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woman  作者: しは かた
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第七十七話

続きです。


よろしくお願いします。

 


「幸のばか。あほ」

「うっ」


 私は幸の体を洗っている。投げつける言葉とは違って楽しく優しく玉のようなお肌に傷をつけないイメージで慈しむように擦っているつもり。

 幸は項垂れつつもそれ自体は気持ちよさそうだからいけてる筈。


「私というものがー、とかさ。ほんと、まじ超ばか」

「うっ。ごめんって」


「はぁ。知ってたからまぁいいけどさ。はい終わり。流すから体こっち向けて」


 私はシャワーを取って脇に向け、蛇口を捻ってちゃんと温かいお湯になるのを待った。


「え? 知ってたってそれどういう意味?」


「幸のことならお見通しってこと」


「おっ。そっか。やったっ」


 幸は素直に喜んでいる。ほれ見たことかと得心する私。


「ほらやっぱばかじゃん。幸、危ないから跳ねるのやめてこっち向けって」


「はーい」


 責められていたことをどこかにやって笑顔満面、ばっと、四肢を広げて私に向いた幸はやはり幸。つまりば…いや、やっぱやめ。可愛いからもう許すことにする。私はちょろいからそれでいいのだ。


 そして私は幸の体を流すその前に、なんだか無性に触れたくなってその唇に優しく触れた。


「ななっ」


 不意を突かれて固まる幸。惚れ惚れするくらいの長くて綺麗な手足を広げたまま。まっぱで。


「面白いけど幸、まっぱだからな。まっぱ。ま、私もだけど」


 幸はやはり面白い。馬鹿だけどなっ。




 と、私達はさっき、這々の体で寝室を出てシャワーを浴びた。汗とか汗とか色々と体についてしまったから異臭の元を絶ってやったのだ。

 今のはお風呂での最後の方の会話を抜粋したヤツ。お分かりの通り私は呆れ果てていたのだ。




「あー。美味いっ」

「美味し」


 そしていまはリビングにいて、私はアイスコーヒーをひと口飲んだところ。

 口をつけた氷たっぷりアイスコーヒーはやはり美味かった。冷たくて苦くてほっとしているところ。


 ちな、這々の体は私だけ。元々のスペックが違うし馬鹿幸は大満足のご機嫌だったからやっぱり私だけ。


 理不尽なことが終わって幸に抱かれままの私の荒げた息も整って、へろへろパンチをお見舞いすることも忘れていたくらいすっかり呆れ果てていた私が、汗をかいたし異臭騒ぎになる前にシャワーを浴びてちょっとリビングでひと息入れてくるからと、珍しく幸を置いてひとりで寝室を出ようとしたら、待ってよー、私も行くからさ、なんつって、ぴょんと跳ねる感じでベッドを出た幸は私の後ろをのこのこついてきただけ。軽々と。ぴょんて。

 思わずこんにゃろうと、じとっと見てしまった。


「なぁに? どうかしたの?」


「…いや、べつに」


「そっか。ほら、行こう。早くしないと異臭騒ぎになっちゃう」


 まぁまぁ的に私の肩を優しく叩いて笑う幸。


「こいつ…」


 それを、なんだよこの女はと私が思ったかどうかはともかくとして、結局ふたりしてシャワーを浴びて今はリビングにいるって感じ。


 幸がやらかしてくれたことはシャワーとともに流してやったから私の心は今は平穏。アイスコーヒーの香りと苦味がこの身に染みるなって思っているところ。


「うん。美味い」




 今夜、私達は午前一時前にベッドに入って眠りについた。

 ことは無し。お盛んな若い私達でもというか幸でもこんな日はある、というか明日と明後日はお休みだから、そこは推して知るべしというところ。


 いつもより一時間くらい遅かったのはもういつものこと。眠るのは勿体ないなと思ってしまう若者みたく週末を迎える金曜日の夜のお約束みたいなもの。実際まだまだ若いし幸と一緒だから尚更だ。


