第八十四話
続きです
よろしくお願いします
いま私は口から何か出しちゃっているところ。併せて微妙に体を揺らしながら幸を背中に引っ付けて洗い物をしているところ。今更だけれど私は食洗機を信じていない人なのだ。
「ふん、ふん、つきよだー」
「くくく」
彼岸を過ぎてひと月あまり。少し前まで季節を忘れた夏のように暑い日がたまにあったものの、もはや麻呂ることもなく日中とても過ごし易くなった十月後半の日曜日、私と幸は今日も仲良し。
もしも仲良し恋人ランキングなんてものがあったなら、付き合い始めた日からずっとランキング一位を獲り続けて殿堂入りは確実といったところ。
今も、私の肩や背中にかかる幸の重さや優しくもしっかりと回された幸の腕の感触に幸せを感じているところ。
だから口から何か出ちゃっていてもそれは当然のこと。
私はご機嫌なのだ。
「みーんな出て」
「くくくくく」
「こいこいこい」
「あっはははは」
「なに笑って、はっ? いや、ちょっと待ったっ」
けれどそれは、しょ、しょ、しょじょじ、しょじょじのにわはーと、幸は歌っていなかったけれど明らかに意図的にソレに合わせて、私のお腹でぽんぽこぽんのっぽんぽんっとリズムを刻む幸の綺麗な手の動きに気づくまでの話。
「幸。お前…」
「ん? なぁに」
私はさっきから、自分の口から出てくるものがなんか変だなぁとは思っていたのだ。
「はめたな?」
「くくく。バレた?」
してやったりと愉しげに笑うこの女は狡賢くも聡明だから、それが私に伝わるようにわざとやりやがったのだ。
いま思えばこの女は、最初の出だしのところをほんの小さくふんふんと口ずさんでいた気がする。
そのせいで私は嫌でも歌詞を思い浮かべてしまうし、それを口ずさんでしまうのは本能というもの。
ちくしょう。私は無意識にも歌っていたのだ。しかも愉しげに体を揺らすとか。くそう。
「ちっ」
これ以上は歌えない。私は一番しか知らないのだ。いや、違うから。そうじゃないから。歌わないだから。
「ぽんぽんっ。あはは」
「幸。いい加減にしとけよ?」
私の肩に頭を乗っけたまま嬉しそうに笑う幸。ぽんぽんと叩く綺麗な指はいまだ健在。私の我慢も限界というもの。
「ぽんぽん」
私は持っていたお皿を一度シンクに戻し、泡に濡れた左手てをぴっぴってやってやる。
「おりゃっ」
「うわっ、ぷぷっ」
「ざまぁ。天罰だし」
なにするのよと手で擦り、口に入ったよ、ぺっぺってやって、私の服で口を拭く幸。服だけでなく微妙に肌に触れる唇に少しこそばゆくなる。
「ひゃあ」
そしてその感触が、ナニをナニしてソコをソレしたままさらにアレをソレしつつ止めとばかりにコレもソレしてまだ駄目よ欲しいならちゃんとお願いしてみたら? と、とても優し、やらしげに私を焦らして弄んでいた幸に色々とされてしまった昨夜のことを思い出させてくれちゃって、洗い物をしながら赤面している私はいまだ背中にひっ付く幸に向かって文句を言ってやる。
「このっ」
されたことはべつに嫌じゃなかったとしてもそれはそれ。私は三十を超えた今だって花も恥じらう夢見る可憐な乙女だから。
「えろ女っ」
「ん?」
「えろえろ女っ」
「あー。もしかして昨日のこと? あれくらい普通でしょう?」
アレが普通とかあり得ない。私のナニをナニしてアレするとか、アレは、なんていうか、その、やっぱアレだからっ。
「いやいや。あのな幸。アレは、んっ」
あ、失敗した。寝てる子を起こすとか。
幸の唇が私の首筋に触れた。かなり情熱的な感じで。
「うふふ。夏織」
一度顔を上げて、少しいっちゃった感のある幸が妖しく私の名を呼んで、再び唇で触れる。
そこに伝わるほんのり湿った幸の唇の熱さにうひゃあと体を竦ませてしまう。びびびと電気が走ったみたいにへろってなる。
そして気づけばお腹にあった筈の幸の手が、今は私の形の良い綺麗な胸をさわさわとして、夏織、ねぇえぇぇ、なんつって甘くて囁き出す始末。
いま朝飯食ったばかりだぞって思うし、このまま好きなようにさせていると私が襲われてしまうのは確実。
