閑話 花
閑話です。
短めです。但し、私にしては。はっはっはっ。
よろしくお願いします。
九月の終わり。週の半ばを過ぎたお昼過ぎ、私は例のスペースのいつもの席で夏織を待ちながら、私は何とは無しに窓越しの晴れた空を眺めている。
「青いね」
今日は一日無駄な研修だから一緒にお昼を食べようよと私を誘った夏織はまだこない。
講師が無駄に喋る。押してる。ごめん花ちゃん私のご飯適当に買っておいてと、ちょんまげのスタンプのついたメッセージが来たのはお昼前。そのスタンプを見てほんの一瞬 ん? てっなって、そういうことかはははははと笑ってしまった。
いま目の前のテーブルには自前のお弁当入れ、小さな赤と青の唐辛子がプリントされた可愛い巾着と全体的に緑色したカップ麺の入ったコンビニの袋が置いてある。お腹は空いているけど今はそれも気にならない。
ぼーっと眺める窓の向こうは青い空。風に吹かれて流されていく雲を見ているうちに、それは形を変えて千切れて消えた。
あの雲は一体どこへ還ったのだろう。
空はいくらか高くなった。暑かった夏はそろそろ終わり、次の季節が巡ってきた。今年もあの日がやって来る。
私は生きているから歳をとる。怖い怖いと思いつつ、私はもう三十四になるよと、早いものだねと語りかける。
「ちぃ」
ぼんやり雲を眺めながら私はそっと、幼い頃の愛称を呟いた。
よく考えてみれば久しぶり。私はもう長いこと愛称を口にしていなかったことを思い出し、懐かしいその呼び名をもう一度口にして少しこそばゆい気持ちになる。
「ちぃちゃん……くぅぅ」
千春が居なくなってもうすぐ十四年。あの子は今どこにいる? 還るべきところがあるとして、迷わずにちゃんと還ったのだろうか。それとも今も私達家族の側にいるのだろうか。楽になれたと笑えている?
今頃は風になって、広い世界を見て回っているのかも。そうして見つけたお気に入りの場所でのんびり過ごしているのかも。
「ははは。だといいなぁ」
世界は広い。この国じゃなくても、ほんの小さな世界でも、あの子の居場所も必ずあった筈。
「だぞ。ちぃ」
千春が世界を知らぬままにいってしまったことは今でも残念に思うけど、いま風になって、世界の色んな場所を旅をしているのならそれもいい。あの子が心から笑えているならそれでいい。
はぁねぇちゃん、ちぃちゃん。
そう呼び合っていた幼い頃は、私達の世界は何の色にも染まっていなかった。悪意などどこにも存在してなくて、あの子は本当に楽しそうに生きていた。
成長するに連れ、お互いの生活のリズムが少しずつズレてしまうまで、いつもにこにこ私の後をついて来てくれた。
見つけたのは母。
三限の講義中、マナーモードにしていたスマホがやたらとうるさかった。
私はバッグから漏れるぶー、ぶーという音を聴きながら、どこか怪しい業者にでも連絡先が漏れたかな、あとで番号調べてブロックしておくかなくらいに思っていた。
呑気なものだ。飛んだ間抜け。
その頃の私は、広がった世界が、新しい毎日が楽しくて仕方なかったのだ。誰にでも覚えがある、家族よりも友人達というヤツだ。
講義が終わって席を立つ前にスマホを取った。そこにずらっと並んだ履歴に嫌な予感がしてすぐに折り返しを入れると、千春が、千春がと、母が電話口の向こうで酷く取り乱していた。
「なによ? よく分からないんだけど」
「だからっ。千春がっ」
千春の名を聞いて私の心臓は痛いくらい跳ね上がったけど、私までパニックになっては収拾がつかなくなってしまう。
慌てふためく母を落ち着かせようと、私は敢えて静かに語りかけた。
「なに? 千春がどうしたの?」
「千春がごめんなさいって。千春、とても冷たいのっ」
