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woman  作者: しは かた
97/102

第八十五話

続きです。


よろしくお願いします。

 


 季節が進んで十一月。

 我が世の春とばかりに生い茂る若々しい緑だった葉が夏を経てしっかりとした物に変わり、今やすっかりその身を赤とか黄とか茶に色を変えたその最初の週末、私と夏織は買い物を終えたところ。



「ふぅ。詰め込んでやった」


 ぱんぱんになったエコバッグを見てうへぇ重そうと夏織が呟いたとおり、見た目はとても重そうだ。


「ね」


「うんしょ。うっ、重っ」


「よっ」


 私が軽快な声を出した途端、夏織は何か言いたげに私に顔を向けた。その視線が若干非難めいた感じがする。悔しいけど荷物を両肩に掛けただけの私にはその理由は分からない。


「どうしたの?」


「ふーんだ」


「えっと、なんで怒ってるの?」


「べつに怒ってないし。いいから行くよ」


「あ、ちょっと」


 とことこと先を行った夏織が少し揺れている。重いからだろう、左右に揺れてふらふら歩く夏織の後ろ姿に私はほくそ笑みながらその後を追った。


「ほっ、ほっ」


 たったったっと鳴る私の足音と声に気づいた夏織はまた私を責めるような目を向ける。


「怪力ゴリラめ」


「おっそいねっ。ほらっ。うっ、ほっ、うっ、ほっ」


 私は自慢するように夏織に笑いかけたまま追い抜いて、ペースを落とさずすたこら先を歩いてやった。


「あ。幸。待ちやがれ」


「あはは。ここまでおいでー」


「それは無理だって」




 十一月。霜月。色づいた木々の葉が役目を終えて落ち始め、秋から冬の空気へと変わる時期を迎えた街の中、私達は並んで家路に着いているところ。私は優しいから夏織のペース合わせてあげたの、とか言って本当は、私が夏織と並んで歩きたかっただけなんだけど。


「あはは」


「なにいきなり」


「いやぁ」


「いやぁってなに?」


「いやぁ。それはさ、まあ。ねぇ?」


「ああ、って、わかるかっ」


「伝わらないっ?」




「にしても買い過ぎな気がする。てか、買い過ぎ」


「そうかなぁ」


「いや、そうでしょ」


 どう見ても多過ぎるでしょと、私達が抱える食材にちらりと目を遣って夏織が呆れた目を向けてくる。ぱんぱんに膨らんだエコバッグ三つに私のお酒と夏織の箱。指摘されると確かに多いかもという気もする。


 けど、そんな夏織とは反対に、私は牛肉とかサーモンとか真鯛のヤツとか、美味しそうな物を色々と手に入れてとてもうきうきしている。


「うふふ」


 今夜はご馳走。美味しいお酒も手に入れたし、私は責任を持って全部食べ切るつもり。私にかかれば楽勝なのだ。あはは。


「え? これ全部?」


「そうよ」


「まじかぁ」


「まあまあ。いいじゃないの」


「いや、いいけどさ。太るよ?」


「なんのこと?」


「くっ。否定できない」


 だって幸だもんなぁと、遠い目をして何処かを見ている夏織は哀愁を漂わせている。

 悔しくて一瞬で涙目になったところも面白いけど可愛いし、愁を帯びる姿は女性として絵になるなぁとも思う。


「うっ」


 学生の乗りのままわいわいとふざけて遊んでいた、出逢った頃に比べると、その要因や子供のようにひたすら駄々を捏ねる時はともかく、夏織は見た目触れなら手折れてしまいそうな儚さを持つ、少し陰のある素敵な女性になったものだなと思う。泣き虫なところはあの頃よりも拍車が掛かったみたいだし、やはり私達の時は確実に進んでいるんだなと思う。あの頃からこの関係でいられたらよかったのになと思う。


