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旦那様の引き出しの写真

作者: ころぽっくる

旦那様の執務室の机の椅子に、わたしはどっかりと座り込んだ。

今見たものの衝撃で、立ち上がることができなかったから。


(ベゴニアの花壇、あの日の写真に間違いない…)


四年前の初夏、わたしが見たあの忘れられない光景。


『さあさあ、お二人並んで並んで!撮りますよ!』


赤、白、ピンク…。咲き誇るベゴニアの花壇の前、旦那様とあの人が、学院の新聞部の腕章をつけた生徒に、仲良く並んで写真を撮ってもらっていた…。

誰がどう見たって、仲睦まじいその距離感に、わたしの首筋から、すっと血の気が引いた感覚は、今でも忘れられない。


王立学院のサマーフェスタ。

当時婚約者だった旦那様は、最終学年である五年生に在籍中で、わたしは秋からの入学を控える身。こっそり旦那様の制服姿を見納めにいらっしゃいなと、未来の義母である侯爵夫人から渡された招待状を胸に、学院の門をくぐった。


貴族同志の婚姻は、色々な形で決まるけれど、最近では自由恋愛が流行り言葉となるほど、学院などで知り合って恋愛の末の婚約なども増える中、わたしと旦那様は、家同志が決めた幼い頃からの許婚だった。


そのせいか、わたしと旦那様は年齢が五歳離れている。


成人してしまえば、五歳差なんて大したことないと感じるかもしれないけれど、思春期での五歳差は、見ているものも感じるものも凄まじく違って、二人で話していても会話が続かず、ただ互いの存在を確かめ見つめ合うだけということも多かった。


でも、わたしにとって、旦那様は初恋の人。たった六歳のわたしにひざまずいて求婚してくれた旦那様は、永遠の恋の相手。たとえ、その求婚が、形式に則っただけのものであっても…。


