第八十話
続きです。
ラブアンドピース。
よろしくお願いします。
明るい、てか眩しい。
はい残念。午前中は間違っても直に日の当たらない寝室。しかもカーテンも閉めたたままなのに目を閉じていてもなんか眩しいとかヤバいから。
アイツが無意識に放つ、じわじわゆっくり時間をかけてお肌を攻撃してくるヤツ、なんのケアもなくただぼーっと浴び続けて過ごしていると、早ければ十年後には、ん? なんだよこんなところが汚れるとかまじ勘弁してほしいんですけど、ったく、あれ? 変だな落ちないぞ、なんだこれ? え、うそ。まっ、まさかシミ? うっ、うそでしょ、ぐはぁと、私の口からそんなことを言わしめんとする無慈悲で恐ろしいそいつはもう、ウチのマンションを越して隣の建物に反射しているから。照り返しでもって、大人しく隠れている私と幸を狙っていやがるから。長い棒の先にヘルメットを乗せてひょこって出したら確実に撃ち抜かれてしまうのだ。
ということは、アイツはだいぶ空に昇ったということ。
「うー」
それは、地球が太陽の周りを回って自転していることが分かっている今、当たり前の現象、自然の摂理。コペルなんとかさん様々、かの天才ガリレオさんも草葉の陰で、ほれみろわしの言った通りじゃろがいこのぼけかすどもめがっと、さぞかし溜飲を下げているんだろうなよかったねと私がちょっと思う世界の常識。
そしてその当たり前は、開けない夜はない的に、陽また昇るとかいう、今がどんなに辛くてもいつまでも続かないから大丈夫だよという意味で、止まない雨はないよと同じ、いわば名言としても散々に使い古されている。
けれど、私からすればそんなものはただの戯言。やはり、止まない雨と同じ思いを懐いてしまう。
なぜなら、自然の摂理から外れた奴らだと公然と、暗黙的に定義されている私達の陽はいまだ昇ることなく海の向こうに沈んだままなのだから。明けない夜のままだから。
もしも私が世界のことなど何も知らない純真無垢な幼い子供なら、ねぇお母さん、太陽ってなぁに? 先生とかお友達のみんながね、かおちゃんあそこにあるよ、けど直接見ちゃだめだなんだよ、見ると目をやられちゃうんだってこわいねーって手をかざしながら、ほらあそこだよって教えてくれるから、わたしもね、仲間はずれとかいやだから、あ、ほんとだ、あった、うわぁ目がっ、目がやられるーとかやったりしてるんだけど、実は私、太陽がどこにあるか全然わからないの。今も見えないの。ねぇお母さん。お母さんにも見えてるんだよね。いいなぁ。なんで私だけ見えないのかな? 変だよね? 私って変なのかなぁ? お月様は見えるのに、ね。なんでかなぁ? 私も見てみたいなぁ、どうしたら見られるのかなぁ、ねー、お母さんと、そんな質問を母さんにしまうだろう。無知ゆえに。無垢ゆえに。
そして見えない理由を知る母さんは、うーん不思議だなぁと、首を傾げて指で顎を摘んだこまっしゃくれたポーズで考えている娘に、夏織は一生見ることができないかも知れないんだよとは言えず、そのうち夏織も見られるようになるよなんて言って、私の優しく髪を撫でながら、私に見られないように悲しみに歪めたその顔を背けてしまうのだ。
そんな母さんの様子を子供ながらに鋭く察して、どうしたのお母さん? どっか痛いの大丈夫? と、じゃあおまじないしてあげるねと、痛いの痛いのーとやり始める私と、大丈夫なんでもないよ、夏織は優しい子だねと涙ながらに返す母さんが私に手を伸ばす。
それからそこに広がるものは、私をぎゅと抱き締めてくれた母さんの背を照らす綺麗で眩しい夕日の方に目を凝らすも、やっぱり全然見えなくて、それでもじっと目を凝らし続ける私には絶対に見えないんですけどね的な凄く切なくてとても悲しくなる光景。可哀想過ぎて見ていられない、誰もが目に光るものを浮かべてしまう光景だ。
「うぅ、泣、ける」
