第八十一話
続きです。
ほのぼのながーいです。
よろしくお願いします。
私の世界。
ここは雰囲気も客層も落ち着いている。
静かで心地よい時間がゆったりと流れて行くこのバーは、夏織と私達の家の他にもうひとつの私の居場所と言えるところ。
もしも貴女が怯えることや隠すことに疲れ果て、それを忘れて羽目を外したいのなら別の場所へ、平穏で安らかなひと時を過ごしたいのならどうぞここにくればいい。どちらとも思案がつかないのなら私のお勧めはこちら。ここに来ればきっと貴女は癒されると思うから。
「バイ、さち」
「ばっかじゃないの?」
「あはは。酷いなぁ」
「酷くない」
言っとくけど、私は全っ然っ、これっぽっちも癒されてないしだだ疲れだから、看板に偽りありとか詐欺だからなと、夏織はカウンターに伏せたまま頬を膨らませた顔を私に向けた。なんとまぁ可愛いこと。
けど、気になっていた夏織の頭の上のお団子はあっち側を向いてしまう。伸ばしかけた手を引っ込めて、触れてみたかったのになぁと少し残念に思う。
「看板? 小さいプレートしかないよ?」
「そうだった。小さいくせにエはでかいとか」
「そう言うこと。はい、残念でしたー」
「くそう」
そしてまた顔を伏せる夏織はくそうくそうとカウンターをばんばん叩く気力もないくらいお疲れのご様子。
まさか三度あるとは、ったく、正直者はどこいったんだよなんて呟いている。余程ショックだったんだろう。夏織ったら可哀想に。
頑張った夏織には明日は少し多めに甘くて美味しいヤツを食べてもいいことにしよう。あはは。
ここにいるみんなの笑い声が耳に入る。目を向ければ笑顔が見える。
今夜、私の世界はみんなが笑ってわいわいやって、いつもの落ち着いた雰囲気とは違っていた。それは今もそう。余韻に浸ってあれがそれがと楽しそうにお喋りをしている。
それは夏織のお陰。夏織は大変だっただろうけど、お陰で今夜、ここに集うみんなが楽しく過ごして癒されているのは事実だから、私の最愛は凄い女性なんだぞと、つい無い胸を張って鼻を高くしてしまう。寛ぐ私の姿勢がたまに良くなるのはそのせいだ。
「幸のせいだぞ」
「違うでしょう? 夏織が行くよって私に言ったんじゃない」
「知らない。そんなのひと言も言ってない」
誘ったのは夏織だよ。私がそれを思い出させてあげると夏織は不機嫌に言い放って伏せる顔を向こうへ向けた。拗ねたのだ。お陰で夏織の頭の上のお団子が近くなった。かなり気になるソレに私の視線は固定される。
「いいました」
「いってません」
「なに、夏織ったら三十二歳になった途端ぼけちゃったの? あ、違った。それはもともと怪しかったもんね。ね、夏織オバさん?」
「はーはーはー。幸」
「なぁに」
また私に顔を向けた夏織。頭のお団子はまた遠くなって、私の視線は夏織に固定される。
「いーっ、だ」
「かはっ。かはかはっ」
「ふんっ」
私はかはかはと咽せながら考える。
夏織のお陰。それを言ったら夏織はきっと、私は弄られまくって笑われていただけじゃんかと、またぶつぶつと文句を言うに決まっているけど、それが夏織の照れ隠だと私はちゃんと分かっている。
狙っていようが自然だろうが人を笑顔に出来る人なんてそうは居ないことを私はちゃんと分かっているのだ。夏織が凄い女性だと、私は知っているのだ。
そしてまた顔を伏せた夏織。とても気になっていた頭のお団子が私の方に戻って来た。やったっ。私はついにこの手を伸ばしてそれに軽く触れた。
「可愛いねこれ。おー、ふわふわしてる」
「可愛いけどふわふわとかいうな。来ちゃうから」
「ん? かおちゃん呼んだ?」
「ほらぁ。来ちゃったじゃん」
来ちゃうもなにも渚さんの定位置はこのカウンター。騒ぎが終われば世界を見渡せるここに戻って来るのは当たり前。それが渚さんの一番の役割だから。
創った世界をゆったりと見渡している麗蘭さんと同じなことくらい夏織も分かっているくせに何を言っているんだかと、夏織の腕を軽く小突くと夏織は可愛く私を睨んだ。
「ん? なになに?」
「はぁ」
「あはは」
「ははーん。わかっちゃった。そろそろアレの出番だね」
夏織の様子で全てを察したふうな渚さんは張り切って厨房へ消えた。疲れた夏織を喜ばせようと、仕込んだナニ持ってくるのだろう。夏織が疲れきった本当の理由は全く分かっていないけど、まぁ、みんな悪気があるわけでも無し、夏織もそれは分かっている。いる?
