第七十八話
続きです。
長くなったのは夏織がうにうにについて熱く語ったからで私のせいではないのです。
ということで、苦手な方は一応注意して下さいませ。
よろしくお願いします。
なんと無しに上蓋のシールに描かれている絵に目をやりながら、少しゆるくなった夏限定のアーモンドとミルクのジェラートっぽいダッツを口に運んでいる私はしみじみ思う。
「美味いなぁ」
もしも仮に、超もしもの仮の話として幸がいなかったなら、私はダッツと一生をともにしていた筈。
「だな」
けれどそれはあくまで仮定の話。幸はちゃんと傍にいてくれるし、一日に何個も食べていたら太ることは確実。それは嫌。
「やっぱなしで」
はいちょっとだけ残念。
と、八月に入ったばかりの金曜日、午後五時過ぎ、私はひとり遊びながら、例のスペースで燃え尽きているところ。
私は今日もやることをやってやった。つまり、いま食べているダッツはこの暑さの中で頑張った自分へのご褒美。
ダッツは凄く美味いのに、決してお高いというわけじゃない。つまり、中身がそこそこ出来る女性であっても意識は高くないこの私と大体一緒、相性抜群の言うことなしなのだ。
「ふふふ」
おっ、なんか上手いこと思いついたと、私はひとり薄ら笑う。なるほど、美味いものを食べて上手いことを思う私。くぅーっ。なにこの冴えまくっている無敵感。
やはりこれはダッツのお陰。やはり私に甘くて美味いヤツは欠かせない。
「うまうま」
あと幸も。これは絶対。
「そうそう」
明日できることは明日する どうせやることになるんだから結果としては同じこと なら無理をする必要なんかどこにもないでしょと普通に言える そんな人間になりたいと私は思うわけ かをり
そんな座右の銘にほんそれなって思いながら、私は今日の仕事の締めにダッツを食べているところ。そして私は花ちゃんを待っているところ。
「まだかなぁ」
このままだと勢いがついて、溶けないように社員用のフリーな冷蔵庫に入れたもう一個のパインのヤツも食べちゃうかも。美味いダッツを食べながら、私はこのスペース、入り口の横、その奥にあるそれについつい目を向けてしまう。
「むむ。いやいや」
「むむむ。いやいや」
「いや、今日も暑かった」
それにしてもと私は思う。
夏を迎えて毎日馬鹿みたいに暑い中、私は今日も会社に貢献してやった。頑張ったのだ。だから私はいま美味いヤツを食べて、ここでこうして脱力しているのだ。燃え尽きたからな。日射しと暑さで真っ黒くろになっ。
実はここに来る前、課長に、おい屋敷ちょっと待てと声をかけられて止められそうになったけれど、やはり私の危機回避能力は優れもの。私の手と口と耳が一瞬にして、ぱたぱた、わわわわとやり出して、あれ? 変だなよく聞こえないぞ、なんだ気のせいかと、上手いことそれを聞き取り辛くしてくれたのだ。何かを諦めたらしい課長の大きなため息も私には届いていない。
結果は全ての過程に勝るのだから、特にやることがないのなら、連絡さえつけられるようにしておけばどこにいようが私の勝手、新人に示しがつかないからせめて終業時間までは大人しく席に居てくれーと、私の背中に向かって叫ばれても、そもそも私の背中は耳じゃないから聞こえないのは当たり前。
だいいち示しだ何だとか、そんなのは私の知ったことじゃない。
新人が来ようが名ばかりの教育係になろうが、私はこれからも私らしく、時には喜んで長いものに巻かれながらも、誰に迷惑をかけるわけでもなし、私のしたいことをできる範囲でやっていくのだ。私はそれを貫くつもり。
輪を乱すとかそんなことも知らない。仕事以外でへらへら笑って迎合なんて絶対にしない。
したくない我慢はプライベートでしこたましてるのだからそれだけはしない。
「ないない」
それにそうしたことや人の管理、マネージメントは私のお仕事ではなく管理職であるお偉方のお仕事。
私は私のお仕事でちゃんと示しをつけているのだから、それ以外のことはやはり知ったことではないし、課長より上はそれでお給料を貰っているのだから、その額に見合うようにちゃんと仕事をしてねとしか思えない。当然、忖度なんてしない。
大体、席で甘いヤツを食べながらぽーっと過ごしている姿を見せている方が、余程示しがつかないでしょうがと私は思うのだけれどどうだろう?