「うぐ」


 この目に焼き付くまでこのまま見ていたいけどせっかくの食べ物達が傷んでも困る。多少は平気だけど油断は禁物。私は夏織を正気に戻す。


「そろそろいい?」


 夏織の肩にちょんちょんと触れ、戻っておいでと声をかけると、夏織はひとつ大きく嘆息して、うんもういいやと頭を振った。何やら頭から追い出したのだろう。


「いいよ。じゃ、行くか」


「うん。帰ろう」





 肩にエコバッグを引っ提げてとことこ歩く私達。私は両肩、夏織は左肩。ここ周辺の道はお店を目印にして覚えたからもう迷わない。


「ここを左」


「そうそう。ここが洋菓子屋さんだから左」


「違うよ。あそこに中華屋さんがあるからここを左なんですー」


「ぶぶー。幸。洋菓子屋さんで覚えなよ。わたし中華屋さんとか興味ないし。ちょっと混乱するし」


「夏織こそ」


「嫌。もう覚えちゃったから」


「私もいやよ」


 幸が変えろ、夏織が変えてよ、なんてやり取りをしながら一応曲がり角で止まって左右を確認してから通りを左に曲がる。


「誰かにぶつかったら嫌だもんね」


「そうそう」


 こんなことも最初から自然とふたり揃ってやっていた私達。波長はばっちり噛み合っている。


「あの中華屋さんてさ、名前が中途半端くない? 中華百十八番とかさ、なんでって思う」


「ね。それ私も思った」


 百位にも入らないとか、普通その程度かと思うよね。美味くないみたいじゃんと夏織はなぜだか怒っている。


「自信持てって。ね」


「そうだねー」


 取り止めのない話をして、ああだこうだと言い合いながら、今日のところもなんか平和でよかったなぁと私は思っているところ。きっと夏織もそう思っているだろう。


「ピース」


「くくくくく」




 と、買い物をした駅ビルの中にある商業施設からなら、夏織なら洋菓子屋さん、パン屋さん、ケーキ屋さん、和菓子屋、私なら中華屋さん、定食屋さん、お好み焼き屋さん、焼肉屋さんを順に辿って行けば家に着く。


「にしても重いな」


「貸して。持つよ」


 手にはお酒を持っているから夏織より量もあるし重いことは重いけど、私は力自慢のさちちだから重さも量もいつものように気にならない。


「ありがと。けどさちちの方がたくさん持って重いでしょ。頑張る。負けない」


「うっほ。そっか。頑張って」


「うん。おっ。あそこに甘くて美味そうなお店が…」


 夏織は一瞬だけ顔を輝かせて、あ、誰かクリームパンとデニッシュパンを買ってるないいなぁと、パン屋さんに目を向けてすぐにため息を吐いた。


「はぁ。やっぱいいや」


「ねぇ」


「なに」


「クリームパンとデニッシュパン?」


「うん。買ってる。てか幸は見えないの?」


「見えないよ」


「残念。幸には食べたいっていう欲望が足りないんだな」


 食べたいと思えばセンスが働くもんでしょうよと、凄いことを言っているふうな夏織。

 ならばと、私も自慢しておく。私のセンスも捨てたものではないんだから。寧ろ夏織よりも凄いんだからと私の闘争心に火がついた。こうして無意味に張り合うことは私の野生の成せる業だから仕方ないの。


「言っておきますけど、アジフライ定食の匂いならわかるよ」


 私はパン屋さんの斜向かいにある、美味しい定食屋さんを指した。


「揚げ物全般じゃなくてアジフライなのか。やっぱ幸はすごいな」


「ふふん。まあね」


 やった。勝った。私は慎ましくも少しだけ成長を続けている胸を張った。


「引き分けで」


「私の勝ち」


「べつにそれでいいよ」


「よっしゃ」



 結局、パン屋さんを素通りして私達は揃って止まってその通りを右に曲がる。


「くくく」


「なに」


 夏織がパンを諦めたのはたぶん、荷物が重くて突貫出来なくて、これ以上の荷物を増やしたくもなかったのだ。目指したところで私に捕まっちゃうから。手に入れても持ちたくないから。あはは。