「ねぇ」
「ちょっ」
ねぇ、じゃないぞと私は思うし、誘われるのは超嬉しくても今はこの身を任せるわけにはいかない。今は洗い物の途中だし、洗濯機がごごごと唸っているし、何より私は野生の本能丸出しの幸と違って我慢のできる立派な大人なのだ。
「やめっ」
私は身を捩りつつお尻をぐいっと突き出して抵抗する。私は伊達にお尻にお肉を付けておいたわけじゃないのだから。
「ろっ。りゃっ」
「うわぁ」
幸の重さが消えた。突き出しただけだからさすがに吹っ飛ばすことは出来なかったけれど、幸はたたらを踏んで一、二歩後ろに下がった。
はっはっはっ。ざまぁ。全てはこの時のため…いや、違うっ。私はなにも、敢えて肉を付けているわけじゃないっ。いつの間にか付いていたのだ。てか泣くし。絶対泣くしっ。
「くそう」
大体において、今このまま幸に襲われるわけにはいかない。
だって洗濯機はいまだごごごと唸っている最中で、終わったヤツをそのまま放っておくと洗濯した物が生乾きになって、ひいては異臭騒ぎに繋がってしまうから。
「屋敷さんこれ。今回のリニュアルの資料です」
「ああ、ありがと。てか吉田君、なんで鼻声なの? なんで口呼吸なの? てかさ、遠くない? 佐藤さんまで鼻声とか。しかもなんでそんなに離れているの? 風邪?」
「「いやぁべつに…」」
「…はっ。まさかっ」
なんて会話をする羽目になって、慌ててファブ的なヤツを買いに行くなんて私はまじで御免だから。どうりで今朝は電車の中が楽だったなとか思いたくないから。
最近は洗剤とか柔軟剤とか、優れものがいっぱいあるけれど過信しては駄目。臭い時はどうしたって臭いのだから。
「だからだめ」
「ててて。なによ。けち夏織」
腿の付け根辺りを大袈裟に摩った幸。心底恨めしそうな顔をしてまた私の後ろにくっ付いた。
声も不満げなのはやはり本気で私を襲うつもりだったのだ。幸はえろえろのえろだから。
「けちで結構。あとついでに言っておくけどさ、昨日のアレは絶対普通じゃないから」
「そうかなぁ。夏織、喜んでいたと思うけど?」
ねぇ? ん? ん? なんつって頬を突く幸。当たっているだけにイラっとくる。私は照れ隠しに幸に肘を入れてやる。
「いや。知らない。そんな記憶ない、ぞっ」
「痛いなもぉ」
「余計なことを言うからだぞ」
「あはは。けどあれはね、恵美さんが教えてくれたんだよ。これくらいのことみんなしてるでしょうって言ってたよ」
だから普通。うんうんと頷いている幸の顎が私の肩に当たって痛いけれど私は耳を疑っていた。
え。なんて?
私は思わず幸を見る。私の肩越し覗く幸の笑顔がこの目いっぱいに広がった。
「まじ?」
「まじ」
「嘘じゃない?」
「ないよ」
わあ。
まさかあの優しくも厳しい恵美さんも実は幸同様、いや、それ以上のえろ女だったとは。
「まじかぁ」
人は見かけに依らないんだなぁと、自分のギャップを棚に上げてそんなことを思う。
幸は、あんな手があったとはさすが恵美さん凄いよねと幸は感心している。私なんてまだまだだなぁと反省もしている。
その顔が、負けていられない、私ももっと頑張らねば的にとても嬉しそうに見えるのはなんでだろう。
そんなの簡単。幸はえろ女だから。はい楽勝。
「いやあ」
私は恵美さんたら何してんの凄すぎでしょと、陽子さんも大変なんだなぁと思うけれど、高学歴でインテリなほど実はえろえろというか都市伝説もあることだし、日頃溜まるストレス発散も兼ねているのだろうし、まぁ、確かに昨日のヤツがもの凄かったことは否定できないし、生地頭がいいから、そっちの方も知的好奇心が旺盛で思いついたことを実践して検証して証明しないと気が済まないのだろうなと納得しておく。実際、幸もそうだから。
「なるほど。あ」
「なぁに」
「となると陽子さん、大丈夫かなぁ。うーん。心配」
「なによ。浮気?」
「あほか」
「浮気は許さない」
「はいはい。しないから」