「ねえ?」
待ったところで側に人はいないから返事はないし、考えるも面倒くさいしどうでもいいなとそれを忘れた私はダッツと一緒にまだ来ない花ちゃんを待っているってわけ。
本当は花ちゃんと食べたかったけれど、暑かったし夏限定のヤツが超美味そうだったから我慢できなかったの。それに私はダッツが大好きだし。
そして今それがなくなってしまうところ。てかない。
「むっ」
私は底と壁の隙間とかまじ邪魔だからと思いながら、至福の時を少しでも長く味わうべくカップの内側をスプーンで刮げるだけ刮いでこれが最後のひと口かぁとそれを咥えた。
もはや冷たくもないほんのちょっとの甘い汁的なヤツだけれど私はこれで満足したことにするのだ。
ここが家ならタロみたくカップを舐めていたかもだけれど私はそれを我慢したのだ。
「ずるいぞタロ」
いつでもどこでもぺろんぺろんとできたタロの奴のなんと羨ましいことかって思う。
とはいえ私はそんなのしたことないけれど…いや、まじだって。
「美味かった。うん。やっぱダッツだな」
そしてとうとうダッツは空になった。
ああ、私はなんにも悪いことなんてしていないのになんだかなって思うけれど食べたのだから当たり前。それに夏のあいだはスーパーとかコンビニとかで会える筈だからまた買うし、と、私は前を向く。
過ぎたことは過ぎたこと。いつまでも引きずっていては駄目。なんでもかんでも溜め込んだままでいたら心がどんどん重くなって、身軽に生きていけなくなるのだ。
「これ片付けるか。置いとくと蟻んこ来ちゃうしな」
子供の頃、夏、落としたアイスに群がって列を作って運ぶ蟻達を理由も分からないままただじっと見続けていた私はもういない。
その頃の私は良いも悪いもなく、衝動に突き動かされるまま、えいっ、えいって殺っていたように思う。子供が育つ上での必須過程だけれどちょっとこわい。
そうやって、私はどれだけの生命を奪ってきたことか。蟻にとって私は魔王そのものだった筈。
相手はたぶん働き蟻。生まれてから一生働いて働いて働き続けていってしまう儚い生命。まるで就職してからの私と同じ、働き詰めの凄く可哀想な奴ら。
「ごめんなさい」
子供とはいえなんということをと、私は謝っておく。私はもう悪いことは悪いと認めることができる大人になったのだ。こうして心の重荷をひとつ降ろし、私はその分だけ身軽になったのだ。
「うんうん」
私はもうそんなことしない。人は人生を歩むうち、そういった幼い頃の体験を経て、生命は凄く大事なものと自ずと分かるようになるのだ。その例に漏れる人も少なからずいるけれど、私はこれについては例に漏れなかったから。
だから、いきなり体にとまったりとか臭い匂いを出したり、しつこく私の周りを飛んでイラつかせたり、少し血をくださいと私に向かってこない限り私はもうそんなことはしない。大丈夫。
「だな」
けれど、うにうにの奴は別。他の場所でなら驚いてうわぁってなるだけだけれど、私のテリトリーで遭遇しまったら絶対に殺る。
「だな」
だってさ、眠っている間に布団の上を通られでもしたら堪らないし、万が一にも顔の…
「超こわい」
想像するだにぞわわってなる。だから殺る。
幸と暮らす今だったらこんな感じ。
「ん。うーん? 朝かぁ」
「すーすー」
「おはよう幸…ん?」
うにうに
「ひゃー」
目覚めておはよう幸と幸を見たら、幸のおでこにかかる髪の二本だけが妙にうにうにってなってて、え、なに? ってそこのところをじっと見てたら、かさかさって顔を出したうにうにの本体と目が合った感じがして、嘘でしょマジかよこれどうすんだよとか思っていたら、うにうにの奴が、あ、ヤバって感じでうにうにしながらかさかさって幸の髪の中に戻っちゃうとか。
「超こわい」
なんてこと、私も堪ったもんじゃないし、幸だって堪ったもんじゃないと思うわけ。
