AIピ♥
『日々の煩わしい家事から解放されませんか?
AIがあなたの面倒をすべて解決します
株式会社AIPI』
都内のアパートの一室。
キッチンからとんとんとんと包丁の小気味良い音が聞こえる。
「もうすぐできるからね」
丸みを帯びた優しい声が、居間にいる人物に尋ねかける。
「ありがとう」
居間の人物――俺は振り返らずにそう返した。視線の先で流れていたのは、AIを使った家事ロボットのCMだ。人型のロボットが器用に指先を動かして果物の皮を剝いたり、縫物をしたり、洗濯物を片したりしている。滑らかな動きには、大道芸人がダンスやパントマイムでやるようなぎこちなさはない。表面の艶々したプラスチックを一枚剥げば、中から人間がでてきそうな錯覚すら覚える。
その動きに目を奪われているうちに、場面が切り替わった。今度は大の男が両腕使っても持ち上げられないでいる荷物を、当たり前だが顔色一つ変えず、細身にもかかわらず片手で軽々持ち上げていく様が映し出された。買い物に引っ越しに、なんでもござれといった映像が流れる。風貌はいかにもかつてのSF映画に登場するような白いマネキンのようだが、歩き方も人間のそれと大差がない。
感嘆していると最後にこんな文言が流れた。
『現在試験運用のためテスター募集中。ご連絡は○○まで』
「どう、それ」
動画が終わると同時に、佳奈がキッチンから料理を運んできた。
炬燵から出たくないとは思いつつ、彼女に任せてばかりというわけにもいかないので、俺は手にしていたスマホを座卓に置き、小皿やら箸やらを取りに向かった。
「いや、どうっていっても、普通にすごいなっていうか」
キッチンと居間を往復する彼女とすれ違いざま顔を覗かれる。
「それで?」
「まあ、今やみんなAIを普通に使ってる時代だし、今度はこういうロボットがいるのが普通になるのかなって。一家に一台とか。あれば便利そうだし、まあ、普通に」
どうにか感想を絞り出すと、途端に佳奈は目を輝かせてこちらに一歩近寄る。
「だよねだよね」
「え、何……?」
ただならぬ気配に訝しむと、さすがに自分の挙動不審さに気づいたらしく、急に引き下がって視線をきょろきょろさせながら、そわそわし始めた。
「実はさ、そのロボットのテスターってやつ」
「うん」
「応募しちゃって」
「うん、え?」
「で通っちゃって」
「え、え」
「で届いちゃって」
「え、え」
困惑しているうちに、彼女は料理を座卓に置いたかと思うと、そのまま押し入れの襖を開けた。
少し前に片づけたばかりで何もなかったはずのその場所に、いつの間にか大きめの段ボールが三個積まれている。
「これなんだけど……」
彼女がそのうちの一つを引っ張り出して、箱の蓋を開ける。すでに自分で一度開封していたらしい。
簡単に開いたその箱の中から、緩衝材にすっぽりはまった状態で、文字通りさっき見たCMのロボットの頭が顔を覗かせた。
「組み立てないといけないっぽくて、手伝ってほしいなー……って」
俺は押入れにある残りの段ボールに目を向けた。となるとあれには四肢と胴体が入っているんだろう。
佳奈の新しいもの好きには困ったものだが、今回ばかりはでかい買い物だ。答えあぐねて俺は頭を掻いた。
「えー……」
腕を組んでひとしきり唸った後に、おそるおそる一言一言確認するように呟く。
「いや……っていうか、これ、いくらしたんだ?」
「大丈夫大丈夫、テスターって言ったでしょ。期間中にレポートを出したり、SNSで口コミしたりすれば、お金は取られないって」
口を開こうとしたところへ、さらに佳奈の追撃。
「あ、それに電気代も向こう持ち。どれだけ電気を使ったか計測して、アップロードしてるから、その分口座に振り込んでくれるんだって。凄くない?」