 そして、私が幸と話をしながらが甘くて美味いヤツを持ったまま知らぬ間に船を漕いでしまうのももういつものこと。


「夏織。そろそろ歯を磨こうか」


「はっ…わかった」


「ほら、それかして」


「うりゃ」


 私の持っていた甘くて美味いヤツを取ってローテーブルに置こうとして出した幸の手をはたき落として口に入れて、もごもごしながら素早いねーなんて笑ってくれる幸に手を取られて立ち上がるのも今はよくある光景のひとつ。


「ふわぁ。じゃあ、とっとと片付けるか」


 それから何をするでもない幸が私にちょっかいを出しながら傍で見守る中、グラスとかお皿とか食べ残したおやつとかを片付けて、洗面所まで仲良く行って女性としての夜の嗜み的なヤツをしっかりやって歯磨きもして、最後に玄関リビングキッチンの戸締り用心火の用心をちゃんと確認してから私と幸は寝室に入る。


「おいしょ。明日は休み。嬉しいなー」


「よかったねー。何しようか」


「探索で。最後のエリアが残ってるし」


「あはは。そうしよう。あ、今日はわたしね」


「うん」


 ベッドに転がって軽く話をしたそのお終いに、ちゅっちゅってやり合って好きと伝え合ってえへへって微笑み合ってから私は幸の胸に潜り込む。


「おやすみ幸」

「おやすみー」


 眠りはすぐにやって来た。幸もたぶんそう。抱き合って眠る私達。ここまでは私の大好きな愛と平和な金曜日の夜だったのだ。




「うがぁ」


「うわぁ」


 すやすやと気持ちよく眠る私をぼいと放り出した何か。そのあと追い討ちをかけるように転がった私の背中を叩く何か。


「あだっ」


 私は当然のごとく目を覚ましてしまう。


「ててて」


 何事かと思いつつ叩かれた背中、手が届かないまでもその辺りを摩るようにして、状況を把握しようと目をぱちぱちとやって耳を澄ませばしくしくと啜り泣く声がする。

 やはり何事かと声の方を向くと、寝室の薄ら明るさに目が慣れるまでもなく幸が泣いているのだと分かった。


「ううう。いやだよぉ」


「なに? どうした幸。大丈夫?」


「ううっ。夏織が、夏織が」


「私がどうしたの?」


「夏織がいっちゃった」


 それを理解するのに約五秒。

 ああ、なるほど幸は私がいってしまうという怖い夢を見て、夢の中で半狂乱になって暴れてしまった的なことなのかなと理解する。

 それは確かにきついと思う。私だって夢だとしても確実に泣いてしまうから。


「よしよし。大丈夫」


 愛されてるな、私ったらこの幸せ者めと思いながら、幸を安心させようとこの胸に抱いた。


「私ならここにいるでしょ。心配なしだから」


「ううっ。かおりー」


「よしよし。へいきへいき」


「うううっ。この浮気者ー。ううう」


「は?」


 それを理解するのに約五秒では全然足りない。浮気者とは果たして幸はどんな夢を見たというのか疑問が湧いてくる。


「いだだだだ」


 それを考える間もなく突然お腹に痛みが走る。


「くっそっ。私を置いて行くなんてっ。このっ、浮気者っ」


 と、幸が私を抓ったのだ。あまり痛くないのは脂肪のお陰。私のお腹は厚いそれで守られている。幸は優しいから怒っていてもそこなら大丈夫だと気を遣ってくれたのだ。たぶん。