頭にいたことを幸が知ってしまったら確実に号泣してしまうだろうし、幸ったらまじ可哀想って思う。
「うん。悲惨」
だから私はたとえ怖くても逃げないし逃しはしないから。
私はうにうにとの戦いに出向く前に、捨ててもいい長袖の服を着て、使い捨てのビニールの手袋をして、万が一にも飛び込んでこないようにマスクをする人。
それから丸めた雑誌とかしゅーって殺るヤツを持ってうにうにの本体に挑んでいく人。あの、馬鹿らしくも愚かしい戦いに挑むドン・キ・ホーテとは違う、まじ完璧な人。
そして私は確実に殺るまで絶対に諦めないし気も抜かない。だってうにうには死んだふりもしやがる狡猾な奴だから。
よし殺った、なんて油断して、ちょっとコイツを入れる袋を取ってくるからと目を離したりなんかすると、戻った時にはそこからいなくなっていたりしやがるからなっ。こっちから探すとなると中々見つからなかったりするからなっ。構えて出待ちしていると全然違う場所から出てきたりするからなっ。
昔、その姿を母さんに見られちゃって、夏織? 何してるの? なんて言われた時は、えいえいってやりながら、いや、素振りだしって言っておいたからなっ。
「くっ」
けれど私は殺る時は殺る女だからそんなことはさせない。したけれどさせない。うにうにとの出会いは逃さない。私はそこだけは異様にしつこいのだ。その昔、恥をかかされたから。普段はすっかり忘れていても怨みとはそういうもの。
だから私にかかればそんなのはちょちょいのちょいなのだ。ふふふふふ。
ざっとこんなふうに。
「いやー」
洗面所から幸の可愛い悲鳴がする。扉二枚と空間を隔ててもなおうるさいとはさすが幸。さては出たなと思いつつ、私は素早く防御を固め、遺体を入れるビニール袋と、古い順に並べてある雑誌の一番古いヤツとイチコロです的なスプレー缶を手にとことことリビングを出ていく私は殺る気に満ちている。
「かっ、夏織っ。でっ、出たっ」
洗面所の扉の前の壁を背を預けてへなへなと座り込んで、そっ、そこにっ、そこにっとその洗面所を指差す幸は涙目。
「やっぱな。うにうにめ」
幸の悲鳴を聞いて何が出たのかその正体を見破っていた私は、この時ばかりはでかい態度でのしのしと幸に近寄って、へたる幸に一切構わず丸めた雑誌とイチコロスプレー缶を幸に渡す。攻撃は最大の防御とはいかにも幸らしいから手袋とマスクはなし。私のだし。
人は皆、何かに気を取られていると、不意に差し出されたものをつい受け取ってしまうもの。さすがの幸と言えどもそれは同じ。その例に漏れず、ちゃんとではないけど取り敢えずそれらを手で抱えた。
「幸。ゴー」
私はうにうにがどこにいるのか知らないけれど、憎っくきアイツを殺ってしまえと励ますように力強く頷いてみせて洗面所を指す。
「…え」
けれど幸は、嫌嫌嫌嫌無理無理無理無理と首をぷんぷん横に振った。その際には抱えていた雑誌とスプレー缶を放り出す始末。
幸は隊長であるこの私に対して隊員一号としてあるまじき失態を見せてくれたのだ。
当然、この腰抜けめがっ、なんて私は思わなかった。
「ぐは」
私がいってしまったのは仕方ないこと。その顔と仕草がくっそ可愛いことこの上なかったから。私はそれを見たいがためにそうしたのだ。敢えてな。
「仕方ない。殺ってくるから」
私は凄く満足して、殺る道具を拾いながらここは任せろ的に幸を安心させるように優しくかつ、しっかりと頷いて洗面所へと入っていく。
「かは」
その時の幸の、戦地に向かう恋人を見送るみたいな、瞳うるうる手を組む姿も最高だった。それは私にとって殺るご褒美を前払いしてもらったようなものだから気合い入りようも違うというもの。いざっ。
「どこだこらー」
「ここかー」
がさっ
「こっちかー」
かさかさっ
「そこかー。うにうにてめえー。おらいけやー」
しゅー
「うらうらうらー」
ばしばしばし
しゅーしゅーしゅー
