呪いが解けたので、口も心も軽くなりました
義兄の最後の独白に少し言葉を足しました。12月3日
私はアンスクレ侯爵家で侍女として働いておりますイジスと申します。
生まれつきではないのですが、私は口が利けません。八歳の時に義兄を事故で失ったショックから喋れなくなったと思われていますが、それは違います。
これは義兄が私にかけた呪いなのです。
◇ ◇ ◇
私の母は、女学院卒業後、子爵家に嫁ぎました。私が四歳の時、父である子爵が亡くなりました。母は男児を産まなかったので、後継になれない女児など不要とばかりに、前子爵は母と私を追い出しました。
母の実家は兄が継いでいて、子供も三人おりましたので、私を連れた母が出戻って迷惑をかけることはできませんでした。
ですから母は、婚家からもらった手切れ金と、お針子の仕事を見つけてきて、市井でなんとか暮らしてゆくことにしたのです。
ある日母は、街中で偶然、父の知り合いと出会い、やがてその人と再婚しました。
義父となるその人は伯爵で、六歳になる私も引き取ってくれました。そして、実の子と同じように教育を与え、育ててくれました。そのことは本当に感謝しています。
やつれていた母も、婚家にいた頃より健康的で明るくなったように見えました。
その家には、私より五つ年上の義兄アクセルと、二つ年上の義兄エンゾがいました。前の奥様の子供で、奥様は五年も前にご病気で亡くなったそうです。
アクセルとは年が離れすぎていたので交流はありませんでしたが、二つ年上のエンゾはとても面倒が見よく、まめに私の世話をやいてくれました。
勉強を見てくれたり、マナーをチェックしたり、ダンスも一緒に習いました。私のドレスを作る時は、あれこれと注文を付けて、私以上に熱心に考えてくれました。
周りはそんな義兄と私を微笑ましそうに見ていましたが、私は次第に怖くなってきました。
エンゾは私の希望を聞かないのです。イジスにはオレンジ色が似合う、イジスはリボンよりレースを多くしたドレスの方がいい、髪は高いところで結んでほしいなど、自分が望むイジスを作り上げようとしているようでした。
私の食べるものも、私が読む本も、私が弾くピアノの曲も、すべてエンゾが決めるのです。
「あらあら、本当にイジスはエンゾの言いなりね」
母が微笑みながら言います。
「イジスの可愛らしさは、全部エンゾが作り上げたな。イジスの良さを一番分かっているのはエンゾだ」
義父も楽しそうに言うのです。
私は皆が望むイジスでいなくてはならないと思うようになりました。エンゾを好きなイジス、イジスを大切にするエンゾ、仲の良い兄妹を微笑ましく見守る両親。その幸せを、私のせいで台無しにしてはいけないと思ったのです。
ある日、エンゾに図書室に行こうと誘われました。
「魔法の本を見つけたんだ。ずっと昔のご先祖様が隠していた本だ。姿を消すとか、動物に変身するとか、色々載ってる。一緒に見よう」
私は心惹かれました。
エンゾの前から姿を消したかったからです。
二人で机の上にその分厚い本を置きました。装丁がボロボロで、綴じ糸も切れそうでした。
「ゆっくりね。壊れそうだから」
エンゾはお目当てのページがあったようで、紙がはさんでありました。
「これだよ、イジス」
エンゾがあるページを指差しました。
「これは?」
「喋れなくなる魔法」
「喋れなくなるなんて、魔法っていうより呪いじゃないの?」
「そうかな、僕にとっては祝福だよ」
エンゾは私をじっと見つめました。
「イジス、僕を見て。僕のことだけを考えて。僕の言う通りにしてね。ずっとだよ」
「な、なに、エンゾ兄さま、やめて、怖い」
エンゾは私の喉元に人差し指を当て、耳に馴染みのない古い言葉でなにかを呟いています。本能的な恐怖が足元から這い上がりました。
「!!!!」
いやっ、と叫んだつもりが声が出ません。口を開けて喉を震わせるのに、出てくるのは息だけです。
「やった! イジス、成功だよ。これでイジスは僕のものだ。イジス、最近、僕の言うことを聞きたくないんでしょう。ダメだよ。イジスのことを本当に分かっているのは僕なんだから、イジスは喋らなくていいんだ。僕がイジスをすてきなレディにしてあげる。僕だけの完璧なイジスだ」