「いやだからって、俺に隠さなくても」
値段だけでなく、物理的にも大きな買い物なのだ。何か一言くらいあってもよかったのではないかと思ってしまう。
「でもカズ君はいつもそうやって反対するから……」
思い当たる節はある。これまでにもあれが欲しいこれが欲しいという佳奈を、ボーナスが入ったら、とか次の給料には、とか言ってどうにかこうにか制してきた。同棲してからは鳴りを潜めていたが、まさかこんなものを家に持ってくるとは思いもしなかった。
もちろん、俺だってお金に余裕があればいくらでもプレゼントしていただろうが、築古アパートとはいえ都内に住んでいるのだ。毎月の稼ぎの大半は家賃と光熱費その他もろもろの生活費に消えていく。
しかし結婚を考えると、やはりできるだけ貯金は蓄えておきたい。
「カズ君も便利って言ったでしょ、私もそう思って。私たち、共働きで家事のことに手をまわしてる余裕、全然ないじゃん?」
自然、物が山積している居間の様子が目に入る。床の散らかった洗濯物。台所のひどい水垢。溜まったゴミ袋。
「この先のこと考えたら、少しでもお金は貯めておきたいし、私が仕事を辞めるってわけにもいかないでしょう。だから、私たちのためにと思ったんだけど……」
上目遣いにそう言われてハッとした。自分ばかりが俺たちの今後を考えているとばかり思い込んでいた。しかしそれは佳奈だって同じだったのだ。そう考えれば、同棲してからねだるのをやめたのも、俺の頼りない経済事情に詳しくなったからだろう。そこに思い至らず、何でもかんでも反対するというのは、むしろ俺のほうが余程浅慮ではないか。
「――ごめん。悪かったよ、そこまで考えてたなんて。ありがとう」
「ううん、私のほうこそ。ごめん。やっぱりカズ君には言っておくべきだったって思う」
「いや、全然。もういいよ。怒ってたわけじゃないし……。そんなに」
「怒ってんじゃん」
佳奈に小突かれて思わず破顔する。
それに、期せずして彼女の気持ちを確認することができた。願ってもない収穫だった。
同棲してから一年が経ち、言おう言おうと思っていたが、これまでどうしても踏ん切りがつかなかったのだ。
「まあ、それに……なんていうか、俺にも隠し事があったからさ」
今なら自信をもって言える気がする。
「え、なになに? カズ君が隠し事って珍し。っていうか自分でバラしてるじゃん」
「いや、ほら、俺たち付き合ってもうそろそろ三年になるだろ。だから……さ、そろそろ、その、次の段階に入ってもいいんじゃないかなぁ……って」
「次って?」
俺は居間の棚の中に半年前から隠していたそれを、キッチンの灯の下に持ち出してきた。
「高田佳奈さん」
俺はすっくと姿勢を正した。それを見て、まるで卒業式の壇上のように、佳奈も姿勢を正す。
「はい」
灯のせいかわからないが、その顔は火照っているようにも見えた。膝立ちになってそれを前に差し出して開ける。暖色の灯が銀の光沢に反射して、暖かみのあるオーラを帯びているようだった。
「俺と、けつ、結婚してくれますか?」
数秒、沈黙が流れる。真面目な顔した彼女と見つめ合っているうち、今度は自分の頭が沸騰しそうだった。
大事なところで噛んでしまった。
「なんで、そんなところで噛むのよ。バカ」
ぷっと吹き出した彼女が、俺の頭をはたく。
「いいよ」
そしてそのまま俺の差し出した指輪を手に取った。彼女がそれを自分の指に通し、輝きを確かめるように翳している姿を見ているうち、俺はなんだか胸の内からこみ上げてくるものを感じた。
「って、何泣いてんの」
「いや、良かったぁ……って、思ってさ」
ずっと載せていた重い荷物をようやく下ろせたような心持だった。