「はい、残念でした」


「ほんとだよ。くそう」






「むむ。またしても美味そうなお店発見」


 そしてまた懲りもせず、その顔に何かいいことを思い付いちゃったみたいな表情を浮かべ、肩に掛けたエコバッグや手に持つ箱ももなんのその、その手を双眼鏡のようにして夏織は街の一点を見つめ出す。その方向に視線を遣ればそれは次なる目印のケーキ屋さん。


「持ちたくないんじゃなかったの?」


「幸の手が片っぽ空いてるじゃん」


「またぁ、そんなこと言って」


「だって実際空いてるし」


「あのね夏織。ケーキならもう買ったよね?」


「はっ」


 え? まじ? 嘘、どこに? そんな小芝居を始めた夏織に、その手に持っている箱は一体何の箱ですかと教えてあげると、おお? こんなところにケーキがあると嬉しそうに箱を掲げて言った。


「そうだった。ならしょうがないな。今日はこれで我慢するか」


「そうしてね」


「ちぇっ。失敗かぁ」


「いくら何でも今のじゃねぇ」


「だよね。私もそう思う」


 あわよくばを狙った夏織の小芝居はそれで終わった。その稚拙さでいけるかもって思った夏織の明日を私は少しも心配していない。


 だって夏織はいつだって夏織らしく、思うがままに生きているんだから。他人からすれば馬鹿らしく思える今のようなことも、私からすれば、馬鹿らしくもあれ、やーかわいいねーもーとも思えることだから。

 そう。夏織はお間抜け可愛いのだ。


 そう思って夏織を見ると、私を窺う垂れている目とばっちり視線が絡む。さすがの夏織は私のことはお見通し。


「幸。いま馬鹿にしたな?」


「バレた? ちょっとね。あはは」


「そいやっ」


「あだっ」


 私にぺちっとパンチを入れて、あ、ヤバいケーキが崩れちゃう馬鹿なの私と慌てて箱のバランスを取る夏織は可愛いけど、夏織の明日が少し心配になって、私はつい訊いてしまった。


「大丈夫?」


「セーフ。だと思う。大して揺れてないし」


「え。あ、そっちか。あはは」


「そっちってなに?」


「なんでもないよ」


「ふーん。いいけど」




 それから少し歩いて街路樹が歩道に並ぶ大きな通りに出たところで、夏織は立ち止まってこんなことを言った。


「秋深しだな」


「なぁに」


 いきなりどうしたの? と顔を向けると、ほら、見てよ。真っ黄っ黄でしょと、夏織が落ち葉で埋まった道を指差した。


 人ってさ、一本の木の一年の営みを通じて己の人生を見るからこそ、たかが枯れつつある葉っぱにさえ美しさを感じるのかも。だって幸、普通に考えたらさ、紅葉なんてただ葉っぱが枯れるだけの現象でしょと、つまりアレを私達に当て嵌めたら、ただ歳を食ってしわしわになっちゃったってことでしょこわくない? と、持論を展開する夏織は最後にとても嫌な顔になった。


「あはは。なぁにそれ?」


「けど、そうじゃん」


 私は葉がすかすかになりつつあるイチョウに目を向けた。

 今までの私なら夏織が言ったようなことを思って色づいた木々を眺めることはなかった。そもそも私は紅葉なんてあまり気にしていなかったし、道に落ちた葉は邪魔だし、イチョウでいえば潰れた実が臭いなぁって思って、踏まないように避けて歩いていた程度だった。


 けど、その残念な表現の仕方はともかくとしても、そう言われてみれば我が意を得たりな感じがする。こうして枯れてしまっても春になれば、また新たに始まるのだから。それは今の私が思う、私達もいずれまた新しく生まれる、という死生観と同じだと思える。