 ここに来て初めて役に立つソレ。いやぁ、まじ、つけておいてよかったなと思うソレ…あ? なんだとぉこらー。


 そうやって逃避をすること約五秒後。私は我に帰る。


「ちょっ、やめろって」


「うるさいっ。黙れっ、この浮気者っ」


「それ夢だろっ。いたたたた。離せ馬鹿幸っ」


「なんでっ。よりにもよって、なんで渚さんなんかと。くっそー」


「いたた、えっ、はあ?」


 それを理解するのに約五秒。

 けれど、渚さんとはこはいかに。なんでかなんて私が訊きたい。なにゆえ私がよりにもよって血濡れたアイスピックママと浮気をしなければならないのか。

 そんなことは絶対にあり得ないから。私が浮気だなんてまじあり得ないから。

 なぜなら私は片手で足りる付き合っていたお相手全てに振られたことしかないんだからなっ…いや、泣くから。これは泣いても仕方ないヤヅだがら。



「ざぢざぁ」


「なによ」


 私の鼻声に幸の動きがぴたりと止まる。幸の挑むような口調はちょっと怖いけれど、幸の夢の方がもっと怖い。

 夢にしたって程があるだろと、なるほどやはり幸はおかしいのだと私は五秒で理解できた。


「ばかじゃないの」


「は? うるさいっ。私というものがありながらっ」


 私は思ったことを口にしただけなのに、また暴れ出した幸。体を揺らして足をばたばた、私のお腹を抓る指に力が篭ってさすがにちょっと痛い。

 幸ったら器用だなぁと思いながら、私のナニも万能じゃないんだなと理解するのにまた五秒。この役立たずめがって思う。


「いや、ちょっと待った。それまじであり得ないだろ。落ち着けって幸っ」


「ふたりでごめんねーなんて笑って言いやがってっ。私を置いていくなんてっ。くっそう。許さないっ。もう夏織なんてこうしてやるー」


 あ、なに。いっちゃったってそういうこと。ああなるほど、いよいよ持って幸は面倒くさおかしいのだと私は確信する。

 優秀で聡明な幸は世を忍ぶ仮の姿。こっちの幸こそが本来の姿なのだ。

 けれど、そうなると、一体幸はなんの為にそんなことをしているのかという新たな謎が生まれてしまう。


「うーん。って、あたたたた」


 この状況はさすがに拙い気がするというか面倒くさい。

 これ以上この危ない生物を野放しにしておくと君子こと私に危険が及んでしまう。というか既に危機的状況感は否めない。


 あらゆる危うきを避けてきたのに敢えてそっちからやって来るなんて、交通事故じゃないんだからさぁ、なんて私は思いつつ、先ずはこの馬鹿幸をどうにかしなければと私は逃避をやめた。



