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―三弦の調べ―


*プロローグ*


此処は桜舞い散る京の都、東山。

数ヶ月前までの俺達に、今度の春は清水寺で花見するのだと教えてやりたい。

しかし折角京都での花見だというのに、自分は眉間にしわを寄せて桜が憎いのかと思うほどの仏頂面をしている。

もっと晴れ晴れとした気分で、隣には綺麗な女子と桜見物…と洒落込みたかったのだが。

「ねえねえ歳三さーん、ほら見て、見てくださいってば!」

片手にみたらし団子、腰には二本差しの若い青年が手招きをしてはしゃいでいる。

騒がしい…やっぱり一人で見物に来ればよかったと、歳三は早くも後悔した。

「総司うるせえ!団子振り回すな…っておい、羽織にみたらし付けてるじゃねーか!あと浪士組になってからは土方って呼べって言っただろ?」

「わかってますよぅ…土方さんはすぐ怒るんだから…いやー本当に絶景ですねえ、姉さんにも見せてあげたいなあ。」

総司と呼ばれた青年は、羽織に付いたみたらしを指で舐めながら清水の舞台から遠くを見つめ、目を細めている。

「ミツさんを連れてきたら、ここから飛び降りてみるなんて言い出しかねないな。」

観音信仰をしている人々は、ついこの間の時代までここから飛び降りていたらしい。現在はそれが禁止されていてよかったと思う。何せこの隣の青年もミツという姉に似て、そんな無鉄砲なことを平気でやって

しまう人間だからだ。しかも性質が悪いことに、頑として決めたことを貫き通す。それは、歳三自身にも

言えることなのだが。

「そういえば、今日も芹沢先生はどこかに無心に行ってるんですかねえ。」

歳三の眉間の皺がより一層深くなる。それを見た総司は正解だと確信し、にんまり笑ってみせた。

「押し借りってのがまた気にくわねえなあ…つか、その顔なんとかしやがれ!」

考えていたことを言い当てられ、その笑顔になんとなく嫌味を感じて総司の頭を一発叩いてやった。

「いたっ、近藤さんに言いつけてやりますからね!あとミツ姉さんにも!」

団子をもちゃもちゃ噛みながらも、その顔は先ほどの朗らかな青年とは違う真剣な面差しになっている。

「芹沢さん、なんか最近頭の螺子が飛んじゃったみたいにおかしいですよね」

「もともと螺子なんざねえだろう、あの男に。まあ確かにやりすぎなのは中将様の耳にも届いちまってるみたいだからな…」

中将というのは、歳三と総司の所属する【壬生浪士組】の雇い主である、会津藩藩主松平(肥後守)容保のことである。

「京の安全を任されてるのに、強盗まがいなんて外聞悪すぎやしませんか、とし…じゃなかった、土方さん?」

「悪いに決まってらあ!ただでさえ浪士組は金がなくて金子を借りてるのはお前も知ってるだろ?」

深くため息をつき、気持ちを落ち着かせて桜を見遣る。苦い思いが桜を色褪せて見せるのか、歳三の心には故郷の桜ばかりが美しく花を咲かせていた。


 「それでは姉上、お届けに行ってまいります。」

清水寺近くに位置する茶わん坂、清水焼の窯を持つ工房が軒を揃えている一角で、江戸訛りの娘が、ぴょこんと店先から飛び出てきた。

両手に風呂敷包みを持ち、黄色格子の着物の袖をたすきがけ、足早に坂を下ってゆく。

その彼女の背を、路地の間から数人の男が尾行していた。声をかける機会を窺っているようである。その気配を察知した娘は、くるりとその方向に呼びかけた。

「…影みたいに後を付いてきたって、お座敷には出ませんから!」

その声を合図にしたように、浪人体の三人が路地から出てきて、彼女を囲む。

「俺たちの頭領がお前の三味線を聞きたいのだそうだ。今夜だけでも付き合ってくれぬか。」

「お断りします。尊王攘夷の方々のお話を聞くのは大嫌いですから。それに私は仕事中ですし。」

娘がつんと顔をそらす。

浪士たちは取り付くしまもない返答に一瞬面食らったようだったが、再三断られているのか今日は痺れを切らし強引に連れて行こうと彼女の細腕を掴む。

娘が身をよじってかわそうとしたその時。

「おい、こんなまっ昼間から人攫いでもしようってのか?」

低い声がすると同時に、一人の仲間が地面に尻餅をつく。

娘との間に割り込んだ眼光鋭い整った顔立ちの男からは、凄みというよりも殺気を感じる。こちらも浪人でありそうだが、明らかに雰囲気はこの三人と違う。

「そなたには関係ないことであろう、去れ。」

「嫌がってる女子を、はいそうですかと引き渡せるか。」

漆の様な髪をした美男の背中にかばわれ、浪人らが鯉口を切ろうとした時、場の空気をひとつも解していない、のんびりとした声がかけられた。

「あれっ、土方さん。姿が見えなくなったと思ったら逢引ですかあ?」

お土産のような風呂敷包みを持って、飄々とした青年が坂を下ってこちらに向かってくる。

「…総司、団子持っててやるから。」

「はいはい、人使い荒いですねー」

風呂敷を土方という男に渡し、受け答えるや否や。総司と呼ばれた青年の刀が宙を切り、目にも留まらぬ速さで次々と浪人の腰紐を斬っていった。

「大丈夫大丈夫、皮は切れてないから。紐だけだよ。みっともないから早くお帰りー」

袴を押さえて逃げ帰る三人を、総司と呼ばれた青年は手を振り見送っている。見事に腰紐だけが切れていた。負傷者はいないらしい。

「あの…ありがとうございました。」

娘は深々とお辞儀をし、お利津と名乗って歳三と総司に向き直る。

「んん?なんか姉上に似てますね、お利津さん。」

「…そうだな。怪我はないか?これからどこへ行くつもりだ。」

総司の姉、ミツにどことなく似ている利津を目の前にして、いつも口数の少ない歳三もつい世話を焼きたくなってしまう。

「壬生まで、湯飲みとお茶碗を届けに。何でも壬生浪士組の屯所でご入用とか。」

「あははっ、じゃあちょうど良いから僕が壬生まで持ちましょう。はい、土方さんはこっち持って。お利津さんはこのお団子持ってくださいね!」

利津が両手に下げていた風呂敷を引き取り、総司は先にさっさと歩き出す。

「あのう…?」

お土産にしてはちょっと重い風呂敷を抱え、利津はおずおずと歳三の顔を覗き込む。

「俺は土方歳三、あれは沖田総司。俺達はその浪士組の一員。」

「ああ、だから江戸訛りなんですね?」

久しぶりに聞いた江戸訛りの響きに、利津は嬉しくなった。京の人々も良くしてくれるが、やはり歯切れのいい郷里の訛りには別格のものがある。

「あんたも江戸の人間だろう。きっぱりしてるしいい女だ。俺は江戸の女子には弱いからな…」

冗談なのか本気なのかわからない言葉をその顔で吐かれると、気の強い利津もさすがに顔が蒸気する。

「土方さんって意地悪ですね…」

その言葉に歳三は、八重歯を見せてにやりと笑ってみせた。



 「ふわあ…ここが壬生浪士組の屯所ですか。」

屯所とは名ばかり。隣には畑と壬生寺、名主である八木さんのお宅に間借りしている現状を目の当たりに

し、利津は少々困惑していた。

会津藩お預かりの屯所、と聞けばもっと立派なものを想像していたのだが。

「びっくりしたか?まあ、茶でも飲んでけ。」

歳三はあっけに取られ門前で呆けている利津を、苦笑いしつつ手招きする。

「そうですよ。お団子もあるし、一緒に食べましょう。」

二人に進められるがまま利津が玄関で草履を脱いでいると、小柄な青年が迎えに出てきた。

「おっ土方さんおかえり…って、もう女?ぐわー」

その声に反応して無精髭を生やした男性と、歳三とはまた違うタイプの美男が玄関に走り出てきた。

「何なに平助、女?うげっ…京でも土方さんばっかり!」

「どうどう新八、でも確かにかわいいからムカつくな。」

あっという間に玄関に人だかりができてしまう。しかし、とても強い絆があるのだろう。厭味には聞こえず、じゃれあっているような言葉の応酬は聞いていて気分の悪いものではなかった。