「すぐ帰るっ」
母の話は要領を得ず、支離滅裂でよく分からなかったけど、暗い部屋でひとり籠ってずっと沈んでいたあの子に何か良くないことがあったのは察しがついた。最悪な考えが頭をよぎった。
そして私はスマホを握ったまま駆け出していた。
自分の足で走った方が速いと感じるもの。電車に乗っている時間はもどかしく居ても立っても居られなかった。
「千春っ」
家に戻ると千春は既に居なかった。パニくる母がなんとか呼んだ救急車で病院に向かっていたと分かったのは後のこと。母に代わって父が連絡をくれるまで。
「千春っ」
明るい声の返事の代わりに千春の部屋で見つけたものは、殴り書した文字で書かれたごめんなさいと書かれていた紙。私はそれを眺めながらただ茫然と立ち尽くしていたのだ。
電車の中や走る道の途中、家に戻るまで涙を溜めて震える体で必死に願ったことは結局神様に無視された。そんなのやめてと、神様おねがいと、私は必死に祈ったけど、口惜しくも悲しくもそれは無視されたのだ。
千春はいってしまった。
神様なんてどこにも居はしないことを私は知った。
千春は家に帰って来ることはなかった。検視の結果、事件性はないということで、病院からそのまま斎場へ行って焼かれてしまったのだ。
父はその手続きを淡々と行なっていた。そんな父のことを、私は冷たい人間だとは思わなかった。私と母が憔悴しきっていた分、自分がしっかりしなければと、歯を食いしばって泣きたいのを堪えてくれていたのだから。
私は、せめて誰かに殺されたのなら誰かを恨むこともできたのにとそんなことばかりを考えていた。そんな想いが痼になって私の中に残っていた。
そうしてやっと気持ちが落ち着き始めた頃、私はなぜ千春が自らいってしまったのか、その理由を知りたくてあの子のスマホやPCを漁りまくった。
そのパスワードを苦もなく解除できたのは、その昔、お姉ちゃんと私の誕生日を混ぜたんだよと笑っていたからだ。千春はそれを変えていなかったのだ。仲の良かった頃の話。私の涙腺が崩壊した。
私はその滲む目で、千春の部屋に何度も篭ってそれを漁り、あの子の全てが分かる筈がなくても、あの子の人生のほんの一部を垣間見た。あの子がいってしまった理由を。
「そうだったんだね千春。お姉ちゃん、気づけなかったよ」
千春は必死に隠していたんだから当たり前。あの子が何かを残して直接そうだったと伝えたわけじゃない。
けど、ノートに書かれた悩みや悲痛な叫び、スマホやPCの検索履歴から、余程の馬鹿でもかすでもない限り嫌でも間違えることはない、読み取れるあの子の心の声。あの子が抱えていたもの。
私は馬鹿ではない。だから私はそうだったのかと結論付けたのだ。
「辛かったよね。ごめんね千春。お姉ちゃん、なんの役にも立たなくて」
私は泣いた。声をあげて、体を丸めて子供のように。そこらにあった千春が幼い頃から大事にしていたぬいぐるみを抱いて。ずっと大好きよと、ごめんなさいと、伝わらなくても伝わるように。
「ごめんちぃちゃん。ごめんね」
けど残された者達も辛いのだ。なんでよ馬鹿、一人で抱え込むなんてと、子供のようにばかばか、ばかちぃと責めるようなことも口にしながら、泣き疲れ果ててあの子のベットで眠るまで私は泣いた。
たとえみんなに責められても理解されなくても、私だけは千春の味方でいたのにと、そんな都合のいいことも私は本気で思っていたのだ。
自分の生をひたすら謳歌していただけのくせに。あの子に目を向けなくなっていたくせに、こうなってしまっても尚、都合よく。
「くそだね」