うっとりと私を見つめるエンゾは、私ではないイジスを見ているようでした。
「おいで」
と、差し出された手を取って、私はエンゾと図書室を出ました。中庭に出たところで、私はエンゾの手を振り払って走り出しました。
「イジス!」
エンゾが追いかけてきます。八歳の私が、十歳のエンゾに追いつかれるのはすぐでした。白いリコリスの咲く花壇のところでエンゾに腕を掴まれ、恐怖のあまり思い切り身体を回転させ、エンゾを払いのけました。
勢いがついていたエンゾは、私に振り回され、倒れました。
ガッ、という音がしたようにも、空耳のようにも思えました。
花壇のレンガに頭をぶつけたエンゾは、そのまま横向きに倒れています。頭の下に赤い血だまりが広がっていきました。
「!!!!!!!!」
きゃああああ! と叫んだつもりが声が出ません。泣きながらしゃがみこんでいると、庭師がやってきて、エンゾ兄さまと私を発見しました。
それから大騒ぎでした。
私は事情を聞かれても、声が出ません。泣き声もでないのです。
シュウシュウと息だけで泣き続ける私のことを、両親は、エンゾが亡くなったショックで声が出ないのだろうと判断しました。
「辛いわよね。あんなに仲が良かったもの」
そう言って私を抱きしめて一緒に泣いてくれました。
違うのです。これはエンゾの呪いなのです。でも、それを説明できる相手もいませんでした。
図書室にあったあの本は、その後探しに行きましたが見つけられませんでした。
呪いをかけたエンゾが亡くなったので、私の呪いを解ける人がいなくなりました。私は永久に声を失ったのです。
声の出ない伯爵家の息女など、嫁入り先がありません。なので私は自活できるように、メイドか侍女を目指しました。声が出ない娘など、庶民として独り立ちできるとは思えません。
それならと、教養とマナーを身につけ、ピアノや刺繍の腕を磨き、筆談で雇ってくれるところを両親が探してくれました。
それが、アンスクレ侯爵家でした。
◇ ◇ ◇
アンスクレ侯爵家は、貴族にしては珍しく家族の仲が睦まじいと評判の家でした。
侯爵様は領地を見事に経営なさり、奥様をとても大切にしています。
奥様も上品で、慈善事業にも積極的で、若い貴族の娘さんをお茶会に招いては、社交界での振る舞いを優しく教えたりしています。
嫡男のジュール様は、たいそう整ったお顔立ちに、王立学園を優秀な成績で卒業なさり、侯爵様の後を立派にお継ぎになるだろうと噂されています。たいそうおモテになりましたが、結婚相手は堅実に、伯爵家から奥ゆかしく賢いオフェリー様をお迎えになりました。
ジュール様の弟君は外国に留学中で、二人いる妹君はどちらも立派な家にお嫁入りしています。
このように、傍から見れば完璧なアンスクレ侯爵家ですが、内情はまるで違います。
それが、口の利けない私を侍女として迎え入れてくださった理由です。
私がアンスクレ侯爵家に仕えて五年が過ぎ、昨日で二十歳になりました。
朝起きた時から喉の調子がおかしく、風邪でも引いたのかと急いでうがいをしたり、厨房に行ってすりおろしたショウガとハチミツをいれたお湯を飲んだりしました。
その後はいつも通り午前中の仕事を終わらせ、ひとり遅めの昼食を取っていました。
よそったばかりのスープが熱々で、思わず、
「熱っ」
と、声が出ました。
「え?」
私は思わず喉を抑えました。昔から常にモヤモヤしていた喉が、今はスッキリしているのです。
「声が出る?」
声が出ます。この衝撃を、私は冷静に受け止める自信がなく、侍女長に筆談で、体調が悪いので休ませてほしいと伝えました。
普段、決してさぼったりしない私は侍女長に信頼されています。
「温かくして眠りなさい」
と言って、快く休みをくれました。
丸一日、目覚めることなく眠り続けました。
あまりに眠り続けるので、侍女長やメイドが時々覗きに来てくれたそうです。気配にも気付かず、微動だにしない私がこのまま死んでしまうのではと怖くなったそうです。