「利津がびっくりしてるだろうが。このチビが藤堂平助、不精髭が永倉新八、切れ長目なのが原田左之助。みな江戸から一緒に来た浪士組の仲間だ。」

困惑、はたまた呆れているような顔をしているが、歳三の声には優しい声色が混じっている。心から信頼している表れだろう。

「おやおや、土方君。新しい許婚に僕のことも紹介してくださいよ。」

そんな中また一人、くすくすと笑いながら物腰穏やかな男性が本を抱えて現れた。

「い…許婚っ?違うんです私はあの、この焼き物をお届けに来ただけでっ…」

「からかわないでくれ。山南さんだ。一緒に茶でもどうだい。」

急に許婚などと言われて慌てた利津に、歳三はぽんぽんと頭を撫でてやる。やっぱりいい女などといっておきながら、内心は子ども扱いしているとしか思えない。

「そうですね、本を片付けたら広間に行きますよ。ごゆっくりお利津さん。」

中庭に面した広間に通されると、ちょっと不機嫌そうに総司がお茶を用意してくれていた。

「どうしてみんな彼女を土方さんの女子だって決めつけるんですか。僕だってお利津ちゃんを助けたのにっ!」

「そりゃあ、お似合いだからだろ。土方くんは美男子だからねえ。」

にこにこと座布団を出してくれたのが井上源三郎さん。やはり江戸からの同志らしい。

みんな団子を食べながら、興味津々と行った顔で利津をちらちら見ている。その雰囲気に耐えかねたとき、強面の男性が入ってきた。

「おおっ、ご苦労様。君がお利津さんかあ。いや本当にかわいらしいなあ、ははは!」

見た目とは裏腹に、笑顔全開で話しかける。とても無骨だが、憎めない人物にみえた。

「近藤さんまで利津が気に入ったのか?まったく、どうする利津。」

苦笑しながら着流しに着替えてきた歳三が、至極当然のように利津の隣に座った。総司は牽制しようと睨んでいたのだが、当の本人はそ知らぬ顔だ。

「これで浪士組は全員なのですか?」

利津は続々と広間に集まった幹部と思わしき人々をぐるりと見回し、局長の近藤に問いかけた。

「いや、道向かいの前川邸にも数名いてね。こちらは私のやっていた試衛館道場の仲間だ。」

前川邸の話になると、近藤の声が低くなる。他の幹部も、あまりその話題には乗り気ではないようだ。

何か語りたくない問題があるのだろうかと思案していたら、襖が音も無く開いた。

「…巡察から戻りました…副長、またですか。」

その男性は座ると、無表情に利津をじっと見つめる。静かな瞳で穴が開いてしまうのではないかというくらい見つめられると、どうしていいのかわからなくなる。恥ずかしいというよりも、蛇に睨まれた蛙になった気分である。

「また、ってのはなんだ。江戸のときはただ女が勝手についてきただけだろ。」

「お利津ちゃんは焼き物を届けにきてくれたんだよ、一くん。」

平助が斎藤の団子を差し出しながら手短に説明してくれた。事を理解した斎藤の視線からは、ふっと殺気のような威圧感が消える。

「勘違いして申し訳ない。では副長の女子ではないのですね。」

甘いものが嫌いなのか、じっと見つめてしまった侘びなのか。団子をさりげなく利津の皿に移し替えながら、利津からまだ視線は外さない。

―品定めされている気がする…―

「俺のものじゃないなら何だ斉藤、気に入ったのか?」

不意に発せられた意味深な歳三の言葉に、その場の全員が一斉に斉藤を見る。利津はもうだいぶ前から会話の蚊帳の外だ。

そんな様子を気にすることも無く、近藤と井上、山南はお茶をすすっている。総司に至っては、返答によって斉藤にお茶をぶちまけそうな勢いである。

「俺は立候補するけどなー」

「左之さん、俺も俺もっ!」

「僕に試合で勝ってから言ってくださいよ。左之さん、藤堂さん!」

本当に庭先に出てしまうのではないかと気を揉んでいる利津に、山南が助け舟を出した。

「お利津さんは江戸の方のようですが、何故京に?」

「はい。姉の嫁入りについてきてこちらに。」

「ご両親は江戸でご健在なのですか?」

「両親は他界しました。兄がいるのですが、家を出て行ったきり戻らなくなって…手がかりも無いもので。」

ただ居候しているわけにもいかないため、特技の三味線でお座敷に出ていること、兄を今でも探していること、厄介な客に巻き込まれそうになった際に歳三と総司が助けてくれた

ことなどを簡単に話した。全員がそれぞれに耳を傾けてくれ、近藤さんは生い立ちを話していた時などは目にうっすらと涙まで浮かべていた。

近藤の顔に似合わず涙もろい部分や隊士同士の固い絆を感じて、利津は壬生浪士組に好感を持った。人切り集団と揶揄されている浪士組の局長にも、きちんと血が通っているのだ。意味も無く人を切るような人々ではない、と。

日も暮れかかってきたので、そろそろ帰ろうと立ち上がった利津を、歳三が送っていくことになった。総司は巡察当番のため同行できずに最後まで駄々をこねていたが、利津がまた遊びに来るというと渋々承諾したのだった。

「残念だったなあ総司、巡察頑張ってこいよ。」

「くっ…土方さんには気をつけてくださいね、絶対ですよ。僕もまた遊びに行きますから。」

本当に残念そうに心配している総司が子犬のようで、歳は上でも弟のように見えてしまうから不思議だっ

た。

「お姉さんに似ているからって、そんなに心配しないで下さい。」

「おい、俺に気をつけるってのは聞き捨てならねえぞ。利津も否定しろよ。」

玄関まで見送りに来てくれた隊士にお辞儀をすると、うつむき加減で歳三の影を踏むように家路につく。この時代はまだ男女が横並びで歩くことを許されない時代である。まだ十六で嫁入り前の利津には、相当な気恥ずかしさが伴った。ましてやこの美男と連れ立って歩くこと自体、かなり目立ってしまうのだ。

誰かに見られちゃったらどうしよう…。

そんなことがグルグルと利津の胸中を渦巻いていた、その時。

歳三が急に立ちどまり、利津はその背中に思いっきり顔面をぶつけた。

「いった…土方さん…?」

鼻を押さえながら歳三を見上げると、眉間に皺のよった顔でそっと背中にかばわれ隠される。

「おお、土方くんか。君も遊びに来たのかな?」

体躯のいい浪人と数人の取り巻きが、鉄扇を開いたり閉じたりしながら声をかけてきた。

此処は祇園、京では島原に次ぐ花街である。沢山の人々が物見遊山でこの街にやってくる。特に近頃は尊王攘夷を謳う浪人の会合にお座敷が使われることも多く、さまざまな国の人間が出入りする情報のるつぼでもある。

「いいえ、今日は野暮用です。芹沢先生は随分とお酒をお召しのようだが…」

「ははは、芹沢先生ともなると、これくらいは何ともないのだよ。下戸でも土方くんは女子に好かれますからな。その背中に影みたいにくっついている娘とか。」

「これ新見、そのような野暮なことを申すでない。では今宵もそれぞれに楽しもうではないか、またな。」

酒の香りを周囲に撒き散らしながら、巨漢の浪士は路地の奥に消えていった。歳三は苦虫を噛み潰したように顔を歪ませ、ただ見送ることしかできないようだった。その表情はあからさまに嫌悪感を抱いているに違いなかった。

「いくぞ。」

不機嫌に思い切り腕を掴まれ、二人は足早に祇園界隈を歩き抜ける。利津も住居に程近いこの祇園で三味線を披露することは多い。このような状況を知り合いに見られてしまったら…。

「ひ…土方さんっ…!」

声にならない声を振り絞って利津は呼びかけたが、花町の雑踏と特有のむせ返る甘い香りにかき消されて彼の耳には届かない。公衆の面前で手を取り合う男女は、現代の人前で接吻している状況と大して変わらないのだ。利津は羞恥心に苛まれ腕を捩ろうとも思ったが、歳三と触れ合った部分から彼の焦りにも似た不安な感情がどっと流れ込んでくるのを感じ、そのまま引きずられるように祇園を出た。

「あ…悪い…。」

八坂神社の境内で、やっと歳三は利津の腕を離した。バツが悪そうに謝罪した歳三がいたずらを咎められた子供のようで、怒りたかった気持ちも顔の熱さが醒めてゆくとともに引いてゆく。

「そうだ、土方さん。夜桜を見に行きませんか?」

もう少しで茶わん坂に着いてしまうのだが、このまま歳三を一人で帰す気にはなれなかった。

「夜桜…か。お前に誘われたら、断れないな。」

「その前に、ちょっと家に寄らせてください。土方さんにはちゃんと昼間のお礼もしないとね。」

家へ送り届けたのは一番星が瞬くころ、すぐに利津は息を弾ませて家から出てきた。案内されると利津の家から程ない場所に、大振りな桜の木が一本だけ咲いている。畑の中、喧騒を避けるようにひっそりと植えられていた。