姉だから。たったそれだけの理由で一体誰が自分に目もくれないような人間に、自分の生を左右する事柄、苦悩を打ち明けられるというのか。信頼なんてされるわけがない。
「くそ」
そして迎えた朝。私の後悔や、今の私の彼らに対する考え方や者の見方はその時から始まったのだ。
それまで漠然と知っていただけで意識していなかったこと。私なりの贖罪。自己満の。
それを受けてくれたのは夏織。私は夏織の抱えるモノを知って、一も二もなく夏織に飛びついたのだ。
それ以降、私を信頼してくれて懐いてくれた夏織を、私は私の出来る範囲で引っ張り回してやった。
そして私達の今がある。私も夏織も両手で抱えるほどの幸せを掴んだ。
夏織と幸を見ていると、ふと思うことがある。
辛くても苦しくても、ここまで過ごすことが出来ていたら、あの子にも素敵な未来が絶対に待っていた筈だったのにと。夏織のように幸のように、隠れるようにしながらも幸せに生きる彼女達のようにでも、また違う他の誰かのようにでも、と。
生きてこそ。
とはいえ、まだまだ幼かったあの子に抱えたモノを受け止められなかったことは責められるべきことではない。私達家族の責任でもない。あの子は抱えたモノに対する自身との葛藤や無数の中傷、悪意なき悪意、それに隠れた本物の悪意に耐えられなかっただけ。あの子は自らいってしまうことでケリをつけた。
悲しいけれどそれが現実。
と、いくら色々思ってみても所詮は後出しでしかない。当時の私では支えにならなかっただけ。悲しいけれどそれも現実。
「だよね」
まぁ、それはそれとして私は私の人生を歩く。これからは先はぐっさんと。もちろん夏織と幸のことも忘れない。
夏織のお陰で私の気持ちの区切りは着いた。今なら墓前に向かって、馬鹿だなぁ千春、もう少し、あと三年我慢していれば良かったのにさと、昔みたいにそんな軽口を叩けるくらいになれた。私は過去を過去として前を向けるようになれた。だって、私が身勝手にも投影していた私の思う千春の姿を、そうなれただろう姿を、夏織が体現してくれているから。昔から、そして今も。
そしてたぶんこれからも夏織は幸とともに、幸せでいる姿を見せてくれる筈。
もしも、とことこマイペースに進む道の先で、あの子達に何か困ったことがあったなら、私は喜んで手を貸すつもり。私はもう、決して間違えたりしない。
そう思うことで私がどれほど楽になれたことか。
それを分かっているのかいないのか、花ちゃんがいいならそれでいいでしょと、夏織はいつも私の側で夏織らしく騒いで笑っていてくれる。
「ははは」
だから今はもう平気。千春が居なくて寂しいけど前を向ける。あの子との楽しい思い出も辛くて苦しかった思いも全て、絶対に忘れることはない私の一部として大切にこの胸の奥にしまっておく。
私達家族があの子を繋ぎ止めることはできなかった。そんな思いに苛まれて、父も母も私も凄く苦しんだ。
何もできずにごめんなさいと、時には一緒に、時には陰で泣いたのだ。
けど、苦しみから逃がれるためにあの子の取った最後の手段に負い目を感じることも、ましてやそれを責めることも必要ない。あの子がそれを望んでいるとは思えない。悼む想いを抱えて私達があの子との楽しかった日々を忘れなければそれでいいんだと今は思える。
「ねぇ、ちぃ」
毎年謝ってばかりいたけど、今年は話したいことが幾つかあるよ。
「お姉ちゃんね、結婚したんだよ」
千春は喜んでくれるだろう。
お姉ちゃん、謝ってばかりでいい加減うんざりだったよ、おめでとうよかったね幸せにねと微笑んでくれるだろう。
「ちぃ」
そして私はお腹を摩る。自然と頬がゆるんでくる。来年の今頃には私は母親になっているだろうと、そんな予感がしているから。
この私が母になる。
