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本を読む男

僕は湖畔の幽霊。

美術館裏の芝生の広場から毎日湖を眺めている。

今日は雲一つない晴天で空を眺めていると落ちてしまいそうだ。

夏の日差しが湖に降り注ぎ、湖面はキラキラと光を反射している。

広場の前を通る人たちもサングラスをかけている人たちが多い。


僕のいる広場には大きな気が植えてあり、豊かな枝ぶりは地面に大きな木陰を提供してくれている。

暑い日だと木陰は人気スポットになる。


今日はこの木陰で男性が本を読んでいる。

大きな木の下で体育座りを崩したような姿勢で左腕で体を支えながら、器用に右手だけで本をめくっている。僕のいる場所からは少し離れているが、男性の様子はよく見えた。


花の絵柄が描かれた特徴的な文庫本を読んでいるようだ。

おそらく「アルジャーノンに花束を」を読んでいるのかもしれない。


僕も昔に読んだことがある本だ。

知的障害を持った男性が、知能を改善する手術を受けて、どんどん天才になっていく話だった。

僕は日本語訳を読んだけれど、本の文体がちょっとずつ知的になっていく読書体験は、唯一無二の体験だったのを憶えている。


文体もかなり衝撃的だったが、主人公の彼が知性を獲得していく過程で、どんどん苦しみに気が付いてしまうところもかなり印象的だ。

仲がいいと思っていた友人たちは、自分の無能を笑っていただけであったことに気が付いてしまったり。

知能が改善を通り越して、それまで付き合っていた友人たちをも超えるほどになれば、今度は恐れられていることに気が付いたり。何をやっても孤独を感じずにはいられない状態に陥るのは少し胸が痛かった。


幼少期は知能の関係で家族との関係も悪く、彼の孤独の根本的な原因も、家族との関係にあるように感じた。

「アルジャーノンに花束を」を読んでいた当時の僕も家族との悩みがあった。

確かに自分の悩みの原因は、自分の幼少期から続く家族との距離感にあるのかなと思ったりもした。

僕の家族たちは今も元気にしているだろうか。


木陰の男性の方に目をやる。

彼は本を閉じて静かに湖を眺めている。

優しく風が吹いた。


「アルジャーノンに花束を」を読んでいて一番怖かったのは、知性を得た男性がだんだんと知性を失っていく場面だった。

知性を得たときは自我が失われるような印象は受けなかったのに、知性を失う時には知性を持った自我がどのどん居なくなっていくのを感じた。僕は意識がなくなることに酷くおびえていた。だから主人公の男性の知性が失われて、これまで理解できていたことがまた理解できなくなる場面で、意識喪失を追体験させられた。僕はあの時、本をめくる手がとても重かった。これ以上読みたくないと思うほど、本能な恐怖を感じていた。


意識を失うことが怖い僕は、死ぬのが何よりも怖かった。


僕は湖畔の幽霊。

美術館裏の芝生の広場から、今日は本を読む男性を眺めている。

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