 きっと夏織はそれを意識していない。ただ感じたことを感じたままに口にしたのだと思う。

 何がとは具体的に言えなくても、それでもやっぱり夏織は凄いねとか、また来世でも逢おうねととか、思うことを思ってすかすかのイチョウや黄色い地面を眺めていたら少し離れたところから幸と呼ぶ声がした。


「いくよ幸。ここ臭いし、早く帰ってコレ、仕込みしないと」


 夏織に目を向けると、私を置いて先を歩いていた夏織が振り返って私を呼んていた。


「あ、待ってよ」


 私は慌ててその後を追って、すぐに並んでふたりで歩く黄色い絨毯の上、滑る葉にたまに足を取られる隣では、あ、踏んじゃった、異臭騒ぎじゃんかくそうとぼやく声がする。


「くくく、あ」


 夏織ったら、はい残念でしたと思わず笑っていたら靴底にくちゅっと潰れた何かを踏んだ感触がして私は咄嗟に顔を顰める。


「いえーい。幸も踏んだ。なかまなかま。異臭なかま」


「夏織の仲間かー」


「ね、残念だな」


「え? あはは」


 夏織が笑って私も笑う。私達は、あぶないっ、そこそこっ、押すなって、わちゃわちゃやりながら銀杏の実を避けて、押し合い圧し合い仲良く遊んで家路を辿る。






「幸お待たせ」


「すごいねー」


 そしてその日の夜、我が家のローテーブルには夏織の作ってくれた洒落た料理と買い物途中に私がお酒のあてにこれ食べたいと言ったら夏織がいいよと買ってくれた少しお高いローストビーフとスモークトサーモンとチーズ。


「この煮凝りみたいなのもいい?」


「いいけど幸、煮凝り言うな。テリーヌって書いてあるじゃん。間違えるならせめてパテにして」


「あ、ほんとだ。書いてある」


「てかさ、よく煮凝りなんて単語知ってたな。すごいすごい」


「そう? へへへ」


「いやいや。違うぞ? 幸」


「えっへん」


 それに加えて、買う時にそんな会話をしたテリーヌ? が並んでいる。


「誕生日おめでと幸。ちょっと遅くなっちゃったけど」


「ありがとう」


 夏織は申し訳なさそうな顔をしているけど私はそんなことまるで気にしていない。





 これは少し前のこと。

 夏織のお母さん、私のお義母さんが元気になったと確信が持てるまで夏織は普段の生活をちゃんとこなしながらも気が気でなかったことを私はちゃんと分かっていた。

 あの、明るく元気なお義母さんが初めて見せたであろう弱った姿は夏織にとって衝撃的だったのだ。傍で見ていて、触れていて、話していてもその動揺する気持ちが痛いほど伝わっていたのだ。


 だから、私の誕生日のお祝いごときが月を跨いだところでべつにどうということはないんだから。


「まじこわかったな」


 元気になったと分かった時、心底ほっとしたように力の抜けた体を私に預け、そんな呟きを漏らした夏織の想いは極限られた人にのみ向けられる深い愛情。

 いずれ必ず私にも向けられるそれは、今回の比ではなく相当なものだろう。そう思うと嬉しくもあり、遣る瀬なくもなる。


「私は大丈夫」


「お願いね」


「おーう。まかせとけ」


「ふふふ。ありがと。ごめんね」


 同時にいけないのなら先にいきたい。夏織の謝罪はそんな意味がある。私はちゃんと分かっている。


「いいんだよ」


 今のところは大丈夫だけど、これからも私らしく元気でいなければと思う。

 お、お酒とお肉を少し控えなければと思う。や、野菜を食べなくてはと思う。


「そうしてね」


「お、おうっ? がっ、頑張る」


 顔を上げて嬉しそうにゆるふわく微笑む夏織。その微笑みの裏に何かある気がして、私は夏織に嵌められたのかなぁとちょっと思った。


「よかった。じゃあ私はダッツ食べよっと。ぐわっ」


「待ちなさい」


「やめろっ。離せっ」


「だめよ」


「くっ。やっぱだめか」


「当たり前でしょう。あはは」


「ふふふ」


 私達は顔を見合わせて笑う。

 この目の中に一杯に広がる夏織が笑っている。夏織は今の一連のやり取りで安心してくれたのだろう。そこには確かなことなど何もなくても、私が夏織遺さないことを信じてくれたのだ。


