空模様
僕は湖畔の幽霊。
美術館裏の広場から湖を眺めている。
今日は、頭上には深く綺麗な青空が広がっている。
僕は綺麗な青空だと思って、じっと見つめていた。
しかし、だんだんと、広くて底のない青空が、落ちてしまったら戻ってこられない、大きな穴のように見えてきた。視界一杯に広がる空は、距離感を歪めて僕の足を浮かせた。
僕の体が、ゆっくりと空に落ちていく。空が徐々に近づいてくる。
空にぶつかる、そう感じた瞬間、思わず目をそらした。
目の前にはいつもの湖が広がっている。
地に足が付いている自信がなく、辺りを見渡す。
いつもと変わらない広場があった。だが、広場には誰もいない。
僕一人だけが、雲一つない青空に晒されている。
今日は珍しく、朝から広場には誰もいない。
きっとこの開放感が、僕を孤独にさせて、僕におかしな想像をさせた。
今日の空はなんだか怖い。
広大な自然は、窮屈な世界から一番遠い景色なのに、本来持っている不条理さを、人に思い出させるのかもしれない。僕は陸地で漂流しているような気持ちになる。
できるだけ空を見ないで、湖を見るようにした。
太陽を反射する湖は、波紋が立体感を強調して、果てしない底なし穴の存在をうまく隠してくれた。
僕は何も考えないように、ただ茫然と湖を眺めた。
日没が近づくと、突然空模様が変わった。
先ほどまでの青空は、少しずつ雲に覆われ始めた。
そして、太陽と入れ替わるように、しとしとと雨が降り出した。霧のように細くて穏やかな雨だ。
雨は対岸の景色を、僅かにぼやけさせて、湖からは小さな雨音が聞こえる。
孤独感を強められていた僕にとって、雨の存在はありがたかった。
雨が降ると遠くの音が聞こえずらくなる。
その代わりに、近くの音が聞こえやすい気がする。
静かな雨はとても心地よかった。
広場には誰もいない。
音だけが、ベッドで毛布にくるまった時のように、僕に関わる音だけが傍にいてくれた。
僕だけの世界で、ようやっと安心する時間ができた。
不安が除かれた僕は空を見上げた。空は薄い墨汁のような灰色をしている。
弱く優しい雨が空から落ちてくる。
落ちてくる雨粒が目に入って視界が滲んだ。
瞬きをすると視界が明瞭になる。私は何度も瞬きをした。それからずっと、瞬きをしていた。
突然、人の足音が聞こえた。
空から顔を戻してみると、ちょうど僕の目の前を誰かが横切り、すぐ傍に立ち止まった。
トレーナーにカーゴパンツ姿の男性だった。
部屋着のような恰好で、湖を眺めている。
僕は彼の横顔をじっと見つめる。
口元は力が入り、決して開かないように固く結ばれている。
対照的に目元の筋肉は緩み、熱のこもった目線を、湖に向けていた。
僕はなぜだか、目頭が熱くなった。
視界が滲むのは雨のせいか。
体が縮こまる。これは雨で冷えたからか。
彼は湖を、瞬きもせずに見つめている。
彼の頬が、線を描きながら濡れた。
僕の頬も、同じように濡れている。
彼の頬に触れようと右手を伸ばした。
頑張っても、ほんの僅か、彼には届かない。
僕は初めて、この場所から動いた。
彼に触れるために、一歩、足を踏み出した。