私は無事に復活しました。
声も十ニ年ぶりに復活したのですが、それは黙っていることにしました。現状に不満がなかったことと、喋れるようになったことで、侯爵家の裏の部分を知り過ぎている私が邪魔になるかもしれないと思ったからです。
私の知るアンスクレ侯爵家の裏の部分はというと。
侯爵様にも奥様にも、昔から愛人がいました。それぞれ、相当な額を貢いでいます。揺るがないだけの資産があるので、そこは構わないのでしょう。お互いに承知しているようです。
また、領地を経営しているのは従弟の方で、侯爵様は書類を読み、サインをするだけです。それでも一度見た文書はすべて暗記できるので、過去の数値と比べておかしいところがあれば指摘できます。なので、侯爵様の目に留まる書類はごまかしが利きません。
けれど、侯爵様が現地を訪れることはないので、理由と数字が整っていさえすれば、領地の現状と合わなくてもサインがもらえます。こうして領地では色々な不正がまかり通っています。
いずれあちこちで齟齬が生じ、厳しい現実に直面するのではないでしょうか。
奥様は上品な方で、貴族令嬢に優しいとのことですが、嫡男のジュール様のところにお嫁にいらしたオフェリー様にはたいそう厳しく当たられます。歩き方からフォークの持ち方、紅茶を飲むタイミング、夫への声のかけ方、よくぞそこまで目が届くものだと思うほど、小さなことを幾つも指摘なさいます。
しかも、日によって言うことが違うのです。なのでいくらオフェリー様が勤勉でも、奥様のお眼鏡にかなうことはないのです。賢く奥ゆかしかったオフェリー様は、おどおどと自信無さげな女性になってしまわれました。
夫であるジュール様にいたっては、最初からご両親の決めたこの結婚が気に入らず、結婚式の控室で、オフェリー様に白い結婚を宣言なさいました。
オフェリー様のドレスを整えていた私は、口が利けないことをこの時ほどありがたく思ったことはありませんでした。他の者なら思わず声を上げて、ジュール様の不興を買ったことでしょう。解雇されたかもしれません。
ジュール様の弟君は、嫁入り前のメイドに何人も手を付けたので、羽目を外すならよその国でやれと、留学に出されました。あちらで品行方正にしているとはとても思えません。いつか侯爵様が尻拭いをすることになるのでしょう。
二人の妹様たちは、比較的まともな方たちでした。早々に侯爵家に見切りをつけて、お嫁に出て行かれました。それ以来一度も里帰りをされておりません。
侯爵様たちも、それを何とも思っていないようです。これが本当に仲睦まじいご家族でしょうか。
声が出せるようになった私は、あることを思いつき、実行することにしました。
ある日、オフェリー様が侯爵様の執務室に呼ばれました。
侯爵様夫妻とジュール様の三人はソファに腰かけ、呼ばれたオフェリー様には座るように言いませんので、オフェリー様は立ったまま話を聞くことになりました。
こういう場には口の利けない私が呼ばれ、お茶を淹れることになっています。
まず、侯爵夫人が口を開きました。
「オフェリーさん、あなた、アンスクレ侯爵家に来て、今日で三年なのを分かっているかしら」
「はい」
「貴族夫人として、いちばん大切なことは何だと思って?」
「・・・」
「跡継ぎを産むことよ。一人では不十分。それに、有力な貴族と縁を繋ぐ女の子も産むべきだわ。それが何? 三年待っても一人も産めないなんて」
「母上、今さら叱っても、この女は孕みませんよ」
「そんな女にアンスクレ家は三年も無駄にした。離縁だ。この書類にサインしろ」
侯爵様は用意してあった離縁届をオフェリー様に差し出しました。
オフェリー様は迷わずサインをして、テーブルの上に置きました。そしてクルリを背を向けて、執務室から出て行こうとしました。
「待て」
侯爵様が呼び止めました。
「なんでしょう」
「三年もの間、ただ飯を喰らっていたんだ。お世話になりましたの一言くらいあってもいいだろう」
「そうよ、それに、跡継ぎを産めなくて申し訳ございませんでした、と誠心誠意謝ってほしいわ」