とはいえ大抵の人が可哀想にねで終わってしまうから、そのあとビッグなムーブメントが起こる筈もない。
当事者の私ですら見つからないように隠して隠れて潜んでいるのだからそこに文句はない。
だから、隠れてんじゃないよとか率先して声をあげるべきとか、逃げていないで先ずは自分でなんとかしろとか言わないでほしいところ。私は弱虫だから虐められたくないの。叩かれたりしたら泣いちゃうから。
「泣、くぞ」
私が文句を言うべき相手は何かを変えることができる筈のお偉い人達だと私は思う。
けれど、彼らは民意の代表。私達のような人間はいまだこのくそ社会ではタブー視されているのだから、それは触れたら駄目なヤツでしょうと、それじゃ選挙は戦えないからとしながらも、それについて問われれば多様性は大事と口にするだけで結局わたしたちの先達のあげた、そして今もあげてくれている同胞達のほんの小さな声など拾う筈もない。
彼らのアレはもはや商売。グレーゾーンをいっぱい作って、いかに自分達が得をするかとかそんなことばかりを考えるのに忙しいのだ。
なら、そんな人達がこの社会を作ってきたのだから、私達にとってはくそみたいな社会が出来上がってしまうのは当たり前。
あほくさい。
今は頭の中で呟くその一言で片付けておく。だって私にはそんなことよりもいま私が文句を言いたい相手は他にいる。だからそんな奴らに構っている暇はないのだ。
「くっ、そう…この、ひざし、めがぁ」
春はぽかぽか秋は清々しく冬は温もりと、季節によってそれぞれ有難さや良さがあるけれど、夏の日差しは私にはうへぇなだけ。
他の季節と比べて太陽の位置が高い分、家の中に差し込む日差しは少ないけれど、いま窓とその辺り一帯は暖房を入れたかのように熱い空気がもわもわぁとなっているのだ。
それを忘れて無防備にそこに近づいたりカーテンを開けたりなんかしたらもう悲惨。
その暑さでおつむをやられてしまった私はもう麻呂でもなんでもべつにいいやと、お肌を守る代わりに女性として凄く大切にしてきた何かを手放してしまうことは確実。
そんなのまじ悲惨だから。
「うー。やめて、くれぇ」
私は寝ぼけた頭でそんなことを考えながら、そろそろ起きるかなと薄っすら目を開けた。
「抹茶小豆」
と、口からなにかを漏らしつつ優れものの時計に目を遣れば午前十時半を回った辺りを指している。朝というより午前中。太陽も高く昇るというもの。
「ええと」
今朝は八時過ぎに自然に呼ばれて一度ベッドを飛び出して無事にことを済ませた。最近はおそそがなくていい感じ。
それから寝室に戻って暑いなくそうと文句を言いつつリモコンをぴってやって冷房を入れて、そうしてるあいだに私と入れ替わるように私もおしっこするねと律儀に教えてくれた幸が寝室を出ていった。
幸が最近になって、何故かたまにそれを教えてくれるようになった理由は私には全く分からないけれど、幸が私に教えたいのなら、オッケーわかった気をつけてねと返しておくことにしている。最初の頃はともかく今はもう慣れたから。
で、そのあと幸もたぶん無事にことを済ませて戻ってきて、キスをし合ってからじゃあもう少し睡眠を取ろうとふたりで仲良く二度寝を決め込んで今に至る…
「だな」
私はまだぼーっとしている頭で思い出しつつそれが覚醒するのを待っているところ。
そしてそれはいつものごとくすぐにやって来る。
なぜなら私の生活圏は自然の少ない都会とはいえジャングルー。生きたまま目を抜かれては堪らない。生命の危機も常にあるここジャングルーでは寝起きだからといつまでも呆けてはいられないのだ。やられちゃうから。
つまり私のこれは弱者の習性。だから私の寝起きは悪くない。私は草食動物系女子だから。
「あ…」
いま女子って言っちった。それはさすがにもうないな。恥ずい。
自分の見積もりがあまりにも甘々でなんかすいませんねと自分でもちょっと思う。
私はこれでも三十二歳になったのだから。