「わっ。馬鹿っ。落ち着けって。やめろっ。うびゃひゃ」


「これは浮気した罰。私が泣いた分、今度は夏織が可愛く鳴きなさい」


「ば、馬っ鹿、なにを、んんっ」


「ほら。もっと鳴きなさい」


「んんんっ」


「そうよっ。思いっ切り鳴きなさいっ。くくく」



 捕まったまま始まって逃げ出すこともできず、馬鹿で呆けでおつむのおかしな幸に気の済むまでいいようにやられてしまった私はへろへろのへろ。

 平和な夜は何処へ消えた的に、汗をかきかき、可愛く鳴きに鳴いて、私だけが超大変だったのだ。



「馬鹿じゃん。幸。まじで」


「申し訳ありませんでした」


「そういうとこ、まじで面倒くさいぞ」


「ぐはっ」






「寝酒だよ?」


「なにも言ってないでしょ」


 私の面倒くさ可愛い愛しの馬鹿幸は今、だってこれ寝酒だしと、酒は薬みたいなもんだし寧ろ体にいいしと、幸らしからぬ言い訳しながらロックでお酒を飲んでいる。


「百ひゃくの長だよ?」


「言えてないからな」


 リビングに戻ったあとキッチンに入って、私と幸の分のアイスコーヒーを用意しようとしていた私の傍に出来ればこっちでお願いしますとグラスとお酒を自ら持ってきたのだ。


「あのぉ夏織。私こっち。いい?」


「ん? ああそっちか。あいよ。かして」


「なんかすいませんねぇ」


「べつにいいって」


 場合が場合だから一応お伺いを立てましたと、タロみたく瞳をうるうるさせて縋るような目を向けてきた幸に、私は特に気にすることなく分かったよとお酒を作って幸に渡した。


「はいどうぞ」


「ははー」


「大袈裟。気にすんなって」


 そう声をかけるも言葉は宙に浮かんで受け取られることなく落ちて消えた。幸は両手で掲げるように受け取ると、素早く自分の陣地に戻って行ったから。

 誰も奪ったりしないのにと、聴こえない筈の足音を聴いて、見えない筈の尻尾をそこに見て私は思う。


「うん。タロだな」


 お酒についていえば、幸はちゃんと呑む量を減らしている。今夜もそう。今までの六割程度といったところ。

 減らすと決めたらちゃんと減らせる幸はさすが。未練たらたら、陰でこそこそ暗躍しているつもりがバレて怒られてしまう私とは違う。

 まぁ、暗躍といっても私は平静を装って、なんのこと? とすっとぼけてみせるだけだけれどとにかく幸は違う。


 だから肝臓の数値に異常を来さない限りはべつにそんなに気にしなくていいのにと思うし、今だっていいと言われたのだから私の目を気にする必要なんて少しもないのになと思う。


 それよりも寧ろ、その言い訳が私に似てきていることの方が問題。


「うーん」


 幸に悪影響を与えるとか。

 ソレを私にだけ見せているぶんには全然構わないけれど、他でやってしまったらたぶん引かれたり笑われたりしてしまうように思うソレ。


「だよなぁ」


 これはなるべく気をつけないといけないぞと私は思った。




「ふぅ」


 飲み始めたばかりだというのにもう薄っすら汗をかき始めた私のグラスがからんと鳴った。グラスの中で氷がこけたのだ。


 これをみんなに言っておいたかどうだか忘れたけれど、私は人より少し甘くて美味いヤツを好む分、飲み物は無糖のヤツを好む。そこに砂糖は要らない。甘さすっきりとかも要らない。ほしくない。


 つまり、実は私はバランスが取れている。甘+甘じゃなくて甘+苦もしくは無味だから。


 ∴ 私は甘くて美味いヤツをいっぱい食べても大丈夫で、そこにはなんの問題はない。


 A、満足するまで好きに食べてよし。


 ということになるわけ。


「やっぱコレ完璧じゃん」



 なのにこいつはと、私はまたアイスコーヒーに口を付けながら、私の隣、お酒美味しいなぁと幸せそうにゆったり寛ぐ幸をじっと見る。


「おかしい」


 私の編み出した完璧な方程式を使えば立ちどころに導き出されるその単純明快で火の打ちどころのない完璧な答えも幸には通用しない。

 これこれこうだからと何度説明しても切長の目を糸のように細め、何を馬鹿なことをとせせら嗤う幸は実際に鼻をほじってふーんとやってみせてくれちゃう念の入れよう。


 そして幸はほじった綺麗な指を立てて、ねぇ夏織、鼻くそってしょっぱいんだよ、知ってる? って真顔で言って迫ってくるのだ。

 私は、まままままさか、ソレを食べろってかって思って心だけでなく体も後ろに引いてしまう。



「どうなの?」


 ずい


「えっと…」


 ずず


「どうなの?」


 ずいずい


「いや…」


 ずずずず


「知ってるの? 知らないの?」


「な、なんだそっちか。よかったぁ。あ、いや、えと、どうなのかなぁ」


 みたいな感じ。


 真顔で鼻くその話をする幸。けれどそれは私を笑かしておいて油断させようとする幸の罠。

 堪え切れずにはははと笑ってそんなの知ってるに決まってるじゃんと答えれば、私は鼻くそを食べたことのある人になって指を差されて笑われてしまうし、頑張って笑いを堪えつつ、そんなの知るわけないじゃんなに言ってんの幸と答えれば、嘘を吐くなと容赦なく圧をかけられて、白状させられて結局は指を差されて笑われてしまうし、もしもそれを回避することができたとしても、分かった知らないならこれあげる初体験だね、ほら、あーんしてなんて食べさせられてしまうかもしれない、まじ巧妙で狡猾で陰険な罠なのだ。


 その時、ぐぅの音も出なくなった私は視線を逸らし、コイツまじで賢いなと感心してしまったほどだったから。




「…こいつは」


 私はいまお酒を飲み干そうとする幸をじっと見ながら考える。


 なにゆえ愛しのこいつはそんな巧妙な罠を張れる程のお利口さんな頭脳を持っていながら、極めて優れた容姿も持つ完璧女史でありながら、私の導き出した完璧な答えすら理解できないのか。