「うらっ、うらぁぁぁ」
ばし、ばしっ
しゅーーーー
「殺ったか?」
ばしっ、ばしっばしっ、ばしんっ
「…殺ったな」
がさがさ がさがさがさ がさがさ
「幸。終わったよ」
うにうにの成れの果てを十重にした紙に包み、持ってきたビニール袋にそれと雑誌と手袋を入れて洗面所を出ると、戦地から無事帰還した恋人を見るような目を私に向けた幸。かはとなりつつ私は幸ににやりと微笑んだ。
「幸。あそこの床さ」
ちょっとミスちゃったから出ちゃったから。あそこ拭いておいてねよろしくねと、幸に後処理を任せようと思ったら、察しのいい幸はその場からぴゅーっていう効果音を残してリビングへと消えてしまった。巻き起こった風で塵が舞っている感じがするくらいぴゅーって。にんにんって。
「くくく。はやいな」
で、私は除菌のしゅっしゅってやる気ヤツと除菌のティッシュを持って、さすが幸速すぎでしょと感心しながら洗面所に戻ったの。
「あー。疲れたぁ」
「お疲れ夏織っ。すごかった。かっこよかったっ」
姿を見せた私に幸が抱きついてそんなことを言ってくるけれど私にはあれは普通のこと。私は殺りたくて殺っているのだ。恥をかかされた怨みとはそういうもの。
「あれくらいどうってことないでしょ」
「ううん。夏織素敵」
きらきらした目で下から私を見つめる幸。からかっているわけではなさそうだし、なら私のぽんこつも目覚めようというもの。
「そう? ふへへ」
「素敵」
「ふへへへへ」
全てを終えてリビングに戻った私を、幸はこんなふうに讃えてくれたのだ。
とまぁ、こんな感じでうにうになんて私にはちゃいちゃいのちゃい。
けれどお分かりいただけたと思う。幸の奴は意外にもうにうにが超苦手。普段の感じからして私よりもちゃいちゃいかと思いきや、きゃーきゃー騒いでうるさいだけの全くの役立たずで少しも戦力にならないぼんくら。
今みたく、私達の家で初めてうにうにが出た時には、終いにはというか最初から私を盾にして、夏織、遊んでいないで早く殺ってよっ、お願いお願いと騒ぐだけのぼんくらのくら。けれど私は遊んでいたわけではないのだ。
「ひっ」
「うわ。なっ。ちょっ」
「ひゃ」
「うおっ。ちょっ、おえ。幸。邪魔すんなって」
「だってぇ。アレ、飛ぶんだよっ」
「知ってるしっ。うわわっ。けど飛ぶとか言うなっ。こわいだろっ」
「きゃ」
「わっ。やめろって」
「だってぇ」
なんつって、うにうにの本体が、ささっ、ささささって動くたびに、ここぞとばかりのゴリラ並の握力を発揮して掴んだ私の両肩を使って私ごとその方向にぐいんっ、ぐいんって向けるもんだから、私はそのたびにおっとっとってなって、気持ち悪くなるわ狙いは定まらないわで殺るまでにえらく時間がかかってしまったのだ。幸ってまじ役立たずだなって私は思ったわけ。
「はあはあ。幸、超邪魔だった」
「だってぇ」
「まぁ、かわいいけどさぁ」
「え。そう? えへへ」
「いや…まぁいいけどさぁ」
途端に照れたぽんこつ。駄目だなこりゃと、私は諦めたのだ。
「かわいい? ほんとに? えへへへへ」
「はぁ」
そのぽんこつは普段、蚊とかハエとかそこらを飛ぶ小さな虫なんかを、ぴって腕を出してぱしって捕まえてその手でぎゅって殺って、見て見て夏織潰れてるよほら凄くない? と、褒めろとばかりに手の平を広げてみせる野生丸出しなのだから、どうせならうにうにもぴってやってばしってやってぎゅって殺ってみせろって思うけれど、その手どうするのっていつも思うからそれはやっぱなし。
幸はその手を、そのとき履いているスカートもしくはパンツの腿のあたりでばっばってはたいてそれで終わり。酷い時は軽く手をはたいて終わり。その手でかおりーとされるのは愛していてもちょっと嫌。