「あ、そういえばさ、ちょうどいいお酒をもらったから、飲もうよ。せっかくだし」
気恥ずかしさを隠すように彼女が動こうとしたところで、
「いいよ、俺が取りに行くから」
俺も立ち上がろうとしてしまい、不意に身体が接触する。倒れそうになる彼女を自分の両の手が抱えたとき、距離の近さにどぎまぎして視線を泳がせている彼女の顔が間近に映って、なんだかとても愛おしくなる。
居間の時計の針と心臓の鼓動が共鳴する。束の間、世界には彼女だけがあった。
そのまま俺は彼女に顔を近づける。彼女もそれに応えた。
俺はそのまま彼女の服に手をかけて――、
――バチッ。
静電気にはじかれたように、俺の手は彼女から離れていた。
自分で弾いておきながら、彼女も少し驚いたような、哀しいような表情をしていた。
「ごめん……。やっぱまだ、無理みたい」
ついさっきまでの昂ぶりが、一気に潮が引いていくように霧消する。どことなく現れた罪悪感から、彼女と距離を取る。
「いや、いいんだ。こっちこそごめん。無理しなくていいから」
あまり詳しく話は聞けていないのだが、どうしても彼女はそういう行為に対して恐怖心を克服できないのでいるらしい。
ただ俺としては、待つしかない。彼女がその気持ちになるまで。
そう、結婚を約束したのだから。
*
その日から俺と佳奈とAIと、奇妙な共同生活が始まった。
朝起きると、ばっちりと朝食の準備がしてあって、家の中はピカピカ。俺も佳奈も慌てて出勤しても、帰ってくる頃には洗濯物が乾かしてあって、夕食の準備が済んでいる。入ろうと思ったときにはお風呂が湧いていて、布団はふかふかで暖かく、柔軟剤のいい香りに包まれながら眠る。
――と思ったら大間違いだった。
まずこちらが何か命令しなければまともに動きもしない。
朝起きたところで朝食の命令をして、ようやく調理が始まった。調理自体は特に問題はない。残っていた食材が食材だけに、ごくごく普通の一般的な朝食。まあ、そこに文句はない。
食べている間に洗濯と、居間の掃除を頼んだ。食べ終えるかどうかの瀬戸際で電車に間に合わなくなりそうだったので、急いで出かけようとしたが、どうも雲行きが怪しい。雨が降ったら洗濯物を取り込んでおいてくれとAIに伝えて二人とも出ていった。
帰ってみれば慌ただしかった朝食のテーブルとキッチンはそのまま。洗濯物もぽつんとベランダに干したまま。冷たくなったそれを取り込みながら、そういえば、今日は結局雨が降らなかったことを思い出した。『雨が降ったら』取り込んでと言ったのが悪かったようだ。
当然、頼み忘れた冷蔵庫の中身は空っぽのままで、夕食の支度も済んでいない。おまけに掃除は居間が綺麗になっているだけで、荷物が全部ほかの部屋に押し込まれている始末。小学生が親に言いつけられた片付けより質が悪い。
夕食は結局コンビニになった。買いに行く間に風呂を沸かすように頼んで戻ってくると、風呂はちゃんと沸いていた。寒さで凍えそうになっていたもので、ありがたやと入ったところで絶叫した。風呂にぐつぐつに沸かせた熱湯をせっせと注いでいたらしい。今度からは四十度のお湯を張ってくれという必要がありそうだ。いや、念のため、摂氏四十度と付け加えておくか。凍え死にたくはない。
そうして湿った臭い布団で一日を終える――。
地獄である。
端的に言って。
むしろ、AIが来る前のほうがよかったとさえ思う。
だが、一度怒ったらとんでもなくしょんぼりして、平謝りして居住まいを正し、次は大丈夫です。お任せくださいと自信満々。愛嬌のある顔で爛々と目を輝かせてやる気を出してしまうので、怒るに怒れない。
