ボイル
僕は湖畔の幽霊
美術館裏の芝生の広場から毎日湖を眺めている。
今日は早くに目が覚めた。
あたりはまだ暗く、湖は薄絹の静けさを纏っている。
湖畔は日中の暑さを夜のうちに排熱してくれるのか、熱帯夜になることはない。
日の出前の今は、一日で一番涼しいのかもしれない。
僕のいる広場は湖のちょうど東に位置している。
湖のすぐそばには小高い山があるので、この湖で僕のいる場所が一番最後に朝日を浴びることになる。
先ほどに比べて空の色は濃紺になり始めているが、日の出まではまだしばらくありそうだ。
ここで日の出を待つのは何度目だろうか。
日の出を待っていると、夜が明けたと分かる瞬間がある。
辞書の上では、日の出の瞬間からが朝のようだけど、僕は日の出前の曖昧な時間から、朝は始まっているのじゃないかなと思う。
昔は夜明けが嫌いだった。
この時間は、昼間に起きたこと、その時に感じたことが頭の中でリバイバルして、精神的な自傷行為を繰り返す時間だった。
また今日が来てしまうのが、息ができなくて窮屈だった。
ワンルームのこの時間は、孤独な水槽だった。
湖に来て分かったことがある。
夜明けまでの時間は暗くて怖いということ。
そして、大きな空を見ながら迎える夜明けは、窮屈ではないということ。
湖に来た時、湖畔に明かりはなく、いつものように、頭の中のリバイバルが始まりそうだった。
ここでも同じかと不安になったが、視界が制限された分、敏感になった音や触覚、匂いが自分以外の存在を意識させた。
地を這う昆虫。
葦を撫でる風。
風に漂う土の匂い。
見えない代わりに、その他の感性が脳を補完する。
真っ暗な世界で、僕は鮮明な湖畔の景色を見た。
この夜を形作る何かに抱かれて、僕はそっと眠った。
湖の方から”ボシュッ”と音がした。ボイルだ。
昔のことを思いだしていたら、いつのまにか、東の方角が白っぽくなっている。
空も全体的に薄い青色に代わってきた。濃紺は西の空でわずかに残っているだけだ。
まもなく夜が明ける。
夜は濃紺の裾を引きずりながら、西へと下がっていく。
僕は夜を見送りながら、朝日できらめく湖を眺める。
僕はあの時、朝を迎えたのだろうか…
僕は湖畔の幽霊
美術館裏の芝生の広場から朝を眺めている。