「…はぁ。三十二」
忘れた筈のことを思い出してため息が出てしまう。
ふと、地球は何回まわっただろうと、ちょっと計算してみようかなと思ったけれど、三桁に二桁を掛けるとか面倒だからやっぱりなし。閏年もあるし、ある筈の閏年が調整のためだとかってない年なんかもあるらしいし、なにも寝起きでそんな面倒なことに頭を使うことはないし、面倒なことはあとで幸にしてもらえばいいのだ。
私が、ええと一年が三百…とかやっているうちに、昨日までで一万一千六百八十八回だよ夏織と、自慢げのどや顔で嬉しそうに教えてくれるから。
「可愛いな。ふふふ」
まぁ、私は私ということで、歳については四捨五入すると私まだ三十だしあと二年はそれでいけるからいいやと、それを頭から追い出してやった。
「いいのいいの」
私の目は完全に覚めた。
こんだけ色々と移ろっていれば目が覚めるのは当然のこと。
「よっ」
私は、んーっと、大きく伸びをして脱力する。
がさがさと布団の生地の擦れる音がしたけれどこの程度では幸は起きない。すやすやと眠っていてまるで起きる気配はない。襲われる心配のない猛獣ならではの余裕をかましている。草を食む私とは違う。
「すうすう」
「さすが」
弱者がゆえに眠っていても気を抜けない私。
昨日もふへへへなんて笑いながらだらしなく口を開けて涎を垂らしてたよ可愛かったよよく溺れないね夏織って凄いよねと、いつも幸にからかわれているけれど、それは私がよく寝返りを打つ人だから溢れて口の中に溜まらないだけ。それは幸も同じこと。そうでなければ私達はもうとっくにいってしまっているだろう。
けれど私のそれは草を食む者の習性。素早く逃げるためにだらしない振りをして油断を誘っているだけ。幸のようにだらしなく眠りこけているわけじゃない。
「そうそう」
さっき、今日は商店街の奥の方に見つけておいた甘味屋さんに行くぞと決めたのだって、練乳たっぷり小豆たっぷり抹茶のかき氷に舌鼓を打っていた夢を見てヨダレを垂らしていたわけじゃない。
「ないない」
ふふふ。氷小豆抹茶。
アレ美味いよねと、暫しソイツに思いを馳せる私は夕方にでも幸を誘って食べに行くつもり。断られるとは思いもしない私は既にその気なのだ。
「あっつっ、くないな」
そう。私は平気。眩しいけれど暑くない。
だって、ぴってやっておいた冷房が効いていて、掻いていた筈の汗はひいているし、眠っているうちに幸が暑がって私の方に押しやったきた布団と愛しの幸の体が温かくて寧ろ今はとても快適。
こうして夏にがんがん効かせた冷房の寒さに震えて布団や人肌の温もりに触れるとか、この心地よさは幸せとしか言えない。冬に暖房をがんがん効かせた部屋でダッツを食べる幸せと似ている。まさにささやかな贅沢というヤツ。
今日は週末。この土日が終わればお盆休みは終わってしまう。金ぴかの奴と同様、あっちからやって来たご先祖様も牛に乗って、けれど結局はとっとと帰っていくのだ。
そう焦らずとも、もっとゆっくりしていけばいいものをと思うけれど、もしかするとあっちの方は、人の在りように虐めとか差別とかがなくて誰もが幸せ、居心地がいいところなのかも。頑張った人にはご褒美を的なラブアンドピースに溢れるところなのかも。それで当然いじめっ子にはいけないところ。
「ほうほう」
なるほどそれなら早く戻りたくもなるなと納得できる。少し羨ましく思うけれど私はまだいかない。いきたくない。
なんたってこっちには、私の最愛で私の超良き理解者、愛しの幸がいるのだから絶対に置いてはいけない。
それに、こっちには甘くて美味いヤツもある。いっぱいある。それもまた置いていけないヤツだから。いってしまう最後の最後に何を食べるのか、私はいまだ決めかねているからまだいけない。
なんつってなっ。はっはっはっ。
「さーち」