そう呆れつつも私は幸にキスをひとつする。そうすると幸はあほな思考をどこかにやってしまうことを最近発見したのだ。
「でへへ」
「あー」
そういえば陽子さんとは暫く会っていない。看護師さんは仕事もハードだと聞くし、その上恵美さんの相手とか、疲れ切ってバーに来ることができないのかも。
今度恵美さんに連れてきてもらって、里香さん特製の本日のお勧めをご馳走して頑張れ的に優しく肩を叩いておくことにしようと決めたところで、私のキスに喜んでいる幸の弾んだ声がする。
「他にも教えてもらったよ」
「まじ?」
「まじまじ。あのね」
ごにょごにょごにょとその内容を耳打ちする幸。うわぁまじかぁと私は内心で動揺しつつも突っ込むことも忘れない。
「野獣か」
「がうー」
「死すべしっ。えいっ」
「うがっ。やったなっ。それっ」
「わっ。ばか、幸いや、さちちやめろって。めっ。めっ、だからっ」
「うほほっ」
「やーめーろー」
「いやよ」
「だめっ。やめっ、ぐわぁぁ」
のしかかるように体を預けてきた幸と一緒に床に倒れ込んで、その体勢のままうりゃうりゃ、やめろと騒ぎ始める私達。
「ふーっ」
「ひゃあ」
「あはは」
こうした幸の絡みがいつもよりしつこいのは私を気遣ってのこと。
それは、ふとした瞬間に頭を過ぎる十月頭の出来事が原因。
私は弱虫だから、それに囚われるたびにその出来事を思い出しては怖さを覚えて震えてしまう私に、幸はその隙を与えないようにしてくれている。
大丈夫、夏織はひとりなんかにならないよと私を揶揄いながら伝えてくれているのだ。
「降参?」
「もうむり。こう、さん」
だから、暫く騒いでそれが収まったところで、私は幸に組み敷かれたまま、はぁはぁと荒げた息で幸にお礼を伝えた。
「ありが、と幸。それでもこわいけどさ」
「うん」
分かっているよそれは私も同じだからねと頷いて、それでも優しく微笑む幸に、私はぐぐぐと首を上げて幸の唇に触れた。
「かわいいなぁもう」
「ぐぇ」
私に上で体を預けるように、幸が全身で私を包んでくれた。
苦しいけれどかかる重さや腕を回して感じる幸の細さ、匂いや声がしっくりくる、慣れ親しんだ私には欠かせないもの。
抱く不安も小さくなって安心できる私にとって超スペシャルな優れもの。
私はそれにしがみつく。
「落ち着く」
「そう?」
「うん」
「そっか。よしよし」
まだ先があるとはいえ、こうやって少しずつ覚悟をしていくのだ。
まぁ、それができてもできなくても、私はがん泣きするんだけれど。
ぴーぴーぴー
「あ。終わった」
「あだっ」
干さないと。私は少し乱暴に幸を退けて立ち上がり、とことこと洗面所に向かった。
あだって聞こえたけれど気にしない。だってあのままだと幸の奴が私を襲ってきそうな気がしたから。今のやり取りのどこにそんな要素があったのかよく分からないけれど、私をそんな目で見つめていたのだから。
嬉しくても今は駄目。異臭騒ぎになっちゃうから。
「あぶないあぶない」
私が恐怖に駆られた出来事があった九月の終わりのその日、明け方の六時前にベッドの横、サイドテーブルに幸のと仲良く並んで置いてある私のスマホが鳴った。
母さんが救急搬送されてそのまま入院することになったと父さんから電話があったのだ。
「実はな」
運ばれたのは午前四時過ぎ、その二日後に大腸検査を受ける予定だった救急指定の病院。
検査の結果、腸に憩室とやらができて、そこに便が詰まって炎症を起しているのだとかなんとか、ここ二週間ほど排便がなかったとか、ベッドの上でうんうんとお腹を押さえて蹲っていたその痛がり方が尋常じゃなかったから慌てて救急車を呼んだのだと電話の向こうで父さんは言った。
女性は男性よりも遥かに痛みに強いという。私はどう贔屓目にみても当てはまらないその伝説に漏れず、私は母さんが痛い痛いと苦しんでいるところを見たことがない。知らないだけかもしれないけれど、その母さんが痛がるのだから相当な痛みなんだろうなと思えて私はとても怖くなった。
「大丈夫なの?」