私が、いやいや駄目でしょばっちいでしょと、ばっちいの触った時はどうするんだっけ? 的にその手元をじっと見ていると、幸はあって顔をしてようやく手を洗いにいく始末。虫の死骸や潰れ出た汁はどこへいくと思っているのか。手を洗わなければいずれ口の中かもしれないというのに。私はタロで慣れているからまだマシな方だと思う。
ちな、かの有名な剣豪についても、その箸どうしたのって思う。ご飯中、自慢げに箸でハエを掴むとか、この人なに考えてんのって私は思うけれど、そこは宮本なんちゃらの勝手だから、まぁ好きにすればいいと思う。だってしたかったんだもんと言われればそれまでだし。
けれど、ちゃんと取り替えたのかそのまま使ったのか、そこは凄く気になるところ。気にするとどっちかなぁと夜も眠れなくなってしまう。
だから私は、あれは逸話だし本当だったとしても江戸時代だし衛生面的には仕方ないのかなと、時代のせいにしておくのだ。そうしておくと凄く楽。
時代は、お前が悪いとかお前のせいだからなと、どんなに不満をぶつけても黙って受け止めてくれる。そうそう動くものじゃないから、ただ、はいはいそうですねと受け止めるだけだけれど。
「山か」
というわけで、幸の持つ優れた反射神経とか運動神経とか動体視力とか、うにうにに関してはまじで無駄の役立たず。
けれど、私の背に隠れて肩を掴んで離さないきゃーきゃー騒ぐ腰の引けた幸は、そんな姿もとても可愛いから、私はしょうがないな、うにうにが出たら私に任せておけって思っているの。
「だな」
まぁ、なるべく無益な殺生は避けなければいけない。ということで、蟻んこくるかもだしコレは空っぽだからとっとと片付けてしまおうとカップを手に取ると、あまりの軽さにやはり少し悲しい気分になった。私は仕事を終えてもあっちへこっちへと忙しいのだ。
「よいしょ」
私は悲しみを乗り越えて席を立つ。
ゴミ箱までとことこ向かっているとどうしても冷蔵庫が目に入ってくる。入ってしまう。それが段々と近づいてくるというか私が近づいている。
けれどそんなのは当然。冷蔵庫の奥にゴミ箱があるのだからそこは仕方ないのだ。
「うーん」
私は冷蔵庫の前で立ち止まった。
さっきここにしまったもう一個の夏限定のダッツは確か、パインとチーズのジェラートっぽいヤツだったよなぁと、さぞかし美味いだろうなぁと、扉に手を伸ばしかけたところでいやいやそれは駄目でしょと見事に思いとどまって、なんとかゴミ箱まで行って私の食べた残骸を捨てた。私はやってやったのだ。
「あぶなかった」
いくら私でも、残りが二個ならまだしも一個しかないあげるつもりで買ったヤツまで食べたりしない。しかもあげる相手は花ちゃんだから手を出すなんてしない。
じゃあ最初から無かったことにすればいいじゃんなんて論の外。だって私はここにくる前に、ダッツあるよと花ちゃんにメッセージを送ってしまったのだから。
「失敗?」
当たり前だけれど、来た道を戻らなければ席には戻れない。その途中にあるのは冷蔵庫。私は再び立ち止まる。
「うーん」
どんなヤツだったか、ちょっとだけ見てみようかな食べなけれはいいんだからと思った時点で私は終わろうとしていた。
「美味そう」
やっぱり美味そう食べちゃおう。花ちゃんへの言い訳は食べながら考えよう。私はそうやって生きてきて、その都度なんとかなってきたのだから今回もいける。
「いけるいける」
そう決めて、私はパインのヤツを持って意気揚々と席に戻る。
そのとき窓にちらりと映ったこのスペースに入ってきた人影を気にもせず目の前に置いたそれに、ダッツよーし、スプーンよーしと順に指を差した。
「ふふふ」
美味いのは決まっている。けれどどんな感じかなぁと期待に溢れ返っている私はもう止まらない止められない。まさにアンストッパボーというヤツ。
「早く来ない花ちゃんが悪い」
そんな私の理論を堂々と振り翳し、それでは実食、いただきまっすと蓋を開けようとした時にそれは起こった。いや、怒った、か?