本当に早いものだねと思う。
「なに花ちゃん。お腹痛いの?」
お腹を摩る私の横に夏織が座った。口調と表情から本気で心配してくれているのが分かる。
「オフィスに正露丸あるよ」
たぶんここの救急セットにもあると思う。取ってこよっか? なんて言っている。
「いる? 正露丸。臭いよね」
異臭騒ぎになっちゃうけど飲んだおいた方がいいと思うと鼻を摘む夏織。
いつの間にか夏織の中では私がお腹痛い時、イコールお腹を壊しているということになっている。早くトイレにいっといれと何度かそう言われたことがある。全然面白くないしえらく不快だから私は手を伸ばす。
「あ、ちょっ。いたたたた」
私は夏織の頬を摘んで引っ張ってやった。
私はいつから胃腸の弱いキャラになったのか。私はお前と数々の修羅場を喰い潜った甘ラー先輩でもあるんだぞ。
そう言ってやると、夏織はそうだったと笑って誤魔化した。
「ったく。これは違うんだよ。たぶん着いたからさ」
「ついた?」
「そう。私の女性としての勘がそう伝えてくるんだよ。分かるんだよ」
「女性の勘? 着いた? えっ。まさかそれってそういうことなの?」
「たぶんね。勘だけどね」
「うわっ。おめでとう花ちゃんっ。て、まだ分かんないから騒がない方がいいよね。ごめん」
「いいよ。間違いないから。先週末ね、ぐっさんもの凄かったんだよ」
「あ、いや。待った」
夏織は慌てて耳を塞いだ。聞きたくもないんだろうけど恥ずかしいがる歳でもなし、私はお構いなしに先を続ける。仲良しなのはお前達だけじゃないんだよと、自慢したくもあった。
「もうね、一晩中。こんなこととかされちゃって、もう無理勘弁してって言ったのにさ、何度も何度も」
「たんまたんま。わーわー」
「愛してる花なんて囁かれてさぁ。へろへろにされちゃってね。解放された頃にはもう朝でさ、ちゅんちゅんってね。朝ちゅん」
「わーって、ちゃんと聴こえるとか。くそう」
「きっとその時にばっちり着いたんだよ」
凄いだろ? 私は夏織ににやついてみせた。私達もらぶらぶなんだよって。
「もぉ花ちゃん。そういう話いらないんだけど。想像しちゃうでしょ」
頭から追い出そうとしているのだろう。嫌そうな顔をして、ああああーと小刻みに頭を揺らす夏織。
まじ勘弁してくださいよと、うへぇとなっている私のもうひとりの大事な妹。
「研修は? どう」
「うーん。私には意味ないかなぁ」
あんなので一日潰れるとか駄目でしょと夏織ぶつぶつ言っている。今日は外に出られないから素敵な出逢いはお預けだしと、頬杖を付いた顔を不満げに膨らませた。
「つまんないなぁ」
「それは残念だね。はいこれ。夏織のお昼だよ」
「やった。ありがと花ちゃん」
「そう。しかも奢り」
「まじっ。やったっ」
私がコンビニの袋を渡すと、夏織はそれを受け取りつつ透けて見えるモノに不満があるようだった。まぁそうなるように狙ったのだから当たり前だ。
夏織は顔を顰めている。
「花ちゃん? コレどゆうこと?」
「いや、それね。それしか残ってなかったんだよ」
「嘘だっ。これしか残ってなかったとか絶対嘘でしょ」
「まあね。夏織は鋭いな」
「まぁ、食べたら美味いからいいけどさ」
「ははは」
緑色したたぬき蕎麦を持ってぶうぶう文句を言っている夏織に、私はいいことを教えてあげる。落としたら上げる。そうしなければただのに嫌がらせでしかないから。これで機嫌はすぐに真っ直ぐになる。
「そんな顔するな。ピスタチオのアイスがある。棒のやつ」
私は入り口横を指して、あそこの冷凍庫に入っているから、お湯を注ぐついでに持っておいでと教えてあげる。
「まじ?」
「まじ」
「やったっ。じゃ、ちょっといってくる」
