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未完の原稿

作者: 雲乃きれま
掲載日:2022/01/31

 或る雨の日、とある高校の三階、三年三組の教室に何事も無かったかのように彼はいた……。

 

 彼の席ではない、窓際に面した席で延々と飽きることなく、上空から地面へと落ち続ける雨を眺めているのだ。そんな彼の名は、黒木流雨。名前にまで「雨」がつくほど、雨が好きな彼は私の恩人と言っても差し支えないだろう。勉強と家族関係で精神が参っていた私に彼は寄り添ってくれた。ほんのひと時であっても、そのことが私は嬉しかった。

 私は誰もいなくなった教室の引き戸をそっと開けて中に入る。彼はまだ私の存在に気づいてはいないようだ。

 ふと、黒板の方を見れば、これまでの幼稚な落書きとは比べ物にならない、落書きの集大成とも言うべき、色鮮やかなチョーク画が施してあった。よかった、どうやら、まだ消されていなかったらしい。

私はスマホを取り出し、黒板ではなく窓際に座る彼に向ける。

パシャ、パシャ、パシャ、パシャ……。連写で彼の雨を眺める姿を収める。

「中村さん?」 彼はようやく私の存在に気づいたようで、私の方を見ながら少し驚いたようにゆっくりと瞬きを二回、三回と繰り返した。

「ふふっ、流雨君、久しぶり」 私はフリフリと彼に向けて手を振る。

「うん、久しぶり。元気そうで何よりだよ。でも、それって……」

「うん、写真撮っちゃった。—ごめん、嫌だった?」

「写真は別にいいんだ。でも、ただ、何と言うか、もしかしたら、ただの雨の写真になっちゃってるかもだけど」 彼は申し訳なさそうに少し俯いてしまう。

「それこそ、どうでもいいよ。私が流雨君を撮ったことに変わりはないから」

「……そう、まあ、確かにそうか」 彼はうんうん、と頷くと顔を上げ、私を見つめる。彼の瞳は私に深淵を思い浮かばせる。怖いとは違う、自らどっぷりとつかりたい、そう思わせる深淵。

 今度は私が俯いてしまう番だった。彼は不思議そうに頭を傾げる。その仕草一つに私の胸はときめく。

 なんて、馬鹿馬鹿しい。せっかく会えたのに、時間がもったいない。私は彼の隣に早足で寄ると近くの座席に座った。彼は無言で受入れてくれる。

「ねえ、今までって何してたの?」 何も言おうとしない彼に私は自分から尋ねてみる。

「ん? 何って言われても。大概は雨を見てたかな。それ以外は教室内の掲示物を見てた」

「そうじゃなくて……」

「うん? 中村さんのことももちろん考えていたよ。元気かなーって」 ワタシノコトモカンガエテイタ、そのことだけが私の中で反芻される。

 私は流雨君に何を期待しているのだろう?

「何にしても中村さん、残念だったね」

「へえ?」

「へえ? って。せっかくの晴れ舞台なのにこんな雨だったから、気持ち的にも残念だったかと思って」 彼は少し残念そうに言う。

「ううん、そんなことない! 私は反対に嬉しいぐらいだよ。だって、雨の日だからこそ流雨君に会

えたんだから!」 私は少し興奮気味に言う。

「そ、そう? ならいいいんだけど」 彼がそう言った後、しばらく沈黙の時間が続く。私は何も言わないし、彼も何も言おうとはしない。ただ、雨の降る音だけが私たちを包んでいた。

「よしっ!」 私が雨の音に耳をすませ、彼の横顔を盗み見ていると彼がそう言って立ち上がった。

「ど、どうしたの?」

「歩こうか、中村さん。幸い今日は雨の日、久しぶりの再会を祝して少し歩きませんか?」

「う、うん」 私は教室を出て行こうとする彼の背中について行く。

「中村さんと出会った時を思い出すね。あの時も時期は違うけど、今日みたいに雨が降っていた」

「なに? あの時みたいに図書室にでも行くの」

「図書室……。それもいいけれど、今日はちょっと違う場所に行こう。だけど、僕にとっては図書室と同じくらい気に入っている場所なんだ。中村さんに見てもらいたいものもあるし」 彼はそう言って私の先を行く。何で一緒に歩いてくれないの? 何で下の名前で呼んでくれないの? そういった言葉が出そうになるのを必死に堪える。

「最初に会った時もこんな話したけど、中村さんは小説、好きだったよね?」 クルリ、と振り返り彼は私の顔を見ながら尋ねる。

「う、うん。現代小説に限るかもだけど」

「うん、うん、なら良かった。気に入ってくれると思うよ、きっと」 彼は私に何を見せたいのだろう。初めて会った時には私から彼に一冊の本を紹介した。次は彼が私におすすめの本を紹介してくれるのかもしれない。だけど、今から行く場所は図書室ではない、と言っていた。じゃあ、いったいどこへ?

