第八十三話
私はしは かた。
誤字報告ありがとうございます。本当に助かりますです。
では続きです。
よろしくお願いします。
小さな世界がざわざわしようが私達にとって大事な法になるかも知れない法案がどうなるのか分からなくってやきもきしていようが、このくそ社会はそれをちらりと一瞥しただけでその歩みを止めることをしない。平常通り運行中。
街を歩いて甘くて美味そうなヤツのお店を見つけては立ち止まって、コレなにかしら美味いのかしらとショウケースの中のソレを興味津々、優雅な感じを丸出しにして眺める私と美味そうな匂いにつられて鼻をぴくぴくお口もごもご瞳ぎらぎらお店の前でむむむと悩む欲望丸出しな幸とは大違い。
それでも社会とはそういうものだと知る私達は大丈夫。
「ねぇ幸。食べたいならさっさとお店に入って食べちゃえばいいでしょ。垂れる涎を飲み込んでるとかさ、そういうのやめときなって。さすがにみっともないしさ」
「はい?」
つられちゃうのは分かる。私もよくつられるから痛い程よく分かる。
けれど、やっちゃうにしてもせめて私のように優雅に魅せるべき。
「優雅?」
「そう」
だって、いかにも的に指を咥えたり涎を垂らしたり、物欲しそうな態度をするのは大人の女性として絶対にやっちゃ駄目。本能丸出しの幸は見た目ただ怖いだけ。折角の幸が台無し。
「ね。あいたっ」
「そんなことしてません」
「うそはだめ。いたっ」
「でも幸、いたっ」
「ちょっ、待っ、いたっ」
私は幸を思って優しく諭しただけなのに幸はなんだか怒っているみたい。私が何か言おうとするたびに幸の指が私のおでこをぴんっ、ぴんってやりやがる。
「ちょっ、やめ、いたっ」
べつに痛くはないけれど、群れの女ボスゴリラの気まぐれの暇潰しに、意味なく虐められているような気がしてくる。私に落ち度がないだけに、なんていうか、心がむずむずしてなんか泣きたくなってくる。うぐ。
「…おいゴリラ。泣くぞ? いない時にたぬき捨てるぞ? ご飯抜くぞ?」
「うほっ? うほうほうほ」
私の台詞のどれに反応したのか分からないけれど、慌てながらも空かさずにゴリラ語で謝った幸。私は少し悲しくなっただけだから、ご飯だけは勘弁してくださいと手を組んで、潤んだ黒目を私に向けた気がするゴリラを許すことにした。
「しょうがないな。許す。まぁ、ご飯は冗談だから。けど幸、やっぱお店の前で涎垂すのとかは、いたっ」
「まったく。失礼しちゃう」
「へへへ」
いや、してるでしょと思いながらも、やられたおでこを擦りつつ私は幸に笑顔を向ける。幸もまた、敢えて作った怖い真顔を崩して優しい微笑みを返してくれる。
腕を伸ばして互いを抱いて温もりに触れて、その唇に優しく触れる。
入って受けて戯れて、満足したら少し離れておでこをつけ合って微笑み合う。私の目に幸がいっぱいに広がっている。
突然にでも前置をしてからでも、無造作にでも意図しても、何かをすれば自ずと自ら必ず何かで応えてくれる。私の声に、私の仕草に、私の浮かべる表情に。
時にはそれが素気無くてもそこには愛情がたっぷり込められている。それはちゃんと伝わっている。つまり私と幸はなにをしようとらぶらぶなのだ。ふへへ。
私達は私達。私達は何があってもなくっても無駄な時間は過ごさない。この時をともに過ごしていく時間は限られているのだから。
「だな」
浮かんだ想いにうんうんと頷いて、アイスコーヒーを飲みながら剥いちゃった栗を食べる私はふと思いつく。それは確実に殺れるプラン。
たとえ幸が悲しみに暮れてしまっても、お肉を余分に食べさせておけばへらへら笑ってご機嫌だからいける。
「お肉はやっぱり美味しいねー」
「まだまだあるよ。はいどうぞ」
「やったー」
とまぁ、そんな感じ。それで悲しい顔のままだったとしても、それは肉がなくなってしまったせいなだけだからいける。
