天命にこたえんとす(三十と一夜の短篇第60回)
天應元年春正月辛酉朔。……中略……、伊勢斎宮所見美雲。正合大瑞彼神宮者國家所鎭。自天應之。……中略……、元改曰天應。……後略……。
『国史大系 続日本紀』(後篇)より
(大意) 天応元年(西暦七八一)春正月一日。伊勢の斎宮に見られた美しい雲は、まさに大瑞に当たる。伊勢の神宮は国家の鎮めとするところであり、天が応えたものであろう。元号を天応に改元する。
今年、令和三年の干支は辛丑。十干と十二支の組み合わせで六十通り、昭和三十六年が辛丑だったので、この年生まれの人はくるりと干支が巡った還暦となる。
十干は木日土金水の五行を「兄」、「弟」に分けたもの。干支で時代を表すのは歴史の用語でもよくあること。教科書でおなじみの「乙巳の変」、「壬申の乱」、「戊辰戦争」、これらは事件の起きた年の干支から来ている。また、兵庫県にある野球場は甲子年の完成なので、それにちなんで命名された。
甲子は十干十二支の最初で、この干支の年は徳のある人物に天命が下される「革令」の年と言われている。実際そんな事実があったのか、統計とられたのかどうか知らない。
甲子の前々々年の辛酉は天命が革まる「革命」の年なんて言われていて、甲子に先んじて王朝や政権の交代などがあるとかなんとか、これも本当かどうか知らない。でも大陸の方から入ってきた考え方なので、本邦では真面目にとらえられていた。辛酉や甲子の干支の年には争乱を避けようと、験を担いでの改元の例がある。
さて、壬申の乱から時を経て、日本古代の最後の女帝・称徳天皇は後嗣を定めぬまま病に倒れた。独身の称徳天皇に子どもはいない。とすると称徳の父・聖武天皇の血筋からどうかとなるが、称徳の男の兄弟二人は既に亡くなっている。姉妹が二人いて、どちらも皇族男性と結婚して子どもがいる。
称徳天皇の妹の不破内親王は問題ばかりで、内親王とその息子はここで一旦除外。
姉の井上内親王は天智天皇の孫の白壁王と間に他戸王がいる。
天武天皇の系統からお願いしようとか、あの人がいいだの、辞退しますだの、群臣たちのあれやこれやがあったが、ここは聖武天皇の血統を重んじた恰好で次の天皇は白壁王、そして聖武天皇の孫である他戸に跡を継いでもらおうと決められた。
こうして称徳天皇の崩御後、白壁王は立太子し、即位した。光仁天皇である。
白壁王が帝位に就いたので、子どもたちは王、女王から親王、内親王の称号を授けられ、白壁の妻の中で一番身分の高い井上内親王が皇后となり、皇后所生の他戸親王が皇太子へと順当に進んだ。
他戸親王は光仁天皇の長男ではない。長男は別のきさき、高野新笠との間に儲けた山部親王である。父親の即位の時は三十を超えていた。
父親が天皇になって王から親王になろうとも、皇族ではない、渡来系の母を持つ山部ははなから皇太子の選考から外れている。
――俺に関わりないとはいえ、ひげも生えていないような弟が跡継ぎになるのか。
漢の太祖が秦の始皇帝の行列を見て男子としてあのようにと呟いたというが、内心物寂しい。役に立たない器物扱いで、棚に飾りあげられて終わりの一生か。
うじうじしていても仕方がない、帝位に就けなくても廟堂で睨みを利かせられるよう、皇親として存在感を示さねばと、努めた。そんな山部親王に藤原の式家の面々が近付いてくる。
――はて?
――ひとまずご覧あれ。
井上内親王が呪詛に関わったと皇后を廃され、次いで、罪人の子を帝位に就かせられないと他戸親王が廃太子となった。
――皇太子に誰が相応しいか?
――山部親王こそ年齢も力量も申し分ない。
――山部親王の母は皇族出身ではない。
――それを申すのなら、聖武天皇も称徳天皇も母は臣下出身。
――いや、百済からの。
――百済から我が国来て仕えるようになったのは昨日、今日ではござらん。かなり古き頃。
藤原式家の良継の言がほかを圧倒し、その弟の百川も兄を援護した。山部親王とて辞退するような肝ではない。
政略とはいかなるものか、また藤原氏は南、北、式、京と分かれて決して一枚岩ではないと、山部は知った。
――見込まれたなら、奇貨は置かれたままでおらぬぞ。進む方向は神輿が担ぎ手に指示してやる。
山部親王は皇太子となり、良継と百川の娘たちをきさきとした。
その後十年、山部は皇太子として政界に重きをなし、良継と百川の死を見送った。二人の死は痛手であったが、二人の甥の種継が引き続き、側にいる。
父、光仁天皇は七十を過ぎた。担ぎ上げられたら迷惑な井上内親王と他戸は既に亡くなった。いや消えてもらった。厄介なのは井上内親王の妹の不破内親王だ。不破の夫は以前、藤原仲麻呂が孝謙上皇と争った際に旗印に担がれて、命を落とした塩焼王。不破自身も父聖武や姉称徳らと何かと揉め事を起こしている。内親王の称号を削られたことさえある。不破と塩焼に息子がいるが、そんな経過があったので、皇嗣と見られてこなかった。
ところが不破が山部に対して不満を漏らしていると、耳に入る。
――あれは家来でしょう。壬申の戦で敗れた側の、近江の天智天皇の曽孫。あれと比べて、我が息子の血筋は遜色ない、いえずっと勝る。飛鳥浄御原の天武天皇と持統天皇の曽孫で聖武天皇の孫なんですから。
不破内親王の息子だって氷上の姓を賜って臣下の身分だ。それでもなお文句を付けずにはいられないらしい。
――内親王は頭が高くていらっしゃる。
山部の妻の一人に他戸の同母姉の酒人内親王がいて、時に山部を悩ませる。
――そんなことよりも革命の年は近付いている。その時、天命を受けた者として君臨できないだろうか。
父は老いた。また陸奥で蝦夷の叛乱が起きている。自らが帝位にあって指揮したいと、山部は心が逸る。
宝亀十一年(七八〇)、庚申の年が暮れ、新年を迎えると共に、伊勢神宮で美しい雲を見た、瑞兆であると報せがあったと、「天応」に改元した。まさに辛酉、革命の年が来た!