「いるよね?」
「要らない」
カランコロンと扉を開けてこんばんはーと口にしながらバーに入る。扉の前のプレートについてのやり取りは割愛する。私達はエが小さくなるまで似たようなことを繰り返すだろうから。
「やっぱこわい」
私の袖を掴んで離さない夏織がびくびくしながら足を踏み入れてすぐそれは起こった。
「あ、かおちゃんだ」
「ほんとだ」
「かおちゃーん」
「なっ、ぐわっ」
「あっ。こら。引っ付くなっ。夏織もにやけてるんじゃないっ」
「にやけるかっ」
と、ここに来て落ち着く間もなく重鎮のおふたりに加え、私もかおちゃんとお話ししたいとわざわざアイスピックを手にしてカウンターから出て行った渚さんと共に、暗がりのテーブルへと連れ去られてしまった。可哀想に。あはは。
「幸っ」
「またあとでね」
「ちょっ、見捨てるなってっ」
「大丈夫よ。ごゆっくり」
「さちー。この役立たずめがぁぁ」
私は泣きそうな顔をして私に助けを求めていた夏織ににっこり手を振ってカウンター、いつもの席に座って美味しいお酒を啜りながら、笑ったり怒ったり、何かを諦めたりしている夏織の姿を眺めていた。
実は渚さんと浮気すんなよとじっと見ていたのだ。
「なんちゃって」
「さっちゃん割と本気でしょう?」
「まさかぁ。美々さん。いやだなぁ」
カウンターの向こう、私にはそんなこと無かったよねと少し意地悪く微笑んでいる美々さんは私の上を掠めた女性。それはもう何年も前のこと。私がここに通い始めた頃のこと。
「そう? ま、いいんだけど、ほおっておくの? 夏織さん、今夜も大変そうだけど」
「みんな楽しそうだし、それに夏織は大丈夫ですよ」
「分かってるんだ」
「当然ですね」
「優しい顔してる」
「だって可愛くって。あ、美々さん。コレ、お代わりください」
「はいはい」
空になったグラスを取って新しくお酒を作り出す美々さん。私の前にことっとグラスを置いてくれてこんなことを言った。
「逢ったんだね」
「ええ。出逢えました。と言いますか、出逢っていました。かな」
私は置かれたグラスを取って美々さんに微笑んだ。満面の笑み。そして美々さんも綺麗な笑顔を返してくれた。
今、わいわい騒ぐ夏織達の元に由美さんや高子、葵さんまでもが加わっている。
美々さんと話をしながらその様子を暫く眺めていると、夏織はいきなり立ち上がった。
「あらら」
「始まったね」
アイスピックをべろーんとやったなまはげに追いかけられ始めた夏織。そこに私も私もと、他のテーブルにいたみんなも加わって、夏織は敢えなく捕まってしまった。
「私もっ」
「へ?」
それが始まった時、いつでも傍観者でいた筈の美々さんがカウンターを出て行ったのは少し意外な気がしたけど、その輪に入って笑っている美々さんを見ていたら、私は時が止まらずに流れていることを実感してしまった。
「あはは…」
そう。私は私の知る美々さんが、もはやそれが全てではないことをただ実感したのだ。
「そりゃそっか」
ぜぃぜぃ肩で息をしながら椅子に座り、どうせやるなら可愛く綺麗に、映えるようにやってくれと夏織が言ったように、髪は丁寧に結われたお団子が頭の上に乗っかって、薄いながらも綺麗にお化粧が施された外見とは裏腹に、夏織の目は明らかに虚ろだった。
それから私もスマホを持ってそこに加わって、みんなで写真を撮りながら、おお映えるねこれ、まじ映えるしと、その時だけは夏織も楽しそうにみんなとわいわい騒いでいた夏織はまたも重鎮のおふたりに連れ去られて何やら楽しげに話をしたあと、ふらふらしながら私の隣に座り込むと同時に燃えかすになってしまって今になったというわけ。夏織がまじ真っ黒だからなって呟いたわけ。
こうしてこのバーに来てから約二時間とちょっと、ようやく解放された夏織はへろへろのへろ。もはや最後のめらめらもなく、ふってやったらふって消えてしまいそう。
「うー」
「お疲れ夏織」
「やっぱこうなったじゃんかぁ。ううー、超疲れた。幸は頼りにならないし。まじなんだよここ」
「いやぁ、てへへ」
「いやぁ、てへへ、っじゃないぞもぉ」
ということで、私達常連にとっては特別でも、夏織が居ればここでの普通になってしまった、少し前までここのみんなに散々に弄り倒されてお疲れ気味にというかすっかり疲れ果てている夏織はなんとかカウンターで美味しいお酒を優雅に飲んでいた私の隣までどうにか辿りつくと、その座りざま、よくもよくもと私の左足に五回ほどがしがしと蹴りをくれたあと、カウンターにばたりと伏せってしまったのだ。そして今も、頼んだ水に口も付けずにその姿勢でぐだっている。