「詳しい検査をしないと分からないけど、そういう人もたくさんいるみたいだし、夏織が心配しているようなことにはならないぞ」
「本当に?」
「ああ」
「そっか。わかった。午後そっちに行くから必要なもの訊いておいて」
「ああ」
ここ半年くらい、たまにお腹がきゅーって痛くなるのよ歳かしらねふふふふふと母さんは笑っていた。便の出が良くないのよねとも言っていた。もう。我慢なんかしないで病院に行けばいいものを。
父との電話を切ったあとそう考え込んでいた私を呼ぶ声がした。
「夏織」
「幸っ」
私は幸に突撃する。といっても幸は私のすぐ横で私と同じように、寝ていた体を起こして静かに聞き耳を立てていたから勢いよくぎゅって抱きついただけで、そんな私を幸はちゃんと私を受け止めてくれた。
私はもうひとりではないのだと少しほっとする。
「お義母さん?」
「うん」
「大丈夫?」
「母さんはたぶん大丈夫。けど、こわい」
「わかるよ」
大丈夫、生命に関わることじゃないと言われても百%はあり得ない。必然に必然が重なれば何が起こるか分からない。眇む私は万が一を想像してしまう。
「こわい」
そうして私は幸にしがみついて、少しのあいだ震えていたのだ。
「どう? 辛い?」
「平気。わざわざ来なくてもよかったのに」
血圧も高く、熱もあって痛くて怠くても、大丈夫だよと弱々しく微笑んでみせる母さん。今は目を瞑っている。
間近で見る顔はそれなりに歳をとって目尻の皺が増えてほうれい線も深くなって弛んでもきている。力なく握り返してくれた手にもそれが見える。髪には白いものが目立つようになった。
私を育て、私達家族のために外で懸命に働く父を支えてここまで生きてきた証というヤツ。女性という生きものをてんで分かってない人ならそんなふうに評してくれるヤツ。
私を愛して優しく厳しく叱ってくれて、母として同性として、目一杯の愛情を注いでくれた女性。私がビアンだと知っても変わらぬ愛情を注いでくれて、夏織が幸せでいてくれればいいよと笑って髪を撫でてくれた女性。私はこの女性から産まれたのだ。
大方の子供のように、娘として孫をみせることも抱かせることも私にはできない。そう思うと泣きたくなるというか、弱った母さんの姿と相まって泣いてしまう。
「うぐ」
今回はたまたま命に関わることではなかったけれど、いつそれが来てもおかしくない。甘えているばかりではなく、母との絆をもっと大切にしなければと私は思った。
その母は薬のお陰か、今すやすやと眠っている。
「母さんがいっちゃったらどうしよう」
「大丈夫だよ」
「そんなのわかんないじゃんっ」
「大丈夫。お医者さんもそう言っていたでしょう?」
「けど幸。なんか見落としているかもしれないじゃんっ」
「夏織もお義父さんも、これでもかってくらい訊いていたじゃない。だから大丈夫だよ」
「でも絶対なんてないじゃんっ。うぐ」
「ないよ。けどお義母さんは大丈夫」
「ぞうがなぁ。ううう」
「わかるよ。心配は心配だもんね。ほらおいで」
「ざぢぃ」
「よしよし」
こんなふうに私が想像せずにはいられなかった最悪の事態。それを半ば八つ当たり的に、どうしよう幸まじどうしようと、私は幸に不安をぶつけていたけれど、愛しの幸はそれを面倒くさがらずに、安心させるように励ますようにいちいち相手をしてくれたのだ。幸は凄く優しいから。
「本当にその時が来たら夏織は凄く大変そうだなぁ」
「それは否定できない。絶対無理。だから幸。お願い。私より先にいかないでね」
「うーん。そうだね。その方がいいかもね。よし、任せとけっ」
夏織を残すとボロ雑巾みたくなりそうだしねと幸が笑う。その顔は少し悪戯っぽい感じ。
「誰がうす汚れたぼろぼろのしわしわか。ていっ」
「あたた。あはは」
幸が私を優しく撫でる。
どっちが先かなんてそんなこと分かるわけなくても、幸が任せとけって言ったのだから私は幸を信じることにしておく。その手の感触も私は絶対に忘れない。
と、わたしは心の中でばたばたと色んな感情を爆発させていたのだけれど、母さんは十日も経たずに退院できた。