「ありがと」


「いいんだってば」


「うん。けど一番は一緒にだから」


「うん」


 夏織に回したままの腕に力を込めるとまた縋るように抱き着いた弱虫で泣き虫な私の最愛。


「うぐ。さちぃ」


「よしよし」


 抱いた夏織を優しく摩りながら、私の最愛がそれを望むのなら私はそれを叶えたいと私は思っていた。






「夏織」


「ん」


「そんなこと気にしなくていいのよ」


「でもさ」


「逆なら夏織は怒る? がっかりする? 私を責める?」


「それはありえない」


 私は夏織の頬に触れた。寧ろ、精神的に参っていた夏織を慈しむように優しく。私の想いが伝わるようにそっと。


「だからいいの」


「へへへ」


 途端に顔を綻ばせる夏織は照れ照れの照れ。その自然なゆるふわの破壊力は抜群。私の方が照れてしまうくらい。


「がはっ」


「幸? 大丈夫?」


「かは。平気だよ」


 可愛いねと思っただけ。そう告げながら私は夏織の唇にちょんと触れる。

 顔を離すと夏織はますます照れたように、その顔を伏せる。私に飽きることなく、はじめの頃と変わらない乙女な反応を見せてくれる。いつも不満げに文句を言おうが毒を吐こうが、このくそ社会を眇めて見つめていようが、夏織の本質は愛情に溢れた一途で可愛い女の子なのだ。


「がはっ、がはがは」


 そんな様子を間近に見せられてしまえば、溺れてしまう程の愛情を向けられる私が暫しのあいだ咽せてしまうのは当然のこと。



「よかった。いっちゃうのかと思った」


「そんなわけないでしょう」


 私の呼吸が落ち着いたところで差し出されたグラスを取った。


「お、ありがとう。じゃあ、乾杯しよう」

「うんっ。せーの乾杯」


「かんぱー、って、ちょっと夏織さん」


 口に付けたグラスを傾けて、喉を上下させたまま夏織が私に向いた。おや? 幸はなんで飲まないの? みたいな顔が夏織らしくて面白いけどなんか腹が立つ。


「っぱぁ」


「やりづらい。やり直し」


「なんだよ幸。下手くそか」


「違うでしょう」


「しょうがないなぁ。じゃ、あらためて。いくよ」


「うん」


 互いにグラスを持って向かい合う。

 今度は外さない。私はさぁいつでも来なさいと乾杯の声を待っていたけど、夏織は可愛い声でハッピバズデートゥーユーと、バースデーソングを歌い出した。


「ディア、さーちー」


 そして夏織はそこでためを作り、最後のところをやけにスローなテンポで歌い出した。


「ハアッビバァスディ」


 私はつい焦ったさを感じてしまう。私は美味しいドンを前にお預けを食らっている気分になっているのだ。


「くっ」


 けど、愉しそうに歌う夏織にそのつもりはないのだろう。そう思って夏織を見ると、垂れている目が両端からこぼれ落ちそうなくらい限界まで垂れている。それで分かる。夏織は私にいたずらをして嗤っているのだ。


「トゥゥゥゥゥ」


「長い」


「ユゥゥゥゥゥゥゥ」


 私の文句を気にすんなしと手をかざして止めた夏織はどこかの歌姫のようにうーっ、うーーーー、と音階を変えたて延ばすだけ延ばしてようやく最後、じゃかじゃかじゃんとその歌を締めた。


