見て、微笑したきよ香が利津を諭すように続ける。

「お利津ちゃんは、もう新選組の為に生きるのを決めはったんやね。」

「え…?」

利津にとっては思いがけない言葉に、ついお茶を淹れるはずの手が止まる。

「家まで出て、お座敷で危険な橋まで渡って。まだ自分は役立たたずやなんて、それ以外何か理由があるん?」

「私は…兄を探したいんです。だから、その手がかりを得るまでは…って。」

「へえ、ほんならお兄様が見つかったら、此処から去るつもりなんや?」

「それは…」

きよ香の核心に迫る問いに、利津は言葉に詰まってしまう。

沈黙の間、暫くふつふつとお湯が煮立つ音だけが勝手場に響いていた。

「この謀反を新選組が阻止しはったら、間違いなくあのお方は修羅の道に身を置く事になる。討幕派の目の仇やから、勿論命も狙われる。」

淡々とこれから起こりうる現実を予言するように、きよ香が言葉を重ねる。

利津は身動ぎせず、ただ自分の襟元をぎゅっと掴みながらその言葉を受け止めていた。

「…きよ香、そう急かすものではない。お前と同じ決断を彼女に今強要するのはやめろ。」

様子を伺いに来たと思しき斉藤が、利津ときよ香の間に割り入って話に歯止めをかける。

「副長は彼女を巻き込みたくないとお考えだ。無論、彼女に協力する意思がある限り隊には残れるが。」

あくまできよ香に言い聞かせるように言ってはいるが、斉藤の視線は利津に向いていた。

「私…今は歳三さんや沖田さんの傍にいて、何か力になりたいんです。覚悟はまだ決められていないのかも知れないですけど。」

この気持ちが何なのか利津にはまだ整理がつかないこともあり、言葉にすることが難しい。

だが誠の信念を持った新選組や歳三と共に、一員として彼等を支えたいという思いが今の原動力なのは間違いなかった。

「今はそれで十分だろう。利津殿が隊にとって大事な一員なのには変わりない。」

「…斉藤はんがそう言わはるなら。ウチはお利津ちゃんに辛い思いをして欲しくないだけなんよ。」

きよ香はそう言うと伏目がちに、すっかり沸騰したお湯を入れ替え急須に注ぎ込む。

茶葉を蒸らす時間は、つかの間の沈黙で静まり返った。

「あの…姐さん。私は大丈夫です、何かあったらすぐ姐さんに相談しますから。」

利津が遠慮がちに沈黙を破ると、きよ香もこくりと頷き利津を抱きしめる。

「…梅の香りがするなあ。」

「ああ、匂い袋です。歳三さんに戴いたものを身につけているので。」

利津は懐からかわいらしい袋を取り出し、手のひらにころんと乗せて見せた。

今も尚凛とした香りを振りまく匂い袋は、彼女のお守りのような存在になっている。

「白梅ね…副長さんもお利津ちゃんのこと、こういう娘だと思ってはるんやろな。」

きよ香は少し驚いたような表情の後くすくすと意味深に笑い、ぽんぽんと利津の肩を撫でてやった。

当の利津は何のことやら分からないという顔で、お茶を茶碗に注ぎつつ首をかしげている。

「何か可笑しいのか?さあ、きよ香は置屋へ帰るといい。俺が送ろう。」

黙ってそのやり取りを見ていた斉藤が、やはり意を解していない様子できよ香に声をかけた。

元来斉藤は表情が乏しいこともあり、利津には動じていないように見えていたのだが。

「斉藤はんには難しおす。ほなお利津ちゃん。またお座敷でな。」

きよ香はひらりと手を振って、面白いものを見つけたような気持ちで斉藤と共に屯所を後にした。

屯所の門をくぐり、待ちかねたようにきよ香が斉藤に問う。

「なあ、土方さんのお好きなお花って何か知ってはります?」

「…確か白梅だが。」

そんな事江戸以来の同志なら誰でも知っていると付け加えるが、斉藤はこの類の質問を解するような男ではない。

「ふうん…面白うなってきたわ。」

斉藤はまたしてもくすくすと笑い始めたきよ香を見て、怪訝な顔をしながら眉を寄せるのだった。


―桝屋 喜右衛門捕縛―

祇園祭宵山にあたる日の早朝、新選組は丸太町の桝屋を急襲し、大変な成果を挙げた。

倉庫には武器弾薬、長州浪士達の連判状など危険極まりない証拠が山のように発見されたのである。

朝から屯所でも喜右衛門を連行し、情報を聞き出そうと緊迫した時間が流れていた。

騒がしい屯所の異変に気づき、利津が目を覚ます。

朝稽古が終了したにしては早すぎるし、この緊迫した空気は明らかにおかしい。

「利津、入るぞ。」

「え、あ…はいっ!」

何が起きたのか考える時間も与えられず、起き抜けの利津は条件反射でつい返事をしてしまった事に後悔した。

「そのままでいい、聞け。」