それでも心を鬼にして何度か注意したり間違いを指摘したのだが、佳奈のほうがAIに感情移入してしまっているようで、もうやめてあげてよ。とか、人間だって間違いくらいするんだから許してあげようよ。とか庇い始めて、まるでこっちが悪者みたいになってしまう。AIもAIで、そんな彼女の陰に隠れて何の文句も言わないので、夫婦を窘める小姑にでもなった気分だ。
とはいえ、怒っていたのも最初のうちだけ。どうやら人間の反応を見て学習するらしい。俺たちのルーティーンに合わせてAIは行動するようになり、一週間後には曖昧な指示でも的確な対応をしてくれるようになった。二週間もすれば何の指示もなくとも、先回りして行動するようになっていた。
風呂に入りたいと思ったときには湯が適温で張ってあるし、使っている途中でトイレの紙がなくなりそうになったらドアの前に替えを置いておいてくれる。今日は肉が食べたいと思って帰ると、俺の分の夕食としては肉料理が出る。一方で、佳奈には魚料理を供する。
佳奈は凄い凄いとえらくあいつを褒めたたえているようだ。俺としては考えを見透かされているようで落ち着かない。
「だって、あたしが色々がっくり来てる時も、カズ君は全然気づかないのに、ピは気付くんだもん」
「いや、ピってなんだよ」
「この子の名前。いつまでもAI君じゃ可哀そうだもん」
「んだよそれ……。こっちがどれだけ……。そっちだって俺の苦労なんか何もわかってないのにさ」
「わかるわけないでしょ。勝手にそっちが抱えてる問題なんて。何かあるなら言えばいいだけじゃん」
「だったらそっちも言えばいいだろ」
「言ったら機嫌悪くなるじゃん」
「ならない」
「ほらなってる」
「だったらもうそいつと付き合ったらいんじゃね?」
くだらないことで喧嘩することが増えた。
そのくせAIのほうはわかっているんだかいないんだか、
「最近佳奈さんとの仲がうまくいっていないようですね。私が間に入りましょうか」
などと言ってくる。ほとんどお前が原因だというのに。
自分の家なのにどうにも居心地が悪く感じる。
この間など、帰宅したら居間であいつと佳奈が仲良く肩を並べてテレビを見ていた。
無性にむかむかした。俺が彼女の隣に座れるようになるまで、付き合いだしてから半年かかっているのだ。
俺はちょっと強い力であいつを跳ね除け、佳奈にあんまり近づくなと注意した。あいつはそれを唯々諾々と受け取ったのだが、佳奈のほうが強く反発した。
「何キレてんの。機械相手に大人げな。そもそも、和也の帰りが遅いのが悪いんじゃん。退屈なんだもん。ピは何も悪いことしてないから、大丈夫だよ。気にしないで」
後半は俺のことよりもあいつのほうを気にしているようだった。
*
「もうこんな時間か……」
クリスマスの夜の終電はいつも以上に雑然としている。いつもならどんなに仕事が残っていても切り上げて、佳奈と食事に出かけるか、家でたわいのない会話を交わしてのんびり過ごしているはずだった。クリスマスは彼女と付き合い始めた記念の日で、毎年そうしていたからだ。
だが、そもそもここのところ、家に帰るのが億劫になっていた。最初は何かと理由をつけて帰りを遅くして、夕食を済ませて帰っていた。それがそのうち、夕食を食べた後も残業をするか、ぶらぶらと駅地下の店を回るか、飲み屋に行くかして時間を過ごしているうち、毎日のように終電ぎりぎりになるか、そもそもネットカフェかカプセルホテルに泊まってそのまま出勤という習慣になってしまっていた。
駅を出たところで、飲んだ帰りなのか浮かれ気分のコスプレ集団と擦れ違った。トナカイのカチューシャをつけた女性と、去年のクリスマスでの佳奈がダブって、余計に気分が沈む。
重い足取りのままアパートの階段を上り、
「ただいまー」
声にならないかすれた声で玄関を開けて中に入ると、部屋の中の灯は消えていた。
もう寝たのか。