「いいでしょう、ここ。秘密の場所なんですよ?」

木の下に二人で座ると、利津が家から大事そうに抱えてきた三味線を取り出す。

「お礼に一曲、弾きます。」

すっと息を吸い込み、端唄を爪弾く。奏でられる音色が心を振動させ、染み渡ってゆく。

もう辺りは藍色の闇に包まれ始め、月夜に照らされ白く浮き出される桜と利津が、歳三の目にまばゆく映し出された。

「…お前の音色、いいな。心が洗われる気がする。」

先ほどの険しい顔から、普段の落ち着きを取り戻したように見える。少しは歳三の心の折を溶かすことができたようで、利津は胸を撫で下ろしてほーっと息を吐く。

「この三味線は兄の置いていったものなんです。少しでも土方さんの悩みが和らげばと思ったんですけど。」

少し照れながら、利津が三味線を片付けていると、歳三がじっと利津を見る。

「お前の兄は俺が探してやる。だからお前はそれまで俺を、兄だと思って頼れ。」

月明かりに照らされ際立つ、鳥肌が立つほどの整った顔、濁りの無い鋭い眼差し。

先ほど屯所で話した生い立ちを、歳三はさして興味もなさそうに聞いていたように見えたが、それは違ったのだ。

お座敷に上がった帰り、いつも利津は道すがら神社に手を合わせていた。兄はどこかで元気にしているのだろうか、無事でいてほしいと。先ほど通りすがったときでさえも、手を合わせ祈っていたのだ。いつか生きて巡り逢えますように、と。

心配するので姉には言っていなかったが、お座敷にあがると、どこかに兄がいるのではないか、何か手がかりが掴めるのではないかと期待していた。それすら歳三に見透かされているのではないか。そうでなければ、こんな言葉をかけてもらえるはずが無いのだ。

「…何故、そんなことを…?」

歳三のくれた思いがけない言葉に、利津の目から涙が溢れる。

「俺には目の見えない兄がいる。その兄が弾く三味線からはその時その時の、兄の気持ちが音で伝わってきた。お前の今の音色からも、気持ちが伝わってきたんだ。」

明るい月を見つめながら、懐かしそうに笑う。そして利津の頭をそっと撫でた。

「ありがとう、土方さん。」

「歳三でいい。何かあったら、俺もお前の三味線を聴きに来る。」

利津は何の気なしに歳三に肩を抱かれ、袖で涙をぬぐっていると、向こうから堤燈の明かりらしきものが揺れ、全速力で近づいてくる。

「ひ・じ・か・た・さああーーーーん!」

その声を聞いた歳三は、わざと利津をきつく抱きしめた。

「きゃああっ…え?歳三さん?あ、沖田さん?」

浅黄色のダンダラ羽織を纏い、肩で息をして現れた総司は鬼のような形相で歳三を睨みつけた。

「歳三さん…あんた…あんたって人はっ。油断も隙も、見境も節操のへったくれもないですね!」

「巡察ご苦労、兄代わりとして妹を慰めただけだぞ。」

総司が今思いつく全ての悪態をついたのに対して歳三は意地悪な笑みを返し、利津の肩に手を置く。

「何泣かしてるんですか、とういか兄代わりってなんですか。まずそのいやらしい手をどけてくださいよ、早く、はーやーく!」

総司に急かされてやっと歳三が利津から離れた。そのやり取りを見るのが楽しくて、利津にいつもの笑顔が戻った。その傍らで、歳三が総司に責め立てられながらも声を上げて笑っている。

「歳三さんもやっと、笑ってくれましたね。」

祇園で芹沢らと会ってから様子がおかしかった歳三を、利津は元気にさせたかったのだ。夜桜に誘われた真意を、歳三はその言葉でやっと理解した。

「…これだから江戸の女は…っ。こら、総司帰るぞ!」

利津の家までの道のりを三人で戻りながら、歳三が耳を赤くして照れ隠しに総司を小突く。

「この経緯は全部、屯所に帰ってから吐いてもらいますからね。」

文久三年の春、目まぐるしく変わる情勢の中で出会ったこの縁が、今後各々の人生に大きな影響を与えることをまだ誰も知らない。


だいぶ蒸し暑くなり、八朔も終えた祇園。

京は盆地であるため夏はかなりの蒸し暑さ、冬は底冷えなのは言うまでも無い。

「この度は浪士組の大変なご活躍、ほんにおつかれさんどした。土方せんせ。」

艶やかな着物姿、京言葉、甘い白粉の香り。

歳三に寄り添うように一人の地方がお座敷に上がっている。通常の芸舞妓と違い、地方を侍らすのはおかしいのだが。

「…せんせってのはやめろ。本当にお前はお座敷に上がると人が違うじゃねえか。」

耳まで真っ赤にした歳三を見て地方は不敵にくすりと笑い、一曲披露する。

「…おそまつさんどした。」

弾き終わると早々に部屋を出て行こうとする女を、歳三がすばやく腕を掴んで引き止める。

「だから悪かったって、利津。心配かけたな。」

「…斉藤さんが次の日に教えてくれなかったら、心配で屯所まで走ってましたからね!」

先日、八・一八の政変と呼ばれる長州勢を御所の警護から一掃した政治事件が勃発。浪士組は要請を受け、深夜にもかかわらず急行したのだ。

「斎藤?総司じゃなくてか?」

「斎藤さんはよくお酒をお召しにいらっしゃるんです。芸舞妓より三味線の方が落ち着くからってご指名で。沖田さんだって家にところてん持って、巡察帰りに報告がてら寄ってくれたし…」

利津は掴まれた腕を振り払うと、さっきまでの落ち着いたそぶりはどこへやら、ぷうっとふくれて座敷に

どかっと正座した。

「あー…もしかして…俺が一番最後?」

「そうですっ。原田さんも永倉さんも平助くんも一昨日お座敷に呼んでくれました。近藤先生と山南さんなんて、ご丁寧にお花やお香付きでお文まで下さって…」

ぐぐぐっと涙目で下から見つめられ、歳三は言葉に詰まる。

妹分だと思っていた女子が仕事中とはいえ、数ヶ月でこんなに魅力的になっているなんて。そのうえ周囲が利津に対して過剰なほど情をかけているこの状況に、歳三は何ともいえぬ焦りを感じた。

普段の歳三は幹部を除く平隊士の前ではむっつりとしていて、感情を表に出すことは珍しいのだが。今回ばかりは美しい顔に焦りを浮かべ、その明晰な頭脳であれこれと悩んだ末。

「よ…よし。明日は屯所で剣術の試合をやるから見に来ないか?」

隊士の士気を上げ、実力を見るためにも欠かせない隊中行事のひとつである。

「…歳三さんも出るの?」

―利津が食いついてきた、あと一押しすれば―

「もちろんだ、俺が送り迎えもしてやるぞ?」

江戸で落とせなかった女子はいなかった、と自負している笑顔を特別に披露しながら最後の一押し。

「よーし、もう一声。」

男の弱み…無邪気な笑顔でそう迫られたら、陥落の白旗を揚げるしかない。

「わかった…鍵善のくずきりもつけてやる。四つに迎えに行くから、準備して待っとけ。」

「やったあ。流石は浪士組一の色男ですね、土方せんせ。」

ぺろりと舌を出してからかわれても、年下の女子に世話を焼かれるのも悪くない…などと不覚にも感じてしまった歳三だった。



「利津、土方さんがお見えになったわよ。」

支度の整った利津に姉が、声をかける。ぴったり四つより少し前に迎えに来るのが、ちょっとせっかちで歳三らしい。

「利津、ちょっと。」

歳三に冷たいお茶を出して、姉が出て行こうとする利津を土間に呼び寄せた。

「利津、土方さんは顔も中身もいいお方みたいだけど。あの方がお侍になったら、利津は妾にしかなれないのよ?どんなに仲睦まじくても、正妻にはなれないってこと覚えておきなさい。」

兄の消息が不明な今、血の繋がった家族はお互い一人だけ。今までずっと寄添って暮らしてきた。そんな姉が心配するのも無理はない。

武士の正妻には同等身分。下級武士なら中間身分の医者や、苗字帯刀を許された商家などの例外を除いては許されない。浪士組が武士として正式に認められれば、正妻への道はより険しいものになってしまうのだ。

「大丈夫よ姉上、歳三さんにはそんな気ないと思うし…私もわきまえているから。」

少し寂しそうに笑う利津を、髪をきれいに整えてやりながら姉が諭す。

「違うの、利津。もしあなたが本気で土方さんをお慕いしているなら、覚悟だけはしておいてと言ってい

るのよ。あのお方は武士なのだから、ね。」

姉はぽんと利津の肩に手を乗せ、手土産の水菓子を入れた風呂敷を利津に持たせた。

「そんなんじゃないって言っているのに…姉上ってば。」

姉に肩を押されながら縁側に出ると、夏の日差しに眼を細めた歳三が待っている。

「さあさ、ちゃんとお給仕役頑張るんですよ。土方さんよろしくお願いしますね。」

「いえ、華があるほうが隊士の士気も上がりますので。暫時、利津殿をお借りします。」

歳三は姉に深々と頭を下げ、くるりと門の方へ向き直って歩き出す。

「ほら、いってらっしゃい。」

「い…いってまいります。」

先ほど姉に言われた言葉がぐるぐると利津の脳裏をちらついて、ぎくしゃくしたまま門を出る。

確かに歳三さんは美男だと思うけれど、兄代わりで親切にしてくれているだけだし…

「おい、利津!」

水菓子の風呂敷包みを手からもぎ取ると、怪訝そうな顔で歳三が利津の顔を覗き込む。

「ひゃあっ!はいっ。」

―歳三さん、顔が近いですっ―

間近にある歳三の顔と視線をそらしながら、平静を装うのが精一杯だ。

「暑さ負けか?顔が真っ赤だぞ…平気か?」

「だだだだ…大丈夫です。さっ、行きましょう!歳三さんの試合楽しみですね。」

焦ってさっさと歩き出した利津を、歳三が首を捻りながら追う。一刻も早くこの雑念から逃れたい気持ちでいっぱいの利津は早足で歩き続け、あっという間に壬生に到着したのだった。