万が一、本気で悲しんでいたとしても、この形のいい綺麗な胸で幸の気が済むまで、酷いことする奴がいるねーと、そんな奴ばっかだけどねーと、ひたすら慰めてあげればいいのだ。
ふふふ。まじ完璧。ではさっそく。
「あ、そうだ幸」
「なぁに」
「ちょっと駅の向こうのスーパーまで行って料理酒買ってきてくれる? 特売なの。昨日買い忘れちゃってさ」
「お使い? 珍しいね。いいよ。今?」
「うん。今すぐ。お財布そこだから」
「オッケー」
幸が軽い腰を上げようとして中腰のまま止まる。その姿勢でも辛くないとはさすがの幸はやはり野生。その身体能力と勘は侮れない。
私が思いついたように、どうやら幸もぴんときちゃったみたい。
「ははーん。さてはたぬき」
「え? あ?」
幸が私を狸と呼びやがったのか、はたまた正解を言い当てたのか、私は一瞬悩んだけれど幸は私を指差している。
幸から見て私は九時、狸は二時の方向。ってことは幸の奴は私をたぬき呼ばわりしやがったのだ。
「たぬき」
聴こえない聴こえない。私の耳は優れものだから…じゃなくて、なぜなら私は、そういうことなら今度こそ遠慮なく幻の右フックを叩き込んでやるから吠え面かくなよこんにゃろうと考えるのに忙しいから。第一私は狸じゃない。
けれど、私が拳を握り込み終えるその前に、さすがの幸が私を更なる混乱に陥れる。
「たぬきね」
「え? は?」
確信して頷く幸。その台詞と仕草がまたしても、幸は私を呼んだんじゃなくて正解を言っただけなのかなと私を戸惑わせる。
「私がいないうちに夏織たぬきを捨てるつもりなんだ?」
「え? は? そんなわけ、ん? あ?」
いや、待った。夏織たぬきってどっち? 今みたく一気に言われると夏織はたぬきをととも、飾ってある狸どもの愛称とも思えるし、夏織たぬきと私を揶揄しているようにもとれるソレ。
「幸。どれよ?」
「え?」
答えによっては叩き込んでやるからなと私はいよいよ拳を握り込む。当たった瞬間に手首をくいっと捻ることも忘れないように頑張る。手首はぐきるだろうけれど、肉を切らせて骨を断つ的な、衝撃倍増コークスクリューぶろーをお見舞いしてやるのだ。ぶろーをなっ。
「幸。どれよ?」
「夏織。夏織はたぬき。あはは」
「おっしゃぁ、喰らえやおらっ」
「よっ。はずれー。くくく」
必殺のぶろーは空を切った。幸がへらへら笑う横で私は肩を押さえていた。
「ててて」
手首は無事でも思い切り腕を振ったせいでごきってなった肩が痛かったのた。
やはり私もおかしいんだなぁと見上げた天井は滲んでいた。
「うぐ」
「よしよし。おいで」
「ざぢぃ」
「痛いの飛んでけー」
「あ。それ効かないから」
「なななっ」
と、そんなやり取りをしながらつつがなく過ごす私と幸はやっぱり平常通り。
今回、私達についての法案がひとつ消えそうでも、それが当事者にとっては一大事でも、社会全体からしてみれば、今までの生活に何か影響があるわけでもなく、気に掛けずともべつにどうということもない小さな出来事。
このくそ社会が目もくれないことはいつものことだと分かっているのだから。
多くの人は自分と関係のないことに敢えて自分から首を突っ込んでいこうとは思わない。
人とはそういうもの。つまりところ社会とはそういうもの。なら、スルーされるのはあたり前のこと。
そして、多くの人も自分のことで精一杯。私達と、私達を嫌う人以外がマイノリティへの扱いがどうなるのかなんていちいち興味を持たないのが普通。たとえ持ったとしても、事の発端から成り行きを経ての結末までを積極的に調べようと思わないのもまぁ普通。
「だなぁ」
私はそういう人達に文句はない。それでも敢えて何か伝えるとしたら、どうか興味のないままでいてねと私は伝えたい。
