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余命365日  作者:


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第2話 空白の日常と、一歩

余命宣告から三週間が過ぎていた。

泰介のデスクの上には、手付かずの書類が山積みになっていた。中堅広告代理店「東洋エージェンシー」の営業三課。エアコンの冷気が不快に肌を刺し、打ち込み作業を続けるキーボードの打鍵音が部屋中に響いている。

「佐原先輩、B社のコンペの件なんですけど……」

隣の席から声をかけてきたのは、入社三年目の後輩、中島遼だった。どこか諦めたような、冷めた眼差しをした青年だ。

「提出期限、来週ですけど、いつものテンプレートで使い回しますか? どうせうちの規模じゃ大手に勝てないですし、無難に終わらせましょうよ」

以前の泰介なら、「そうだな、波風立てずにいこう」と苦笑いして頷いていただだろう。事無かれ主義。責任を回避し、そこそこの給料をもらって定時で帰る。それが泰介の生き方だった。

だが、今の泰介の懐には、一冊の黒いノートが入っている。

胸のポケットに収まったその重みが、泰介の背中を静かに押した。

『やり残したこと:やりたかった仕事をする』

泰介はゆっくりと顔を上げ、中島の目をまっすぐに見つめた。

「中島。テンプレートは使わない。一から作り直すぞ」

「……え?」

中島が呆然と声を漏らした。

「先方の希望は、地元の伝統工芸品を若者向けにPRすることだ。大手が持ち込むような派手な芸能人を使ったキャンペーンじゃ、彼らの本当の想いは伝わらない。俺たちが直接現地に通って、職人たちの声を拾うんだ」

「ちょっと待ってくださいよ、佐原さん! そんなことしたら残業続きになりますし、予算だって足が出ますよ! そこまでして頑張ったって、俺たちの給料が増えるわけじゃないじゃないですか」

中島は焦ったように声を荒らげた。省エネで要領よく立ち回るのが彼なりの処世術であり、急に熱を帯びた先輩の姿に恐怖すら覚えているようだった。

泰介は立ち上がり、中島の肩にそっと手を置いた。

「給料のためじゃない。……俺たちの手で、本当に良いと思ったものを世の中に届けたいんだ。中島、お前だって最初は、誰かの心を動かす広告が作りたくてこの会社に入ったんじゃないのか?」

「それは……」

言葉を詰まらせる中島を置き去りにして、泰介は自分の上着を羽織った。

それからの二週間、泰介の行動は目を見張るものだった。

休日を返上して現地に足繁く通い、職人の手元を撮影し、彼らの苦悩や情熱をノートに書き留めた。体調は少しずつ蝕まれ、夕方になると激しい倦怠感が泰介を襲った。給湯室で人知れず胃薬を煽り、額の汗を拭う日々。

それでも、泰介の目は驚くほど澄んでいた。

そんな泰介の背中を、中島はずっと見ていた。

泥臭く、不器用で、けれど楽しそうに企画書に向き合う先輩。以前の死んだような目をした佐原泰介は、そこにはいなかった。

コンペ前夜。深夜二時のオフィス。

泰介が激しい咳込みとともにデスクに突っ伏した。

「佐原さん! 大丈夫ですか!?」

駆け寄った中島は、泰介の顔色の悪さに息を飲んだ。尋常ではない汗の量と、蒼白な肌。

「ああ……大丈夫だ、ちょっと胃が痛むだけだ……」

「そんな顔して大丈夫なわけないでしょう! もういいです、明日のプレゼンは俺が代わりますから、帰ってください!」

「だめだ……これは俺がやり遂げなきゃいけないんだ」

泰介が弱々しく、しかし固い力で中島の腕を握り返した。

「中島……人生にはな、『あとでやればいい』がない瞬間があるんだよ。今やらないと、一生後悔することがあるんだ」

その強い言葉と眼差しに、中島は言葉を失った。

なぜそこまで必死になれるのか。なぜ明日がないかのように命を削って仕事に向き合えるのか。中島の胸の奥で、冷め切っていた何かが熱く弾けた。

「……わかりました。でも、一人でやらせませんよ」

中島は自分のデスクに戻ると、エナジードリンクの缶を開け、キーボードに向き直った。

「俺も付き合います。佐原さんの作った最高の企画書、完璧に仕上げましょう」

翌日のプレゼンは大成功に終わった。クライアントの担当者は涙を浮かべて企画を絶賛し、正式に契約が決まった。

社屋の屋上で、二人は缶コーヒーを掲げて小さく乾杯した。青空がどこまでも高く広がっている。

「佐原さん」

中島が照れくさそうに空を見上げながら言った。

「俺、広告の仕事、ちょっと面白いって思えました。……佐原さんみたいに、命がけで仕事できる大人になりたいです」

泰介は微笑み、コーヒーを一口含んだ。

胸の奥の痛みが、少しだけ和らいだ気がした。

(俺の生きた証が、ひとつ、この青年に残せたのかもしれない)

やり残したことリストの項目に、泰介は心の中で静かにチェックを入れた。

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