そんな臆病者の私を理解している母さんに、大袈裟に騒いでまったく夏織は忙しいねぇと呆れられつつも、お疲れ様心配かけたねありがとうと言われてしまった。
「やっちまった…」
私はタロとのお別れの時も、体調を崩したタロを前に酷く動揺していたから、過度に心配してわたわたしていた私を逆に心配してくれていた母さんに余計な負担をかけていたかもと、私は反省したのだ。
けれど私は私。
私はお互いを想い合うとはそういうものだと思うから、たぶんこれからも同じことを繰り返してしまうのだろう。
「そうそう…」
弱った人に心配かけるとか、なんかすいませんねと私は思った。
「ふぅ」
幸に捕らわれ色々な思いにも囚われつつ私が洗濯物を干し終えて、ひと息つくかとソファに腰をおろした時、お昼を告げる音が鳴った。
ぎゅるるーぎゅごぅぅぅごょごょきゅー
「お腹減った」
「いつもより多めに鳴らすとか」
「くっついちゃうよ」
幸がお腹を押さえている。くっ付いちゃうとはなんのこととすっ惚けたかったけれど私はちゃんと分かってしまった。私だってお腹が減ったらくっ付いちゃうから…いや、なんでもないし。
私は泣きそうになるのを堪えて、何を馬鹿なと嘲笑ってやった。そうでもしないとこぼれてしまうから。
「はーはーはー…くっ」
「あはは」
「まぁいいや。仕方ない。お昼行くか」
「行こうっ」
幸と違って無音のぽっぽの時計に目を遣ると十二時を回ったところ。
じゃあ用意をしようと私達はそれぞれに、どっこらしょっ、よっと声を出して立ち上がった。これは単にこういう時の口癖の違いだから私は全く気にしない。
「どうしたの?」
「なんでもないよ」
ということで、幸のお腹の音を合図に私達は元気よく街に出たのだ。
「ふぅ。食べた食べた。お腹ぽんぽこりん。ね」
「ね、じゃない」
大盛りのカツカレーと私のハンバーグ定食の三分の一で無事にお腹も膨れた幸と並んでのんびり歩いている。ちょうど今、私は無言で幸の背中をバッグで叩いたところ。
「ん? なんだ?」
背中に何か当たったようなと後ろを振り返り首を傾げた幸の明日が少し心配になる。
夏織は分かる? 的に視線をくれた幸に、さぁ? なんかあったの的に首を傾げてみせておきつつも、ぽんこつ幸をちゃんと励ましておくことを忘れない。
「頑張れ」
「おう」
任せろと慎ましくもちょっと膨らんだ胸をとんと叩いた幸に頼もしさを感じる私自身も今更ながら少しだけ心配。
今日はからっと晴れているから気候的には申し分なし。街を歩くのも楽しくなるというもの。秋の空気と入れ替わったのだ。
「いい感じ」
「ね」
歩いているのは私達の街。電車に乗ってどこかに出掛けて何かをするわけじゃない。
私はこうした時間が何気に好きだし甘くて美味いヤツを売るお店がいっぱいあるこの街も好きだしこの季節も好きだし幸も好き。
つまり私はいま好きなことをしているというわけ。
「あの店ってあっちだよね? 行きたいな」
「いいよ。行こう」
なんつって、お洒落を気取る割とお高いセレクトショップとか、頑張らずともまだまだいける筈の若者向けのお店とか可愛い小物の雑貨屋さんとか、甘くて美味いヤツを売るお店とかコロッケだなんだを手軽につまめる惣菜屋さんとか、互いの気に入ったお店を回るだけだけれど、気になっていたお店に入って、ここは当たりだったとかあそこは残念だなとか、私達なりの点数を付けてみたり、こんな所にこんなのがあったんだねー、なんてわくわくする新しい素敵な出逢いがあったりもするのだ。
「幸。待った。これ美味そう。ちょっと買ってくる」
「あ。夏織っ」
「幸お待たせ。買ってきた」
「早いねっ」
「当然でしょっ」
「あっ。いってくる」
「え? っていないし」
「買ってきた」
「焼き鳥かぁ」
「うん。ここのは美味しいから」
「なるほど」
と、私が素早く美味そうなヤツを買って幸に褒められたり、幸のお気に入りの惣菜屋さんで焼き鳥を買って来たりとか。