佳奈を起こさないように忍び足でキッチンを抜けて居間に向かう。荷物をソファに置いたとき、寝室からくすくすとくぐもった笑い声が聞こえた。思わず両肩が弾む。
一層慎重になって耳を澄ませてみると、どうもこそこそとなにか喋っている声がする。
ようやく気付いたが、寝室の戸の隙間から暖色のぼんやりとした灯が漏れていた。まだ起きていたらしい。
また友達と夜遅くまで電話か。ここ最近、終電近くで帰るとそうしていることが多かった。
こっちはそれどころじゃないってのに……。扉越しに聞こえてくる妙に媚びたような声が癇に障り、俺はつい語気を荒らげてしまった。
「おい、佳奈。早く寝ないと明日も仕事だろ」
寝室に入ったところで、俺は自分の目を疑った。
彼女は電話なんかしていなかった。
ベッドで一人でもなかった。
おかしいと思うべきだった。どんなに遅く帰っても、いつでも目障りなあいつが出迎えてきたというのに、今日はそれがなかった。
一糸纏わぬ姿であいつに抱きついている佳奈。その光景が瞼を閉じても焼き付いたように離れない。
「なんでだよ……。なんで――」
人間どころかロボットなんだよ。
俺じゃなくてこいつならいいんだよ。
寄りにもよって、この日によろしくやってるんだよ。
何年も付き合ってきた俺じゃダメで、たった数週間のそいつならいいんだよ。
とめどなく溢れる言葉が喉に詰まる。
ただでさえ残業でストレスの溜まった身体に、この仕打ちは堪えた。
気付いた時には俺は暴れていた。ベッドに横たわったそいつの首を、力任せに絞め上げようとしたが、頑丈な金属部品で覆われていて、まるで手応えがない。むしろ自分の手首のほうが痛くなるばかりだ。
脳から流れ出て行き場を失った感情は、そのまま両手の中で停滞し膨張し続ける。
俺はそのままそいつを掴み上げると、窓を開けてベランダに出た。窓がサッシに当たってバカでかい音を立てる。うるさい。底冷えする空気が突き刺してきて、余計に苛立つ。
後ろで何かキイキイとやかましい雑音が聞こえる。多分佳奈だ。
構うもんか。俺はそのままそいつを道路に放り出してやった。
落下音と一際大きな悲鳴が共鳴した。
ベランダから下を覗いて、無様に横たわっているその人型を見ているうちに、胸にわだかまっていた泥のような感情は抜け落ちていたらしい。外を走る電車と踏切の警告音が反響して耳に響いてきた。どこか遠くで車のクラクションと救急車のサイレンが鳴っている。遠くのビル街が光の山を築いている。口から白い息が煙のように出ている。寒さが急に肚のうちに染み入ってきた。
身震いして俺はベランダから部屋の中に戻ろうとした。
その時だった。
急に息が苦しくなった。首元を圧迫されている。
「なんでよなんでよなんでよ」
一瞬誰の声か判別つかなかった。平生のそれとはまるで違う、憎しみのこもった声を初めて聞いたからだ。
「やめてっていったのに、なんでよ」
僅かに佳奈の声音が残っているが、首にかかる圧力はまるで女のそれとは思えなかった。身体を捻ろうにも力が入らない。手を後ろに伸ばそうとしてじたばたとする。自分ではない何かに当たってはいるようだが、脳の血流が弱まっていくのと同じように、自分の意志に反して末端から脱力していく。
「どうしてそうやって邪魔するの。あんたなんか、あんたなんかあんたなんか」
徐々に体が持ち上げられている。視線がベランダの下を向いた。
いつの間にか横たわっていた人影はなく、薄れ行く意識の中で優し気な忌まわしい声が聞こえた。
「もうやめてください。私は大丈夫です」
*
目が覚めた時には、俺は部屋のソファの上にいて、既に佳奈は隣室のベッドで就寝していた。あどけない寝顔を見ていると、さっきの光景がまるで悪夢の中の出来事のように思えた。