隣の幸はいまだに眠っている。丸めた体を私に寄せているのは冷房のせいで少し寒いから。人に布団を押し付けておいて寒むがるとか、眠っている時の幸は、布団を剥いだり取ったり私にくっついたり離れたりと、やりたい放題やっている。
寒い季節は布団を全部持っていくな幸と思うこともよくあるし、しかも奪った布団を幸の側から床に落としちゃって、私は拾えないし幸はすやすや眠ったままだから、私達は自然と体を寄せ合あって眠る羽目になるんだけれど、寒いものは寒いから震えて目を覚ましちゃうとか、私には迷惑な話だし嫌がらせなのかと疑いたくなる。
けれど、そこは起きている時の私も似たようなもだと私は自覚しているから、お互い様の差し引きゼロ、文句を言いつつちゃらということにしているのだ。
「ね」
「うーん」
途端になぜか寝返りを打ってそっぽを向く幸。ほら。やっぱり眠っている幸はこんなふうに勝手気儘。私の話を聞こうともしない。
けれどそこはやっぱりちゃらだから、私は幸を起こさぬように、背中丸出しの捲れたTシャツをお座なりに下ろし、そっと後ろから抱いてその髪を撫でる。
「よしよし」
満足そうに、んふっと息を漏らしてもぞもぞもぞった幸に私も満足する。
またすうすうと眠りに入った幸がお腹減ったと起きるまでもう暫くかかるだろうなとひとり笑う。
「ふっふっふっ」
私はのそのそとベッドを出てエアコンを切った。それからとことこ足取り軽く幸の側へと回りながらちらりと時計に目を向ける。
十時四十五分、復讐の時だ。ささやかなヤツなっ。
お盆休み、とくれば私の誕生日。
ということで、私がせがむまでもなく幸は今年も例の甘くて美味いヤツの食べ放題に連れていってくれた。
夏真っ盛りでもそれはそれ。日射しも暑さも甘ラーの私には関係のないこと。この前へたれた一度引退した花ちゃんとずっと第一線で活躍を続ける現役ばりばりの私はもはや全然違うのだ。いずれフォークやナイフ、スプーンを置く日が来ようとも、私はその日まで悔いなく過ごしていくのだ。
「まったく。胸張って自慢げになにを言ってるのよ」
「いいの。幸だってグラスを置く日がくるかもよ。肉用のナイフとかもさ」
「え」
「え、って。いや、おかしいでしょ」
青い顔してがくがく震え始める幸。凄く面白いけれど、人はみんな誰しもが、いずれ自ら自ずと何かに満足して、または何かを諦めたりして、そんな日を迎えるもの。
「でしょ」
「え」
「え、じゃないぞ幸」
けれどそうなっても大丈夫。実は今のへたれ花ちゃんのように、何事も程々でいることが一番なのだと私は知っているのだ。
「ね」
「え」
「ぽんこつだな」
とはいえそれはまだ先の先の話。
「ごっちそうさまっ、でしたっ」
ふぅ。食った食ったとお腹を摩る私は超幸せの真っ只中。この至福の時が毎年訪れるのなら、私は私の誕生日と夏を好きになれるかもと思う私は私のお腹にうわーなにそれと驚く幸の顔も気にならない。
「いや、ないな。ないない」
締めのコーヒーを手にやっぱり暑いのは無理だからと呟いて、最後のひと口をずずっと啜って全てが終わった。大満足の私は今年もやってやったのだ。
「あはは。久しぶりに見たよ」
「なにを?」
「それ」
指差す幸は凄いねぇと引き気味に、私のある一点をがん見している。そこまでじっくり見られるとさすがに気になってイラッとするからやめてほしいところ。
けれど私は大満足だから幸にお礼を伝えるためにふへへと微笑んだ。
「超美味かったっ。ありがと幸、ごちそうさまでしたっ」
「いいの。いやぁ。それにしてもよく食べたねぇ」
さすが夏織と褒める幸。けれど私のお腹の具合はちょうど八合目に着いたところなのだ。
「まだいけるけど、このくらいがちょうどいい」
「くくく。あと十分くらいあるけどね。じゃあ夏織の気が変わらないうちにとっとと行こうか」
「そうする」