話題になるたびに、私達が法によって公に存在することをべつにいいんじゃないのと認めてくれる人が増えるのなら超嬉しいけれど、いざ私達の権利が認められて、この地位が向上しようとする段になって、えっ、うそ。いつの間にそんなことになってんの? なんかやっぱ嫌なんですけどと声を上げられてしまったら凄く悲しくなってしまうから。
無関心でもフラットでも、せめて無関心のままで、どうかフラットのままでいてほしいと、頼むからいじめっ子にだけにはならないでねと私は願うから、つい魔法の言葉を口にしたくもなるというもの。
「くわば…いや、やっぱいいや。これあんま効かないしな」
いいのいいのと私は思った。
「うまうま」
時間も同じ。何かがあっても素知らぬ顔で脇目も振らず直向きに進んでいく。人の営みに何があろうとも一切の興味を持たず、ただひたすらに己を刻み続ける。
それはいずれ、私から幸を連れ去って行くだろう。もしくは私が幸を置いて連れ去られてしまうのだ。なら、無駄なことをしている時間は無いと分かる。
「だな」
そして、人に優しくも無慈悲にもなる時間は、その待ち遠しいさも耐える辛さも過ぎる寂しさも残酷さも、意味がないと分かっていてもやり直したい巻き戻したいと願う虚しさも、その扱いに差を付けることなく生きとし生けるもの全てに平等で在るだけこのくそ社会より全然マシ。
「ただなぁ」
絶対的に平等なのは結構なことだけれど、人の営みに興味がないのなら、せめてこのお肌に皺を刻むのは是非とも勘弁ほしいところ。特に、永遠で在りたいと思う私と幸には。
「それなぁ」
私はぴちぴちのままでいたいのだ。刻一刻とお肌に刻まれる、どう頑張っても隠し切れずに目に映ってしまうような生きてきた証なんてものは、私に限らず女性ならまじまじのまじで要らないのだ。
「それなっ」
というわけで、時は刻々と刻まれて今年も早、九月になった。
「むふっ」
その、夏の日差しや暑さがいまだに容赦なく続く九月最初の日曜日の正午過ぎ、お昼ご飯代わりに、これは絶対美味いに違いないと角の和菓子屋さんで買ってきたずんだ餅と芋羊羹を頬張る私もまた、騒つきながらも色々あった不快なことなどもはや忘れた平常運転。至福の時を満喫して愛と平和に溢れているところ。
「うんまいなコレ」
なんつって、くいくいと手首を返して、何が分かるでもなくもぐもぐ口を動かしながら齧ったところをしげしげと見てしまうのは本能というもの。
「ふぅ。美味かったな。ごちそうさまでした」
そして私は湯呑みを持って、わざわざ淹れた渋くて濃い茶をずずずと飲む。美味い。
私は侘び寂びの分かる大人の女性なのだ。
「うん、満足した。残りは幸にあげよっと。て、あれ?」
と、私はそのつもりだったけれど蓋を閉めようとした箱の中の様子が少しおかしい。どう見ても数が合っていないのだ。
「うーん」
私は確かに四つずつ買ったのに変だよなぁと首を捻る。念のために数えることも忘れない。
「ずんだ一個。で、これも一個」
あれあれ?
私は更に首を捻る。やはり目で見た通り、箱の中のソレは私の心算と実際に残った数が噛み合っていなかった。
捻った首をそのままに、続いて私は腕を組んだ。これで、はて、これは一体どういうことかと考える体勢は整ったと言える。ロダンも真っ青というヤツ。
「はっ」
その甲斐あって私はすぐにひとつの可能性に思い至った。
なるほど分かったそういうことかと、私は箱の蓋を手に手を伸ばす。
なぜなら今、悩む私に真相が降りて来たのだ。何のことはない、何時ぞやのシュウマイのグリンピースみたいに蓋の裏にくっついているんだよ、と。
タネが分れば話は簡単。私はふふふとほくそ笑み、さっそく蓋を手に取った。明らかに感じるその軽さとか知らない。
私は手にした蓋の軽さに怯えながらも勢いよくそれを裏返した。
「こいっ、やっ」
お? 模様があるとか。これは透かし?