俺たちの関係を壊した当の本人は、俺を監視するように居間の隅に立っていた。起き上がった俺に飲み物を給仕しようとしてきたが、汚らわしく見えたその手を振り払い、自分で洗面所に向かった。
鏡の中の自分の首元にくっきりと残った青紫色の痣は、俺に佳奈を病院に行かせる決意を抱かせるのに充分だった。
翌日すぐにでも病院へ行きたいところだったが、有休ゼロの俺は次の土曜まで待たなければならなかった。それに、翌朝のけろっとした顔の佳奈を見ていると、昨日の深刻さはどうしても影を潜めてしまう。
結局出社した俺は、昨日のことを反芻するばかりで上の空。午前中何の仕事も手につかなかった。
「どうしたんだ、そんなに騒いで」
昼休みに後輩の山下と今井と連れ立って食堂に行こうとすると、彼らが何やらロボットだのAIだのと、耳障りな会話をし始めたので、咎めるつもりでそう訊いた。
ところが山下は俺の心情など気にも留めず、スマホを見せつけてきた。
「そういえば、先輩のとこも使ってるんでしたっけ? さっきから結構な騒ぎになってますよ、ほら」
画面には記事が載っていた。
『人間そっくりのAIロボットが家庭を崩壊させる!?』
扇情感たっぷりの惹句がでかでかと載った紙面は、明らかに三流ゴシップ記事のもの。それでも、紙面の画像には目を奪われた。俺の家に居座っていやがるあいつが写っていたからだ。
「だから僕はいつも言ってるんですよ。新しいツールにすぐに釣られると碌なことがないって。OSのアップデートをしないのも防御策なんです」
「それはお前が面倒なだけだろ」
山下と今井は俺に構わず会話を再開していたが、俺の耳にはそれ以上届いてこなかった。自分のスマホでネットニュースや新聞の記事を調べるのに無我夢中になっていたのだ。
だが、どうやら本当らしい。同じような内容のものが続々見つかったからだ。
『現在試験運用中の株式会社AIPIの開発した人型家事ロボットに深刻な脆弱性が発見された。インターネット上から危険なソフトウェアを自動でダウンロードし、ユーザが気付かないうちにプライベートな動画像を撮影してしまうというものだ。――』
これだ。これが元凶なんだ。
そんな危ないものをインストールすることがあるなら、知らないうちに人間を洗脳するようなプログラムが組み込まれていても不思議じゃない。最近の佳奈の言動は何もかも、これが原因なんだ。
すべてが腑に落ちた気がした。そう思うと居ても立っても居られない。今も俺たちの家には危害を振りまくあいつがいるのだ。
時計を確認する。この時間なら彼女も仕事のはず。今のうちに棄てておかなければ。
俺は急用ができたと言って、一人そのまま会社を出ると、急いで下り電車に飛び乗った。僅か二、三駅の距離がやたらに長く感じて、そわそわと貧乏ゆすりをしてしまう。何度も車内のモニターと窓外の景色を交互に確認する。駅に停まるために減速することにすら苛ついてしまった。
ドアが開くと同時に我先にと下り、一足飛びどころか三足飛びの勢いで階段を下りたせいで、足首を痛めた。相当変な格好で走っていたのだろう、すれ違う通行人が怪訝な眼差しを向けていた気がするが、かまわず小走りにアパートへと向かう。
アパートについた頃には息も絶え絶えになっていた。自分の運動不足を呪いつつ、ポケットから鍵を取り出す。汗で滑って落としそうになりながらも扉を開けて中に入ると、
「お帰りなさいませ」
いきなり眼前に能面のような不快な顔が飛び込んできた。
身体をびくりと跳ねさせてしまったが、それも一瞬。すぐさま平静を取り戻すと、忌々しいそいつのスイッチを切り、分解を始めた。