剣術試合に誘われた、とはいっても女手の無い浪士組である。利津があれこれ手伝うことは山ほどあった。流石に屯所の庭では狭いので、隣の壬生寺境内の一画を借りて開催するようだ。

とりあえず試合が滞りなく開催されるために尽力するのが筋である、と考えた利津は冷やした水や手ぬぐいを用意したりお茶の用意をしながら、木陰で試合を眺めることにした。

「お利津ちゃん、いらっしゃい!ごめんね、手伝いばかりさせちゃって。」

胴着を着けた総司が、申し訳なさそうに利津を手伝ってくれる。遠くで歳三はまだ着流しのままで、あれこれと会場の設営の指示していた。

「いいんです、沖田さんの試合も楽しみですし。誰が一番強いのかな?」

「ふふふ…お利津ちゃんは剣術に長けた男が好き?」

「もちろん!自分も江戸では小太刀の道場に通っていたこともあるし、興味深いです。」

総司はその答えにキラキラと眼を輝かせ、利津に小指をたててみせる。

「じゃあ、僕が優勝したらどこかに遊びに行こう?」

指切りをして、総司が優勝のご褒美をこっそり取り付けようとしていると、後ろからぬっと邪魔者が現れた。

「おー総司、抜け駆けか?よお利津ちゃん、今日はすまねえな。」

永倉が総司を羽交い絞めにしながら、利津に労いの言葉をかける。それに続くように、原田と藤堂がやはり胴着姿で顔を出しにきたようだ。

「俺は槍が本業だから、ちょっと不利だなあ。でもお利津ちゃんからご褒美が出るんじゃがんばらなきゃな、平助!」

がははと笑いながら、今度は原田が総司の肩をばしばしと強く叩く。

「ずるいよ総司、俺だって利津と出かけたいぜ。まあ今日は楽しんでいってくれよ、俺たちも頑張るからさ。」

鍛えられた腕をまくって、気合十分に平助が笑顔を見せた。

「お利津さん、立っていては疲れてしまうだろう。椅子を用意したので座るといい。」

斎藤が木陰に椅子を持ってきてくれたようだ。しかしいつ現れたのか、気配がまるでしな

かったことに驚いていると、山南、井上らも揃い、利津に試合の記録を頼みたいと筆と紙を与えられた。

「今日はお手伝いありがとう。しかし利津殿がいると幹部が浮き足立ちますね…」

「仕方ないでしょう、利津さんがいると色々と気が利いて助かりますよ、うんうん。」

自分も例外ではないと付け加えた山南がくすりと笑いながら、水筒を利津に手渡して記録の仕方を指南していると、木刀を携え用意を済ませた近藤と歳三が、境内に姿を見せた。

「やあ、お利津さん。今日は申し訳ないが頼むよ。やはり華があると皆もやる気が違うようだな、トシ!」

上機嫌に笑っている近藤と対照的に、歳三はむすりとしていて笑顔のひとつも無い。

「何言ってるんだ近藤さん。ほら、早く隊士達に声かけろ。総司たちも配置に付け。」

各々が役割の配置に移動し始め利津も木陰に向かおうとすると、歳三と目が合った。

「おい、これ持ってろ。」

歳三は手にしていた木刀を放って渡すと、境内に駆けてゆく。

よく使い込んである木刀は、きっと自分で作ったのだろう

。歳三らの剣術流派である天然理心流は実践に近い流派で、木刀を用いるのだと先ほど井上から聞いた。

江戸での歳三に想いを馳せながら、利津は木刀をぎゅっと胸に抱いて、試合の行方を見守っていた。

「うーし!そろそろ出番だぜえ。腕が鳴る鳴るっ。」

試合が始まって一刻ほど経つ。

いよいよ沖田ら幹部の登場で、隊士達の熱もだんだんと上昇してきていた。

これからは隊士で勝ちあがってきた者も交えての勝ちあがり戦である。

そうはいっても幹部らの実力はみなほぼ互角。近藤は今回、優勝者のみと手合わせをするようだ。

「ええと、次は沖田・原田、斎藤・山南、永倉・井上、土方・藤堂…ですね。」

これは全て一本試合、一斉に行われて勝ち上がったもの同士がまた対戦することになる。手合わせは利津がくじ引きで決めた。

「はい、歳三さん。頑張ってくださいね!」

利津は預かっていた木刀を、歳三に手渡す。

助けてはもらったが、歳三の剣さばきを見るのはこれが初めてなのだ。

沖田が段違いな腕利きなのは、先日の一件でうかがい知る事ができたが、浪士組の幹部がどのような実力を備えているのか見極めるには良い機会である。

「あんまり期待すんじゃねえぞ。俺の剣は喧嘩みてえなもんだ。」

「へえ、じゃあ土方さん俺に勝ちを譲ってくれんの?」

ニヤリと微笑んで、挑発するように藤堂が声をかける。

「馬鹿野郎、平助。そんなわけねえだろうが、手加減なしだぜ!」

先ほどまでむすっとしていたはずの歳三は、木刀を握ると生き生きと試合場に向かってゆく。

「じゃあさっさと勝ってくるからね、僕のことも応援していてね?」

利津に向かって手をひらひらさせながら、総司も定位置に付くべく歩き出す。

「なんだよ…総司の野郎俺なんか眼中にないってか?失礼しちゃうぜ。」

対戦相手の原田がぶつぶつ文句を言いながら、その後をついていった。

「それでは各々用意はいいか、始めっ!」

腰に手を当てた近藤が腹から出した大声を合図に、どおんと一発太鼓がこだますると試合開始だ。

「せーっ!」

ビリビリと発せられる殺気にも似た気合が利津の肌に鳥肌を誘う。

流石に幹部同士の試合ともなると、先ほどまでの雰囲気とは一変して精神の削りあいともいえるような鬼気迫るものがある。

この試合は一本勝負、一瞬の隙が敗北に繋がる。

まず始めにじりじりと間合いを詰めて、原田の喉もとめがけ総司の三本突きが決まる。

三本の突きが一本にしか見えない、総司の必殺剣だ。

「ちっくしょう!本気できやがって。」

悔しそうに原田は木刀を振り回す。

「当たり前じゃないですかー、見てる人がお利津ちゃんなんだから。」

汗ひとつかかず勝利を収めた総司が、笑顔全開で利津に勝利の報告に向かう。

次は永倉があっさりと井上の銅に一本を決め、勝負あり。

「悪いね、源さん。」

悪びれず永倉が白い歯を見せて、対戦相手だった井上に笑いかける。

「いやいや、永倉くんまた腕をあげたんじゃないかい?」

まいった、と汗を手ぬぐいでぬぐいながら勝者の永倉を褒め称えていた。

残るは二組、打ち合っている歳三と藤堂に対し、斎藤と山南は対峙しあったまま様子をうかがっている。

「よっしゃ、もらったあ!」

藤堂が一瞬の隙をついて大きく腕を振り上げ、歳三の面を狙い渾身の力で木刀を振り下ろす。

「っ…甘えんだよっ!」

打ち込んできた藤堂の面を交わした歳三が、懐に飛び込み銅をなぎ払って一本。

藤堂が悔しそうに地団太を踏んでいるのを歳三は一瞥し、八重歯を見せニヤリとした。

同時に、斎藤が山南の籠手を奪って勝利した。

丁寧にお辞儀をしあった二人が、声を掛け合う。

「ふふ…やはり斎藤君には敵いませんね。」

ふーっとながいため息をついて、緊張を解いた山南が斎藤に握手を求めている。

「いいえ、時の運です。」

勝ったにもかかわらず、おごらない態度をとる斎藤はやはり冷静に勝負を決めたようだ。

全ての試合が終了し、利津の手に滲んだ汗が乾く間もなく、幹部たちの顔色がさっと変わる。何事かと皆

の目線の先を向くと、寺の境内に向かって祇園で鉢合わせた巨漢の浪士が、こちらに向かってくるのが

見えた。

利津がその姿を確認できるか否や、土方と山南が同時に盾になるよう、利津を背中で覆い隠すと山南がそっと舌打ちする。

「動いては駄目ですよ、僕たちに隠れていなさい。」

巨漢の浪士は芹沢鴨といい、水戸出身の浪士である。壬生浪士組では近藤と並ぶ筆頭局長として在籍しており、俗に試衛館派と対を成す水戸派閥の筆頭を務めている。

「おお、やっているね近藤君。精が出ることだ。」

また酔っているのだろうか、おぼつかない足取りで鉄扇を片手にのしのしと現れた。それを睨みつけた歳三の眉間にはあの時と同じく、深い皺が刻まれている。

「これはこれは芹沢先生、わざわざ見に来ていただけるとは。隊士たちの士気もあがりましょう。」

近藤が少し困ったような顔をして、試合会場へ芹沢を迎え入れる。

会場はしんと静まり返り、隊士がそのやり取りを固唾を呑んで見守っている。

それを察知し、芹沢の相手を引き受けたのは総司だった。