『ご覧になりました?リヒャルト様とカレン様のお二人。新聞部にお写真を撮られていましたわ。美男美女、本当にお似合いですわよね』


花壇で見た光景に衝撃を覚え、中庭から逃げるように薄暗い回廊で立ちすくむわたしの横のベンチに、女生徒が三人、腰かけ噂話を始める。

リヒャルトという、旦那様の名前に反応し、はしたないと思いながらも、わたしの意識はその女生徒たちの話にすべて向けられてしまう。


『でも、リヒャルト様には、侯爵様がお決めになった伯爵令嬢の婚約者がいらっしゃるのでしょう?まだ学院に入学もしていない年齢の方らしいですけれど』

『あら、まあ…。高位になればなるほど、自由に恋愛結婚とはいきませんわね』

『ええ、カレン様は男爵家の方。とてもラベランス侯爵家に嫁げるご身分では…』

『噂ですけれど、卒業と同時に、貿易で財を成した新興の伯爵家に輿入れされるのが決まっているらしいですわ』

『では、卒業までのあと数カ月が、お二人の最後の恋愛期間…ということかしら』

『悲恋ですわね〜…。お似合いですのに』


どうやってその場から帰って来たのか、わたしはまったく覚えていない。

気が付けば、我が家の馬車に揺られ、外をぼんやりと眺めていた。

何でも、旦那様の弟であるドミニク様が、わたしを馬車まで連れて来て下さったらしいけれど…。


御者は、わたしはきちんとドミニク様にお礼を述べ、淑女の礼をして馬車に乗り込んだと言ってくれた。家庭教師の厳しい淑女教育の賜物だろうか。


けれど、旦那様に恋人がいるという事実に、わたしの心は悲鳴を上げていた。

恋人同士なら、裏切り者と言い募ることも出来ただろう。


でも、わたしは旦那様に望まれて彼の婚約者となったわけではない。

ラベランス侯爵家にふさわしい身分を持って生まれてきたから、ただ、将来の侯爵夫人に選ばれただけなのだ。


彼を責める理由はなかった。

あの、波打つ金髪が美しい男爵令嬢と、結婚したいなどと言い出さない限りは。


もちろん旦那様はそんな非常識なことは望まれなかった。

次期侯爵にふさわしい人物として、個人ではなく、ラベランス侯爵家を守ることを優先された。

わたしとの婚姻の約束は、何ら違えられることなく、一切の波風も、立つことはなかった。


ただ、結局わたしは学院に入学することはなかった。


旦那様は学院卒業とともに、領地の経営を侯爵様より一任され、一年のほとんどを王都から離れた領地で過ごすこととなった。そして、そこにわたしを連れて行きたいと望んで下さった。


まだたった十三歳だったけれど、国王陛下はわたしたちの婚姻を許可し、わたしは旦那様の妻となった。ただ、わたしが成人である十五歳を迎えるまでは、夫婦の寝室は別にすると、旦那様は誓われた。


王国の南にある領地は気候が温暖で、さすが建国以来の名門ラベランス侯爵領と言える、豊かで海も近い素晴らしいところ。

わたしは学院での高等教育は受けられなかったけれど、ここに来てからも旦那様が手配して下さった家庭教師に教育を受け、十七歳になった今では、未来の侯爵夫人として、旦那様の領地経営を内から支えているべく務めている。


十五歳からは寝室も共にし、まだ子どもを授かってはいないけれど、確かに妻として必要とされているのだと実感する日々に、あの日の心の痛みは薄れつつあった。





今日、この引き出しを開けてしまうまでは。





旦那様の執務室の机。わたしは、どこを開けても問題ないはずだった。鍵も旦那様から預けられている。たまたま愛用しているインクが切れ、いつもならだれか使用人に頼むところを、なぜか自分で旦那様の机のインクをお借りしようと、引き出しを開けてしまった…。


大きなマホガニーの執務机の、両袖の右の一番上の引き出しを開ける。

万年筆や羽ペン、旦那様の愛用の筆記具たちが納められていた。

旦那様が執務中、よくこの引き出しが開けっぱなしなのを目にする。

手を入れ、奥にあるだろうインクを探った時だった。


手の甲に、何か引っかかったのだ。


予期せぬ感触に、驚いて手を引き抜いた。

それと同時に、まるで隠されていたかのような、薄い引き出しが引き抜かれる。

そして、そこに、それはあった。


一枚の写真。


一瞬見えたそこには、色とりどりのベゴニアが咲き乱れる…。


咄嗟にわたしは引き出しを閉じた。


見てはいけないものを見てしまった。


薄い引き出しの奥、隠されていた写真…。




わたしは、執務机の椅子に、どさりと座った。


脳裏には、あの四年前の光景が鮮やかに浮かぶ。

忘れたくても、忘れられない。

思い出すたび心が悲鳴を上げるのに、何度も何度も思い出すから、記憶はいつも鮮明で、色あせることが無い。


ふと目を上げると、机の上、旦那様とわたしの写真があった。

まだ十三歳で突然嫁ぐことになり、婚姻のパーティーを開くことはなかったけれど、その代わり、二人で写真を撮った。


ただ、二人で撮った写真は、いいえ、結婚してからわたしが撮った写真はこれ一枚きり。


あの日、鮮やかな花にも負けぬほど美しく光り輝いていた男爵令嬢。

旦那様の横で、まるで神様があつらえたようにお似合いで。

それを思い出すと、わたしは何度言われようとも、写真を撮る気になれなかった。


ほら、たった一枚のこの写真だって、素敵な旦那様の横で、ただ名門伯爵家の出自だけが取り柄の小娘が、笑顔も見せずに並んでいるだけ。

この写真を見て、これがお似合いの夫婦だなんて、一体だれが思うだろう。


そして、机の正面の壁には、写真を撮らない代わりに、わたしの肖像画が。

領地で親しくなった著名な初老の画家が、さらりと描いてくれたその絵のわたしは、優しい笑顔を湛えているけれど、ふふ、旦那様はこの壁よりも、この引き出しの中をいつも見ていたというわけ。