奥様も居丈高に言い募ります。
「嫌です」
オフェリー様がきっぱりと拒絶しました。
「何だと」「何を言うの」「何のつもりだ、オフェリー」
ジュール様まで参戦してきました。
「私が子を産めないのは、ジュール様のせいです」
「ふざけるな、オフェリー、勝手なことを言うな!」
ジュール様が激高しました。
「何を言いたいの? ジュールが子ができない体質だとでも言うつもり?」
「いいえ、よそ様のお嬢様を妊娠させておきながら、お金を払って堕胎させていますもの、子種は十分にあるでしょう」
「ジュール、それは本当か」
侯爵様がジュール様に詰め寄ります。
「ばか、言うなって言ったろう」
「いずれ男爵家と子爵家から抗議がくると思います。平民の方々は黙っていてくれるでしょうか。それとも隠れて産んでいるかもしれませんね。さあ、何人が認知してくれと訪ねて来るでしょうか」
「おい、ジュール、それは本当か。庶民にお前の血が入っていたら厄介だぞ」
「オフェリーさん、話をすり替えないで。ジュールに子どもを産ませる能力があるなら、なぜあなたは妊娠しないのよ」
「結婚式の日に、ジュール様から白い結婚の宣言をされましたから」
「何ですって!」
「それで子が産めるのなら、私は妖精か何かでしょうか」
「嘘を言うな。俺はそんな宣言はしていない。オフェリーの方が閨を断っていたんだろう」
「いいえ」
私は思わず口を挟んでしまいました。
「「え?」」
侯爵夫妻とジュール様が、まじまじと私を見ます。
「ジュール様がオフェリー様に、結婚式の控室で白い結婚を宣言したのは本当です」
「お前、なんで口が利けるんだ。騙していたのか」
ジュール様が、今度は私に向かってきました。
「いいえ、つい先日、体調が悪くて丸一日眠っていた日がありましたが、その時から声が出るようになりました。八歳から十二年間、声が出せなかったのは本当です」
「そう言えば、口が利けるようになったことですし、いくつか至急確認したいことがあるのですがよろしいでしょうか。
まず、旦那様が購入したエメラルドの指輪、あれはどの項目に記入すれば良いでしょう。いつも通り交際費ですか、それとも奥様の服飾費に計上してしまいますか。
それと、奥様が発注なさったタキシードは、いつものように旦那様の方に入れておきますね。
ジュール様の方は、愛人様に住まわせている家のメイドが一人辞めたそうですが、ジュール様が手を付けたからだと愛人様がお怒りです。早々に機嫌を取った方がよろしいかと思いますよ。また何かねだられると思いますので、請求書は早目に回してくださいね。支払いが遅れると、侯爵家の威信に関わりますから」
唖然として聞いていた侯爵夫妻とジュール様でしたが、我に返ったように、お互いを罵り始めました。
「おい、お前、愛人にどれだけ貢いでいるんだ」
「あなたこそ、私にはもう何年も指輪なんてプレセントしてくれたことがないじゃありませんか」
「自分で好きなものを買っているからいいだろう」
「ジュールも愛人に好き勝手させるだなんてまだ早いぞ。跡継ぎも生まれてないじゃないか。それより白い結婚だと、ふざけるな。オフェリーの家から慰謝料を請求されたらどうするんだ」
ヒートアップする三人をよそに、私は離縁届をポケットに仕舞い、部屋から出て行ったオフェリー様を追いかけました。
オフェリー様は玄関を出て、門の所にいるご実家の馬車に向かっているところでした。
「オフェリー様!」
私は駆け寄って、オフェリー様に離縁届を手渡しました。
「早めに提出してください」
「ありがとう、イジス。この日をどれだけ待ちわびたか。一人では勇気が出なかったけれど、あなたのおかげで実家にも連絡が取れたし、こうして迎えにも来てもらえた。本当にありがとう」
「いいえ、オフェリー様はよく頑張りました。アンスクレ侯爵家は、これから傾いていくでしょう。こんな泥船からは逃げるが勝ちです」
「でも、あなたはどうするの?」
「私は・・・」
「このまま屋敷にもどったら、ひどい目に遭わされるかもしれないわよ」