 やっぱあり得ない。どう考えてもおかしな話だと思わざるを得ない。


「ったくさぁ」


 当然、私はこの思いを口にする。舌打ちも付けて遠慮なく。他の人なら少々遠慮はしてもその相手が幸なら別だから。


「ちっ。馬鹿なの? てあっ」


「ちょっ。なによいきなり。溢れるでしょっ」


「ふんっ、だ」


「なんでっ?」


 べっーと舌を出しながらも文句だけでなく感謝の気持ちを乗せておく。

 私は幸がいてこそだから。何をどう言ったとしても、くそうくそうと思ったとしても私は幸を愛しているからねと。

 私達は以心伝心。なら、この気持ちが伝わらないとかまずあり得ない。


「ね」


「私は馬鹿じゃありませんから」


 はい残念。どうやら駄目だったみたい。私の愛が伝わらないとか。

 まぁいいけどねと私はもう一口、アイスコーヒーを啜った。私は諦めたのだ。


 けれど、美味い美味いとこくっと喉を鳴らす幸を見ていると次第ににんまりとしてきてしまう。



「くくく」


 と、気を張らずくつろぐ幸。いきなり忍び笑うとかちょっと怖い。けれど、何ひとつ取り繕うことをせず自然体。その姿も様になっている幸を間近で見られるのは私だけの特権。ふふふ。



 にしても。美味いコーヒーとくれば当然、


「甘いものが欲しくなる」


 私のおやつ入れに目を向けるとそこには幸がどっかで貰ってきてくれた、モックでヨックの定番の、甘くてさくさく美味い棒のヤツが八本入った袋がある。さらには今月の課長の差し入れ、渡された時はずっしり重くてぐきるかと思った、ドライフルーツとか木の実なんかがぎっしり詰まったパウンドケーキ的なヤツが冷蔵庫にふた切れある。

 さぞかし合うことだろう。私と幸みたく相思相愛的な。


「美味そう」


「こんな時間にだめよ」


「わかってるって。見てただけ」


「くくく」


「小姑幸め」


 私は大人の女性。この時間に食べたら何が起きるかくらいは知っている。だから私は大人しく美味いアイスコーヒーだけを啜る。そこに文句はない。泣きたいけどな。


 そう。私は苦味の美味さが分かる素敵な大人の女性。アイスコーヒーは美味いからそれだけで今は十分。

 けれど、どんなことにも例外があるように、私の飲み物の好みにも当然例外は存在する。

 例えばアレ。美味いじゃんねアレと同意を求めても、えー、あれってなんか薬臭さくない? わたし苦手ーと、人によって思い切り好き嫌いの分かれる、口に入れると何とも言えない匂いがするしゅわしゅわのヤツ。直訳すると胡椒先生。

 あの匂いは癖になるし、超美味いから私はアレが好き。


 ついでに言っておくと、私はアレとか甘いヤツを飲んだ時は、甘くて美味いヤツを自ら自重している。だから幸のようにただ闇雲に、なんでもかんでも圧をかけておけばいいということじゃないと私は思うわけ。


「ほんそれ。幸って考えなしだよなぁ」


 少しは考えなよ。ったく、綺麗な顔の上にあるそのおつむは飾りですか? と幸を見る。私の頭を指でとんとんすることも忘れていない。


「またっ。さっきからなんなのっ? まだ怒ってるの?」


「あ、けど、なんかすごく飲みたくなってきたな。けどアレ、あんま売ってないんだよなぁ」


「あー。なんだそういうこと。始まってるんだねー」


 幸は何かを納得した様子。私を気にしつつも、もっと気になる空のグラスを悲しげに見つめてため息をついた。

 私は今は忙しいから、これが終わったら新しいのを作ってあげようと思いながらも、ふと、大事なことを思い出した。


「あっ」


 そういえば確か、商店街にある昔ながらのこじんまりしたスーパーに置いてあった記憶がある。定価だったけれど。

 よっしゃ。明日、というか今日買おう。いける。やったねと私は楽しくなってくる。


「ふふふふふ」


「あ。笑った」


「しゅわしゅわの臭いヤツ。飲まなくちゃなっ」


「なにそれ?」


「しゅわしゅわ。ふふふ」


「えーと。夏織さん?」


 ひとしきり笑ったあと、気づくと戸惑う幸が私を見ていた。


「ふ?」


 憐憫に溢れたその顔を見ていると、始めてもいいけど長く続くとさすがにちょっと見過ごせない。いつものことだけど私の愛しい女性は大丈夫なのかしらと、幸が本気で私を心配している気になってくる。