ただ夏織はその前に、そっ、そこの人、美々さんでしたっけ? つっ、翼を、翼を授けてください、え、無いの? ならデーはありますか? もしくはヴイで、え、それも無いの? ならこの際シーでもいいんですけど? うそまじで? 全部無いとかおかしくない? はぁ、しょうがないなぁ。じゃあ、そ、そこの人、あ、確か美々さんでしたね、み、みっ、水をください、あとアイス、バニラをダブルでお願いし、ぐはっと、最後の台詞を全て言えずに胸を押さえて口から何かを出したふうにしながら倒れ込むという、お得意のひとり芝居をしていたさすがの最愛。
ちなみに、そこの人ことこ美々さんは歳の頃なら私の十くらい上のしっとりとした落ち着きを持つとても綺麗な女性。
渚さんがアイスピックママと化している時は、美々さんがカウンターに入るシステムになっている、というかいつの間にかそうなっていた。
ちなみにのちなみに、さっきも少し触れた通り、私と美々さんはその昔、十日しないくらいの間だけ付き合ったことがある。
共に過ごした週末を経てその次の週末に、なんか満足しちゃったねと、なんか違う気がするねと、お互い何にも替え難い人にめぐり逢えるといいねと笑って別れたのだ。だから私と美々さん間にはなんの蟠りも存在していない。
一瞬だけ激しく燃えてすぐに消えた炎。抱いた想いも一瞬にして燃え尽きてしまったような、虚無感もう少し残ったそんな恋。
けど私が恋だと思っていたそれは、時間をおいて冷静になってそれを振り返ってみると、私の想いは恋というより美々さんに強い憧れを抱いていたのだと分かった。私はその憧れに触れることができて、それで十分満足できたというわけ。私はきっとそんな感じ。
美々さんはそれを分かっていて、私を優しく受け入れてくれたのだと、私はもう分かっている。
そしてちなちなのちな、夏織はそれを知っている。へぇ、そうなんだ、一夜の恋とかさすが幸で終わったところが夏織らしくも少しだけ腹が立った。少しは妬いてくれてもいいのになぁと思ったから。
「妬かないの?」
「お芋なら焼く」
「なんでお芋?」
「え。だって美味でしょ」
その会話のあと、そんなことより、いや、お芋も大事だけどさ、幸はやっぱモテるよなと、それに比べて私なんてと、くそうくそうとやり始めた夏織は実は、自分が多くの女性の気を引いていることを知らないだけ。気づけないだけ。言ってはなんだけど、夏織のセンサーはぽんこつだから。
夏織の世界にもここにも夏織をいいなと思う女性は少なからずいる。いや、今はいた、だ。たぶん。
初めて夏織の世界にも足を踏み入れた時、私は夏織のセンサーがぽんこつでよかったと思ったものだ。がっかりした顔や私に挑むような視線を向けて来た女性達が片手はいたんだから。
それはつまり、外の世界で夏織の容姿に惹かれる男性とは違うということ。その世界で、安心して自分をさらけ出している夏織の性格を分かった上でそれでも尚ということ。
夏織は全く気づいていなかったけど、私はかなり念入りに、そのひとりひとりに牙を剥いて私の夏織に手を出すなよと牽制しておいたのだ。とても大変だった。
まぁ今は、夏織がバーで見せている筈の幸せいっぱいな様子から、私達の絆の深さが嫌でも分かってしまうだろうから大丈夫な筈。平気。余裕。
ったく、遠藤さんのようにもの分かりのいい人ばかりならすごく楽なんだけどね。
「あはは」
と、どっと疲れていても、隙あらば小芝居しておこうかなみたいなところはやはり夏織らしい。私は夏織って凄いなぁと感心してしまった。
「さすが。余裕あるねっ」
「ない。今のが最後のめらめらだから」
もう完全に消えたから。なんて言ってうーうー唸って伏せっているけど、頼んだアイスがくれば素早く起きる筈。
けど残念なことにアイスは来ない。来るのはもっと別なヤツ。それを目にした途端、夏織はたちまち元気になって、ここでの出来事はそれ一色に染まってしまって、幸、マイウエイ、次はいつ行こうか、なんて口走ってしまうくらいの凄いヤツ。
それが今そこまで迫って来ている。厨房からモノを持った渚さんが戻って来たのだ。
いよいよだと、きゃあ素敵なんて夏織の喜ぶ様を想像すると笑みが溢れてくるというもの。
「くくくくく」
「はい、かおちゃん。これどうぞ」
そう声をかけられて、カウンターにぐったりと伏せっていた夏織の顔がゆっくりと上がる。上げないと駄目だよなぁ、やだなぁ的な雰囲気で。
声の主が美々さんではなくて渚さんだったから警戒したのだと思う。けど平気。ここから夏織のご機嫌メーターが一気にMaxまで振れるのだから。筈だから?