それはありえます。ただ解雇されるだけならいいのですが、折檻されたり監禁されたら人生、詰んでしまいます。私はあの時、黙って見届けるつもりでした。そうすれば離婚届もアンスクレ侯爵が提出して、すんなり片がついたでしょう。
それでも黙っていられなかったのです。これまで耐えに耐えたオフェリー様の名誉を守りたかったのです。
「いらぬお節介をしてしまいました。申し訳ありません」
「いいえ、いいえ。最後に本当のことを侯爵様たちに知ってもらえて良かったです。あの時の、あの方たちの顔、今思い出しても笑えます」
「お嬢様、そろそろ」
御者さんがじれています。
「もうお嬢様じゃないわ。それより、あなた、あの屋敷に大事なものはあるの?」
「いえ、お仕着せのものしかありません」
「じゃあ、一緒にいらっしゃい。今度は私が力になるわ」
オフェリー様は本当に優しいお方です。だからこそ、足手まといになりたくないのです。黙って逃げれば余計に困ったことになるでしょう。
「オフェリー様、お気持ちは嬉しいです。でも、きちんと手続きを踏んで辞めてきます。そうしたら、働き口を探すのに手を貸してください」
「分かったわ。もし、一週間を過ぎても連絡がなかったら、監禁されているものとして対処するわよ」
「ありがとうございます。心強いです」
こうしてオフェリー様の馬車を見送った私は、屋敷に戻りました。
執務室ではまだ揉めていました。
私は淡々とお茶のカップを片付け、いつもの仕事に戻りましたが、侯爵様は離縁届が消えていることに気付きもせず、奥様と陰険なやり取りを繰り返していらっしゃいました。
ジュール様は愛人様の元に向かったようです。
私は翌日、辞職願を出しました。
侯爵様はそれをじっと見つめて、おっしゃいました。
「この屋敷で見聞きしたことは、これ以上人に話すな。約束できるか」
「心得ました」
「なら、いい」
侯爵様としても、色々なことを知り過ぎていて、何を言い出すか分からない侍女など扱いに困ったのでしょう。思いの外あっさりと、私はアンスクレ侯爵家の侍女を辞めることができました。
そして、私は一度実家に戻ることにしました。
実家では、声が出るようになった私を見て、両親が大号泣しました。
「エンゾも天国で祝福してくれるだろう、本当に良かった」
義父の言葉に心がささくれ立ちましたが、黙ってうなずいておきました。
義兄のアクセルは二十五歳になりますが、まだ結婚しておりませんでした。爵位を継ぐのが嫌だから結婚しないと言っているようですが、本当のところは分かりません。そもそも、私には関係のないことです。
私はこれから生きていく上で、いくつもの選択肢ができました。声が出るようになったからです。
アンスクレ侯爵家で働いていた間のお給料もほとんど使っていなかったので、貯えもそこそこあります。義兄が結婚するまでは、しばらく実家に住まわせてもらって、これまでにできなかったことを試してみたいと思います。
何をしましょうか。それを探すことさえワクワクします。
オフェリー様とは連絡を取っていて、そのうち一緒に観劇に出かけましょうと言ってもらえました。少し前まで若奥様としてお仕えしていた方と、まるで友人のようにお付き合いできるのが夢のようです。
考えてみれば、これまで私に友達はいませんでした。同僚はいましたが、あくまで仕事上の付き合いでした。こんなふうに新しい人生が開けて、今私は楽しくて仕方がありません。
呪いをかけたエンゾ兄様のことは今でも許せませんが、もういないし、どうでもいい人です。
義父が言うようにエンゾ兄様が本当に天国にいるのなら、私は天に向かって叫びます。
「もう私はエンゾ兄様のものじゃあなーい!」
◆ ◆ ◆
あの日、私は二階の窓から中庭を見下ろしていた。そして図書室のある建物から、イジスとエンゾが走り出してくるのを見つけた。
先に走っていたイジスにエンゾが追いつき、イジスの腕をつかんだ。
相変わらず仲の良いことだと思って眺めていたが、つかまったイジスは体をよじってエンゾを振り払った。
エンゾは勢いよくリコリスの花壇に倒れ、動かなくなった。身じろぎもしない。
まさか死んだのか?