「誰が悪いって?」
「花ちゃん。そんなの花ちゃんに決まってるじゃん。なに言ってんの、花、ちゃん?」
「ほー」
当然わたしは凍りつく。たぶん今の私はダッツより固い。メンタルは溶けてぐちょぐちょになっているけれどダッツより固い。
「くっ」
僅かにも残っていない人違いの可能性に掛けて、顔を上げずに上目遣いに窓を見る。
そこに映るは言わずと知れた吉岡花、じゃなくて、今や山口花となった花ちゃんだった。
「ああ、やっぱなぁ」
「で、誰が悪いって?」
流してくれればいいものを、今の花ちゃんは優しさをどっかに置き忘れてしまったみたい。私の隣に腰を下ろしてまた同じ台詞を吐くとか花ちゃんたらまじしつこいなと思いつつも私は頑張った。
「なんのこと?」
「誰が悪いのよ?」
「そっ、それより花ちゃん、これ花ちゃんのダッツだから、すぐ食べられるように蓋だけ取っておいたから」
やはりすっ惚けることは無理だった。ならば私は私の諦めたダッツを前面に押し立てて、花ちゃんの意識をそれに向けることに全力を注ぐだけ。成功か?
「おー。ありがとう。開いてないけどね」
「あれ? ほんとだ。不思議」
「あほ」
「あたっ」
はい失敗。私の頑張りは意味がなかったのだ。結局、私の分まで食べようとするんじゃないよと怒られてしまったのだ。くっ。
「美味しいねこれ」
なんつって、花ちゃんはこれ見よがしにダッツを完食した。
完食したということは、カップと口のあいだをひょいひょいと動く花ちゃんの手を物欲しそうに目で追っていた私にひと口も与えるこたなくぜんぶ食べちゃったということ。
私は餌を待つ雛のように絶えずひーひーと鳴いていたのに無視するとか、花ちゃんはこの先できるだろう子の母親をちゃんとやれるのかと心配になる。
結局花ちゃんはひと口もくれなかったけれど、それでもダッツが残り半分くらいになってしまった時、どうやら花ちゃんはちゃんと母親をやれそうだと思えることがあった。
「ひーっ、ひーっ」
「うるさいよ。落ち着かないから催促するな。これは私の。ほら、夏織にはこれあげるから」
「なに。あ、なにこれ超美味そう」
「美味しいよ。それね、あそこの店の新作だからね」
「あそこって、あそこのじゃんっ、これっ」
花ちゃんが何か持ってきたことに私は気づいていた。まだかまだかと思いながらも大人しく待っていたのだ。ダッツで下手を打っちゃったし私は弁えることができる人だから。
そして小さなランチ用のバッグから、ようやっとこ出て来たそれを包む包装紙のロゴは、みんな知ってるみんな大好き泣く子も黙るかも知れないお高くて美味いあのお店のヤツ。
それを持つ私の手は感動と動揺で震えている。大事だから、あそこのだこれとともう一度言っておく。
「あそこのだこれ」
「そう言ってるでしょ」
「まじ? いいの?」
「まじ。いいよ。あげる」
「やったっ。ありがと花ちゃんっ」
箱の大きさからしてたぶんその中には八個はある。
「ヘヘヘ」
ちょうどいいから後でみんなで食べることにしようと、私は超頑張ってそれを脇に置いた。私はすっかり我慢のできる大人の女性になれたと思う。
それを見ていた花ちゃんはびっくりした顔をしたあと、偉いねって感じで頷いて微笑んでくれた。
「全部食べてもいいのに。それはダッツのお礼なんだし」
「ううん。あとでみんなで食べる。花ちゃんはそれでいい?」
「そっか。夏織がいいならそれでいいよ」
「うん」
なんだか花ちゃんは嬉しそうだ。当然、私もご満悦。
ダッツがなくても最初から私にくれるつもりだったことはお見通し。私がメッセージを送ってからのこの短い時間でこれを買いにいけるわけがないのだから。
「けど、もしもこれを食べられなかったら夏織にはあげなかったけどね」
そう言ってカップを掲げてははは笑う花ちゃん。冗談ぽくてもその目はまじだ。
ダッツを食べなくて、てか、その前に花ちゃんが来てくれて本当によかったなと私は思った。
「ありがと花ちゃん」
「間に合ってよかったよ」
「おお」
私がどういうつもりでお礼を言ったのか瞬時に分かった花ちゃんがやけに大人の女性に見えてしまう。