どうりで、いつも引き出しを開けっぱなしで執務をしていると思った。


「はは!あははははは!」


なんだかとってもおかしくなって、わたしは笑った。


旦那様は賢明だ。真実の愛などと言い出して、廃嫡されるような愚かなことはしない。

ラベランス侯爵家を守るために、真実の愛は諦めたのだ…。

そして、ラベランス侯爵家を守るため、適した妻を決して蔑ろにせず、大切にしているのだ…。


心の中に、永遠の恋人を住まわせながら…。


「わたしにも、そんな存在がいればよかったわ…」


それなら、旦那様と二人、立派な侯爵と、それにふさわしい侯爵夫人として、己の使命を全うできるのに…。これは仕事と割り切れれば、わたしはもっと楽になれるのに…。




わたしが旦那様を愛していなければ、こんなに苦しむことはないのに…。




ふと、王都の夜会で耳にしたことを思い出す。


『バーソリュー公爵家では、第二夫人を娶られたそうですわよ』

『まあ、寝室を共にして五年経ってもお子が出来なければ、認められるというあの制度?』

『庶子として生まれるよりは、よほど良いのではなくて』

『公爵夫人も、逆に肩の荷が下りたとおっしゃっていたらしいわ』


寝室を共にし始めて二年。

ほとんどの夜を一緒に過ごしているけれど、わたしたちには子がいない。

旦那様は、はやく子が欲しいからと熱心なのに。


あと三年…。


こんな気持ちを抱えながら、ただ侯爵家にふさわしいという理由だけで、旦那様のそばに居続けられる自信がない…。




一体どれくらいそうしていたのか。


気付けば、執務机の横の窓、夕方の赤い陽射しがわたしを照らし始めていた。


旦那様は夫として、これ以上ないほど誠実で、労わりがあり、なんら瑕疵はない。

学生の頃の恋人の写真をこっそり見るぐらい、なんの咎があるのだろう。

あとは、わたしがそれを見て見ぬ振りをするだけで、きっと幸せな夫婦として、これからも暮らしていけるはず…。


自分に何度も言い聞かせる。

何度も何度も。

ただ、机の上の二人で撮った写真だけは、見ていられなくて伏せてしまった。


「ベアトリクス、こんなところにいたのかい?」


驚いて顔を上げる。


執務室の入口、長身のシルエット。

何年一緒にいようと、その度見惚れてしまう、薄茶の髪。琥珀の瞳。


「旦那様…」


何度も言い聞かせたのに、わたしは自分の心を隠せないままだったらしい。

旦那様は、わたしを一目見るなり表情を曇らせ、大きな歩幅であっという間にそばにやってきてしまった。


「なにかあったのか?!」


そして、わたしの全身、髪の先から爪先にまでさっと視線を走らせる。

次には、机の上へ。

綺麗に整頓された木目の机。伏せられた、銀製の写真立て。旦那様の視線が止まった。


「大切な写真が…」


一瞬わたしを見て、その長い指がそっと写真立てを取り上げる。

大切な写真?

笑い飛ばしたくなるのは何故だろう。


「これは、ベアトリクスがしたの?」


けして咎めるような口調ではない。いつも通りの優しい問いかけ。

でも、わたしはそれになにも答えず、唐突に切り出した。


「お願いがあります」


ん?と目顔で旦那様。

一瞬言いかけて口を閉じ、けれど、わたしは覚悟を決め一息で告げる。


「あと三年、子ができなければ、第二夫人を娶られて、わたしを伯爵家へ返してください」


自分でも唐突すぎると思った。

でも、こうでも言わないと、自分がなにをしでかすか、どんなひどいことを口にしてしまうのか、心の平静を保てるのか、自信がなかった。


それとも、その言葉で、少しでも旦那様を傷つけたいと思ったのか…。


執務机の、木目の数を数えながら、その一点だけを見つめて、口にした。


西陽の射す部屋、沈黙が落ちる。


わたしの右頬を赤く照らしていた光が、遮断された。

そう感じた瞬間、旦那様は椅子の肘掛けを持って、強引に椅子ごとわたしを自分の方に向き直させる!

