2話
温泉のにおいと湿度が満ちた広い脱衣所の中。黒い猫が威圧するように魔王虎丸を見ている。
「マリンが勇者だなんて決めつけるのはまだ早いよ」
「苦しい言い訳だな。あれだけ輝くオーラを放っているのだから間違いなくあいつは勇者だ。それくらいは馬鹿でも分かるだろう」
虎丸は一糸纏わぬ姿のまま溜息をついた。
紫色の肌をして角を生やした背の高い、これぞ悪魔という見た目の割にどこか自信なさげだ。
「クロは相変わらず口が悪いね。僕が前にいた世界では、黒猫は見た目とは違って甘えん坊な性格だと言っていたんだけどね」
「事実を言っているだけだ」
睨むようなその金色の目には力がある。すべてを見通してるかのように堂々と語るその姿は、魔王である虎丸よりも魔王らい。
「勇者は空を飛び、雲を裂き、海を割るんだろ?しかも大魔王を倒して世界に平和をもたらした?今のマリンにそんな力はないよ」
「今はまだな」
しばらく無言の時間が流れた。
「それについては後から考えよう。確かにあの子が並みの人間とは比べ物にならない力を持っていることは認めるよ。だけど勇者は言いすぎだよ」
「問題を後回しにしても何も解決はしないぞ」
黒猫が金色の目でじっと見る。
「現にマリンは着々と力を伸ばしている」
温泉の香りの中で虎丸は頭を抱えた。
「矛盾だよな………。マリンには強くなって欲しいけど、そうすると大魔王の捜査網に引っかかってしまう。もうすでに一度気付かれているからね、C級の力を持った未登録が現れたから見つけ出せって」
「その程度の戦闘力のやつなんか大魔王が本気で探すものか。どうせ下っ端が騒いでいるだけだ」
「そんなこと分からないじゃないか」
「まさか一生閉じ込めておくつもりか?」
「まさか、そんなことするわけないだろう。戦闘力を隠ぺいする魔道具さえ見つかってくれれば外に出すつもりはあるよ。それさえあれば大魔王の監視から逃げられる」
黒猫が鼻を鳴らす。
「見つかるとは限らないではないか」
鼻を鳴らした後で言う。
「それはそうなんだけど………まあとりあえずは風呂に入って来る。もしかしたらいいアイディアが浮かんでくるかもしれない」
「なんだかんだ言って、大魔王に怯えているだけではないか」
立ち去ろうとした尻に言い放つ。
「そうだよ!」
振り返って堂々と言い返す。
「魔王である僕が勇者を育てているなんてことがバレたら大魔王にぶち殺されるだろ!?かといって今さらマリンを手放すことも出来ない。もうどうすればいいんだよ!」
「情けないことを大声で言うな。たかが大魔王くらい倒せばいいではないか。大魔王だから無敵だなんてことは無いんだぞ」
「簡単に言うな!大魔王の親衛隊ですら山を平らにしたんだぞ?大魔王になんか勝てるわけないだろ!」
叫ぶたびに下半身は揺れる。
「人間だった時の常識は捨てろ」
「捨てれるか!」
大浴場にはすばらしい天然温泉が流れ続けている。
◎◆◎◆◎◆◎◆◎◆◎◆◎◆◎◆◎◆◎◆
「うーーー!」
沢山のぬいぐるみがある部屋の中に、木馬を漕ぐ少女が一人。頬は膨れ、下唇が飛び出し、鼻息は馬と同じくらい荒い。誰がどう見ても不機嫌な顔だ。
「なんでなんでなんでなの!私ばっかり!」
サラブレットのような勢いで揺らされる木馬。
「家出しよう!」
勢いよく立ち上がってこぶしを突き出した。
「私知ってるんだ、人間の町では今クレープっていうのが流行ってるって。あんな頑固者の事なんかもう知らない!」
衣装棚からピンク色をしたリュックを取り出し、しばらく考えた後で着替えを詰め込んでいく。
「私にだって外に出る権利はあるんだ」
机の引き出から白い財布を取り出してポケットに入れる。帽子掛けからキャップを選んで力強くかぶった。
「よし!」
一瞬だけ部屋の扉を見たが、そこに向かうことは無かった。正面から堂々と家出をしたらきっと見つかってしまうから。
とにく気を付けないといけないのはあの黒猫。口が悪いだけじゃなくて、気が付いたらいつの間にか傍にいるという特技があるので、あっという間に連れ戻されてしまうだろう。
マリンが向かったのは使われていない大きな暖炉。柵を押しのけて煙突の中を見上げた。煤は無い。この城の中は魔法の力でいつも綺麗なのだ。
「行ける」
サンタクロースの本を読んでいたら思いついた方法。
ジャンプすると一気に数メートル跳び上がり、一番高いところで両手両足を使って体を支えた。人間突っ張り棒の完成だ。そのまま煙突の内側をガシガシ登っていく。
勇者と評されるマリンの身体能力は相当なもので、手足の力だけで順調に登って行く。本人はいたって真剣だが、見る人によっては変な昆虫に見えるかもしれない。
途中で引っかかった金網は首の力で跳ねのける。そこで少し空気が冷たくなった気がした。多分もうすぐゴール。わくわくする。
満点の星空だった。
「やった!大成功だ」
煙突から顔だけ出してうれしそうに言った。
星の光を反射している屋根の上に立って、景色を360度見渡した。いつも見ているはずなのに、上から見ると全く違うものに見える。
流れ星。
美しくて幻想的だけど、眺めているうちにだんだんとマリンの顔が曇っていく。
「夜だ………」
もちろん分かっていたはずのことなのだけど、家を脱出することに夢中だった。魔王城の周囲はいつも通り濃い霧が出ていて、それが深い森に流れ込んでいる。
夜の冷たい風が白銀色の髪の毛を流す。
「うう………」
マリンは夜が苦手だ。
温かい雨が降ったあの日の夜、魔物が町を襲った。
マリンは地下室の冷たい闇の中にいた。地上からの声と音の反響が怖くて必死に耳を塞いでいた。何も見えなくて、魔物に見つかるかもしれないと思うと震えが止まらなかった。
思い出すと鼻の奥がツンとする。
「今日はやめようかな」
家出をするなら明るい時だ。あの森の中にはたくさんの魔物がいるにちがいない。もしかしたらお化けも。闇をお腹いっぱい吸い込んている広い森の中にはどんなやつだって隠れられる。
いまの私はひとりぼっちだ。
目線を下げて煙突の口の中を見てみれば、小さいけれど柔らかい光がある。脱出なんて簡単だと思っていたけど、この屋根の上と家の中はまるで違う世界だ。
お城の中にいれば何も怖いことは無い。
おいしいご飯を食べさせてくれて、温かいお風呂があって、清潔なベッドがある。なにかあったら絶対に先生が守ってくれるんだ。
いつの間にか景色の美しさなんか少しも感じなくなっていた。
「やめよう」
そう決めたら安心した。やっぱり家出なんて駄目だ、チロルチョコを食べてミルクティーを飲もう。あれはいろいろな味がするから楽しいんだ。
「うん」
引き返そうとしたその時、遠くで人の叫び声が聞こえた。
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