こんなふうに細部にまでこだわって蓋の裏まで気を遣っているあのお店。洒落た感じが中々のやるな、味もいけるしさては老舗かなと私は思った…いや、違うから。そうかもだけれど今はそこじゃないから。
「なんだよ。ないじゃん」
くそう。ぬか喜びさせやがって何が天啓かこの相変わらずの役立たずめがっと、私は思った。
食べた記憶は曖昧だけれど結局はそういうこと。物思いに耽って、されど夢中になって食べていたからそこは仕方のないところ。
まぁ、よくよく思い返してみると確かにこれ美味いな、こっちもやるなと食べて進めていくうちに、もう一個いっちゃおうかなと思ったような気がしないでもない。
「ないない」
と、私は幸とふたつずつと思っていたソレを余計にひとつずつ食べちゃったみたい。
つまり、四引く三は一。
けれど、それは私のせいじゃなくて美味くて中々のずんだ餅と芋羊羹のせいだから私は悪くない。だって、超美味かったからそこは仕方ないのだ。
「だな」
頑張って残したヤツは両方とも幸にあげるつもり。半分こじゃなくてお裾分け。最初からそのつもりだったと思えばいいのだ。私は私だからそれでいいのだ。
「そうそう」
それは今、私に見えないようにキッチンに置いてある。
いま幸はいない。
幸は今日、お休みの日にも関わらず珍しく早い時間にのそのそと起き出して、それに合わせて起きた私が作った朝ご飯をもりもり食べてから美容院に行ったから。
「じゃあ夏織。いってくるよ」
「うん。気をつけて」
お腹いっぱい、これで終わるまでもつよと笑った幸を玄関で見送ってから布団に潜って二度寝を決め込んだあと、私は幸の居ない隙をついて、今がチャンスとすぐそこの角の和菓子屋さんにちゃちゃっと行って、ずんだ餅と芋羊羹を買ってきたというわけ。
こういう時の私のフットワークは異常に軽いから。
で、それとは別にそこの名物、揚げを丸々一枚使ったご飯たっぷりでかくて重いジャンボお稲荷さんも二つ買った。
お店の人にさもありなんという目で見られたソレ…いや、泣いてないし。だって違うし。私じゃないし。
「重い。確実にくぎるなコレ」
そう口にするくらいのでかくて重いヤツ。幸はお昼を食べて帰ると言っていたけれど、一応、念のために買ったのだ。変な誤解を受けようとも、私は凄く優しい人だから。
まぁ、帰って来た幸が食べなかったとしても明日の幸の朝ご飯にすればいいのだ。
私は朝はパン派だから、食べるにしても半分も要らない。お稲荷さんは美味いから好きだけれど。
「はい。これぜーんぶ幸のだよ」
「まじっ? やったっ。うおおおー」
と、幸はお皿を掲げていやっほういやっほうと小踊りするくらい喜んでくれることは確実。朝からうるさくても幸なら平気。寧ろ嬉しい。
それは今、幸の目が届かないところ、キッチンに置いてある。それも一応、念のため。
「さすが。取れる取れる」
そして午後一時過ぎ、今は吸引力が頗る優れものの掃除機をかけているところ。しゅぃぃぃんと音を立てて、ぐんぐん埃やちりを吸い取ってそれが溜まっていく様は見慣れてはいても楽しいもの。
私は家事全般好きだからいいけれど、面倒と思う人でも、こうした小さな楽しみを見つけておけば何をするにもあまり苦にならないのにと私は思う。
それは、外に出ればその行き帰りに甘いヤツと出逢える思うことにしている仕事と一緒。今日はあそこに行くからあそこに寄れるぞ、みたいな。
だから私は苦ではあっても私なりに頑張ろうと思えるのだ。そしてそれは、私が管理職になりたくない理由のひとつでもあるところなわけ。
「んだんだ」
「ただいまー」
帰宅を告げる幸の声。愛しの幸が帰ってきた。
私は優れものの掃除機を止めて、お出迎えをと寝室の扉を開けて五歩くらいある廊下に出た。
「おっ」
「ただいま夏織。そこに居たの?」
「うん。掃除してた。おかえり幸」
幸の手には何やら美味そうなヤツの入る、白い水玉模様の半透明の袋をぶら下げていた。