いや、ほら、花ちゃんは今も大人だけど、あの、なんでも知ってる麗蘭さんみたいな感じのヤツだから。
「花ちゃん大人。素敵」
「まぁね」
とにもかくにもダッツの件はこれで何とかなった。けれど私はなにもしていない。結局はいつものように、花ちゃんが私を甘やかしてくれただけ。花ちゃんは優しい私のお姉さん。私はとても嬉しくなった。
「ありがと花ちゃん」
「いいよ。気にするなって」
「うんっ」
そして私はいま花ちゃんから相談を受けている。それは料理についてのこと。花ちゃんは不味くも美味くもない料理を作る天才だから。
「夏織。それは私を褒めてるの?」
「は? んなわけないじゃん。そんなことよりさ、やまぐっさんはなんて?」
「は? 夏織。お前ね」
「いいからっ。なんて言ってるの?」
「…ご馳走様って」
「おおう」
何か不満そうでも花ちゃんは話を続けた。大人の女性だからそれを堪えたのだ。奥歯がぎりぎりって鳴るくらい苦いヤツを噛んでいたのだ。
大人の女性としてそこまで我慢しないといけないのなら、私はもう少し成長途中の若い女性のままでもいいかなとちょっと思いつつ私は話を聞いている。
「アレは駄目だね」
「アレ?」
私が勧めたレッツクックの動画は長過ぎるとか早過ぎるとか、作業しているうちにどんどん先に進んでてさ、やっと下ごしらえが終わったと思ったら、動画のヤツ、もう作り終わってんの、アレは私を馬鹿にしててムカつくとかなんとか。
この人いま何を言っているのか分かる? って、向こうの方に座っている人達に訊きたくなるソレ。
「やり終わるまで一旦止めればいいじゃん。一時停止とかあるじゃん」
「手が汚れてるから触れないでしょ」
「は? はぁ。そうですか」
「なによ」
「いや、べつに」
そんな話を延々と、やれあれはとかやれそれはとか、ぶつぶつ文句を言い続けている花ちゃんの言葉の中にやけに気になるところがあった。
「え? なに?」
「だからさ、パンチだよパンチ。私の料理ってさ、なんかこうさ、ガツンてくる感じが足りないんじゃないかって思うんだよね」
そしてそこには、要は料理はそこが肝でしょ的に、分かったふうなことを口にして偉そうに踏ん反り返った花ちゃんがいたのだ。
「花ちゃんさ、それまじで言ってるの?」
「まじ。だってさ、料理ってそういうものでしょうが」
「違うから。花ちゃん、いい? 今の花ちゃんにパンチとかまじ要らないから。この際だから言っちゃうけどそういうのはね、基本ができている人が言っていい台詞だしそれなりとかじゃなくてちゃんと美味しく食べられるヤツを作れる人が言っていい台詞だから。しょっぱいからって砂糖で甘くすればいけるとか思えちゃう花ちゃんはそれ以前の問題だからそんなこと花ちゃんが言っちゃ駄目。私だからおかしな人もいるもんだって笑えるけど、他の人に聞かれでもしたらパンチだってさ吉岡さん今度は誰を殴るのかなまじ怖いよねくわばらくわばらぷぷぷって結局笑われちゃうから絶対に言っちゃ駄目だし思っても駄目。駄目。いい? 花ちゃんわかった?」
基本すらできていないくせに生を言うもんじゃないでしょ何をとんちんかんなことをと、私は一気に捲し立てた。花ちゃんは横で俯きながらぷるぷると震えている。
「あちゃぁ」
泣いていると思った人。
ぶぶー。
それは大間違い。残念、これはね、怒っているんだよ。
ただでさえ不得意な料理でへこんでいたところに私が遠慮なくとどめを刺しちゃったから。私も調子に乗っていたかもだから。
「よいしょ」
私はゆっくりと、やっちまったと思いながら席を立って後退る。いま大魔王に刺激を与えては絶対に駄目。目覚めちゃうから。
「じゃあ花ちゃん私は戻らないとだからこれで。地下のエレベーターホールに六時二十分だから」
五歩くらい離れたところで囁くように声をかける。すると花ちゃんはむくりと顔を上げた。窓に映る顔は大魔王の微笑み。絶対泣かすとそんな感じ。超こわい。
「逃すと思うか? 夏織」
「思わないけど逃げるっ」
「甘いなっ」
「ぐぇ」
そしてその十分後。
「うぐ。花ちゃんのばかー」
「ふはははは」
「ばーかばーか」