「ええと。これは?」
「お誕生日おめでとう。と言うにはちょっと遅いね」
「なんでそれを…あー、幸から聞いたんでしたね」
今夜ここまで夏織には試練の夜ではあったけど、いま夏織の座る私の反対側の椅子には甘くて美味いヤツの入った袋が置いてある。みんな夏織が来ると聞いてわざわざプレゼントとして用意してくれていた。
けど夏織は夏織。渡された時はとても喜んでいたけどそれはそれ。すぐには頭を切り替えて、なるほど幸が余計なことを言ったから二度あることは三度ある的に、私は今夜もこんな酷い目にあっているのかあのぼけなすめと、そのとき夏織は私に冷めた目を向けてきた。薄暗いテーブル席の方からでもはっきりと分かるくらいに、ぎろって。
「あはは…」
普段は愛嬌のある可愛い狸でも、理不尽でもなんでも、狸だって本気で怒れば怖いから、私が自ずと目を逸らしていた。
その視線の先で、美々さんが可笑しそうに口に手を当てていた。
さっちゃんにも怖いものがあるのねなんて言うけれど、あの薄暗い中で、白目だけがやけに光って浮いていたんだから、そんなもの怖いに決まっている。
けどもう平気、これで夏織は怒りを収めてくれる筈。なぜ怒られなければいけないのか、よく分からなくてもいける筈。そのためになら私の声も大袈裟になるというもの。
「うわー。すごいねー」
夏織は感極まったのか、渚さんの手に持つソレを凝視したまま固まっている。
「うん。さっちゃんが教えてくれたの。それでお祝いしたくて、かおちゃん甘いもの好きだからわたし張り切ってコレ作ったんだ。冷蔵庫にまだまだあるからたくさん食べてねっ」
「夏織っ。よかったねっ」
そう。夏織の前にかちゃっと置かれたそれは、渚さんの手作りのティラミス。それは、甘くて美味しいヤツなら夏織は絶対に喜びますからという私の勧めに従って作られた渚さん特製のティラミス。それが今、お皿の上に絶妙なバランスで縦長に盛りに盛られて山のようになっている。
あー、お皿が普通のケーキ用のお皿だからそうなってしまったんだろうなぁと私は推測しつつジェンガなの? という夏織のいつものツッコミを待つも聴こえない。私が思いつくくらいだから、夏織なら余裕で口から出している筈なのに。
「あだだ」
「かは。ん? さっちゃん?」
それもその筈、夏織は渚さんに向けてゆるふわーく微笑みながらも余計なことをしやがったなおい役立たずならせめて役立たずのまま役立たずでいろよこの役立たずめがと、カウンターの下、がしがしと私に足を繰り出しすのに忙しいから。
さすがの夏織はまるで白鳥のよう。もしくは怒りながら笑う人みたい。
やっぱり夏織は器用だなぁと私の思考が逃げ出して行く。
「ちょっと盛り付けに失敗しちゃったけど、味はみんなの保証つきだからね」
「はっ。あっ、ありがとうございますぅ」
「いいんだよ。かは。さぁどうぞ」
「すいませーん。渚さん。今ちょっといいですかー」
「なにー」
そこに奥から渚さんを呼ぶ声がして、渚さんは遠慮しないでね、あとで感想聞かせてねと夏織にふわふわに微笑んで奥の厨房へ入っていった。
「おっ、美味しいんだよそれ」
夏織はソレに視線を落としている。私は訪れた嫌でも重く感じてしまう沈黙に耐え切れず、恐々と夏織に向いてそう声をかけるも返事はない。
こうなる直前、ありがとうございますぅとゆるふわく渚さんにお礼を伝えていたからまさか眠ってしまったとは思えない。いや、まさかいくら夏織でも目を開けたまま気絶なんてしない筈。
「かっ、夏織?」
再び声をかけるも私の添えた手をばしっと弾いただけでやはり夏織は無言のまま。取り敢えず意識があることに私は安堵した。
「よかった」
「どこが」
「え」
なんの罰ゲームなんだよこれと心の声が聴こえてきた気がするなか、いつもなら超美味そうとご機嫌に、満面の笑顔を見せてくれる筈の夏織はそれが渚さんの手作りと判明した今、黙ったまま垂れた大きな目を細め、光の消えた瞳で置かれた渚さんの手作りティラミスを凝視している。ご機嫌とは程遠い、やっぱり来るんじゃなかった私の馬鹿、幸のぼけなす。そんな感じで。