その袋をそのままに、足を上げてどこにも手を付かずに左右の靴をひょいひょいと脱いでいる姿が目に入る。私なら、肩のバッグも邪魔になるし、バランスを崩して確実に倒れてしまうだろう。
さすが幸だと感心ながら傍までいって、幸が靴を脱いで上がるのを待ちながら、袋も気になるけれど先ずは幸の髪をじっと見つめる。
少し軽くして染めるだけと言っていただけあって、出かける前とあまり変わっていない髪型と色。
つまり、幸はいつもの素敵な幸のまま。雑誌やネット、街で見かけたいい感じの髪型や色を、コレ私でもいけるなと勘違いしてたまに失敗する私と違って、幸は髪で遊んだりしない。何が一番似合うのか、何が自分を映えさせるのか、幸はちゃんと知っているのだ。
「おかえり幸」
幸が上がったところでもう一度声をかけつつほぼ変わらない髪に触れて、愛しの幸に抱きつくと、幸ももう一度ただいまと優しい声で返しながら、掛かるバッグや手に持つ荷物もなんのその、私を包み込むように抱き締め返してくれる。
私はこの瞬間が大好きなのだ。
「ただいま夏織」
「うん。幸だ」
「そうよ」
「で。なにそれ?」
「これはね、お土産。ケーキだよ」
「やったっ」
駅中でフェアやってたんだよと、幸は体を離しながらその袋を手渡してくれた。夏織はきっと喜ぶと思うよと、なんだかとてもご機嫌だ。
「そんなに?」
「うん。絶対だよ。凄く楽しみ」
「へぇ。そんなになんだ」
「くくく」
少し気になる忍笑いを始めた幸は置いておいて、渡してくれたからには遠慮は要らない私と幸なら尚のことだからと、私は袋を覗き込んでみると、そこにはお店の名前、欧風菓子ニューオリンズ、と書いてある包装紙に包まれた、ケーキが四つは入りそうな箱。少なくともふたつは私が食べられそう。ほうほうなるほどやったねと、喜びのあまり私の口から声が出るというもの。
「おおっ」
けれど、いかにも幸が選んだものらしくも思えるソレ。
わざとでもそうじゃなくてもいいけれど、これは一体どういうことなのと、先ずはそこをツッコんでおきたいと思う。
箱から幸に視線を移すと幸は既にくくくと忍んでいた。たぶん、幸も同じことを思ったのだろう。その愉しげな顔は、期待に胸を膨らませて私の言葉を待っているように思える。私は、ねぇこれさぁと指を差した。
「欧風でしょ? で、ニューオリンズっておかしくない?」
「ぷっ。あはは。ねー。私もそう思ったの。だから見かけて気になってさ。すぐそのお店のブースに行ったんだ」
そしたら意外にも十人くらい並んでたの。みんなそのお店に目当てのものがあるとかでさ。驚いちゃったよあははははと、幸は失礼極まりないことを言って笑っている。
私は笑いを堪えつつそんな幸を嗜めた。
「幸。お店に失礼だぞ」
「だってニューオリンズだよ? 欧風だよ?」
「まぁ、そこは否定しにくいけどさぁ。ぷぷっ」
「あはは、ほら。夏織だって。あはははは」
「ふふふ。いや、だってむりでしょこれ。ふふふふふ」
またまた笑い合う私達。その笑い声が五歩くらいしかない廊下に響く。
面白くて愉しいと思えるからこそこうしてただただ笑えるのだ。
気負うことをすっかりやめて、適当に文句を言うだけにして、世間様のスタンスなんぞ気にすることなくどこ吹く風と受け流す。
私達にとって大事なものは私達。何かあれば支え合って助け合う。時には私達の大事な人達の力を借りる。この先に起こり得ることに、いま出来得る限りの備えをおいて、普段は楽しく暮らすのだ。人事を尽くして天命を待つ的な。あとは笑って怒っていちゃいちゃして前を向く。それがいいねとふたりで決めたのだ。
とはいえこれからだって泣くことはある。そんなのちゃんと分かっている。ただこれからは無為に不安がらず、強がらず、無理をしないでいればいいのだ。
目指すところは自然体。よく分からないけれど、動じず騒がす水流るるがごとく、みたいなヤツだ。
つまり木鶏。まぁ、そこも気負わす出来るだけ。
「木鶏?」
「木鶏。動じるなってこと」