「せっかくですし芹沢先生、どうですか。僕とひと勝負。」

にこにこと笑いながら木刀を二本抱え、芹沢に勝負を申し込んだのだ。

「沖田君、本気かね?こうみえてもわしは神道無念流の免許皆伝だぞ?」

ふふんと鼻で笑う芹沢だったが、満更でもない様子で木刀を受け取ると素振りを始めた。

「芹沢先生が皆に見本を見せてこそ、士気が上がるというものじゃあないですか?」

挑発とも取れる言葉だが、屈託の無い総司の言葉にそういった類のものが含まれていない事は芹沢にもわかっているようだ。

「いいだろう、ただし沖田君。わしはこれで十分だ。」

すっと懐から先ほど手にしていた鉄扇を取り出すと、木刀を投げ捨てる。その自信に満ちた表情からは、それが冗談ではないとわかる。

「…へえ、そうですか。それではご指導の程よろしくお願いしますよ。」

いつもの総司とはまるで別人のような、鋭い殺気を身にまとい芹沢と対峙している。

「さ、どこからでもかかってきたまえよ。」

当の芹沢はその殺気をものともせず片手に鉄扇を携え、涼しい面持ちでただじっと総司を見つめている。

対峙した二人を前に、会場の空気が一瞬で凍りつく。じっとしていろと言われなくても、利津では瞬きひとつすることもできない。

そんな状況にも動じず、幹部たちは試合の行方を静かに見守っている。

「せーっ!」

一気に間合いを詰め、総司が肩から袈裟懸けになぎ払おうと芹沢に打ち込んだ瞬間。

「ふっ!」

両手で握った鉄扇で総司の木刀を受け止めると、そのまま力任せに総司の木刀を吹っ飛ばした。

木刀は試合の審判をしている近藤の足元まで飛ばされ、隊士たちがざわめきだす。

「あっははは!流石ですね、芹沢先生。ありがとうございました。」

総司は頭をぴょこんと下げ、まいったなあと頭を掻きながら苦笑いする。芹沢は何事も無かったかのように鉄扇を懐に戻すと、総司の背中をばしばしと叩いた。

「いやいや、非常にいい切込みだ!流石だよ沖田君。君に一番隊を任せたのは正解だ。」

嬉しそうに総司を褒め、満足そうに境内を出てゆく芹沢を誰も引き止める者はない。

帰り際に歳三と山南を一瞥し鼻を鳴らすと、また覚束ない足取で会場を後にした。

芹沢が去るのを見届け、歳三と山南が利津の前から苦いため息をつきながら離れる。

「あのう…何故お二人とも私を隠したんですか?」

心底不思議そうに利津が問うと、二人は目を合わせて少し考え、困惑した表情で答えた。

「芹沢さんはそのう…女子にだらしないのでね。」

どう言葉にすべきかと言葉を選んで発言した山南に対し、歳三がご丁寧に付け加える。

「はっきり言ってやれよ。ま、手が早えんだよ。しかも性質が悪いんでな。」

どうやらこの二人、性質こそ違えども考えていることは同じようだ。

お互いそれを承知しているのか、バツが悪そうに苦笑している。

「要するに、お前が関わると面倒だってことだ。」

照れ隠しか、吐き捨てるように言う歳三を山南が冗談まじりにたしなめる。

「すぐそういう言い方を。利津殿が可愛くて、芹沢さんの目に留まったら大変だと思ったんでしょう?」

「やっ…そんなんじゃねえっ!」

くすくすと笑いながら、会場の方に後始末に向かう山南の言葉に歳三は二の句が次げない。

利津はというと、顔を真っ赤にしている歳三に悪いと思いながらも、袖で顔を隠しながら声を殺して笑っていた。

山南が近藤に声をかけに向かい、すれ違いで微笑をたたえた総司が水を飲みにこちらへ歩いてくるのが見えた。

「あっ、沖田さん疲れ様でした!」

椅子から立ち上がり、手を振りながら総司を日陰に迎え入れる。

「お利津ちゃーん!お水ちょうだい?」

いつものようにおどけて声をかけてきた総司だったが、土方とすれ違いざまに、なにか耳元で囁く。

微かだが、利津の耳にも届いた。

冷ややかな笑みで、確かにこう言ったのだ。


― 芹沢先生は、僕が切ります ―



 八月も半ばにさしかかろうとしていた、ある日の午後。

ちょうど日陰になっている自宅の縁側で猫と一緒に涼みながら、利津は姉から聞いた昨夜の出来事をぼおっと思い返していた。

―沖田さんが言っていたことが、現実になるのも近いかもしれない―

そう思わせる出来事が昨晩起こった。芹沢が無心を頼んだ商家で断られた腹いせに、焼き

討ちをしたのだ。

そのような所業を歳三が、いや試衛館派が黙っているわけがない。もしかすれば、京都守護職の責任にもなりかねない。会津藩が芹沢を、このまま生かしておくだろうか…。

利津は庭の隅にある陽炎を見つめながら、そんなことを考えていた。

「おい、そんなとこでぼおっとしてると蚊に食われるぞ。」

「きゃああああっ!」

思いもよらず声をかけられ、目の前が急に暗くなったことに驚いた利津は、思わず悲鳴を上げていた。

「なんだあ?人を幽霊か何かみたいに…。」

ぎゅっと閉じていた眼を恐る恐る開けると、裃を着けた歳三が立っている。

「と…歳三さん?」

あまりに驚いて何度も瞬きしている利津をくすりと笑って、歳三が隣に座る。

「姉君に伺ったら、縁側にいるって聞いたんでな。」

この暑さにも汗ひとつかかない美しい顔を観察しながら、この人は本当に人間なのだろうかと疑いたくなる。

「正装でいらっしゃるなんて…どうかしたんですか?」

利津は珍しい裃姿の歳三をまじまじと見ながら、見慣れないせいかあまり似合わない気がした。

「あー…黒谷の帰りだからな。昨日の報告にきた。一応心配しているかと思って…」

照れて頭をかきながら、だんだん語尾が小さくなってゆく。

先日利津への報告が一番遅くなり、責められたことがよっぽど気まずかったのだろう。

「そうですか黒谷に…。どなたもお怪我がなくて何よりです。」

京都守護職である松平容保公と、その会津藩が俗に黒谷と呼ばれる金戒光明寺に在駐しているのだ。

黒谷に歳三が呼ばれたということは…先ほど心配していた事態がほぼ現実になったと言える。

「昨夜はまいったぜ…芹沢の野郎、本当に狂っていやがる。」

諦めにも見える失笑をこぼした歳三だったが、瞳の奥には陽炎のように揺らめく何かがあるような気がした。

「お疲れのようですし、何か一曲ご披露いたしましょうか?」

気持ちを和らげられるかと、ちょっとおどけて歳三の反応をうかがってみる。

「いや、いい。後始末があるんでな、また落ち着いたら顔を出しに来るさ。」

ぽんぽんと利津の頭を撫で、小包を小さな手のひらに乗せてやる。

「後で開けてくれ、心配かけた侘びだ。じゃあな。」

言うか否や背を向け歩き出した後、くるりと首だけ振り返って、歳三がぼそっとつぶやいた。

「…今回は一番乗りだろう…?」

「あ…はい!」

満足そうにうなずいてひらりと一度だけ手を振り、利津の家をあとにした。

利津はその後姿が見えなくなるまで見送りながら、そっと握らされた包みを開いてみる。

「…梅の香り…」

小さな浅黄色の匂い袋から香る季節外れの香りが、不安げに背中を見送った利津を優しく包んだ。

「あら、土方さんもうお帰りになったの?あんな格好でいらっしゃったから、利津との縁談にでもいらしたのかと思ったわ。」

勝手口から顔を出した姉の戯言も耳に入らないほど、利津の頭の中は嵐の予感でいっぱいだった。



京の噂話は、広まるのが何処よりも早い。

先日の商家焼き討ちの噂は、既に浪士組のあらぬ悪名と共に京全体に広まっていた。

「ちょっと、お利津ちゃん。」

とある晩。祇園で利津が世話になっている名妓、きよ香にお座敷の合間に声をかけられる。

「へえ、きよ香姐さん。何か?」

「あんた今から向かうお座敷のお客はんには、気をつけるんよ?」

こそりと耳元で囁かれ訝しく思っていると、芹沢が手水から座敷に戻るところが見えた。

「あん男、噂の芹沢や。何かあったらウチが巧くかわすから、あんたはただじっとお地蔵さんみたいにしてればよろし。」

にこりと利津に笑いかけ、きよ香は座敷の襖をスラリと開く。

深く頭を垂れて座敷で顔を上げると、そこには芹沢一派と思わしき浪士組の面々の他に、風流人のような着流しの男性が一人座っている。武士には見えなかったが、鋭い眼光と所作を見る限り、刀は扱いなれているように見えた。