ケーキとかフルーツとか、去年食べたヤツとか見たことない新作のヤツとかを端から順に、よく味わいながらもせっせっせっせとお腹に詰め込んだその約一時間半後、凡そ十分を残して私は満足感とともに、幸も、それで去年よりも食べるとか凄くない? と、呆れながらも私の充された様子に満足そうにして席を立った。
「口の機能だけリスとかハムだったらよかったな」
そしたら持って帰れるのになと、ふたり揃ってレジに向かう途中、私は口を膨らませて、こんな感じに溜めておけるしとしてみせる。
「そこに溜まってるよ?」
にやつく顔と楽しそうにからかうような幸の声。
けれど、それは天啓。私は幸がお腹のことを言っているのは分かっていたけれど、気づかなかったな、その手があったかなるほどさすがあったまいいねと幸を見る。
「そっか。反芻すればいいんだな」
「それこそ牛になるからやめなさい」
すると幸は、台詞はともかくまじ顔になって冷たい声を聞かせてくれた。柔らかくても牛は駄目とかまじ意味ふ。幸は私に一体何を伝えたいのか。
「やめておきなさい」
幸はご丁寧に念を押した。またしても、慣れた私じゃなかったらごめんなさいと口にしてしまうだろう、背筋も凍る冷たい眼差しと声で。なるほどマナーの話なのかも。
「わかった」
私はすぐさま頷いた。食べ方云々については幸も相当だぞと思いつつも、そもそも私は反芻とか出来ないし、出来たらそれは逆流性食道炎みたいな感じになりそうだし、幸がヒントをくれたからそう言ってみただけだから、まさか幸がいきなり静かに怒るは思わなかったのだ。
あ、いや。ちょっとは思ったけれど、呆れるくらいでそこまでと怒るとは思わなかったのだ。
「やらないから。できないし」
だから私も駄目を押した。そんなの絶対にしませんよとアピールしたのだ。平静を装いつつも実は私もちょっと怖かったから。念のためにあとでトイレに行こうと思うくらいには。
それに満足したらしく、いつもの優しい幸に戻った途端、絶対の絶対にあり得ないことを口にしやがった。幸は勉強とかいっぱいして目が悪くなったに違いないから眼鏡を買ってあげなくちゃって思うくらいありえないヤツ。
「ま。夏織に頬袋ないもんね。狸だし。あはは」
「あ?」
「だから夏織は燃やさずに脂肪を蓄えておくんでしょう?」
冬眠前の熊みたいに。あはは。私はそのお腹の感触がどうしたこうした、だから夏織はうんたらかんたらなんちゃらかんちゃらと幸は調子に乗って話し続けているけれど当然わたしは聞いていない。
「えーと。この辺に」
私は会心の一撃を入れるための拳を握るのに忙しかったのだ。パンチ力を上げるための握り込む石がないか、その場に立ち止まって目を皿のようにして探していたのだ。私は熊も嫌いになりそう、てか嫌い。なんてことを考えながら。
「ちっ。ないか」
もしも目の前に石が落っこちていたら確実に拾っていただろうけれど、ないものはないのだから仕方ない。
私は石を握ることは諦めて、左を囮に使って幻の右を叩き込んで幸を仕留めることにした。
なら、このまま後ろから音もなく近づいて、先ずは囮の左で軽く触れて、幸が気を取られたその隙に幻を喰らわせる。いざっ。
けれど、よしいけるって思った瞬間、私の三歩くらい先を歩く幸が私に振り返る。音を付けると、ばばばって感じで。
しっかり前を向いていた筈なのに、やはり幸は百十の王、ん? 百獣の王? まぁ、とにかくそんな感じの野生だから頗る勘が鋭いのだ。
「夏織。どうしたの?」
「ん? 石。こんくらいの。ないかなって」
「なんでそんなもの?」
「なぐ、握りたくなったの」
「なんでまた…夏織だからまぁいいけど、ここ室内だよ? 落ちてるわけないでしょう」
「そうみたい。残念」
そんな会話をしながら私は狸だの熊だのずんぐりむっくりだのとよくもまぁ好き勝手なことをぺらぺらとと幸を睨む。お前は石を喰らいたいんじゃなくて石そのものになりたいのか? と、そんな感じ。
「あはは。ごめんごめん。けど、ずんぐりむっくりとは言ってないよ」
あはは?