「そっか。夏織、や、山のようにどっしり構えろって感じだねっ」
「ああん? 夏織山ぁ?」
「ちっ、違う。いっ、今のは違うの」
「なにが、ちっ、違うの、今のは違うのぉ、だっ。うらぁ」
「いったぁい」
私は無駄に鉄砲とかいうヤツをしていたわけではないのだ。喰らわせたのは張り手一発。それを受けてわざとらしくソファに倒れ込む幸。私は見事一発で幸を土俵に沈めてやったのだ。
そして聴こえる勝ち名乗り。幸が小さく呟いたのだ。
「ごっつぁ、いや、いわないからなっ」
「あはは」
とにかく、そんな私達の気構えもあり、憂いも悔しさも憤りも悲しさも、時もまた私達を少しずつでも癒やしてくれていたのだ。
「あはははは」
幸が楽しく笑っている。その幸を見ながら、ニューオリンズ様々だなぁと、フェアの期間に間に合うのなら私も売り上げに貢献しようと私は思った。
「おわった」
幸は一足先にリビングに戻り、私はやりかけだった寝室の掃除を終えて幸の元へ。
「ありがとう」
「いいの」
幸がソファをぽんぽん叩いて隣においでと誘ってくれた。私は幸に向かってダイブする。
「さちー」
「おっと」
ぐっとかうっとか声も出さずにいとも容易く私を受け止めてくれた幸。その気遣いが目に沁みながらも私は幸に触れた。
「ふふふ」
「くくく」
愛しの幸に甘えてしまおう。私はその胸に顔ぐりぐりと顔を擦り付ける。
「「あだだだだ」」
愛しの幸は不満そう。自分の胸に手を当ててぶつぶつと言っている。けれど、私の愛する愛しの幸はこうでなくては駄目なのだ。
「ふふふ」
妙にしっくりくる感じを味わう私の下で幸がいまだに何か呟いている。
そして、私も幸もソファの上でくっついて、のんびりとした午後の早いひと時を過ごしている私達にもついに訪れた更なる喜びの時間。
「あ、三時。おやつおやつ」
私は幸から離れてキッチンに。冷蔵庫から件の箱を取り出した。幸のためのジャンボお稲荷さんも忘れない。
「もう」
「食べちゃだめ、なの?」
私を追いかけて傍にきた幸に、私は念のためにゆるふわを発動してやった。二の型。こてん、こてんと傾げた首を返すヤツ。
「ぐはっ。いっ、いいよ。そのつもりで買ったんだから。かは」
「やったっ。ありがと幸」
「ぐっはぁ。ぐっほ、ごほ、こぼ」
咽せて蹲る幸の肩をふたつお座なりに、辛いね頑張ってねととんとん叩いて、コレ幸のだからねとジャンボお稲荷さんをひとつ横に置いた。さて義理は果たしたとばかりに私は箱を開けて本気で首を傾げてしまった。
「ん? なんだこれ」
黒くて丸くてどこを見ているのかさっぱり分からない間抜けな目があって、微妙に曲がった口っぽい部分もあるしアーモンドスライスを刺しただけの耳もある。それが三つ、三角形を作るように並んでいた。
「くくく。それはねぇ」
「それは?」
「たぬきケーキでしたー」
「へぇ。これが」
明らかに悪戯心満載の幸。どうよどうよとにやにやしているその顔にちょっとイラっとするし、たぬきケーキとかムカつく。
「たぬきねぇ」
けれど、甘くて美味いヤツに罪はない。それに、そのネーミングはともかく、目の前にあるソレはあまりたぬきっぽくない顔のケーキ。見えなくもないけれど見なくても済むみたいな、ただの間抜け面した何かのキャラクター。流行らせようとしたけれど失敗したヤツ。
そう思い込めばなんとかいけると思う。
「ふぅぅ」
ということで、深く息を吐いて私の心は至って平静、波がさざ波程度に立つだけで水面は静かなもの。凪だ。
「おっと」
関係のないアイスピックが一瞬頭をよぎったけれどソレをすぐに追い出して取り敢えず、私が初見の時にいつもそうしているように、ソレをしげしげと見つめてみる。
へぇ。これが噂のたぬきケーキ。なるほど、基本のところはチョコとバタークリームを使っているんだとか、確かお店に寄ってデザインが微妙に異なるんだとか。
「うーん」
「なんかそのお店、その地域では老舗で昔ながらのケーキが食べられるって人気のお店なんだって」