「ふぁふぇふ?」
「要らない。お腹いっぱいだし」
「ふぉんふぉこりんらもんれ」
「うら、いや、串が危ないからやっぱやめた。あとで覚えてよろ」
「ふぁふぁふぁ」
「…いや、あのな幸。口の中を見せるなって」
道路の植え込みの中に唐揚げを見つけて自慢げに見せてくるタロみたいだなと、懐かしい気持ちにさせてくれたりとか。
こうして歩く私達の、たまに触れ合う腕とか肩はもう自然。ひゃあ、いま触れちゃったぞぉとどきどきすることはない。幸はもう私には空気と一緒。そこにあって当たり前。私と幸の繋がりは恋ではなくて愛だから。それは幸も同じこと。
互いとってその存在は特別でも、特に意識はしなくても、というヤツ。
こうして外を歩いていても、どこにも行かず、家事や仕事をしているうちに日が暮れてしまっても、家でまったりいちゃいちゃ過ごして一日が終わってもそれは同じこと。
私と幸は妻と妻。もう家族のようなもので身内に近い存在にもなった。
法でも世間様からも認められなくたって、私達だって結局はストレートな人達と同じなのだ。こうして家族にだってなれるのだ。
「はっはっはっ」
「どうしたの?」
「どうよざまぁって思ったの」
「ん? ああ。そういうことか」
「そういうこと」
「そうだね」
「これ買ってくるね。ちょっと待ってて」
「わかった。そこのコンビニにいるから」
「オッケー」
すぐ済むからと、幸が軒先の商品、度数の高いお酒を手にお店に消えたあと私は向かいにあるコンビニに入った。
幸を待つ間に立ち読める雑誌でもと思ったけれど、季節が変わって陳列されるスイーツも様変わりしたし、さてさて何があるかなと、私の足は雑誌コーナーではなくコンビニの一番奥の列へと向かっていた。コンビニの動線は大体がそうだから。
違う系列だけれど昨日も見たし、あまり変わっていないなぁと、少し残念に思いながらもアイスのケースまで辿り着いてしまったところで、私が大好きなダッツをスルーしてまでも視線を奪われたモノがあった。
「ピスタチオ…」
慌てて手に取ると中々のその重たさに、ワッフルコーンの中にびっしり詰まっていると思われる甘くて冷たくて美味そうなヤツ。
「超美味そう」
ヤバくない?
やはり素敵な出逢いがあってくれた。私は迷わず二本取ってすぐに会計を済ませることにした。
幸の間の悪さはぴかいちだから、早くしないと私のものになる前に幸がやってきてぶーぶーと文句を言い始めるに決まっているのだ。
「あざしたー」
びぽぴぽぴぽぴぼーんと鳴る音を聴きながら外に出てさっそくプラスチックの蓋を取ってソレに齧り付き舌で転がして鼻から空気を抜くようにふむふむとやればピスタチオの香りを強く感じるソレが冷たくて甘いのは当然。
「うまーい」
なにこれ超美味いんですけどと食べ進め、残すところコーンの先っちょ一センチくらいになったところで幸が買ったお酒を手にぶら下げてこっちにやって来るのが見えた。その足取りが若干ふわふわしている気がしないでもない。
そういえばお酒一本買うだけなのににやけに時間がかかったなと思いつつ、手を振って近づいてくる幸をよく見てみる。
「うーん」
幸の顔は普通。可もなく不可もなくといった様子。特に圧を出しているようにも見えない。
けれどこの状況でなら、幸はお安くお酒を手に入れたことににやにやしながらも、今もしれっとアイスを食べている私に呆れるところな筈。
「いや、おかしい」
私は首を捻りながら、何の感情も出さずに平然としている幸をじーっと見ていた。
そして間を置かずいつもより二歩くらい離れたところで立ち止まった幸は私に顔を向けることなく通りを眺めているふうにして口を開いた。
「さてと。そろそろ帰ろうか」
「いや、それはいいんだけどさ。幸、遠くない? てかさ、どこ見てんの?」
「いやぁ、人がたくさんいるなぁって」
いつもなら傍に来てすぐにぶつぶつと文句を言うくせに、今に限って何も言わないし圧もない。ついには私に背を向ける始末。
「ふーん」
明らかに挙動がおかしいぽんこつ。