長い腕と椅子に囲われ、気づけば、わたしは旦那様に至近距離から見下ろされ拘束されていた。

そして、旦那様は聞いたこともないような低い声を、唸るように絞り出す。


「だめだ」


初めて見る拒絶を迸らせたような表情に、怯む。

旦那様はなおも続ける。


「だれかに、なにか言われたのか?」


わたしは慌てて首を横に振る。

もしそんなことをだれかが本当に言ったとしたら、その人は旦那様に殺されるんじゃないかと思えるほどの激情が、その瞳に燃えているのがわかり、わたしは慌てて首を振る。


「なら、なぜそんなことを言う?子ができないのをもし気にしているなら、正直に言おう。あと三年は二人の時間を大切にしたくて、子ができないように気をつけている」


びっくりして目を見開く。まさかそんな…。

だって、早く子が欲しいから、たくさん一緒に寝室で過ごさないといけないとおっしゃっていたのに。


「ああ…、いささか矛盾したことを言っていたかもしれないが、それはあまり追求しないでほしい。自分のわがままで、まだ成人前のあなたを無理矢理ここに連れて来て、誓いを立てたとはいえ、あの二年は本当に理性との戦いだったのだ…」


そう言いながら、旦那様は耳まで真っ赤にして、俯いてしまった。

なんだか、自分が思うのと、まったく違う方向に、話が進んでいる気がする。


「今更だが…、学院に通うのも楽しみにしていただろうに、本当に申し訳なかったと思っている。でも、自分が卒業してしまったあの学院に、あなたを一人通わせるなんて絶対にいやだったのだ。あそこは、自由恋愛の思想がはびこり、ちょっと見目の良い者は、うつつを抜かす放蕩者になったり、逆にそういう輩に狙われたり、とんでもないところだったから」


とんでもないところ?

だからこそ、旦那様も男爵令嬢との期間限定の恋をされていたのではないの?


感情が跳ね飛び、その勢いのままに顔を上げる。

目の前には、夕陽を溶かしたような琥珀の瞳。

とろりと溶けて、わたしにまとわりつくような。


「トリクシー…」


寝室でしか口にしない、わたしの名前の特別な呼び方。

ここが執務室だと、忘れてしまいそうな眼差しと吐息混じりのその声。


旦那様の顔が近づく。


くちびるに…と思った瞬間、わたしの脳裏には、ベゴニアの花の残像が!


「…なぜ?」


驚き問われるその声に、自分が、直前で顔を背けたことに気づいた。

ハッとして旦那様を見る。明らかに分かる、その傷ついた表情。


「ご…ごめんなさい」


咄嗟に謝罪したけれど、わたしは何に謝っているのか、自分で自分が分からなくなった。

傷つき、旦那様から逃れようと思っていたのは、わたしのはずだ。

なのに、今、目の前では旦那様の方が傷ついている。


「愛する人に拒絶されるのが、こんなにつらいことだとは…」


吐き出される声は、震えていた。

けれど、それ以上に、今聞こえた言葉が、わたしの中で繰り返される。


アイスルヒト?


今、そうおっしゃいましたわね?

だって、そんなこと、寝室以外で初めて言われた。

ああ、家族として?