私は泣いた。花ちゃんが虐めたのだ。大魔王と化した花ちゃんは、私が何を言っても太っちょとしか言わなかったの。
「太っちょ」
「増えてないもんっ」
「太っちょ」
「違うもんっ」
「ぷっ。太っちょ?」
「なんで疑問?」
「太っちょ」
「うーうー」
「どうした太っちょ」
「ごめんなさい」
「いいよ。じゃあまた後で。夏織、じゃないね。太っちょだったね」
「うぐっ」
こんなふう。それは私には空恐ろしいほどの攻撃だった。
私はなぜ幸はここにいないのか、役立たずめがってメッセージを送ったし、真っ赤っかな目で戻った私をオフィスのみんなが心配してくれたくらいだから相当だ。
幸に送ったメッセージに、幸はすぐ、なんでっ? って返信してくれた。やはり幸は優しくて面白くて好き。だから大好きだよと返しておいた。
オフィスでは、課長が何か言いたげに近づいて来たけれど、お小言をひとつも言わずに席に戻っていったし、あのぺらぺらの吉田君でさえも、私が席に座った途端に黙ってチョコレートを差し出してくれたのだ。
板チョコ。安いなおい吉田君と私は思ったし、気の利く男性みたいにすってやってデスクの上を滑らせたのに途中で止まっちゃうとか、吉田君はまじ笑える。
「残念だな吉田君は」
「酷くね?」
これがさくさく美味いクランチだったら評価も一段階上がっただろうになぁと思ったけれどありがたく貰っておく。これはこれで甘過ぎで美味いから。
「けどありがと。吉田君」
「えっ。あ、うっす」
私は平気。私はこのあととっととこのオフィスを出て、幸と大魔王と恵美さんの四人でご飯を食べる。
私の話にちょくちょく出てくる花ちゃんと恵美さんがお互いに、会ってみたいなと言ってくれたのだ。
これは私の望んだ面子。幸がいて姉と慕う女性がふたり。
今夜はさぞかし楽しいことになるだろうから。私達が四姉妹になれるかもしれないから。そういう意味では私はとても恵まれているのだと思う。幸せなのだと思う。
「ふふふ」
「あ、笑った」
「あーあ。まじ残念だな。吉田君は」
ちゃちゃを入れずに何があったか知らないけれどそっと見守る大人の男性らしく黙っていれば私の評価が一段階上がったものをと、私はバッグを持って席を立ち、吉田君に憐れみの目を向けた。
「大人の男性には程遠いな」
「ぐは」
とはいえ、何があったのかを吉田君が知ったなら、私と吉田君の立場は確実に逆転するのだ。くだらない会話のようでも何気に紙一重の攻防ヲ繰り広げたとも言えるわけ。
ま、今回も私の勝ち。私は吉田君には負けたことがない。なぜなら吉田君は私よりは大人だから引いてくれるのだ。
「さてと。お先に。吉田君は月曜まで反省」
「うす? お疲れ様っす」
「ああ、吉田君」
「はい?」
「待たせてるよ」
「うっ」
仕事が終わっているなら早く行けって。佐藤さん、時計見ながら待ってたぞ的にエレベーターホールの方を指差した。
すると吉田君は慌てて帰り支度を始め出す。
「ふふふ」
今のは私なりのチョコのお礼。安くても気遣いは気遣いだから。そこに優劣はないのだから。
夏なのに春が来た。また暫くはぼーっとできちゃうなと思いながら、私はラッキーだなとにやついて歩き出した。
泣いたカラスはもういない。的な。
それは当然。このあとは楽しい時間が待っているし、さっきのは姉妹喧嘩のような単なる戯れ合い、よくあることだから。大好きな花ちゃんとだし、ひとりっ子の私はそんなことすら楽しいのだ。
オフィスを出て、私は先ずはトイレに向かう。私は女性だから、いつだって綺麗で痛いのだ……ぐは。ま、またか。
「くっ」
お疲れ様でした。猛者の皆様、いつもありがとうございます。
「いや。あれだけうにうにについて語るとは、夏織って、実は好きなんじゃな、あだっ、あだあだあだあだ」
「あらぁ、いってしまえっ。おらおらおらおらぁ」
「夏織っ。超素敵」
「そう? ふへへへへ」
夏織がぽんこつのうちに、しはかたはかさかさと逃げ出した。
「おっ、おぼえてやがれっ」
「捨て台詞とか。三下か」
「あはは」
あと、例のナニが少し進みました。まぁ、少しだけですけど。
読んでくれてありがとうございます。