「さあ芹沢さん、きよ香は祇園でも指折りの名妓だからね。いつものような無粋なことはしなさんな。」

着流しの男性がきよ香に目配せし、利津ら地方の演奏に合わせお得意の黒髪を舞い踊る。

舞も終盤にさしかかったころ、演奏中に何度も着流しの男が利津をじっと見てくることに気が付いた。目が合うとすっと逸らされてしまうのも気になった。

「久遠はん、いつもおおきに。」

舞い終わるときよ香と共に舞妓たちがお酌をし始め、利津は御役目御免となった。

久遠と呼ばれた男性と芹沢は、大きな声で驚きの内容を話し始めた。

「芹沢さん、浪士組の邪魔な輩はどう排除するつもりだい?」

「ふん、そこであんたに頼もうと思ったわけだ。田舎者だが腕はたつのでね。」

ニヤリと笑い、いっきに杯を空にする。ざると言うより枠、という飲みっぷりだ。

これだけ飲んでいれば普段から千鳥足なのも仕方ないといわざるを得ない。

「そうだねえ、高くつくよ。でもあんたに貸しを作っておくのも悪くない。」

久遠は算盤を弾くような仕草をして見せ、真顔で芹沢に指を三本突き立てた。

「これだけだ、あんたの仕事これで引き受けてやるよ。」

あんな事件を起こして芹沢相手に、久遠は気にも留めない様子で飄々としている。

「…三両というわけではあるまい。」

先ほどまでとは打って変わり、苦々しく杯を空にする芹沢からは殺気を感じる。

「久遠殿、それはちと高すぎるのではありませんか?」

先日歳三と共に祇園で芹沢と遭遇した際、声をかけてきた新見という男が不満を申し立てた。

「ふうん…そんなことないと思うけどな。浪士組がまるまるお前たちのものになるんだぜ。」

つまらなさそうに新見を一瞥すると、久遠はまた芹沢の方に向き直る。

「どうするんだ芹沢さん。あんたしだいだぜ。もしも失敗したら金は半分返してやるよ。」

芹沢の目を見つめながら、金子に関しては一歩も譲る気はないようだ。

「…ふん、わかった三十両。なんとかしよう。いいな新見。」

そんな久遠の態度に敬意を表してか、上機嫌に約束は成立したようだ。

「流石は芹沢鴨、まあ飲んでくれよ。」

久遠は芹沢と杯を酌み交わすと、具体的な内容について話し始めた。

「一月後の新月の日、決行するよ。まあ期待しねえで待っててくれ。支払いはその前に戴くぜ。」

「どうやって殺すつもりだ。」

「さあね…屯所に奇襲でもかけようかな。」

そう言い残すと、用は済んだというのだろう。久遠は座敷から姿を消した。

思いがけない計画を耳にしてしまった利津は、平静を装いながら一刻も早く歳三に報告しなければ…とそれだけを考えていた。

お座敷からの上がり際、きよ香にそっと耳打ちされる。

「お座敷で起こったことは他言無用。でも…なんでウチが今日お座敷のお利津ちゃんを上げたかはわかるやろ?」

「でも姐さんにご迷惑が…」

「妹分の大事な人の命、守らへんで何を守るん?」

ぐっときよ香に背中を押され、三味線を抱きかかえて人込みの花見小路を小走りで通り抜けながら、先ほどの久遠という男を思い返していた。

話し方からすれば上方の人間ではない、江戸に近い訛りだったと思う。

そういえば演奏中に何度か目が合ったのは何故だったのだろう。

考えながら急ぎ歩いているうちにやっと壬生界隈、というところで聞き覚えのある声に呼び止められた。

「地方さん、何をそんなに急いでこんなところまで?」

その声の主は先ほどお座敷にいた久遠だった。刀を二本差しているところから見ると、侍の端くれのようだ。

「いえ、知り合いがこのあたりにいるもので。」

何も気取られないよう、細心の注意をはらって言葉を選ぶ。嫌な汗が一筋、背中を流れてゆくのを感じた。

「そうですか。僕がさっき君の事じっと見ていたの気が付いた?三味線が上手くてつい魅入っちゃったよ。」

「そ…それはおおきに。恐れ入ります。」

一歩、二歩と久遠が近づいてくる。ここで狼狽すれば何をしに壬生に来たのかは一目瞭然だ。それだけはなんとしても避けなければならない。

「ねえ、その三味線ちょっと見せてくれないかなあ…。」

そっと利津の三味線に久遠の手が伸びてきて、身を捩ろうとした時。

また突如として聞きなれた声の主が目の前に現れる。

「夜分遅くに呼びつけてごめんねえ。お茶わん洗ってたら割っちゃって。」

「お前は不注意すぎる。俺の茶わんは今後一切触るなよ。」

夜歩きを楽しんでいた総司と斎藤がふらりと、利津と久遠の間に割って入った。

「お…茶わんお届けに参りました。いつもおおきに。」

とっさに話を合わせて無理やり笑顔を作り、総司と斎藤の後ろに隠れる。二人のおかげで最悪の事態は免

れたと言える。

「貴殿、この娘に何か用か。」

じっと斎藤が久遠を見つめる。利津が始めて会った時のように、品定めをしているような目つきだ。

「この娘、うちまでお茶わん届けに来ただけですからー。」

にこにこと笑いながら、しかし総司なら十分切り込める間合いを保ち続けている。

「いえ、先ほど彼女の三味線が素晴らしかったもので。それだけですよ。」

久遠はそう言うときびすを返し、夜の闇に紛れていった。



「こ…んの…馬鹿野郎っ!」

八木邸が揺れるほどの大声で叱られ、利津は竦みあがっていた。

「まあまあ土方さん、お利津ちゃんだって悪気があったわけじゃないですし。実際助かったじゃないですか、僕たち。」

総司はへらへらと笑いながら、自分で煎れたお茶を美味しそうにすすっている。

その横に斎藤がやはりお茶をすすりながら、歳三の怒鳴り声には身じろぎもせずに平然としていた。

「お前、殺されるところだったんだぞ。わかってるのか!」

「彼女は十分理解しての行動だと思いますが。」

流石の歳三も常に冷静沈着な斎藤にそう言われると、際限なく出てきそうな心配をぐっと飲み込むしかなかった。

「ごめんなさい…私が軽率でした…。」

しょんぼりと首を垂れて、利津は自分の無頓着さを猛省していた。大切な人たちに心配をかけて、迷惑この上ないと感じていたからだ。

そんなしょぼくれた利津の姿を見て、歳三も荒げた語気を元に戻す。

「分かったならいい、今後は気をつけろ。」

「ねえ、でも歳三さん。」

説教を終えてようとした歳三に、総司が思いもよらない提案をした。

「新見さんが金策しているんですから、冷静な話し合いが必要ですよ。今度はいつ新見さんが祇園のお座敷に来るのか、お利津ちゃんに調べてもらいませんか?」

さっき何故歳三が利津に怒鳴ったのかを、全く解していないひどい話である。

「総司、お前何を言っているか分かってるのか?暑くて頭に虫でも湧いたんじゃねえのか!」

利津を巻き込ませたくない歳三には、総司の言葉が理解できずにいる。

総司も同じ気持ちでいると思っていただけに、簡単にその怒りは収まるはずもない。

「副長、お気持ちはお察しいたします。しかし俺は賛成です。彼女に危害が加わるような真似は、決していたしません。」

「斎藤…お前まで!大体こんな話、近藤さん抜きでするのもおかしいだろう。」

怒りを抑えながらもわなわなと拳を震わせ、凄絶な面持ちで二人を睨みつけている。利津には口を挟む余地すらない。いつもより総司の口調が冷たく感じることも、利津は戸惑いを隠せなかった。