「ふぅ」


 夏織は満足したのか大きく息を吐いてにこにこした顔を私に向けた。

 そのやり切った感が可愛らしくもイラついてなんとも堪らない気分になる。


「ふぅ。じゃないでしょ」


「いいから。はい幸。お誕生日おめでとう」


「まったく…ありがとう」


「「かんぱーい」」


 そして私達はやっと、ピンク色したしゅわしゅわの液体が入ったグラスを合わせて乾杯をした。美味しい。あはは。


「私はこの一杯だけ。あとは幸が飲んでね」


「いいの? やったっ」


「いいの。違うの飲むから」


 私は素直に喜んだ。夏織はしてやったりと笑っている。美味しいお酒をたくさん飲めるのなら少しくらいのいたずらも、ちょろくても、夏織が相手ならそれでいいのと私は思うの。




「あーんあーん」


「これ?」


「ぶーぶー」


「こっちか。はい、あーん」


「ほいふぃ」


 私はソファに寛ぎながら、お酒をくいくい飲んで、雛鳥のように催促をするたびに夏織が口に運んでくれる料理をぱくぱくと食べているところ。


「これも食べて」


「いや」


「だめ。野菜も食べないと。うら」


「むぐっ」


「えらいえらい」


 甲斐甲斐しく私の世話を焼く夏織は親鳥。私は当然、夏織もこの状況をとても楽しんでいるように見える。実際そう。夏織も愉しげに笑っているし。



「あ。ねぇ夏織。わたしプレゼントがほしい」


 そして私は、ふと、思い付いたことを頼んでみることにした。もしかしたらいけるかもと、美味しいつまみと美味しいお酒が私を調子に乗せたのだ。


「珍しいね。いいよ。なに?」


「一緒にマイウエイに行きたいの」


「は?」


「行きたいな」


 夏織のようにゆるふわく言ってみる。けど、可愛くないしと突っ込むことなくそれを無視しちゃうほど夏織は動揺しているみたい。泳ぐ瞳も可愛らしい。


「…へぇ。そんな名前のステーキ屋さんがあるのか」


 少し沈黙したあと、そんなことを絞り出す始末。


「違うでしょう。バーよバー」


「うるさいな。ステーキでしょ。いま調べるから」


 夏織が手のひらを私に向けた。待てだ。

 それから側にあったスマホを手に取って、マイウエイ、ステーキとぶつぶつ呟きながら、必死な感じがまた面白い。


「来いや」


「くくく」


「やったっ。あった。埼玉とか池袋とか、メニューはお肉だって」


「へー。あるんだ」


「うん。ん?」


 喜んでいた夏織の顔が曇る。

 おかしい。嘘だ、そんな筈はと目をぎゅとしたり擦ったりしてもう一度画面に目を向けている。

 その必死な感じが私を笑わせてくれる。


「なんだよもう」


「あはははは。どうしたの?」


「みんなエがちっちゃい」


「ぷっ。なに? エ? あはははは」


「笑うな」


「無理だよ。あはは、だって、あはははは。ねぇ」


「くそう」


「あはは。はい、残念でした」






「うーん」


 いっぱい食べて、いっぱい呑んで、いっぱい笑って楽しく過ごした今日が終わって夜も更けて、一度だけ互いを慈しむような愛を交わした私と夏織はベッドの上、珍しくお酒を過ごした夏織は今すやすやと眠っている。

 お義母のことや家のことで心労や疲労が溜まっていたのだと思う。時々うーんと唸るのはお酒のせいで眠りが浅いせいなのかもしれない。



「夏織」


 こうして毎日傍に居られるようになって、半年以上が過ぎた。最愛との生活は順調、私には何の不満もない。夏織もそう思ってくれているだろう。


 毎日のようにご飯を用意してくれて、洗濯や掃除、片付けもきちんとしてくれているこの家は雑然という言葉を知らない。私も知らなかったけど今は知っている。あはは。


 私もたまに、暇なら一緒にやるよほらと手伝わされることはあるけどそれは私と戯れるため。私が手伝う時はいつもばたばたふざけた遊びに発展するから。


 基本、家のことをひとりでこなしていることについて、幸は外で頑張っているから気にすんなと、私はやりたくてやっているんだから任せておけと笑って言うだけで、あれしろこれしろと文句を言ってくることはない。この家で、私が私のしたいようにさせてくれている。無償の愛を捧げてくれる家族のように。