けれど、幸は元々どこかおかしいし、私と同じでそうすることに何か意味があるのだろうし、幸がそうしていたいのならそれはそれということで私は幸の隣に並ぶべく歩を進めると、幸は並ばれまいと足を早める。
とことこ、ととと
とことこ、ととと
みたいな感じ。
なにこれ、なにやってんの幸と思うけれど、私は幸の分のアイスを持っていることを思い出した。
「あ、幸これあげる。溶けかかってるけどこれね、超美味いよ」
「まじ? やったっ」
立ち止まって私が差し出してたアイスに手を伸ばす幸。やったと喜ぶその息はお酒の匂いがふと漂った。
「ははーん」
そこで私は合点がいった。
あの酒屋さんは越して来てすぐに幸が見つけたお気に入りの酒屋さん。確か、その場でお酒を愉しめるように結構な種類のお酒をグラスで量り売りをしていた筈。幸は凄く嬉しそうだった。
なるほど幸は我慢できなくてついついそれをやっちゃったのだ。たぶん一杯ということはないだろう。
さすがにおいおい幸よと思わないこともないけれど、飲みたくなってしまったのなら仕方ない。あっちのお店こっちのお店と、日々誘惑星に負け続けている私にはその気持ちはよく分かるから。
私のすぐ傍で慌ててアイスにぱくついて、おー、美味しいねと満更でも無さげな幸。これでお酒の匂いを誤魔化せて、しかも中々に美味いとか最高だなって満足そうな幸。
幸は気づいていないみたいだけれど、そんな幸の浅はかな目論見は私にはばればれのばれ。私の企みが幸にばれて怒られているのと同じ。
普段から互いをよくみているし、心身ともに深く繋がる私達はソウルメイトでもあるのだからバレるのは当然のこと。はい残念。
それでもほっとして気を許した幸のなんとまぁ、可愛らしくあることか。
「ふふふ」
私は顔を綻ばせる。幸の頑張りを無碍にはしない。言わぬが花という場合もあるのだ。
私は今度こそ幸の隣に立った。
「じゃ、幸。帰ろう」
「うん」
私達は並んで歩き出す。その幸からアイスとアルコールが相まって、甘いカクテルのような匂いが漂ってくる。
けれど私は気づかないふりをしてあげる。特に気にしていないのだから当たり前。ばれてるよと指を差して笑いたくはあるけれど。
「で、どうよそれ。美味くない?」
「ほんと美味しいねこれ」
「でしょ」
今日のところは赦してあげる。誰が何を言おうとも、私の本質はラブアンドピース、愛と平和と幸をこよなく愛する何処にでもいる何者でもない至って普通のひとりの女性。おかしなところなことなんて何もない。
「ね」
「そうだね。私も同じ」
「うん」
私と幸は今日も仲良し。やっぱりそれが一番のこと。
大切な人達とのお別れは怖いし嫌だけれど、それはいずれ来る確定事項。
だから私はこれからも私らしく、泣いて怯んでぶぅ垂れて、七転八倒…いや、違う。七転び八起きでなんとかやっていくのだ。
私には可愛くもぽんこつな愛しの幸がいる。だから私は怖くたって大丈夫。全然平気。
「ね」
「そうだね。くくく。私に任せなさい」
「酒臭いけどなっ」
「なっ、なななっんでバレたっ?」
「いやいや、バレるでしょ」
途端にあたあたし始めたぽんこつ。幸はやはり可愛いくて面白い。
私は幸が大好き。幸なしでは私は私でいられない。そんなことはないんだろうけれどそう思う。
なんでなんでと慌てふためく幸。私の中の何かに触れて少しだけ泣きたくなる。
「ああ」
幸。どうか私を置いていかないでと、私は願った。
お疲れ様でした。ここまで来てくれてありがとうございます。
さて。先週の水曜日から私のてんてこまいがいよいよ佳境を迎えまして、まだ安心は出来ませんが、おそらく来週には落ち着く運びと相成りました。
まさに今話のヤツです。正直かなりびびりました。
ということで、たぶん、あと一話分くらいは更新ペースが落ちてしまいます。
「ごめんなさい」
「しはかたしはかた」
「なに? どしたの?」
「不定期不定期」
「え?……はっ」
「あはは」
読んでくれてありがとうございます。