「近藤先生に話したら駄目です。冷静 な話し合いですよ。」

何故、【冷静な話し合い】が強調されるのか利津には分からない。

だが、利津はとにかく大事な人たちの命が狙われている状況下で、じっとしている女子ではない。

それを承知で総司と斎藤は今この話を持ち出しているのだ。

それを利用しようとしていることが、歳三は許せない。

「歳三さん、私なら大丈夫です。お役に立たせてください。」

「お前…」

「私だって、みんなのお役に立ちたいんです。」

利津は感情が高ぶってぼろぼろと涙をこぼしながら、歳三に懇願した。

自分にできること、守りたい大切なもの…何もしないではいられない。

「…わかった、だが無理はしないでくれ。」

歳三は諦めたようにため息をつき、利津の頬を伝う涙をそっと指でぬぐってやる。

「あーあ。そういうのは二人っきりの時だけにしてくださいよー。」

やきもちをやいてぷうっと膨れ、先ほどまでの態度とは一変して、いつもの無邪気な総司に戻っていた。

「うるせえ総司。おい利津、今日はもう遅いから俺の部屋に泊まってけ。」

「えっ…でも姉上に何も知らせていないですし…」

利津は予想外の急な展開についていけないが、何より歳三の部屋に泊まるというのは聞き間違いではないだろうか。

「お利津さん、こうなると思って家には先ほど使いを遣っておいた。安心していい。」

「いえ、あのっ。それは有難いのですが…」

何故、誰も歳三の問題発言に疑問を呈さないのか。

「僕もお利津ちゃんと一緒に寝たいなあ。」

「馬鹿、そんなことさせるか。嫁入り前だぞ。」

本気でそんな台詞を吐いた総司に歳三はげんこつをくれてやると、すっくと立ち上がって利津の腕を引き上げ、移動を促す。

「安心して休むといい。」

―斎藤さん、本気ですか?―

頼りにしている最後の砦を振り返ると、予想に反してその砦は脆かった。

「お利津ちゃん、おやすみー。」

総司にも華麗に問題はかわされ、どうなるのかと思いながら歳三に手を引かれるがまま部屋を出る。

外廊下を歩き、離れの部屋へ案内されると、利津の恥ずかしさは最高潮に達した。

「ほら、何突っ立ってるんだ。早く入れよ。」

歳三に手招きされ、恐る恐る部屋に足を踏み入れる。

男性の部屋に入るのはこれが初めてな利津にとって、小さな一歩が大きな一歩である。

「お…おじゃまします。」

障子を閉めて、少し距離を置いて歳三の横に正座する。暗くてよくわからないが、文机だけの質素な部屋だ。

「さっきは…怒鳴って悪かった。今度の件には総司と永倉をつけるから、お前は情報だけ流してくれりゃいい。」

そう言うと、歳三はおもむろに押入れから寝具を出して布団をひきはじめる。

「ほら、早く寝ろ。今日はもう遅いから具体的な話は明朝だ。」

「やっ…あのっ?」

極度の緊張で何も言えずに口をパクパクさせている利津に気づき、歳三がぶっと噴出して笑った。

「ああ、お前もしかして…俺と同衾するつもりだったのか?」

歳三は肩を震わせて大笑いしたかと思うと、利津の肩を掴んで布団に押し倒す。

利津は息ができず顔を真っ赤に高潮させている。

「お前がいいならかまわないと言いたいところだが、そうもいかねえだろ。」

いつものように八重歯を見せてニヤリと笑い、利津に布団をかけてやる。

利津もやっとのことで心の平穏を取り戻し、緊張でカラカラに渇いた喉の奥から声をふりしぼった。

「…歳三さんは、やっぱり意地悪です。」

利津は布団を顔まですっぽりかぶり、穴があったら入りたい気持ちを押さえつけた。

「そうかもしれねえなあ…」

歳三がそうつぶやきながら障子を開けると、月光が部屋に入り込む。眩さに手で顔を覆って出てゆく歳三を、利津は布団から顔だけを出して見送った。




利津ときよ香の集めた情報によると、今晩新見が祇園に一人で遊びに来るようだ。もともとは一人で調べようと思っていたが、どうやらきよ香には浪士組の肩を持つ理由が利津以外にもあるらしい。

もともと会津の出身というのが、その要因のひとつのようであるが定かではない。

「へえ、そこまでしておいて手も出さへんとはねえ。据え膳食わぬは武士の恥っていうやないの。」

新見の上がる座敷の隣部屋。鏡で身だしなみを整えながら、きよ香は利津から別の報告を受けていた。

「据え膳っていうより、据え付けの刀置きくらいにしか思っていないんじゃないですか?」

苦々しげにあの夜の出来事を語っている利津を、きよ香がちょいちょいと身なりを整えてやる。

「あの晩は僕も被害者だからね。土方さん僕の部屋で一緒に寝たんだから!いい男が二人で寝てるんだから、隊士に誤解されちゃうよね。」

部屋の隅で刀の手入れをしていた総司が、いつもの冗談を披露すると襖が開く。永倉が数人の隊士を引き連れて、部屋に待機するように命じている。

「何がいい男だあ?俺の話なら俺がいないときにやってくれよ。」

永倉がどすんと総司の横に胡坐をかいて、総司の肩を思い切り叩く。

ばしんと痛そうな音がしたが、総司は慣れているのか顔色一つ変えないで微笑している。

「そんな事より永倉さん、ちゃんと女将に渡してきたの?懐に入っていたりしないよね?」

「あたりめえよ!きよ香の言ったとおり五両渡してきた。好きにしろってさ。」

きよ香の提案で、迷惑料の前払いをしてきたのだ。こうしておけば何か起こっても文句を言われることも

ない。花街の融通を金で買うのは常識だ。

「此処では女心以外はお金で動きますさかい。おぼえときやす。」

「男心もお金じゃ動かないけどね。」

総司が意味深にニコリと利津に笑いかけると、利津は何故かあの晩のことを思い出して顔を耳まで真っ赤に染めた。

「さあて、そろそろいらっしゃるかな。」

総司と永倉は襖に聞き耳を立てて、新見の様子を窺っている。

先日の会話では【冷静な話し合い】と言っていたが、それにしては物々しい雰囲気を感じた。

「奴さん、きやがったぜ!」

「お利津ちゃんときよ香さんは、このままこちらに。永倉さん、冷静にね。」

襖向こうの隣室で新見が部屋に落ち着いた所を見計らい、二人を先頭に隊士がどっと流れ込む。

出口を数人の隊士が塞ぎ、新見は話し合いに応じざるを得ない状況に陥った。

「こんばんは、新見先生。僕たちお聞きしたいことがあるんです。」

目の前で起きていることの事態を把握し切れていない新見に向かい、総司は微笑をたたえ

ながら詩のように口ずさんだ。


一、士道ニ背ク間敷事

一、局ヲ脱スルヲ不許ズ

一、勝手ニ金策致ス不可ズ

一、勝手ニ訴訟取扱不可ズ

一、私ノ闘争ヲ不許ズ

上条々相背候者切腹申付ベク候也


「局中法度です。もちろんご存知ですよね?」

総司と永倉が、静かに新見の両脇へと歩み寄る。利津はというと、隣室の襖に耳を当てて必死に隣の様子を窺おうとしていた。

「あ…ああ、もちろんだとも。それが如何したのかね。」

平静を装いながらも、新見の顔色は一気に青ざめてゆく。

それを見ていた永倉は、ちっと舌を鳴らした。

「あんた芹沢の為ってのは分かるが、色々な商家で強盗まがいに金を押し借りしてるそうじゃねえか。」

「明らかに法度違反ですよねー。」

先ほどと同じ微笑をたたえたままの総司は、新見にそっと包みを手渡す。その中には切腹用の脇差が包まれていた。

「貴様ら…っ。図ったな!」

新見は苦々しげに、ギロリと総司らを睨みつける。観念したかのように見えたが、利津たちのいる隣室に向かい、新見が走って逃げ込もうとした。

「襖から退け!」

利津は総司の大声で反射的に身を捩り、きよ香がとっさに腕を伸ばして抱きかかえた。

「お利津ちゃん、見たらあかん!」

次の瞬間、耳をつんざくような断末魔と共に、血まみれの新見がごろりと隣室に転がってきた。

利津はきよ香の手によって視界を遮られていたが、つんと鼻に鉄のような匂いが漂ってくる。

「お利津ちゃんときよ香さん、お怪我はありませんか。」

恐る恐る声の方へ顔を向けると、見慣れた総司の笑顔に赤黒い液体が付着している。

汗ではなく、紛れもなく血だと利津は認識した。

「沖田さ…話し合いじゃなかったんですか…!」

総司の足元に縋り付き、まだうまく動かない頭で言葉を紡ぐ。

「…うん、ごめんね。」

「こんなことになるなら、私はっ…!」

総司はそっと利津の頬に手を添えて、目を覗き込みながらその言葉を受け止めている。

自分が犯した罪を、全部受け止めるつもりなのだろう。

「ごめん。」

「嘘…つくなんて。私が新見さんを殺したようなものです!」

きよ香の制止も聞かずに、混乱した利津はまだやりようのない思いを総司にぶつけた。

「ねえ、お利津ちゃん。じゃあなんであの晩、君は土方さんに知らせに来たの?」

「それは…っ。」

「僕…土方さんが代わりに死んでもよかった?」

利津の目をじっと見ながら、寂しそうに総司が笑う

。どうしようもなく、ただ力なく微笑んでいる。総司にもこうする以外、仲間と利津を守れなかったのだ。

「沖田はん、あとはウチが。」

きよ香がそっと利津を引き寄せ、力なくうなだれている利津の肩を抱く。

その口調は総司を責めるものではなく、彼の置かれた心情を理解してのものだった。

「嫌われちゃったかな。」

ぽつりとそれだけの言葉を残し、その晩総司は利津の前から姿を消した。



「ごめんくださーい…。」

まだまだ、残暑の残る九月十八日。

いつもより少し緊張した面持ちで、利津は八木邸の玄関に立っていた。

「あ…お利津ちゃん、土方さん呼んでこようか?」

利津の声に応じて、玄関に出てきたのは総司だった。

二人はまだ、あの出来事以来顔をあわせていなかった。

「いえっ、いいんです。今日は沖田さんに会いに来ました。」

「そう、嬉しいな。せっかくだから、お隣の壬生寺で話でもしようか。」

総司に袖を引っ張られながら屯所を振り返ると、玄関先の柱に寄りかかりながらこちらを見ている歳三と目が合った。表情は読み取れなかったが、利津は心を何かで引っ掻かれたような気分になる。