ぴしゃりと障子を閉め、既に着替えを済ませた歳三が部屋へ現れる。

利津は夜具の上に寝巻き姿で正座するのが精一杯で、部屋に足を踏み入れた尋常でない歳三の様子に気圧される。

「今朝方桝屋を急襲した。主人を捕縛して今から情報を聞き出す。土蔵にお前は絶対近づくんじゃねえ。」

今までに無いほどの剣幕で捲くし立てる歳三の顔には隈が出来ており、瞳からは穏やかさなど消えて無くなっている。

「は…い。わかりました…。」

利津は心配ではあるが大人しく承諾し、歳三の冷たい表情からこれから何が起こるのかを読み取ることが出来なかった。

「お前は総司の様子でも見ててくれ。俺が呼ぶまで、俺のとこには来るな。」

利津の枕元に置かれた梅の匂い袋が歳三の眼に入る。

ふっと一瞬眼を細めたが、部屋を出る時にはもう既に元の強張った顔に戻っていた。

そんな歳三を見送り、利津は急いで身支度を整えると、総司の部屋へ向かう準備を始めた。

「沖田さん、朝餉をお持ちしました。」

「んー…やっぱり食欲が無いんだよね。」

少し顔色の悪い総司が、四つん這いになって自室の障子を開けて利津を迎え入れる。

辛うじて着替えてはいるが袴は穿いておらず、珍しく着流し姿で机に向かっていた。

「そんなこと言わないで下さい、おじや作ってきましたから。」

利津の手にある御盆に小さな土鍋が乗っており、ほかほかと湯気を上げている。

「…卵入ってる?」

美味しそうな香りの漂う土鍋を横目でちらりと確認すると、総司が子供のように首を傾げて問いかける。

「もちろんです!」

この機会を逃すまいと、利津は鍋の蓋をすかさず開けて総司に突き出した。

その勢いに押されたのか利津の料理の良い匂いにつられてか、もぞもぞと姿勢を正し総司が畳に座りなおす。

「食べるー…」

総司は机に置かれた手紙と思しき一式を脇に寄せ、利津から御盆を引き取ると匙でそっと口に運び始める。

「それ、お手紙ですか?」

食後のお茶の用意をしながら、利津は無造作に片付けられた書類が気になり、おじやの熱さと格闘している総司に聞いてみた。

「ん、それ姉さんに近況でも知らせようかと思って…あち!」

猫舌な総司は姉の面影を持つ少女の作った食事をちびちびと食べ進めつつ、真っ白な紙をはためかせてうーんと唸る。

総司に与えられた部屋は裏庭に面しており、取調べが行われている土蔵や玄関先の喧騒は届かない。

何でも夜物音がすると誰彼かまわず抜き身で切りかかる悪い癖があるから、あいつは静かな部屋に置いておく…と永倉や原田辺りから聞いた様な気がしたが定かではない。

「書く事が思い浮かばないんですか?」

「うん、何か書く事が起こればいいんだけどねえ…。今日は朝から騒がしいし。」

流石に自分もそろそろ土蔵に向かわねばいけないかな、と言って食べる手を止めて溜息をつく。

やはり具合が良くないようで、半分以上鍋の中身は残ったままだ。

「沖田さんは行かなくていいんですか?組長以上の皆さんは、全員あちらにいるみたいですけど…。」

先ほどの歳三の様子から推測するに相当な大捕り物であったことは間違いないのだが。

新撰組の精鋭部隊である一番隊組長のこの青年は、暢気に郷里への文の内容に頭を抱えているのだから、全くおかしい話である。

「僕、行っても戦力にならないと思うんだけど。出来るのは人を斬ることだけだし…。まあ一番隊組長としては、顔出さないわけにもいかないよね。」

「あのう…土蔵ではいったい何が行われているのですか?」

言葉とは裏腹に、ごろんと畳に大の字で横になってしまった総司の顔を覗き込みながら、利津が疑問に思っていたことを素直に口にする。

歳三では答えてくれないだろう、総司なら率直に答えてくれるに違いない…と思い、聞いてみたのだ。

しかし思惑は外れ、総司はあまり気乗りし無そうにむくりと起き上がって利津の眼をじっと見つめて動かない。

まるで何かを推し量っているかのように、利津の瞳の奥を透かして見ているようだ。

「…沖田さん?」

その視線に耐えられず、正座をして身体を硬直させたままの利津が振り絞った声で総司に呼びかける。

「ん、お利津ちゃん。今おにぎり何個作れる?僕も手伝うからさ。」

利津は脈絡の無い総司の会話に面食らいつつも、釜に残っていた米の量を急いで思い出す。

「ええと、二十は作れるかと思いますが…。」

総司はそれを聞きながら指折り数えて、うん大丈夫と頷くと利津の腕を掴んで立ち上がった。

「じゃ、一緒におにぎり持って土蔵に行こうか。早く早く!」

先ほどまでの元気の無さはどこへ行ったのか、総司はぐいぐいと利津を引っ張って台所までの廊下をずんずんと進んでゆく。