その様子を数値にするなら、うへぇ五、警戒心五、期待値はまったくのゼロといったところ。
けど、私はこの前試食したからソレが美味しいことは知っている。ひと口でも食べてもらえばそれが分かって私はきっと赦される。だから私はここで初めて神様に、夏織がもう何回使ったか忘れちゃったへへへと笑っていたヤツ、一生のお願いを使うことにしたのだ。
「くわばらくわばら」
これは先日のこのバーでのこと。
私が先週の夏織の誕生日のことを話したあと、渚さんは何を思ったのか、よし、じゃあ手作りケーキで祝いしてあげちゃう、だからさっちゃん、かおちゃんを絶対に連れてきてねと、アイスピックを片手に私に笑いかけできたのだ。有無を言わせない笑顔で。ふひひって。べろーんって。
とても怖かったから、気づけば私の頭は縦にこくこくと動いていたのだ。
「よかった。お願いね」
「…はい」
「そういえば、かおちゃんにメッセージを送っても返事が来ないのよね。そもそも既読すら付かないんだけどね」
「え」
「ね。私もそう。まさかの無視かしら?」
「え」
ねぇさっちゃんどういうこと? 重鎮のおふたりの鋭い視線が私に突き刺さる。怖くはないけど少々居心地の悪さを感じる。
「それ、私のもなんだけど。どうなのさっちゃん。ふひひ」
「ひ」
こっちの人はいまだ怖い。手に持っているものが物騒だから。氷の塊がすごい速さで砕けていくから見ていてもの凄く寒気がする。
「えっと…あっ、そうだっ。水没したふり、水没して大騒ぎしてスマホ変えたからかなー」
「なんだ。そうなんだね」
「なんだ。そうなのね」
「なんだ。どおりでね」
「あ、はい」
いけたっ。まさか通用するとは。疑うことを知らない優しい人達で本当によかったなと思いながらも、夏織とは話を合わせておくにしても、私をこんなことで焦らせるなんて夏織の奴、あとでお仕置きしなくてはと私は心に決めたのだ。
お仕置きとは当然ここに夏織を連れてくること。まぁ、今、かおちゃん来るの楽しみだねぇと、愉しいもんねぇと、嬉しそうに話す三人をこの目に映しているとそれだけが理由とは言えないけど。
「あ。そうだっ」
ばしっと両手を合わせた渚さん。大きな音にびくってなったみんなを他所に、いいこと思いついちゃったとふわふわな笑みを浮かべて奥の厨房に声をかける。
「ななみー。ちょっと買い物おねがーい」
そして、ちょっとうちの子に材料買ってきてもらうからさ、今からティラミス作るからたぶん二時間くらいかかるけど、よかったらみんな食べてみてと、わたしお菓子作りはお手の物なのよと、久しぶりに頑張っちゃおうっと、張り切りだしたのだ。
そしてその二時間後、私を含むここにいた真里奈さんや美波さん、葵さんなんかもみんなとても美味しいさすが渚ママだと盛り上がったのだ。
「おっ。美味しいです」
「「「うんうん」」」
「よかった。これならかおちゃんも喜んでくれるよね?」
「そう思うわ」
「そう思う」
「うまうま。お代わりあります?」
「余裕。完璧ですね」
みんなのみならず、これで釣ればいけるだろうと私も思っていたのだ。
そして一昨日のこと。
「幸」
「なぁに」
「ヴォルデ、じゃないや、マイウ…あー、もう面倒くさいからいいや。金曜日、マイウエイいくよ」
「…いいんだけど。いきなりどうしたの?」
まさか渚さんと浮気するつもり? 私が夏織を眇めて見ると、夏織は思い切り顔も体も引きつつも、んなわけあるかこのぽんこつめと私を罵った。
「いい加減メッセージがうざい。もうこうなったら三度目の正直に賭けることにしたから」
「あー」
開いてないけど横の数字が三桁とかないから。容量とかよく分かんないけど開くと無駄に減りそうだし、なんか動作が重くなった気がするし確実に呪われたぞコレ。