「ああ、歳三さんね。今日ちょっと機嫌が悪いんだ。」

壬生寺の境内、総司は利津の手土産のだんごを頬張りながら、つまらなさそうにその理由を教えてくれた。

「それより、この間の件なんですけど…ごめんなさい!」

利津はぺこりと頭を下げて、あの晩総司を責めてしまったことを詫びる。

気持ちの整理をつけ、その言葉を言うためだけに今日は屯所に出向いたのだ。

「…何の話?って言いたいところだけど…気にしてない。だから頭あげてよ、僕体裁悪いんだけど。」

境内で遊ぶ近所の子供たちに手を振った総司が、困った顔で利津の手を取る。

あの晩人を切り殺したとは思えない、暖かい手だった。

「あれからきよ香姐さんや姉上に言われて、色々考えたんです。私は試衛館の皆さんが好きですし、その志に惹かれているんだって。だから、何か手伝いたいって思ったんです。」

新見を殺したのも、理由がなく邪魔だと言う理由ではないのだ。

彼らは誠の武士であるために、あのような厳しい法度を遵守している。

「そうだね。でも僕は違うんだ。僕はね、近藤さんと歳三さんが全てなんだ。あの二人が望むなら、何でも力になりたい。命令されれば、お利津ちゃんだって切るよ。」

総司は静かな瞳で利津を見つめながら、本心を吐露した。

彼の武士道とは、心から信頼している二人を支えることなのだ。

「お邪魔になったら切っていただいても、結構ですけど。」

利津は真剣な面持ちで、ずいっと総司に向かって身を乗り出す。

総司はそれに面食らって大笑いし、やっとのことで息を整えた。

「でもね…土方さんにはお利津ちゃんが必要だと思うよ?」

「えっ?」

今度は利津が面食らう番だった。

歳三のことを良く知っている総司が言うと、本当にそうだと思ってしまう。

「たぶんだけど…今夜はちょっと夜更かししてくれる?」

顔を赤くして慌てている利津を面白そうに眺めながらお願い、と手を合わせる。

「いいですけど…?」

不思議そうに首をかしげて返答するが、真意を教えてはもらえないまま境内を出た。

屯所で歳三に挨拶をしようと思ったのだが、不在だったためにそのまま家路に着く。

帰り道、八坂神社でいつものように参拝して目を開けると、隣に久遠が立っていた。

「やあ、地方さん。何を熱心にお願いしているのかな?」

クスリと笑って、利津を上から下までじろじろと眺めている。

「たいしたことでは…」

「僕との恋路のお願いかな?それなら僕にお願いしなきゃね。」

冗談とは分かっているが、その自信満々な態度は何を考えているのか分からない。

少し不気味に感じるのはそのせいかもしれない。

「でも今日は生憎、島原で宴会なんだ。またね、地方さん。」

利津の髪をすっと撫で、風のように去ってゆく久遠に何も言えないまま、利津はしばらく神社の境内に立ち尽くしていた。




日は同じくして、夜も更けた頃。

雨が降りしきる中、歳三は利津の家を目指してひたすら走っていた。

誰かに追われているように、逃れるように。

「やあ、浪士組の土方さん。ご苦労様、お陰で何もしないでお金が入ってきましたよ。」

路地から風流な着流しの男性が、ふらりと歳三の前に現れた。利津の家に向かうのが分かっていたように、待ち伏せをされていたとも思える。

「貴様、何者だ。」

鯉口を切り、威嚇して彼をそこからどけようとしたが、その男は微動だにしない。

「浪士組に仇なす者、とだけ言っておこうかな。その刀…和泉守兼定。

刃こぼれしているのに切りあうつもり?」

「何故…貴様がそれを知っている。」

男はふんと鼻を鳴らし、馬鹿にしたように歳三を眺めている。

苦々しげに兼定を一瞥すると、すれ違いざまに耳打ちした。

「幕府の狗め。あんたには過ぎた刀だよ。あの地方もね。」

「歳三さん!」

歳三がその男を追いかけようとしたとき、背後から白い腕が歳三を引き止めた。

「っ…利津?」

「こんなに濡れたら…早くうちに。何してるんですか!」

利津は傘もささずに、歳三を肩で支えながら家へ招き入れる。」流石に尋常でない歳三の様子に、離れである自室に通す。

「義兄上の着物を持ってきますから、お湯で体を拭いてください。」

部屋に着くなり座り込んで黙っている歳三に、利津は着替えと沸かした湯を提供し、彼が重い口をあけるのを待つ。

外は一層雨脚が増し、雨が屋根を打つ音が静かな部屋に響いた。

「総司が、何か余計なこと言ったんだろう。」

やっと歳三は口を開くと、自嘲気味に笑う。数日会っていなかったが、少し痩せたように見えた。

「お願いされたので…。待っていました。」

「あの…馬鹿。」

照れ隠しのように悪態をついてみせるが、いつものような勢いはない。

「…切ったんですね、芹沢さんを。」

利津は歳三を受け入れようと、目を逸らさずに語りかける。

今度は自分が、歳三の支えになる番だと心に決めていた。

「ああ…切った。泥酔したところを、罪のない妾ごとな。軽蔑するか?」

「しませんよ、歳三さんだもの。」

そっと羽織を歳三にかけてやりながら、利津は歳三の肩を抱く。

微かにまだ震えているのが痛ましかった。

「そう…か。」

「もう、そんなこと心配していたんですか?今夜はもう寝てください。」

強引に歳三に布団をかぶせると、いそいそと部屋を出て行こうとする利津に歳三は思わず声をかけた。

「利津…迷惑をかけたな。」

「迷惑だなんて。おやすみなさい、歳三さん。」

利津が振り返って見せる笑顔で心も穏やかになり、歳三は深い眠りにつく。

利津はそれを見届けると、歳三の愛刀を抱え、土間へ向かった。


エピローグ


「へええ…お利津ちゃんってこんなこともできるんだあ!」

芹沢が亡くなって四日後。

【倒幕派の長州浪人に惨殺された】芹沢の葬儀も終わり、浪士組幹部は八木邸から前川邸へと引越しをしていた。当然、利津もその手伝いに借り出されている。

「ええ、久しぶりに研いだんですけど…父に仕込まれて。」

「おい、総司俺の刀に触るんじゃねえっ!」

「はいはい、お利津ちゃんが研いだ大事な刀ですもんね。」

舌を出してからかいながら、げんこつを避けるべくさっさとその場から退散する。

「ったく。お前が刀研ぎできるなんざ思っちゃいなかったのは、俺も同じなんだがな。」

刃こぼれしていたはずの兼定を、利津が研いで元通りに修復したのだ

。江戸にいた頃、亡き父から仕込まれたいた技術が役に立った。

「まあ、力を発揮する場所もなかったし。私、一応女ですから。」

歳三さんはそんな風に思っていないかもしれないけど、と付け加える。

「そんなことねえぞ。だからと言ちゃあ何だが、お前屯所に住め。」

まるで三味線で一曲弾け、というような簡単なそぶりで歳三が言う。

「は…はい?」

耳を疑って、利津はおもわず聞き返してしまった。

「あの久遠って浪人、お前を狙うかも知れねえしな…。刀が研げるならウチにいたって良いだろう。」

あっけらかんと、歳三はなんの躊躇いもないように言ってのける。

「いえ、あの姉上に相談しないと…」

「それなら案ずるな、許可は取ってある。安心していい。」

神出鬼没、斎藤が相変わらずの根回しで姉の承諾も取っているようだ。

「おい利津―。お前の荷物、姉上から届いたけど、運んで良いのかー?」

「軽いもんばっかり持つなよ平助、あっ新八それは大事に運べよ!」

「へいへい。」

有無を言わさず利津の荷物が運び込まれてゆくさまを見ながら、諦めたようにため息をつく。

その時はっといやな予感が、脳裏をよぎった。

「あのう…私の部屋って…もしかして?」

おそるおそる利津はその疑問を口にすると、歳三と戻ってきた総司から、口を揃えて予想通りの答えが帰ってきた。

「俺の隣。」

「僕の隣。」

「やっぱりですかあ…。」

美しい秋空の下、未来の見えない時代の流れと同じく、利津は己の先行きの不安をも抱えることとなった。

数日後、八月十八日の政変での働きを評価された浪士組は【新選組】の名を賜う。

試衛館派を中心とした新選組が、京の街を駆け抜ける日々が始まろうとしていた。


―続く―

続きはただいま執筆中です。

読んで頂きありがとうございました。

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