イジスが泣いている。エンゾのためになんか泣くんじゃない。
その日の夜、私は昼間エンゾたちが出てきた図書室に行ってみた。
分厚く古い本が開きっぱなしになっていて、紙が挟んであった。
そこには、声を出せなくする呪いの方法が書いてあった。なんだこれは。
翌日、イジスがエンゾの死にショックを受けて口が利けなくなったと知らされた。
そうではない。エンゾの試した呪いだ。
本来ならこれは術者が死ねば永遠に解けない。だが、エンゾは子供で十分な効果を発揮できなかったため、相手が成人なら効かなかったし、子供相手なら二十歳になったら解けるのだ。
私はもっと早くイジスの呪いを解く方法を調べたが、ついぞ見つけることができなかった。
私は口を利けないイジスが、自分で生きるためにひたむきに頑張る姿を見てきた。
可哀そう いじらしい 哀れだ 痛ましい
どれもイジスを形容するには失礼な気がした。
イジスは両親が見つけてきたアンスクレ侯爵家の侍女の仕事に就いた。貴族家の中がどんな様子かは伺い知れないが、アンスクレ家は侯爵夫妻が揃って人格者だと聞く。家族仲も良いらしい。そんな環境で働けるのなら、イジスも幸せかもしれないと思っていた。
それなのに、ある日イジスが帰ってきた。
そろそろ呪いが解けた頃だろうと思っていたが、本当に話せるようになっていて感動した。涙をこらえるのがやっとで、ずいぶん素っ気ない態度を取ってしまったかもしれない。
だがもともと親しくしていたわけではないので、それで良いのだろう。人知れず心配をしていたなどと知られない方がいい。
私は呪いのことを両親に言わなかった。二十歳になれば解けることも、イジスに言わなかった。どうしてだか自分でも分からない。
だが、今になって考える。
あの時、呪いのことを言っていたらどうなっていただろうと。両親はエンゾのしたことを許さなかっただろうし、エンゾの死は事故ではなくイジスが関わっていたと考えてしまったかもしれない。
たとえ二十歳になってイジスが話せるようになると分かっていたとしても、家族の関係は変わってしまっただろうと思う。だから私は、口を閉ざしていたことを後悔してはいない。
それに、あの呪いは弟のエンゾがやらかしたことなので、私は兄として責任を感じていた。その償いとして、イジスが幸せになるのを見届けるまでは、私も自分の幸せをつかむまいと考えた。
独りよがりで自己満足な決意だと思う。
いや、嘘だ。
本当は知っている。私はイジスがほしいのだ。エンゾのように、自分のものにしたいのだ。だから結婚を先延ばしにしてきた。
だけど私はエンゾとは違う。この想いは一生誰にも話すつもりはない。イジスにも。
読んでいただきありがとうございました。