「トリクシー…、それでも、わたしはあなたを手放すことはできない。たとえ子が授からなかったとしてもだ!」


きっぱりと言い切るその言葉に、なぜか私の中で、猛烈な反発心が生まれた。

未だに、学生時代の恋を引きずり、心の中ではわたしを裏切っているくせに!と。


わたしはその反発心のまま、きっと旦那様を睨み上げた。


そして、執務机の右袖、一番上の引き出しの取っ手に手をかける。


「そんなことは、この写真の方に向かって仰せられませ!」


さっと引き抜き、その中に手を滑り込ませる。

旦那様の表情が、明らかに「しまった」とわたしに伝える。

引き出しの上部、薄い隠し棚を引き出すと、そこのある写真を、迷わず取り上げ旦那様の眼前に突き付けた。


「わたしが何も知らないとお思いなら、大間違いですわよ!」


さっきは動揺して、写真の一部だけを見ただけで、すぐに目の前から隠してしまった。

今は、その写真をつかみ、その裏面を見ている。

怒りに震えながら。


『学院サマーフェスタ 最愛の人と』


ほら!『最愛の人』と、紛れもない旦那様の筆跡で書かれた写真。

確信が確証に裏打ちされ、なぜだか鼻の奥がツキンと痛む。

旦那様は、耳まで真っ赤にされて、その写真を持つわたしを食い入るように見つめている。


「すまない…つい…初めて一緒に写った写真だったから…」


ええ!ええ!初めて撮った写真なら、こんなところに後生大事に置いておいても、執務中にニヤニヤしながら眺めても、良いってことですわね!


「確かに写りは不本意だろうが、でも、わたしには貴重な一枚なんだ…」


いいえ!きっと誰よりも美しく、この机の上のわたしの仏頂面よりもはるかに可憐に、旦那様の目には見えていることでしょう。


旦那様は手を伸ばし、わたしが差し出すその一枚を手に取った。

その表情!

その愛おしそうな表情こそ、わたしが旦那様から逃げ出すに足る証拠!


わたしを椅子の中に囲う手は無くなった。

すぐさま勢いよく立ち上がり、わたしは机の上の写真立てを、正面の壁の肖像画に向かって投げつけた。

額縁に当たり、写真立てが音をたてて床に落ちる。


「これからは、その手の写真を机の上や正面の壁にお飾りなさいませ!」


「いやだ!」


旦那様が、絶叫のような声を上げ、わたしを抱きすくめる。

この期に及んでまだなにか言い訳をしようというのか!


「いやだ!あなたが写真が嫌いだと言うから、この一枚だって貴重だと大切にしているのに、二人で撮った写真や、せっかく描いてもらった絵のあなたを見つめる権利は、夫であるわたしのものだ!」





え?今なんて?

え?え?


今、なんて?


ぎゅうぎゅう抱きすくめられ、その力の強さに意識が飛びそうになりながら、旦那様が今発した言葉を反芻する。


『あなたが写真が嫌いだと言うから、この一枚だって貴重で大切』


なんだか、そんなことを言っていなかっただろうか。


抱きすくめられ、仰のいたまま、ちらりと床を見ると、ちょうど引き出しの写真が落ちているのが目に入った。


ベゴニアの花が咲き乱れる花壇。

その前に立つ、制服姿の旦那様。しかし、その左横はすっぱりと切り取られている。


(男爵令嬢が写っていない…、いえ、その部分が切り取られている?)


え?どういうこと?確かにあの花壇の前で、二人が写真を撮られたのを見た。

でも、この引き出しには、その写真の旦那様のところだけが入れられていたということ?


いやだいやだと言いながら、旦那様は抱きすくめたわたしの首筋に何度もくちびるを這わす。

しかしそれどころではない。

わたしは、さらにその床の写真に目を凝らす。


そして、視力が無駄に良いわたしの目は、花壇の旦那様のはるか後方、アーチを描く回廊の壁からその様子をじっと見つめる、檸檬色のデイドレスの人物を見つけた。


その人物には、ものすごく、見覚えがある。


(あれ、わたし?)