「心配だったろうな」


 私の最愛というその存在もさることながら、それだけでもとても有り難く思う。


「ありがとう」


 家族。最愛。そんな言葉が私の脳裏を過ぎる。愛し合うふたりが一緒になって暮らしていくとは互いの家族も大事なものになって、直接的にでも間接的にでも、受ける愛情だけでなく、それと引き換えに心配の種が増えていくのだ。そういうことでもあるのかなと思う。



「うーん」


 寝苦しいのかまた苦しそうに呻く夏織の髪を撫でる。怖くないよ、大丈夫だよと伝わるようにそっと。


「よしよし」


 そして私は先日記事になっていた、キウイが有名なとある国のモーリスさんの素晴らしくも感動的なスピーチをふと思い出した。


 あの国では同性婚が認められてから八年が過ぎたという。その法案に反対していた人達が危惧していたようなことは起こることなく、国が滅ぶこともなく八年が過ぎたという。その間にどれだけの同胞が婚姻できたのか。ひとつの区切りを公に迎えることができて、目に見えない差別は無くならないとしても、日々の暮らしを明るい日差しの中で生きているのだろう。


 あのスピーチの朝だか最中だか後には、その空には虹が掛かったという。


 恐るなかれ。


 このくそったれな社会でも、お偉い人のうちの誰かがそう言ってくれないかなと、人に期待することに疲れた私でもそんなふうに思わされる。思いたくなる。


「ああ」


 誰かお願い。私と夏織にもこの先をちょうだい。

 私はすやすやと穏やかに眠る夏織に涙を流しながらそんなことを思う。

 変化に怯えるなへたれどもって言いたくなる。


「くっそう」



 私にはまだ眠りは訪れそうにない。忙しい感情のせいで体は疲れていても頭は働いているのだろう。

 だから私は眠たくなるまで夏織を眺めていることにした。




「うーん。さちたべすぎだぞふとってしまえやむにゃむにゃ」


「え…あはは」


 うぐっ。


 もう堪らない。愛おしいさが極まって堰を切ったように涙が溢れてくる。起こしてしまうかも知れないけど止めようがない。


「ううう」


 声をあげる私はまだまだ眠れそうになかった。


「幸? 大丈夫だから」


 もうだめ。そのひと言でほんとうに堪らなくなる。


「いいのいいの」


 寝起きでもすぐに全てを察して声をかけて私を包む私の最愛。柔らかく包まれながら、大きな泣き声をあげる私もまた最愛。

 愛されているんだと嬉しくなる。



「ふぐっへへへ、うっぐすっ、ふへへ」


「笑って泣くとか幸ってやっぱ器用だよね、あだあだあだ」


「うるざいっ」


「ごめんごめん。って、どこ摘んでんだこらー。引っ張るなやー」


「うぐっす、あはははは、ぐすっ、ははは」


「ほら。やっぱ幸は器用じゃん、あだあだあだ。やめろっ、こら幸、引っ張るなってばっ」


 気づけば涙はもう止まっていた。こうしていつもと同じように私は夏織に癒やされるのだ。


「それそれっ。あはは」


「あだだだだ」





お疲れ様でございました。とはいえいつもよりは短いですから物足りなさを感じた方もいたかも知れませんね。

なんちってなっ、ははは。


さて、てんてこまいが完全に落ち着くまではもう少しかかりそうな気がしますので、どうぞあしからずよろしくお願いします。


あと、あの素晴らしくも素晴らしいスピーチについて興味がありましたら、記事や動画もありますので検索してみてくださいませ。


「あんなスピーチこの国じゃ絶対なさそう」


「みーんな小ちゃいもんね」


「「ね」」


「あったとしても、その頃には私達みんな土に還ってるよね」


「「それなっ」」


けっ。


読んでくれてありがとうございます。

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