「そうなんだ」
「でね、いま流行ってるって勧められたからそれを買ったの。狸だよ狸。夏織。くくくくく」
「あ? そう。幸ったら何が面白いの?」
「くくくくく。あ…夏織。怒っちゃだめ。深呼吸して深呼吸」
静かに豹変した私に気づいた幸は、すうはあと、私を誘うようにちょっとはある胸を忙しく上下し始めた。
けれどそれをあまりやり過ぎると過呼吸っぽくなってしまうから止めてあげる。
私は常に、幸にだけはとても優しいから、見よう見まねの膝を捻って叩き込む、痛そうな蹴りを幸のお尻に入れてやるのだ。
「やめとけ幸。せいっ」
「うがっ」
言葉にならない声をあげて、幸がお尻を押さえて蹲った。骨張っていて蹴った私の足も若干痛くてまた腹が立つ。
こちとら弾力に優れているというのに。クッション要らずだねーなんて愉しげな幸に嗤われているというのにっ。
「くそう」
「いたたたた」
「おいふい」
「美味ーい。くっ」
幸はでかいお稲荷さんをでかい口を開けてもぐもぐと食べている。幸せそうで何より。
私は私で狸の顔にぐさぐさとフォークを入れては美味いケーキを口に運びながら、少し前にも美味いけど悔しがるみたいなことがあったようなと首を傾げている。
「美味いなくそう。もぐ」
「ふぁふぁふぁ」
「もう。飛ばすなって幸」
けれど、何が腑に落ちなくても美味いヤツは美味いから、気持ち的にはもやもやしても称賛はしておく。私は褒めるべき時はちゃんと褒める人だから。
「あはは。けどよかった」
「なんかムカつく。美味いけど」
「共喰いだもんねっ」
「は?」
「夏織」
動揺するかと思いきや、意外にも幸は冷静。真面目な顔を私に向ける。なら、話だけは聞いてやる。くだらない話なら夜のベッドで、へろへろのへろにしてやる。乙女な幸が恥じらう様を嫌ってくらい見せてもらうからなっ。
と、密かにそう決めて、私は先を促した。
「なに」
「忘れたの? 簡単に怒っちゃだめでしょう?」私達は木鶏だよ木鶏。木だよ木」
「え。あ、うん、そうだった。私は木、私は木……って、違うぞ幸っ。そういうことじゃないぞっ」
「ね。あはは」
「ったく」
美味くて不快でムカついて呆れもする。けれどそれでもやっぱり楽しくて、苦かった筈の私の顔は段々と綻んでしまう。
幸も隣で笑っている。
私と幸ならこれからもいける。ずっと一緒。
そう思うと愛しさが溢れてくる。それはすぐに私の中から溢れ出てしまうだろう。この想いを胸の内に留めておくことなど出来はしない。する必要もない。
「ねぇ幸」
「なぁに」
だから私は言葉にして伝えておくことにした。何度だって伝えるのだ。
「好きだよ」
「えっ。なっ、なにいきなりっ」
「まじ愛してるから」
「わっ、私も大好きっ。あっ、愛してるっ」
急にどうしたのよもぉ、なんつって、幸はばたばた手を振って、顔を扇いでいる。
わたし以外の他の人なら、普段のきりりっとしたその顔からは想像もつかないだろう、真っ赤になった困り顔を私に向けている幸は唇を尖らしていて超可愛い。
「乙女だなぁ」
「だってさぁ、いきなりなんだもん」
「もんて。幸はかわいいなぁ」
「うるさいよっ」
「あだっ」
照れる幸。からかわないでよっなんつって、また赤くなった頬を膨らませた幸がまたぱたぱたと手を動かしている。
「ふぅ。あつつ」
そんな幸が私を充たしてくれる。愛しさもここに極まれりというヤツ。
「ふへへ」
そして私はだらしなく微笑みながら、憎っくきも美味いたぬきにフォークを刺した。
「おりゃ」
お疲れ様でした。ありがとうございます。
さて。すっかり忘れた筈のてんてこまいが戻って来ました。そのしつこさに精神的に疲れますが私は負けない。前を向いて強く生きるんだっ。
「頑張れ」
「頑張って」
「頑張る」
「あ。ところでしはかた。やっ「わーわーわー」」
「あはは。夏織みたい」
「「なかまなかま」」
「ひっ」
やっぱり幸が睨んでいる。くわばらくわばら。
読んでくれてありがとうございます。