「…なんでもない」


 本気は駄目。心をぐりっと抉られる感じがするからまじやめてほしいと思いつつ、今更なにをと思うところもある。私のことをちゃんと知っているくせにと思う。

 それに、今の私はさっきの幸より全然マシでしょうよと私は思う。

 私を憐れむとか生意気。


「なんだよその顔。幸のくせに」


「えぇぇ」


 見たくてしているわけじゃないけれど、唖然として固まる幸は本当に可愛い。これも私だけが見ることのできる特権と言えるヤツ。


「やっぱ幸は可愛いなぁ」


「なっ」


 と、言葉を出せずに口をぱくぱくさせるだけで真っ赤っかに照れて俯く幸もまたひとしおのしお。


「しおしお。よいしょ」


 私はもう一杯、幸のお酒を作るために、幸が悲しげに見つめていた空のグラスを取って立ち上がった。


 そして、グラスを持ってとことことキッチンに向かう私に気づいた幸が、こっちにぐりんと向いたような気がする。背後から痛いくらいに期待の籠った視線を感じる。


 はいはいすぐ作るからちょいと待っててねと、新しく氷を入れたグラスにお酒を注ぎ始めた途端、より強い視線をこの背に感じてしまった。


「うっ。きっつ」


 悪寒がして体が一瞬びくってなったから、たぶん幸は、おいっ、薄く作るなよ私はちゃんと見ているんだぞと圧をかけているのだろうけれど、いま振り向いても幸はうふふと微笑んでいるだけな筈。