「ちくしょう」
夏織はそう言ってうんざりしていた。
私の星はまじ使えない。試練ばかりを与えやがる。そうこぼして私の胸でうぐうぐと泣いた。
私は理解できなかったけど、泣くくらい辛いなんてちょっと可哀想だなと思ったから、よしよし夏織は悪くないよーと、酷い星だねー、そんな星、ばんしちゃえばいいのにねーと、目一杯優しくして甘やかしてあげたのだ。私は夏織には甘いから。実際には出来なくても、目に入れても痛くない程だから。
前にそれを伝えたら、燃えるからまじ勘弁してと、夏織は真顔で返してくれたっけ。あはは。夏織ったら面白い。
そして夏織は泣き止んだあと、元を正せばこれに関しては幸のせいなのに、その幸に慰めてもらうとかなんだかなぁと少しのあいだジレンマを抱えていた。
「よし。頑張る」
その数分後、やっぱり幸に癒されたからまぁいいやと、それを頭から追い出した夏織は気合を入れていた。
「頑張って」
「うんっ。私は負けない」
多少の心苦しさはある。けど、バーのみんなに笑って過ごしてもらうために、夏織の凄いところを借りたくもある。そして私は鬼でも悪魔でもないただの幸。
「うーん」
そう悩んだ結果、その気になっている夏織に水を差すのもどうなのかなと思ったけど、一応、これは夏織のための最後のチャンスということで、私は少し気になったことを口にした。
「ねぇ夏織に問題ね」
「おっ。なに?」
「二度あることは?」
「三度ある、でしょ? はっ」
「ねー」
「まじかぁ」
私の指摘にもの凄く嫌そうな顔をして頭を抱えた夏織。
いや、ないない。大丈夫。ないない。いけるいけるから落ち着けとぶつぶつ言い出した夏織はやっぱり夏織。とても面白くて私はずっと笑っていた。
それが一昨日の夜。つまり夏織は今夜、自ら望んで私の世界にやって来たんだから私は全然悪くない。そして、夏織が自らが望んだ以上、その結果は自らが招いたものだから、何があっても甘んじて受け入れなければ駄目。
「ね」
「うるさいな。わかってるから少し黙れ」
「酷いっ?」
「私よりマシでしょ」
「たしかに。夏織からすればそうかも。あはは」
「ったくさぁ。なんでこんな目に遭うかなぁ」
「人柄だよ」
「ほう? 人柄ね」
「いや、ほら、いい意味でだよっ。あだっ」
「幸、恵美さんの時もそう言ってたろっ。いい意味ってなんだよ。おらおらー」
「あだあだあだ」
「これは…ティラミス?」
夏織はやっぱり眠ってなどいなかった。
ソレは本当に美味しかった。だから味に関してはなんの問題もない。私は夏織を安心させてあげることにした。
「美味しかったよそれ。騙されたと思って食べてみたら?」
無言。夏織の反応はまたもやなくなった。必死も必死、何かに取り憑かれたかのように、置かれたソレを一心不乱に見つめ続けている。
じーっ。
音にするならそんなふう。前屈みになって顔を近づけて微動だにせず、その顔は出された時と同じまま。
なんて顔してんの夏織ったらと思うけど、やっぱりそれも夏織らしくて、私はその様子を右手で頬づえをついて見つめながら、リングのはまる左手の指をグラスの縁をなぞるようにつつつと遊ばせて顔を綻ばせている。私はもう、あとで夏織に怒られることについては諦めたのだ。たとえ理不尽でも甘んじて受け入れることにしたの。
だって今、絶望感まで漂わせている夏織の姿が憐れを誘ってとても面白ろ可愛いから、私はその姿を純粋に見ていたくなったから。これを逃しては駄目だから。これはきっと大切な思い出になる筈だから。あの時はよくもよくもと、いつか夏織が騒ぐだろうと思うから。その時ふたりで一緒に笑いたいから。
そしてついに夏織が動く。山が動いたっ、と、思ったら、くそうなんて言って恐る恐る手を伸ばそうとして、いやいやいやいややっぱ無理と、手を引っ込める姿も堪らなく面白い。
「大丈夫だってば」