「ほう? 幸は笑えるのか? 私は笑えないぞ幸」
私はより一層幸を睨む。その視線は私の中では怖さ倍増、気弱な人はもう気絶して石になっているくらいの凄い圧を掛けているつもり。けれど、幸の奴がげこげこのよう怯んで立ちすくむ様子はない不思議。
「ごめんってば。許して。ね?」
慌てたふうに手を合わせ申し訳なさそうに私を拝む幸。見ればその手にはこの素敵なお店の伝票が挟まっている。
それを見つけた私は幸が、私に喜んでもらうためにここに連れて来てくれたことを思い出す。
だから私は圧を消した。幸はただ、大好きな私と戯れたくてちょっとからかっただけだと思うことにしたのだ。
それは実際のところそうだと思う。それにいま食べた甘くて美味いヤツ達は実際に超美味かったから今日のところはまぁよしとしたのだ。
「はぁ。まぁいいや。許す。けど幸、今日だけだからな」
「ははー。ありがとうございます」
大袈裟に深く頭を下げた幸。私は偉そうにふん反りかえる。
「はーはーはー。どういたしましてっ。うりゃ」
「はずれ。残念でした」
「くそう」
幸は笑い声を残して颯爽とレジへと歩いていく。
なんだよ幸の奴、やっぱかっけえなぁと、その姿を見てそう思う私はちょろちょろのちょろ。しつこいようでも今日のところは許してやる。
「あ、美味そう」
そして私はふらふらと、支払いをするためにスマホをいじりながらレジに並んだ幸から離れてとことこと、無意識に膨れたお腹を摩りながらレジ横にある、美味そうなヤツが陳列された横長のショウケースと棚に吸い寄せられていく。
この私をよく見ろと、どうだ美味そうだろと、私を食えと語り掛けられてしまったのだから仕方ない。
「まじ美味そう」
端から端までひとしきり見たところ、アレとかアレとか超美味そうだな、どうしようと、私は幸に目を向ける。
さりげなくお土産をねだったら幸が買ってくれるかもと、私は甘いことを考えたのだ。日持ちする焼き菓子のたかだかふたつなら、食べるのは今日じゃないしとでも言っておけば大丈夫かもなと思って。
いける気がする。私は、スマホを持ってぐずぐずと会計をしている人達の列に並ぶ幸の横にすすすと寄っていく。
「ねぇ幸。コレ」
「なぁに。どうしたの」
「この焼き菓子がふたつ、落っこちてたの。どうしよう」
「あのね。そんなわけないでしょう。ばればれだよ。あはは」
「いや、まじなんだって」
「無理よ。けど、今日は夏織の誕生日だからひとつは買ってあげる。そっちは戻してね」
拾って戻してあげるなんて夏織は偉いねと、幸は私を馬鹿にしながら微笑んで、私の持っているヤツのうちのひとつを適当に取ってレジへ向いた。
「ならさ、ついでにこれも」
「元のところに戻してね」
「いや、でもさ」
「元のところに戻してね」
それ以降の幸は、私が何を言っても前を向いたままそう返事をして薄ら笑っているだけ。
「NPCか」
「元のところに戻してね」
「くっ」
「元のところに戻してね」
そうしているうちに幸は空いたレジに進んでパイパイで会計を始めてしまう。
一度話しかけたらあとはてんで役立たずになる村人Aのくせに、もたついていた人達よりもスムーズにキャッシュレス会計するとかなんか納得がいかない。
「あーあ。こっちも美味そうなのになぁ」
取り残された私の言葉が虚しく響く。
思いのほか大きかったその声に周りにいた人達のうち何人かが私の方を向いた。声の出どころが私のなのだから当たり前。
私も咄嗟に後ろを向いて、尚且つ首を傾げておく。何だろう今の声はときょろきょろすることも忘れない。
私の危機回避能力は優れものだから、突発的な出来事にもこうしてすぐに反応できるのだ。
私の後ろは壁だったけどなっ。
「くっ」
ふと見れば、幸は会計をしながら肩を震わせている。
あんにゃろう気づいて笑っていやがるな覚えていろよと思いつつ、私はもうひとつの美味そうなヤツを持って背を縮こめて幸の一人後ろで会計を待つ人の後ろに並んだのだ。
すって。すすって。
そう。私は思いついてしまったのだ。こうなったら自分で買ってしまおうと。私はお利口さんだから。
「ふふふ」
十が一、勘のいい幸が何かを察して振り返ったとしても縮こまる私の姿を捉えることはまず不可能。