「こわい」


 けれど、その感じはとても幸らしくもある。そう思うとおかしくて笑えてくる。

 私は幸と一緒にいるうちに、幸のそんなところも知ったのだ。たぶんこれからも私の知らなかった幸が増えていくのだ。誰も知らない私だけの幸が。


「うふふ」


 そして私はこうも思う。

 幸は私を面白おかしいと笑うけれど、私からすれば幸も大概、面倒くさくて面白おかしいんだぞ、と。


「そうそう」


「なぁに」


「なんでもない。いまいくから」


「おーう。遅いぞー。早く持ってこーい」


「ぷっ」


 ほら。やっぱ面白おかしい。あと、超面倒くさいけどなっ。






「はいどうぞ」


「ありがとう」


 今は朝というにはまだ早い時間。それでも夏だから次第に外は白んでくる。にもかかわらず私達はまだリビングにいる。

 無理に眠る必要はないのだから、眠たくなるまでここにいるつもり。



「こういうの久しぶり」


「夜更かし的な?」


「うん。ふたりで夜更かし的な? ね」


「まぁね。けどこれ幸のせいだから。ほんとはお肌によくないんだからな。天敵」


「あはは。ごめん。けど私達、やっぱり歳をとったんだなぁ」


「なんのこと?」


 と、惚けて忘れてた振りをしてもお肌の極めは整わなくなってくる。決して私を見逃してはくれないのだ。


「くっ」


「あはは」


 だって昔はそんなの気にしなかったもんねと幸は言うけれど、幸は今でもそれほど気にしていない。それでも綺麗とかなんかムカつく。

 私は努力してやっとこさそれなりだというのに。


「うりゃ」


「あた。なっ、なに?」


「ややめめろろ。それを言うなって。まじでそんな気になるから」


「あはは。わわかかったたよよよ」


「ななららいいよよよ」


 スイッチが入って私達は、我々は宇宙人だぞって遊ぶ。

 けれど私達はもういい歳をした素敵な大人の女性だから、楽しくても子供のようにしつこく繰り返しては遊べない。


「あーあ」


「ねー」


 宇宙人が去ったあと、やっぱりもうおばさんだなんてどちらからともなく私達は苦笑った。


「おばさん幸かぁ」


「夏織おばさんの方が二ヶ月も歳上だよ」


「じゃあやっぱ私が姉だから」


「それはむり」


「は? いや、やっぱそうかも。そこを否定しづらい」


「なに夏織。認めちゃうの? あはは」


 幸のそれは少し寂しげ。私は悔しげ。そして寂しげ。


 今は幸せ。それはそう。そこに文句なんてある筈がない。

 けれど、過ぎた日はまた別。幼い頃は楽しかったことがいっぱいあったから。


 それでも敢えて振り返ることは今はまだしない。いくらなんでもそこまでとってはいないのだから。私達は始まってからまだ一年と半分くらい。積み上げるはこれからなのだ。


「そうそう」


「そうだね。これからだ」


「うん。これから」




 ともあれこんなこともたまにはしよとする。たまには。

 窓の外はまだ真っ暗の暗。日の出の早い夏とはいえ新しい夜明けとやらはもう少し先で、今またベッドに入ってもすぐには眠れそうもないし、なら、私の話を聞いてもらうことにしようと思う。



「あ。そうだ幸」


 そして私はちょっと思い出したことがあるんだけど眠れないついでに聞いてくれる? 的に幸に問いかける。

 まぁ、幸は私の話ならわざわざ確認なんかしなくてもなんでも聞いてくれるけれど。


「なぁに」


 幸。その手に三杯目のグラスを持つ幸は、それを傾けてはお酒を口に含んで少し転がして喉を鳴らし、美味しいよコレとにこにこしながら私の話を待っている。


「あのね」


 あれは、そう。夏を迎えた七月の終わりの今日みたいな、というか昨晩みたいなというか、とにかくそんな感じのむしむし暑い夜のこと。


 草木も眠る丑三つ時、かどうかは知らないけれどたぶんそのくらいの時間。暑いなもぉと頭の何処かで微かに意識しつつ、Tシャツと短パンをはだけてうーん、うーんと浅いところで眠っていた私の元に来たの。ついにソイツがやって来たって、そう思った怖い体験。


「怪談なの?」


「まぁそんな感じ。でもね、それより怖いヤツだから」


「へー。そうなんだ」


「うん」



 突然の、絞り出すように漏れる声に、うつらとしていた私は起こされる。そして私の横で震えている何か。

 一体何事かと、もやもやと霞がかかる頭で私は考える。


 ここは確か、私と幸の家の寝室で毎晩私達の疲れを癒してくれて、腰痛知らずになれる筈のお高い優れもののマットレスを置いたベッドの上。そこで眠っていたのは私と幸。


 となるとその正体は、なんて考えていると、私の横でしくしくと小さな嗚咽を漏らし始めた何か。ソイツが夏織と呟いてこの胸に潜り込んで私にしがみつく。


「いやなにこわい」


 私は反射的に目を瞑る。元々瞑っていたけれど目尻とかに深く皺が寄るくらい強く。ぎゅーって。

 これで明日の朝からお高い化粧品を多めに使うことが確定してしまった。

 ったく、無駄なことをさせやがるなと思うし、こうなったら、もったいないから一回こっきりの無料お試しセットなる物を頼んでみた方がいいかもなと、幸と合わせてふたり分いけるしなと、そんな気にもなってしまう。