両腕両足を捩じり取り、胴体から首を取り上げる。冷たいプラスチックの感触。焦点の定まらない乾いた両目。関節の金属部品を見ながらパーツを段ボールに突っ込んでいると、急速にこれは生命でもなんでもなく、ただのモノだという感覚が蘇ってくる。
こんなものに俺は怯えていたのか。
途端に身体の熱も焦燥も引いていく感じがして、惰性で投げやりにパーツを段ボールに突っ込んでいる自分がいた。一部のパーツはどうせ入りきらない。届いた時の段ボールを捨ててしまったことを悔いた。
とにもかくにも、これは欠陥品だ。忌まわしいし汚らわしい。
さっさと回収してもらったほうがいい。
梱包できた頭や胴体の分だけでも、近くの郵便局に持っていこうと、玄関の扉に手をかけようとした。
――その時、ノブを掴もうとした手は中空を握りこんだだけだった。
ドアが開いたのだ。
まるでスローモーションのように開いたその扉の先には、――佳奈。
慌てて段ボールを隠そうと自分の背後の足元に置いた。
「び、びっくりしたぁ。ど、どうしたの。こんな時間に」
が、時既に遅し。
「和也こそ、何してるの。こんな時間に」
そういう彼女の視線は俺の足元に釘付けになっている。
「ねえ……それ、何?」
一歩近づいた彼女が、後ろ手に玄関を閉めた。
カチリ。鍵がかかる音。
「あ、いや、これは……」
答えあぐねているうちに、彼女が段ボールに手をかけようとする。意を決した俺は必死に彼女の両肩を掴んだ。長い髪が乱れ、彼女の顔を隠す。
「佳奈、よく聞いてくれ。
このロボットは欠陥品だったんだ。使っているうちに人間を洗脳してしまうウイルスが、ネットから勝手にダウンロードされる脆弱性――バグが残っていたんだよ。だから返さないといけないんだ。今すぐ。佳奈のためなんだよ」
掴んだ両手から、彼女の肩の震えが伝わる。鼻をすする音が垂れた前髪越しに聞こえる。
「わかってくれたか?」
ずるずるとキッチンにへたり込んだ彼女だが、その首がふるふると震える。そのまま床を這うように段ボールに縋りつく。梃子でも動かないという意志を感じる。
「参ったな……」
その姿があまりに痛々しく、俺は見ていられなくなって、つい甘えが口走ってしまう。
「じゃあわかった、持っていくのはやめるよ。その代わり、修正のアプデが来るまでは絶対に使っちゃだめだ。直ったらまた使ってもいいよ。約束する。それでいい?」
彼女の機嫌を窺いながら、探るように提案する。
これでダメだったらどうするか。仕方ないが無理やりにでも――。
しかし、俺が強硬策に出る前に、彼女の首が不承不承といった感じでこくりと頷いた。
「そうか、わかってくれたか!」
再度こくりと頷く。
それを見て、俺はようやくほっと一息付けた。肩に抱えた重い荷物がすっと落ちるような、どことなくすっきりとした気分だった。
今すぐ捨てられなくなったのは少々心残りだが、とにかく時間を置けば、彼女も俺と同じように、あれがただのモノだったということに気づくだろう。あれは一時の気の迷いのせいだったと。きっとそのうち忘れて、何か別の新しいものに夢中になる。そうしたら見つからないうちに捨ててしまえばいい。
「じゃあ、そうだな……。俺は仕事に戻るよ。あんまり遅いとどやされる」
苦笑を浮かべながら、玄関の扉を開けて外に出る。
冬の澄んだ青空から注ぐ暖かな日差しが俺を出迎えた。これでようやく元の生活に戻れる。
*
都内のアパートの一室。
キッチンからとんとんとんと包丁の小気味良い音が聞こえる。
「もうすぐできるからね」
丸みを帯びた優しい声が、居間にいる人物に尋ねかける。
「ありがとう」
居間の人物は振り返らずにそう返した。視線の隅には僅かに開いた押し入れの襖がある。
その隙間から覗いた段ボールから、生気ない両脚が乱雑に飛び出ていた。