笑顔満面、大喜びの夏織は素早く席を立って、狸を持って冷蔵庫のところへとことこと歩いていった。
「超美味いよコレ。花ちゃんありがと」
夏織は今、とても嬉しそうにアイスを食べながら五分間、たぬきの出来上がりを待っている。
「いいよ」
私の前には可愛いお弁当箱。私はそれをじっと見ている。
それには何の問題もない。なんといってもご飯とおかずを分けて入れられる二段に重なるコンパクト、たくさんの桜色した小さな花びらがプリントされた。自慢の可愛い奴だから。
問題はその中身。昨夜の残りを詰め込んだ、我ながら見た目も茶色いさほど美味しいとは思えない私の手作り。
敗因はどうしても加えてしまう私なりのアレンジ。夏織のレシピ通りに作ればいいことは分かっているけど、私の右手が疼いてしまうのだ。
どうしても、くっ、やめろっ、駄目だっ。ままよっ、えいってなる。
私はこの味に慣れているから気にならないけど、花のお陰で太らないで済むよと、毎日ぐっさんににっこり微笑まれているそんなおかず達が並んでいるソレを夏織が覗いている。
「茶色しかないね。てか、真っ茶っ茶」
「屈辱」
「なんかさ、唐揚げとかカツとか、好きなのだけ入れてみましたみたいで笑えるよねソレ。ふふふ、男飯みたいなあだっ」
「黙れ。野菜もあるでしょ」
「茶色いけどねあだっ」
「黙れ」
「だって事実じゃんっ。揚げ揚げ焼き煮じゃんっ。茶茶茶茶ってリズム刻んじゃてるじゃん。ご飯も茶色いところあるじゃんっ。ほら。わたし間違ってないじゃんっ」
「おりゃ」
「あだだ」
「もういいから。取り敢えずどれか食べてみて」
私は夏織にお弁当を向けると夏織は頭を摩ることをやめて、はいはいどれどれと手を伸ばす。
「じゃあこれで」
「お前ね」
これから夏織師匠の容赦ない駄目出しが始まるのかと思いきや、師匠はお馬鹿だからプチトマトを摘んだ。五個はあるおかずの中から唯一の生鮮野菜を食べようとしているとかまじモンの馬鹿としか思えない。
私はその手をがしっと掴む。
「え。ちょっとなに?」
私がコレ好きなの花ちゃん知ってるでしょなのになぜ的に、邪魔しちゃ嫌だよと私を見つめる夏織。演技にしても面白いからつい許したくなるけど生野菜はそれしだけしかないからやっぱり駄目。
「離しな」
「なんでもいいって言ったでしょ。花ちゃんこそ離してよ」
「離しな」
「くっ。失敗か」
夏織が指を離したプチトマトはお弁当箱の中に落ちて少し転がった。
「うげぇ。なにこれ? しょっぱくて辛い。変に甘くて気持ち悪い。花ちゃん何したの? 後追いし過ぎだから。置いておけば味が馴染むからレシピのままにしておけばいいから」
どれもナニそうなんだよなぁと、散々悩んで食べた煮物のこんにゃくをそう評する夏織。腕が疼くとか馬鹿でしょと、まじ引くしと酷い言われよう。
私は俯いてぐちぐちうるさいそれを聞きながら、疼くいて仕方ない右腕を左の腕で鎮まれ的にぐっと押さえている。そうしないとまた夏織をはたいてしまいそうだから。
「鎮まれ」
「花ちゃん聞いてるの?」
「はい」
「ふーん。でね」
「くっ。鎮まれ」
そろそろ無理だなと思った時、夏織の説教がようやく終わった。
「わかった?」
「終わった? わかったよ」
「花ちゃん、あとさ」
「なによ」
「なんで炊飯器で炊いてるのにそんなにおこげ作れるの? そんな機能あったっけ?」
花ちゃん家のヤツ優れものだねと夏織は思い切りにやついている。どこで買ったのとか訊いてくる。
「お前ね」
「はずれー」
私の鉄拳が空を切る。夏織は既に私の後ろ。いつの間に素早く動けるようになったのか。いま夏織がしたように、にんにんて呟けばいけるの?