彼は校舎の一階から通じている体育館の近くまでやって来ると、「ここ、ここ」と言ってとあるドアを指差した。

「えっ? ここ、本当にこの部屋なの」 そこは何に使われる部屋なのか、プレートの表示もされていない言わば、私たち生徒が勝手に用具庫か、ただの空き教室だと思い込んでいた部屋だった。彼はドアノブを回し、自然にドアを開けてしまう。どうやら鍵はかけられていなかったらしい。

「どうぞ、中村さん」 彼は私をその部屋へと招き入れる。

 その部屋は、八畳位の広さで三つの大きな本棚が置かれていた。置かれている本は埃が被っており、いつからここに放置されていたのかが気になる。それにそのほとんどが、本屋なんかで売っている本とは異なる、所謂同人誌のようなものだったからだ。

「ほーら、中村さん」 彼が嬉しそうに呼ぶので彼の方を見れば「文芸部」と書かれたプレートを持っている。

「うちの高校に文芸部なんてあったんだ」

「うん、まあね。何年も前に廃部になっちゃったけど」 彼は残念そうにそう呟いた。

「へぇー、知らなかった……」 私はそう独り言を呟きながら部屋にいくつか置かれていた椅子の埃を払う。彼は「えっと、確かこの辺に」と呟きながら、本棚の下に小さく積み上げられていた段ボールの中身を漁っていた。

 私は埃を払った椅子に座る。図書館とはまた違う、それより若くて青い本の匂いがした。

「コッホ、コッホ……」 埃と。

「おっ、あった、あった」 そんな時、彼は目当ての物を見つけたらしく、それを抱えて私の方に寄って来る。

「なーに、それ」

「とある、小説の原稿さ」 彼は得意そうに言った。

 私は彼からその原稿用紙の束を受け取る。結構分厚い。いったい、どれだけの量があるのだろう。

「原稿用紙の数は242枚もあるんだけど、これがまだ完成していないらしいんだ」

「どうしてわかるの?」

「その小説を読んだからだよ。これが意外に面白くてね。当然、稚拙な表現個所もあるし、荒い部分もあるけど。僕はこの小説を気に入っている」

 私はその小説の最初の方を見てみる。

「題名は『僕らのものがたり in broken world』か。作者名は……、あれ?」

「読めないでしょ」

「うん」 本来、作者名が書いてあったであろう箇所には黒く、マジックか何かで読めないように塗りつぶされていた。

「多分、その小説を書いた作者自身がやったんじゃないかなと僕は思っている」

「どうしてそう思うの?」

「わからない、でもなんとなく、そう思うんだ」 彼にそう言われ、私もなんだか、そうとしか思えなくなってきた。

「ねえ、中村さん、その原稿持っていきなよ。僕のではないけど、僕には君にも読んでもらいたい」

「わかった」 その後、私たちはその原稿を持って元居たクラスに戻った。

「さて、そろそろ、中村さんは帰った方がいい。今日は晴れの日だろ、家族との時間も大切だよ」 彼は私にそう言って、私を帰そうとする。

「ねえ、流雨君。最後にお願い、一緒に写真撮らない? この黒板で」 私は落書きの集大成を指さ

して彼に言う。

「いいとも」 私と彼は肩を寄せ合い、私のスマホでツーショットを撮った。

「流雨君は、まだここにいる? また会える?」 校舎の玄関前で私は彼にそう尋ねる。

「僕はまだここにいるつもり。それと、次に瑠香さんと会う時はその小説が完成した時かな」

「―わかった、じゃあ、さようなら」 雨は弱まっていた。きっと彼の姿も……。

 こうして私はこの高校を卒業した……。


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