そんな夏織が私を無視するのは仕方ないこと。今の夏織にそんな余裕はどこにも無いし、夏織はそれどころではないんだから。
少しは隠しなさいと思うくらいに素直な性格だから。嬉しかったら本気で喜ぶし、嫌がることも本気も本気の本気だから。
夏織はようやく周りに聞こえないくらいの声で小さく呟いた。
「コレは……食えるの?」
「食えるでしょ」
「生き血…混じってない?」
「ないでしょ」
思わずツッコむ私を気にもせず、夏織はまたそれをじっと見つめている。やはり夏織は本気なのだ。
「ううむ」
今度こそ山が動いて、置かれた山盛りのお皿を手に取って、うーんと唸って目前でくるくるやって全体を確かめている。
夏織が必死になって何を確認しているのか私には分からない。お皿を高く上げて裏側を覗いて、のりたけとかと呟いたりもしているけど、さすがにそれはいま関係ないでしょうにと、私はやっぱりくくくと笑っちゃう。
「はあ」
やがて頭を振りながらお皿を置いた夏織は大きくひとつ溜息を吐いて、やはり甘いヤツを食べようとする夏織にしてはやけに緩慢な動作でフォークを取ってお皿に手を添えた。
何やら懸命に調べていたけど、やっと食べる気になったのかなと思ったら、夏織はゆるふわな笑みを浮かべて私に向けた。
「ねぇ幸」
「かはっ。なぁに」
私にフォークを差し出しながら、お皿もすすすと押しやってくる。
「幸、もうすぐ誕生日だからコレあげる」
「は?」
ずこってなった私は危なくグラスの中身を溢すところだった。
ひと月以上も先だよと言おうとして顔を向けるとそこにはゆるふわな微笑みは既になく、代わりに焦りの表情がうかんでいた。
「美味しかったんでしょ。ならいけるでしょ。ぱぱっと食べちゃって。ほら。はりはりはり」
「えぇぇ」
「ぼけっとすんなって。早くしないと渚さん戻ってきちゃうからっ。あと、山とかありえないからなっ。軽くいってしまえやっ、うらぁ」
「いだだだだだ。痛いよ、夏織。これじゃ食べられないよっ」
「痛いのは生きてる証拠って誰か言ってたぞっ。よかったな幸っ」
「いだだだだだ」
「かおちゃんどう? 美味しいでしょう」
「はいっ」
「よかった。たくさん食べてね」
「はいっ」
「あはは。いい返事だねっ」
「うるさい。黙りやがれっ」
「いったぁ」
はい。またも残念でした。
必死になって悪足掻きをしても無駄だった。私達が遊んでいるあいだに渚さんが戻ってきてしまったから。
結局、夏織はティラミスを食べた。可愛い顔にとても複雑な表情を浮かべながら、血濡れのくせに超美味いとかまじあり得ない、食べたくないのに止まらないとかもう呪いとしか思えないぞくそうとか言いながら。
「うまーい。くっ。超美味いなこれっ。なんだよもう。言いたくないのにっ。幸。これ美味いよっ。くっ」
「あはは。よかったね」
「うんっ。あ、いや。そこはなんだかよくわかんない。美味いけど」
とはいうものの、夏織はティラミスを口に入れては綻ばせ、ソレを飲み込んでは顔を顰めて悔しそうにすることを繰り返し、山だったソレは早くも小さな丘のようになった。
「あ、わたしちょっとおしっこ」
「幸。いちいち言わ、いや、わかった。気をつけてね」
「うん。気をつけるよ」
「その返しは駄目なヤツだから。いや、いいことなのか?」
そして私が無事、ことを済ませて席に近づいていくと、すっかりみんなに慣れたらしい、または諦めたらしい夏織は、再び小山のようになったティラミスを口に運びながら、私のことを愉しげに話す声が聴こえてきた。
察するに、どうしてさっちゃんを好きになったのとかそんなこと訊かれていたのだ。
幸は覚えてないかもだけど、もう五、六年くらい前かなぁ。初めて幸がうちに来た時、結構遅くなって、けど明日から仕事だって、だから帰るって幸が言うから、遅くでもタクれる大通りまで一緒に歩いたの。幸は初めて来たところだし、道もよく分からないかなと思ってそこまで連れて行ったの。
