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古武術師範であるじいちゃんとの稽古を終えて家路につく。
この日はいつもよりくたくたで、まあ、油断した俺が悪いんだけど、車道に飛び出た子どもを助けようとして、でも体が思うように動かなくて突き飛ばしただけになってしまった。
本当は抱えてクルッと回って、なんて思ってたんだけど。
子どもは助かったかな、トラックの運ちゃんゴメン、俺が避けきれなかったから。
あと、じいちゃんが自分の所為だと思わないでくれてるといいな……
ドンーー
衝撃の後再び目にしたのは、今まで暮らしてきた世界と違う光景。
何故か距離をとってこちらを窺っているような大勢の男女。男と女でそれぞれ同じ格好をしている。制服か?ここは学校なのだろうか。
西洋を思わせる内装の大広間、天井からはいくつものシャンデリア。最初学校の体育館かと思ったけど見た目も広さも全然違う。こんな場所は知らない。いや、強いて言うならゲーム好きの友だちの後ろで見てたアクションRPGの城の中にこんな場所があったような……
「おい!聞いているのか、イヴリース・レンフロウ‼︎」
名前に覚えは無かったが、おそらく自分に向けられたのだろう声の方を見ると一組の男女がいた。
「私とデボア嬢との仲に嫉妬し、あまつさえ可憐でか弱い彼女に数々の嫌がらせをしてきたお前の所業は許せん!私とお前との婚約を破棄し、その罪を償わせてやる‼︎」
ーー違う!
不意に脳内に響く、悲鳴のような叫び声で別の意識が書き加えられる感覚がする。
目まぐるしく過ぎて行くそれがこの体の持ち主であるイヴリース・レンフロウの記憶であると直感的に理解できた。一瞬の事だったのか、さっきの男が発した言葉の残響が漂っている。
けっこうな衝撃で頭がふらつくけど、大体の事は分かった。
一方的に突っかかってきて嫌がらせをしてきたのはデボアとか呼ばれたあの女の方だったようだ。戸惑いと、傷つけられた悲しみが記憶と一緒に伝わって来た。
同じように隣の男との記憶が流れ込んで来た時、俺が彼女の魂に触れて力を与えてしまったせいなのか、彼女の想いが溢れてきて抑え込むことが出来なかった。
「ドナード様はあの時、私と関係した時に私のことを一生愛し続けると仰ってくれたではありませんか!」
ドナードと彼女が呼んだ男は「で、デタラメだ!恥知らずな」とか慌てふためいていたが、俺にはーー今はまた消えそうなくらい小さくなった彼女にもおそらくもうーーどうでもいい事だった。
出来ることなら止めたかった。それを言うことは彼女自身を傷つけるだけだと思ったし、そんな記憶も言葉も見聞きしたくなかった。
目を背けようにも脳内に直接流れ込んでくるそれを拒むことは出来ない。
少しの怖さと、でも幸せであると感じているはずだった。
記憶を引いて見ていた俺には、あの男がただ己の劣情をぶつけるためだけだったというのがわかり、吐き気を催す程胸クソが悪くなる。
意識のコントロールが自分に戻った今、彼女がどうしたいのかはわからないから、俺が俺のしたいようにすると決めた。
俯いたままだった視線の先には、指が白くなるほど力一杯スカートを握りしめた震える手が見える。ここに立っているだけで、あの言葉を言うだけで、どれだけの勇気を振り絞ったかが痛いほど伝わってくる。
演技する必要もない位ふらつく足取りで奴らに近づきつつ、調息して臨戦態勢を取りながら、勘付かれないようギリギリまで殺気を抑える。
ドナードとかいう奴は踏ん反り返って高慢な態度を取っている。油断しているなら好都合だ。おそらくこちらの憐れな様子にプライドが満たされたのだろう。
そのまま憐れな表情を作りーーこれも全部演技では無いことを哀しく思うけどーー奴の制服を両手で掴むと、思い切り膝を股間に突き上げた。ナニかが潰える感触に男の俺も若干顔を顰めるが、彼女が受けた辱めはこんなものではないと続け様、崩れ落ちる瞬間、絶望と屈辱、喪失感その他を含む情けない顔に肘を喰らわす。
次にデボアとかいう奴に相対する。今度は思い切り殺気をぶつける。
怯んだ瞬間、前蹴りで腹部あたりを狙う。女性には男ほど効かないだろうが筋肉が薄い分ダメージはあるだろうし、こいつにも恐怖と屈辱を味わわせたかった。内股で立ってた為蹴り上げる事は出来ずつま先が引っかかってしまったが、「ヒグッ」と耳障りな呻き声を上げたところを見るとドコか弱い処に入ったらしい。
股間を押さえて膝をつくデボアとかいう奴の歪んで醜い面にサイドキックの形でとどめの踵をめり込ませた。
仰向けに倒れる奴の足元が濡れている。殺気をぶつけた時にデボアは失禁していたようだ。
凍りついたように静まり返った空間で、誰かが騒ぎ出す前に、気取られぬよう縮地で出口に向かって駆け出す。まだまだ練度が足らないし他人の体だけどなんとか大広間を抜け外に出ることが出来た。
送迎の為に待っていたレンフロウ家の馬車を見つけると、馭者に急いで邸に向かうよう告げて乗り込む。
背後で騒ぎが聞こえた気がしたが、動き出した馬車の蹄と車輪の音にかき消され、どこか遠いもののように感じた。
今になって打撃に使った膝とつま先、踵が痛くなってきた。自分の意識で動かしてるけど、自分の体じゃないんだと実感する。
そういえばじいちゃんとの稽古以外で人に向かって武術を使ったのは初めてだ。やり過ぎたかなと思わなくもないけど、この世界には魔法があることを彼女の記憶で知って、回復魔法があることも分かったから、奴らの傷も治るんだろう。でも何らかの恐怖を植え付けられたらいい。もう会うこともないだろうけど、もし会っても何か仕掛けようとは思えなくなるような。
そんなことよりこれからどうすればいいか考えなければならない。
走ったせいかまだ呼吸が荒く、自分の意志とは関係無く手足が震える。
揺れる馬車の中、微かに感じ取れる彼女の魂を守るように自分を抱きしめた。
本文でも書くかもしれませんが、蓮十郎が今回使った縮地は、スキルなどでの瞬間移動ではなく、起こりをなくし相手に気取られずに動くというものです。
未熟でも成功したのは観衆の注目がドナードたちに集まっていたからです。