 幸のお肌は綺麗でつるつるだから使わせないで私が二回分使えばいいのだ。完璧。



「ね。こわくない?」


「さっきの話じゃない」


「うん」


「しかも最後。あれ何の話なの?」


「リンクル的なそんなの。幸も知ってるでしょ。いいらしいよ。アレ。てかなに、幸、忘れてなかったんだ」


 黒いヤツ来るヤツ。お風呂で散々頭抱えて超笑えたしと幸を笑う。


「憶えているに決まってるでしょう」


「さすが幸。記憶力いいなっ」


「馬鹿にして。ベー」


「え、ちょっとなに。可愛くないしなんかこわい」


 私は自分の体を抱いた。寒い寒いと震えることも忘れない。私は演技派の女優だから。大御所的な…なっ、なんだとっ、誰が大御所かっ。


「ふざけんなやー」

「なんだとこらー」


 さっきの言い訳と同様に、やはり私が移っている幸と私のアクションが被る。幸も拙いと思ったのだろう。互いに我に返って顔を見合わせるも、ここまでくるともはや手遅れ。

 幸もそれが分かっているのか、諦め顔で次の台詞まで被せてくる始末。


「「超こわい」」



 またしても顔を見合わせる私達。震える幸は泣きたそうな感じにも見えてくる。見えてしまう。

 おい幸そこまでかよって思うけれど笑っちゃう。私が吹き出すと幸もすぐに笑い出した。


「ぷっ。なんだよ幸その絶望みたいな顔。ふふふふふ。私に失礼だからやめろって。ふふふ」


「夏織だって笑ってるじゃない。くくく。だいたいその顔なに。くくく。凄く心配そうな顔してさ。あはははは」




 なーんだ、って、お腹を抱える幸を見ながら私は思ったの。幸は私に似てくることをあまり嫌がってないんだなって。


 嬉しくもあるけれど私はちょっと心配。そこは私の今後の課題。極力移さないようにまぁ頑張るつもり。


 けれど、こうやって笑い合う私達は仲良しだから何よりだし、それでいいならそれでいいかなって私は思ったの。


「「んがっ」」


 気づけば窓の外が白んでいる。新しい夜明けぜよってヤツ。

 夜明け。私達の夜はまだまだ明けないけどなっ。ぼちぼち白み始めてもいい頃だと思うけどなっ。はーはーはー。



「はー、はっ。やばっ」


「あーあ、おっかしい。なに? どうしたの?」


「幸っ。もう眠るよっ。もう若くないから眠らないとお肌がいっちゃうからっ」


「お肌がいっちゃうってなに?」


「いいからっ」


 この大事さを理解できない駄目幸の手を引いて、私はとととと寝室へと向かう。


「いそげいそげ」


「うわっ」


 わわわ、なになにと、愛しの幸が可愛い声をあげているけれどそれどころではないから気にしない。

 だって、ちゃんとケアしなければ、お肌の寿命はそれだけ短命になってしまう。美人薄命とかなしだから。幸と一緒にいる時間が少なくなるのはまじ勘弁だから。よく分からなくても今はそういうことだから。


「おらー。どけどけー」


「ちょっ、やめてよ。笑っちゃうでしょう」




 その後、ベッドに入ってもずっと何かぶつぶつ言っていて怖かったよとは(のち)の幸の談。






「くっ。明るくて眠れない」


「目を閉じてじっとしてれば眠れるよ」


「ああ、目が冴える。まずいな。きめがっ。はりがっ」


 やはり心配で眠れない私。心が落ち着かないのだ。


 言葉が漏れていることにも気付かないで愚痴愚痴もぞもぞ寝返りを打って凄く鬱陶しくてさ、夏織ってまじ馬鹿じゃないのって思ったよとは、それもその後の呆れながらの幸の談。泣ける。



「やばいよなぁやばいよなぁ」


「うるさいなぁ」


「くそう。やっぱリンクル的なヤツ頼むしかっ。私と幸のヤツとじゃ足りないかもだし」


「ちょっと夏織。静かにしてよ」


「確実にやばいなそれ。こうなったら恵美さんとかにも頼んでもらって…」


「ばか。やめなさいっ」


「あだだだだっ。抓ってるぞ幸。あだだっ。抓ってる抓ってるってっ」





お疲れ様です。ここまで来てくれた皆様、さすがです。嬉しいなぁ。


そして私はあのしゅわしゅわが大好きな人。たまに無性に飲みたくなります。明日買おうかな。



捨てる神あれば捨てない神も拾う神もあり。ということで、私はこれからも書き続ける所存。


「所存て。しはかたソレもうつまんないから」


「ねー」


「は? ふたりともうるさいよ。夏織、太らせるよ? 甘いヤツ断食させるよ? 幸は断酒でベジタリアンだよ?」


「「ごめんなさい」」


「ま、冗談だけどなっ。ははは、いたっ、あだっ」


読んでくれてありがとうございます。

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