で、団子屋さんとかパン屋さんとかを右に左にちょこまかして五分くらい歩いて、ほらあの通りなら拾えるからってそこまで行ってね、幸が乗るのを見送ろうとしたら、分かったありがとう屋敷、じゃあ送ってくよ夜道は危ないんだよなんて言って、私の腕を取って、結局、幸がうちまで一緒に着いてきてくれたの。送ってくれたの。
ちゃんと鍵をかけてね、じゃあまた明日オフィスでねって、きらきらした笑顔で言って、私がドアを閉めて鍵をかけるまでドアの向こうにいてくれて、私が鍵をちゃんとかけたことを確認したらささって帰って行ったの。なにこの人、超優しくてかっこいいなって思ったの。その頃私は幸をストレートだと思っていたからなにも出来ないことは分かっていたんだけどいいなって思ったの。
けど、それから十五分くらいしたら幸から電話がかかってきたの。迷っちゃったここどこかなって。他の人なら知らないよそんなのって、分からなきゃ誰かに訊いたらいいじゃんて言ってもよかったんだけど、私にいつも優しくしてくれる幸だし、しっかり者の幸にもそういうところがあるんだなって、可愛いなぁって笑っちゃった。だから、そこで何が見えるの今いくから動かないでねって、慌てて家を飛び出したの。スマホで話しながら幸を探して道の端にぽつんと突っ立っている不安そうな幸を見つけたら、なんか泣けてきたの。違うんだけど私と似てるって、ああ、この女性が寂しくないように傍にいられたらいいのになぁって。あ、ここは内緒で。照れくさいから。
他にもいっぱいあったけど、私はたぶんそこから始まったんだと思う。
今もね、例えばほら、買い物したヤツをエコバッグに詰めると時とかも、幸はさっさと重たいヤツを自分のエコバッグに詰め込んで、私の方をなるべく軽くなるようにしてくれるの。それを指摘しても幸は、私は伊達にさちちと呼ばれているわけじゃないのよいいから任せておきなさいって笑うだけだから私もついついそれに甘えちゃうの。
あ、さちちはゴリラだけど幸だからそんじょそこらのゴリラじゃないくて賢いゴリラなの。
けど、さちちはやっぱりゴリラだから、考えなしに重たいヤツをがんがん詰め込んでいくから、持つところとかが縫製が甘いやつだと傷みが早くてびりって破けたりするでしょ。そのせいで、幸のエコバッグはもう四代目なの。笑っちゃうでしょ。
「それからあとは…あ、そうそう」
ああ。私はちゃんとめぐり逢えた。誰もがみんな探している筈の、必ずどこかにいる筈の、自分の半身、重なる相手、自分に替えてもどうか幸せでと思える相手。私の夏織。
そんなふうにいとも容易く、何度も何度も私の中の何かに触れる夏織。そしてまたこの胸に込み上げてくる愛おしさ。
その感情を爆発させて私は夏織に飛び込んでいく。
「夏織っ」
「あ、幸おそ、ん? なにその顔どうした、ぐぇっ」
「えっ。さっちゃん?」
「「「「あらあらまあまあ」」」」
「ねぇ幸」
少し窮屈な恰好だけど、その胸で私を優しく抱いて、私の髪を優しく撫でる夏織が、これまた優しく声をかけてくれる。
「なぁに」
「さっき、今夜のこといい思い出になるとか思ってた?」
「あ、わかる? わかっちゃったんだぁ。なんだ。そっかぁ。さすが夏織。お見通しだっ」
「なるかっ」
「なっ…なななっ」
猛者の皆様、いつもありがとうございます。
さて、わたくし今日は朝から親のワクチン接種の予約を取りました。思っていたよりもすんなりといってよかったです。
でも、ネットに疎くラインなんぞももよく分からない高齢者も多くいる筈だし、頼みの電話も繋がらないとか、対応の仕方をもう少し考えて欲しいと思いました。
「日記か」
「あはは」
そしてこの先も我が娘達は、悩むことはあっても大きな波乱もなく仲良く過ごしていくことでしょう。
「「まじ?」」
「まじまじ」
「「やったっ」」
当然私が一番嬉しい。
読んでくれてありがとうございます。