そうだ。サマーフェスタに行くとき、あのお気に入りの檸檬色を着て行った。

侯爵夫人にも、ドレスコードを確認する時、『檸檬色のデイドレスで参ります』と告げていたっけ。


どさくさに紛れて、ふんふんと鼻息荒く、わたしのドレスの背中のリボンを解こうとしている旦那様の腕をこれでもかと叩く。


「旦那様!これ、もしかしてわたしの写真ですか?!」


痛くも痒くもないらしく、リボンを解いたあとはボタンに手をかける。


「だから怒っているのだろう?写真嫌いのあなたの写真、しかも隠し撮りのようなものを、写真が趣味の後輩に頼んで、引き伸ばしてまで持っていたから」


ボタンを二つ三つ外された。執務室で!いえ、初めてじゃないけれど…。


「旦那様!今すぐその手を止めないと、本当に、今夜の夜汽車で王都に帰りますよ!」


途端に、不埒な動きを見せていた手が、ぴたりと止まる。

そして、外した二つ三つのボタンが、そーっと証拠を隠滅するように、再びかけられた。


「リボンは?」


わたしが問う。


「リボンは、無理だ…。わたしは自分のクラバットすら結べない」


しようがない。どうせこのあと、晩餐の前に着替えるから、その時メイドには枝に引っ掛けて解けてしまったとでも言い訳しよう。きっとそうではないと見破られるだろうけど。


拘束が解かれた旦那様の腕の中、仰ぎ見ると、叱られた大型犬のようにしょんぼりしている。


「わたしは絶対あなたを手放さない。教皇の前で誓った通り、死が二人を分かつまで、いいや、欲張りなわたしは、死してなお、あなたと共にいたいんだ。それは、初めてあなたに求婚した、十一歳の頃から変わらない。あなたを見た瞬間、あなたとの未来しか見えなくなったんだ」


告白に、わたしの胸はジンとなる。


隠されていた写真に写っているのがわたしだと分かった今、旦那様の心の恋人があの美しい男爵令嬢だという疑念は晴らされた。

けれど、二人が学院で公認の恋人同士であったという事実は変わらない。


十一歳の頃から変わらないと言われても、信じられるものではない。


「いい加減なことをおっしゃらないで下さい。わたしがここに写っているのが分かっているなら、旦那様の左隣りにどなたがいらっしゃったか、わたしが知らないとでもお思いですか?」


そこで初めて旦那様はその可能性に気が付いたかのように、「ああ!」と声を上げた。


「この横には、カレン嬢。現在のミュラー伯爵夫人が写っていたよ。学院でのわたしの『恋人』だ」


晴れやかに懐かしむようなその表情!

やはり許せない!


「ええ!旦那様は学院で随分楽し気な日々を送られていましたのね!わたしはそこに入学すらさせていただけなかったのに!」


ぐんと腕を突っ張り、旦那様から体を離す。

恨めし気に睨みつけ、腕の拘束を解こうとするけれど、軽々と動きを抑えられた。


「当たり前だ!さっきも言ったけれど、あなたのような愛らしい令嬢は、たとえ婚約者がいると言っても、不埒な輩に絶対狙われる。そんな奴らの、目に触れさせるのさえ嫌なのに!」


驚きに目を見張る。わたしの学院入学にあたって、本当にそんなことを考えていたの?


「ただ、学院卒業の肩書は、今でも高位貴族には必要とされるものだ。ミュラー伯爵は仕方なくカレン嬢を通わせていたけれど、狩猟仲間のわたしが逆に自由恋愛を謳歌する令嬢方に狙われているのを聞き及んで、学院内でカレン嬢と『恋人同士』として振舞うことで、お互い利益になると持ち掛けられたんだ。おかげで五年間、おかしな令嬢のトラップに引っかかることもなく、無事卒業できたよ」


学院内での『恋人』って、まさか、偽装の『恋人』という意味?