「超完璧だし」
これなら憎っくき幸にもバレはしない。天才か。それなら高笑う声も出ようというもの。
「はっはっはっ」
私の思惑通り、幸は私がレジに並んでいるとは思わなかったようで、私が会計をしているあいだ、そこらを歩き回って私を探していた。ぽんこつと化していたのだ。
その間抜けざまを暫く見ていてもよかったけれど、ちょっと可哀想かなと思って、会計を済ませていた私は幸に向かって歩き出した。
「幸」
「あ、夏織。どこにいたの。探したよ」
「トイレだよ」
「そうなの? はいこれ。ちゃんと言ってから行ってよ」
「やったっ。ありがと幸」
幸が手渡してくれた焼き菓子の入った袋を受け取って、お礼を言いつつお腹をひと摩りしてみせる。
「ちょっと我慢できなくてさ。ごめんごめん」
「大丈夫なの?」
「平気。今ならもう一回最初から食べられるし」
どうする? 行く? と、幸を見る。また来年ねと、素気無く言い放った幸が帰るよと促した。
「わかった」
「あら。えらい」
私は素直に従っておいた。だって、私のバッグには、上手いことやって幸に見つからずに買えた甘くてうまいヤツが入っているのだから。ふふふ。
けれど私は私。そう言いつつも、私は二歩くらいだけ幸を先にやって方向転換を試みる。あわよくばを狙って食べ放題を待つ人の列の最後尾を目指したのだ。
ところがどっこいさすがの幸は、とことこと歩く私の首をさっと掴んだ。丸首のカットソーを着ていた私の剥き出しの首を直接。猫の首を掴むみたいに。ぐいって。
「にゃにゃ?」
「出口はこっち」
「しまってるしまってる」
幸は割と本気で私の息の根を止めにきたのだと思う。頸動脈とかまじ締まったから。なかなか離してくれなかったから。失神ゲームくらいのヤツで済めばいいなぁって本気で思ったから。
「こっちよ」
「なんだ。そっちか」
「あとね、それも明日まで駄目」
バッグを指差す幸。やっぱりバレていやがるのだ。なんだかんだやっていても、幸も私をよく見ているのだ。
「だと思った。くそう」
「くくく。あ、そうだ夏織。トイレは?」
「あ、そうだった」
行ってらっしゃいと私を促す幸はやはり私をよく見ているのだ。怖いくらいに。
つまり私は怖いくらい幸に愛されている。幸にそうされて、私がそれを喜ばない筈がないことを幸は知っているのだ。
「ふふふ」
まぁそのせいで、甘くて美味いヤツを食べる私の立てた作戦が潰されたりしているけどなっ。
「くそう」
と、私は昨日、こんな目に遭ってしまったのだから復讐は当然のこと。時効とかないから。
そして私は昨日、ちゃんと、今日だけは許すと伝えておいたから、日付の変わった今日は今日。つまりなんの問題もないというわけ。
「ふふふ。みてろよいじわる幸め」
私は幸が剥いでいたぺらぺら羽毛布団を取って、それに埋めるよう隙間なく幸に掛けてあげた。重しとしてのタオルケットも忘れていない。
まさに完璧。幸よ。夢の中で暑い暑いとちょっとだけ騒ぐがいい。目が覚めて現実で暑がるのならそれもよし。
「ざまぁ」
一応、熱中症になったら駄目だから三十分くらいしたら冷たいヤツを持ってむかえにくるからなと、私は笑いを堪えてひとり寝室を出た。
「なんだよ廊下のほうが暑いじゃん」
ここでこれならリビングは相当暑いに決まっている。陽の当たらない五歩しかない廊下や西と北向きの寝室と違って南向きのリビングがもっと暑いのは当たり前のこと。
しかも寝室はエアコンを止めたばかりたがら、今はそっちの方が涼しいに決まっている。
失敗したかなぁと思いながらリビングに入るとそこは熱い空気でもあもあのもあ。息苦しさを感じてしまう。
「うわ、あっつ」
すぐにぴって冷房を入れたけれどすぐには冷えないから、涼しくなり始める十五分くらいこの暑さに耐えなくてはいけないことにやっと気づいた私の明日はどっちかなぁ、何かいいことがあるのかなぁと、ちょっと不安になる。
「…あほか」
私は私で暑いとか。一体何をやっているんだかと少し落ち込んでしまう。だって私はアホだから。
「だなぁ」
気を取り直して朝ご飯の用意を始めることはや三十分。