「そろそろ戻らないと。コレごちそうさまっ。またね花ちゃんっ。にんにん」
夏織は小走りに流しのところまで行って、ゴミを片付けてあっという間にここから出て行った。
確かににんにんて言っていた。
「ははは」
まったく、いかにも夏織らしい。
あーあ。千春も会えたら良かったのに。きっと楽しかった筈なのにと、私は少し悲しくなる。
「花ちゃん」
すると妹の声がして、私は後ろを振り返った。
「夏織。どうした?」
いま出て行った筈だよねと出口を指す私に、凄くない? にんにん忍術的なヤツだよと笑ったあと、夏織は優しい顔して言ってくれた。
「花ちゃん大丈夫?」
「まあ、ね」
「さすが。花おねぇちゃん」
「なっ」
「あと、はい。これあげる。渡すの忘れてた。美味いよソレ」
ふたつで百円。さくさく美味いココナッツクッキー。そう言ってお得でしょと、また楽しそうに笑う。
「ほー。ありがとう」
「あとね、良ければいつか私も連れて行ってね。あ、あと幸も」
「会ってくれるんだね」
「当然でしょ。わたし一応お姉さんだし」
「ははは。そっか。ありがとう。じゃあ、近いうちに声をかけるとするよ」
「うんっ」
いいのいいのと微笑んで気遣うように私に優しく触れた指輪が光る温かい手。そこから伝わる優しさが身に沁みてくる。
「あ」
「なによ」
そしておもむろにその手首を返しそこを見て、あ、やべ。確実に遅れた。じゃあね花ちゃんと、今度こそ夏織は慌てて席を立った。
「馬鹿だなぁ」
遅れたという割には、急がすとことこと歩いていくその背を見送りながらそう呟いて、ことあるごとに夏織らしく思い遣ってくれることをありがたいねとも思う。
私は夏織が消えるまでそれを眺めていた。きっと夏織はこのスペースを出た瞬間に走り出しただろう。
夏織がとことこ歩いていたのは、優雅に魅せたかったとかそんな理由。
「やっぱり馬鹿だなぁ。ふはは」
「さてと。私も戻るかな」
それから私も席を立って、私のペースで歩き出した。
夏織が戻ってきてくれたことで塞いだ心は軽くなっていた。
私はもう大丈夫。だから私は私を咲かせる。なんの憂いもなく花弁を開く。精一杯、私なりに。色鮮やかに。満開に。
千春もそれを望んでいる。私ならそう願うからそう思う。
私は花。咲き誇ってこその花だから。
「うん。私は花だ」
「いや、知ってるけど。どしたの花ちゃん? ひとりで自己紹介なんかしてこわいんだけど?」
私はあれ? 変だな、聞こえる筈のない声がするなと振り返るとそこにはなぜか夏織がいた。
大丈夫的に私を訝しむように見て、けど少し罰の悪そうに頭を掻いている夏織がいた。
「え? は? 夏織。お前、なんでまたここにいるのさ」
「いや、それがさ、入れなかったの。扉に鍵閉まってた」
てへへと笑う夏織。何やってんだかと、ため息が出てしまうというもの。
「…はぁ」
「怒られるかな?」
「うーん。取引先から電話が来たとでも言っておきなよ。まぁ、それで大丈夫だよ」
その手があったかそれでいこう。さすが花ちゃん天才だねと、夏織の顔に花が咲いた。いい笑顔だねと私は思う。
「じゃあもう少しここで休んでこっかな」
「ははは。やっぱり夏織は馬鹿なんだなぁ」
「いいのいいの」
時計を見る。戻りが遅れるけど、あと二十分くらいならいけるだろう。我ながら甘いねと思う。
「しょうがないね。少し付き合うよ。コレでもつまんでようか」
「まじ? やったっ。花ちゃんいこう」
なんつって、もはや研修のことなど忘れたように例のスペースを奥に向かってとことこと、上機嫌に進んでいく夏織はやはり夏織らしい。研修諸々大丈夫かなと心配するのも馬鹿らしくなる。
けど、モノを抱えているせいで悩んだり落ち込んだりもするだろうに、そんなことは関係ないと、私は楽しく生きていますと、そんな姿をいつも私に見せてくれる。夏織はそれも意図したわけでもなく、けどそのことでも私は救われている。夏織は凄い女性だと思う。
とはいえ私の方が少しだけ凄いんだけど。ふはははは。
「夏織はすごいね」
「ん? なんか言った?」
「なんでもないよ。ほらいったいった」
「うん」
「けど惜しいね。これで馬鹿じゃなければなぁ」
「うりゃ。天誅」
「いったぁい」
「聞こえてるからっ」
「ごめんごめん」
前を向いた夏織は膨れながらも笑っている。その横で顔を綻ばせる私は花。満開の花。
お疲れ様でございました。
さて。今週のプライベートはさらにてんてこまいの予感というか絶対そう。私の予定はぱんぱんのぱん。それが遊びの予定ならどれだけ良かったか。くっ。
「滅入る」
「頑張れ」
「頑張って」
「ありがと頑張る」
娘に言われたからには頑張る所存。週末を迎える頃には私はげっそり痩せているでしょう…やったねっ。
「うそ、まじ?」
「まじまじ」
「くそう。しはかたやっぱ頑張らなくていいんじゃないの?」
「え?」
「楽になれ」
「え?」
「あはは」
読んでくれてありがとうございます。