「だから、うちの両親にも、あなたを入学させたくないと何度も言っていたのに、なかなか聞き入れてもらえなくてね。けれど、放蕩者で有名だった三年生のユルスベール伯爵令息が、サマーフェスタであなたを見かけて、『入学してきたら絶対落とす』と話していたとドミニクが母上に報告してくれたのをきっかけに、侯爵家と伯爵家の間でその部分は家庭教師で補うと決まったんだ」


そんなこと、初めて聞いた。

だって、サマーフェスタから帰って、あれよあれよとたった数ヶ月の間に、国王陛下に成人前にも拘わらず特例の婚姻許可をいただいて、教皇様の前で親族だけで婚姻の宣誓をし、お披露目のパーティーもなく、気付けばラベランス侯爵家の幌付き自動車で領地に向けて出発していたのだから。


「だが、そのドミニクも、安全ではないと分かった」


え?弟のドミニク様が?

そう言えば、ここにも一度もいらっしゃっていない。


「サマーフェスタの時に、結局体調を崩したあなたを馬車まで送り届けたのはドミニクだっただろう。帰って来てから母上に、五歳年上のわたしより、一歳年上の自分の方がベアトリクス嬢にお似合いだと、熱弁をふるったと聞いて、これはあなたをドミニクからも遠ざけなければと、わたしは思い詰めてしまったんだ」


もしかして、そのせいで、わたしは十三歳で親元から離れ、ここに来ることになったのでしょうか。


「それからわたしは父上に自領の経営を任せてくれと掛け合い、そこにベアトリクスも連れて行きたいと伯爵殿を説得し寝室の誓いを立て、あなたが成人前でも婚姻を許可していただけるよう、自分の人脈と能力を総動員して陛下に働きかけ、それをもぎ取った」


そこからは、わたしはただ、立て板に水の旦那様の述懐を聞くばかり。


「婚姻披露パーティーも、本当は大々的に開いてあなたがわたしの妻だと貴族全員に分からせたかったけれど、あなたのお父上である伯爵様が、こんな幼い妻ではいらぬ憶測を生んでしまうと危惧されて、泣く泣くその時は諦めたのだ」


「だが、学院を卒業する年齢である十八歳になれば、開いても良いと言われている。実は来年、王宮のホワイトクリスタルルームで婚姻五周年のパーティーを開く予定で準備中だ。陛下にも許可をいただいている」


ホワイトクリスタルルーム?それって、王太子殿下の婚約式が先日開かれたところで、特別な時しか、たとえ高位貴族であろうと使用許可は下りないと聞いているのに。


「どうやら、わたしが君との婚姻の許可を取りつける際に駆使した様々な手法が、陛下には使()()()人間と映ったようで、その部屋の使用許可と引き換えに、将来は王太子殿下の側近として、王宮でこきつかわれる約束になっている」


こきつかわれるって…。つまり旦那様は王家に気に入られたのだ。

そして、それはラベランス侯爵家がますます王国の重要貴族として、欠くべからざる家門となるということだ。


そんな旦那様が、わたしの写真をこんな引き出しの奥に隠し持って、執務中に眺めていらしたなんて。


「ねえ、もしかして、焼きもちを焼いてくれていたの?」


ええ、そうですね。

焼きもちなんて、可愛い言葉じゃ言い現せないくらい、絶望の淵に立たされたんですけど。


「ミュラー伯爵夫人が本当の恋人だったと思ったの?え?ほんと?」


なんでそんなに嬉しそうなんですか。

まあ、わたしも旦那様の色々な打ち明け話が聞けて、嬉しかったですけどね。


だって、手元で檸檬色のドレスのわたしに視線を走らせ、机の上で仏頂面のわたしを見つめ、真正面では微笑むわたしを眺めていたんでしょ?


どれだけわたしが好きなんですか?


いつの間にか、旦那様の腕が、再びわたしを緩く抱きしめる。


そして、気づけば背中でボタンが一つ二つ外される気配。

わたしはじっと、旦那様を見つめる。


「リヒャルト様…」


「ああ!トリクシー!」


お名前を呼ぶのは寝室だけと決めていましたけれど、今日は特別ですからね。

旦那様がサイドデスクの呼び鈴を、短く三回鳴らす。


『呼ぶまで誰も近づかないように』


という、合図でしたわね。

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