パワー全開、とはいえかなり静かにふぅぅぅぅと唸りをあげる、やはり優れもののエアコンが頑張ってくれてリビングは涼しいけれどここはキッチン。火の側はあまり涼しくはない、てか暑い。
「そろそろいいか」
さて、私も暑かったけれど幸の奴はもっと暑がっているだろうはっはっはっと、一旦レンジの火を止めて、冷たいお水を持ってリビングを出てそのまま寝室に入った。
「ふぅ、涼しい」
と、扉を開けた途端、そこから漏れて顔に当たった冷たい空気に思わず声が出ちゃったくらい涼しい寝室。
一瞬おかしいなと首を捻ってエアコンを見ると、リビングのヤツと同じようにパワー全開の一歩手前、ふぉぉぉと唸りをあげている。
ベッドを見れば羽毛布団が幸の形になって盛り上がっている。幸の奴は今、夏の醍醐味的なヤツを堪能しまくっているのだ。さぞかし心地いいことだろうなと思う。私は汗をかきかきキッチンに居たというのにっ。
「まじかぁ」
幸は暑さに目を覚ましたあと、リモコンをぴってやってまた眠りについたのだ。そしてまた寒がって布団に潜っているという贅沢の極みを、私をほったらかしにしてひとり堪能しているのだ。
それはつまり、二度寝ならぬ三度寝というヤツ。
「幸。おまえ…」
さすが幸とは思うけれど、さすがにこれは腹も立つというもの。
「とりゃ」
私は幸の形に盛り上がる布団の上にダイブした。ぐわっ、なに? ふぐぅぅってくぐもった声が聞こえる。
そう。私はやってやったのだ。正義はいつだって勝つのだっ。
「ふふふふふ、うわっ」
「夏織さん?」
布団から顔を出した幸が素早く私の顔をがっしっと掴む。ぐぐぐと食い込む指の感じからして、どうやらさちちと化したさちちは私の顔をりんごと勘違いしている様子。
このまま潰されるのは嫌だから、私はりんごじゃないよ、駄目だよとと説得を試みる。
「痛い。さちち。めっ。潰れちゃう」
「よかった」
「よくないから」
私は間違えたみたい。私がさちちだと思ったさちちはさちちじゃなかったのだ。この右腕万力女は今、幸のまま静かに怒っている様子。
けれど、幸はよく考えるべきなのだ。幸にはあっても私にはこんな酷いことをされる謂れはない。私の理論では正義は私の方にあって悪いのはいじわる幸の方なのだから。
「いてててて」
「くくくくく」
けれど幸はいま悪の親玉を気取っていて、太々しくも調子に乗っている。
ったく。悪い奴らってのはいつもそうだ。自分のやっていることは棚に上げて正義の使者、この場合は私のことをいたぶってやろうと思っているのだ。ったくさ、とっとととどめを刺せばいいものを。だから逆転されるんだからなっていつも思う。
「痛いって」
「そんなこと夏織は気にしちゃだめ」
「むり。気にする。本気で痛いからそろそろやめて、うわっ」
そう。正義は悪と戦う時、必ずピンチに陥るもの。そうだった。
そして私が吐くのはなぜか悪役の三下の台詞。私は少しも悪くないのにまるで私が悪いみたいにっ。
「やっ、やめろ。落ち着け幸っ。わっ、私にこんなことしてタダで済むとおもっ、うわあぁぁぁ」
「くくくくく。覚悟なさい」
「やっ、やめろー。んんっ」
このあとめちゃくちゃめちゃくちゃされた。
「うっうっう」
「ぷはぁ。美味しい。お水ありがとう。温いけど気がきくね。くくく」
「うるさいっ。幸の馬鹿っ。もう絶対たぬき捨ててやるからなっ。全部だからなっ」
「くくくく、く?」
私は一目散に駆け出した。へろへろは擬態。草を食む者の知恵。
背後にはどうやら勝ち誇ったように笑ったまま固まった幸がいる。幸は程なく復活するだろうから、私はその前にことを済ませるのだっ。
「おっと」
いや。今まっぱだろうと関係ない。ここは私と幸の家。私達だけの世界。どこの誰にも何をも憚ることなどありはしない。
「だなっ」
「夏織まってぇぇぇ。だめぇぇぇ」
あ、ヤバっ。いそげいそげっ。
お疲れ様でした。皆さま猛者でいてくれてありがとうございます。
さて。私は平和とか平穏とか安寧が大好きです。よって、日常を書くと大体こうなりますね。はい。
「「「ラブアンドピース」」」
「ふふふ」
「あはは」
「けけけ」
「しはかたなんかきもい」
「ちょっとねー」
「けけけ、け? え。まじ?」
「「まじまじ」」
「ぐはぁ」
読んでくれてありがとうございます。