台所に着くと、意外な手際のよさで総司がおにぎりを作る支度を整え始めた。

総司の言動に惑わされながら、利津はふと歳三に忠告されていた言葉を思い出し、慌てて総司に向き直る。

「でもっ、私歳三さんに土蔵には近づくなって言われていて…!」

「大丈夫、土方さんはちょっと過保護なんだよ…。心配しないで、お利津ちゃんが怒られたりはしないから。」

そんな顔してないで早く手伝ってと言いながら総司がご飯を握り始めたので、納得はいかないが一緒におにぎりを作り始めた。

手際のよいもの同士での調理は、あっという間に二十数個のおにぎりを完成させることが出来た。

「さて、と。じゃあ陣中見舞いがてら持っていこうか。」

大きなお盆に所狭しと並べられた結構な重さのおにぎりたちを、総司が軽々と持って利津の前を歩いてゆく。

一見したところ剣豪としては華奢な体躯であっても、愛刀よりはるかに軽いのであろう。

「あ、ひと段落したみたいだね。拷問。」

丁度土蔵から数人の隊士と歳三が出てくるのが見えた。

「拷…問?」

こちらに気づいた歳三が、憔悴しきった顔でこちらへ向かってくる。

「うん、拷問。なかなか口を割ってくれない人には、そうするしかないよね。」

なんでもないことの様に、総司の口から同じ言葉が繰り返される。

「拷問って…誰がそんな事…」

「俺だが。」

鉄の匂いがしたかと思うと、汗と血に塗れた顔の歳三が利津の目の前に立っていた。

「お疲れ様でした、土方副長。」

そう言うと微笑した総司が歳三に手ぬぐいを手渡し、珍しく労いの言葉をかける。

「ちっ、お前だけ逃げやがって…体調はどうなんだよ。」

「まだまだ本調子ではないかな、切れて十人がいいとこ。突くだけならいくらでも。」

舌打ちしながら手ぬぐいを奪うように受け取り、やっと利津に気づいたのか、一瞬驚いたような表情から厳しい表情へ変わり、総司を睨みつける。

「おい、何でこいつが此処にいる…。」

恐らく総司以外の人間では、この殺気の籠められた怒気を発する歳三の前では、震え上がってしまうに違いない。

「隊務見学です。僕の独断で連れてきました。」

「こいつが知らなくて良い事だ!」

「僕はそうは思いません。知っておいたほうがいい、此処がどういう組織なのか。」

珍しく冷静さを欠いている歳三と、普段と違い冷静な総司の言い合いは続く。

「利津には、駄目だ。」

「不逞浪士を逆さ釣りにして足の裏に五寸釘を刺した挙句、蝋燭まで立てた人が何甘い事言っているんですか。」

まるで土蔵内部を見てきたかのように言う総司の襟を、歳三が殴り掛かるように掴み寄せた。

「今そんな言い争いをしている場合ですか?何か情報が掴めたんじゃないですか?」

暫く睨みあったままの二人であったが、利津の言葉にお互いが我にかえる。

「…今晩不逞浪士による大規模な集会があるらしい。」

「場所は?」

「四国屋か池田屋。いけるか総司。」

「当然。二手に分るなら、僕を近藤先生の方に。」

「わかってる。おい、利津!」

「ひゃ、はいっ!」

二人の素早い会話を聞き逃すまいと、耳を近くでそばだてていた利津は不意に名前を呼ばれてびくりと肩を震わせた。

「お前も来い、しかし原則本陣を張る祇園会所から動くな。」

「副長命令だよ。」

有無を言わさず二人が言葉を畳み掛けるが、もちろん利津とて断る理由などない。

「承知しました、すぐお支度整えます!」

二人の戦支度を整えるべく利津が動き出そうとした時、いつもの総司が戻ってきた。

「じゃ、土方さんとりあえず腹ごしらえでもどうですか?腹が空いては何とやらって言うでしょう?」

にこにこと傍の縁側においておいたおにぎりを差し出した総司の眼が、一瞬だけ輝く。

「おお、まあそれもそうか。」

手渡されたおにぎりを口に含んだ歳三の動きがぴたりと止まる。

絶対に何かある、と感じた利津の予感は的中した。 

「総司…てめっ…なんだこれは!」

歳三はむせながら、辛うじて総司の頭にげんこつを当てることが出来たが、かなり苦しそうである。

「いったあ!塩むすびですよ。」

「中に塩入れる奴がどこにいるんだよ!」

どうやら総司の塩むすびは、具が塩だったらしい。

「ここにいますけどー、歳三さんのだけですよう。」

こんな時にも兄弟のようにじゃれ合っている二人を見て、緊張していた利津の気持ちも少しだけ和らいだのだった。


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