新年早々、同母の妹能登が亡くなり、父は逆縁に気落ちし、病で伏せるようになった。父の不幸を待つ訳ではないが、譲位の先例がある。病が篤いのなら、ゆっくり養生してくれ。安心して任せて欲しい。
天応元年(七八一)四月三日、光仁天皇は遂に長男山部親王に位を譲り、桓武天皇が誕生した。
桓武天皇の業績は歴史の教科書に載っている通り、数多くの政策を手掛けている。
甲子の延暦三年(七八四)、新都造営を命じ、その年、長岡京に遷都した。
――新しき帝、新しき皇統、新しき都で!
桓武天皇の志は高く、意欲は強い。
目障りな不破内親王と息子の氷上川継は謀叛の意ありと即位の翌年流罪に処した。邪魔する者はいない。そう思った。
新京、長岡で遷都後も造営工事は続いていた。工事現場にいた式家の藤原種継が何者かに射られて落命した。
家長の家持を喪ったばかりの大伴氏や佐伯氏が企んだ暗殺であったとされる。大伴家持は春宮大夫――皇太子の事務機関の長官だった。かれらから期待を寄せられていた桓武の同母弟で皇太子の早良親王までが巻き込まれて、廃太子となった。
桓武天皇の身のまわりは、――無論それまでも陰謀はあった――血生臭さが増した。
早良親王のあとに皇太子になったのは桓武天皇の実子の安殿親王(のちの平城天皇)だ。弟より我が子に跡を継がせたいと望んで、かつて井上内親王と他戸を陥れたように、種継の死を悲しみつつ、好機として早良を追い落とした。常々藤原氏が暗躍するのを苦々し目で見詰めて種継をうっとうしがり、聖武天皇の皇統を懐かしがる豪族の勢力を削いだ。
もはや良継や百川の仕業と言い訳はできない。
早良親王は兄への抗議か、飲食を絶ち、亡くなった。
十年後の延暦十三年に平安京に遷都したのは、壮大な験直しだったか。延暦十九年に桓武は早良に崇道天皇と天皇号を送り、井上内親王を皇后位に戻し、双方の陵墓を祀らせた。詔に理由は「朕有思所(思うところがあって)」とだけ。
種継の遺児の薬子は晩年、桓武を悩ませた。もとは薬子の娘が安殿親王のきさきとして入ったのに、いつの間にやら、娘ではなく薬子が安殿のお気に入りになった。乱倫であると、桓武は怒り、薬子を宮廷から下がらせた。執心止まず、安殿は父を恨む様子を隠さない。
――子が親の言うままにならぬとはいえ、孝を尽くす面も見せぬ。
安殿は気儘に振る舞い、感情を表に出し過ぎると桓武は臍を噛む。
――かといって……。
己がしてきたことを顧みても取り返しは付かない。
――朕は革命の年に即位し、革令の年に新京に遷都し、数々の業績で治世を飾った力強き帝。
そう、その地位を得る為に、地位の安泰、次代への引継ぎの為に犠牲になった者たちの祟りを恐れた弱さは、遷都で一新して、なかったことにした。つもりだった。その後の苦し紛れとも見える名誉回復は続いた。
――称えられるばかりが為政者ではない。謗られるのを懼れては何も為せないではないか。
藤原式家の百川の遺児、緒嗣は直言を恐れず、民の大きな負担になっていると陸奥への蝦夷征伐や平安京の造営中止を奏上した。桓武は諫言を受け入れた。
――緒継は正しい。
それは老いの自覚なのか。敗北なのか。振り上げた矛を収める時期を自分で見定められなかった。
死期を悟った桓武は恩赦を出し、流罪にした者を帰京させ、死せる者も含めて位を戻した。
桓武は七十歳で世を去った。最期に何を思っただろう。
皇太子安殿親王は父の死に嘆き惑い、起きていられないほど取り乱した。
参考
『国史大系 続日本紀』(後篇) 吉川弘文館
『日本後紀(上)』 講談社学術文庫
『角川日本史辞典 第二版』 角川書店
『藤原種継 都を長岡に遷さむとす』 木本好信 ミネルヴァ書房
『天平の三姉妹 聖武皇女の矜持と悲劇』 遠山美都男 中公新書
『詳説 日本史B』 山川出版社
『Wikipedia』