第七十六話
続きです。
よろしくお願いします。
「ふぅ。さっぱりした」
外は雨。
私は私の世界に、幸は幸の世界に行って今夜は帰りが遅くなった。幸はまだ帰っていない。
マイウ、っと、危なっ。あのバーはどこかおかしいから顔を出すと色々と大変なんだろうなと思うけれど、幸もおかしいからばっちり水が合うのだ。類友というヤツだから、きっと楽しく呑んでいるのだろう。
そうそう。恵美さんを連れていくと幸からメッセージがあった。
だから、あーあ、恵美さん可哀想になぁと、一体どんな悲惨な目に遭わされているかなぁと思うとちょっと笑っちいそうになる。てか笑っている。
果たしてどんなことがあったのか、今夜は無理そうだから明日にでも幸に教えてもらおうと思っているところ。
「ふふふ。なかまなかま」
で、私の方はといえば、遅くてもなんでもお風呂はお風呂ということで、いつも通りに追い焚きをしてゆっくりのんびり湯船に浸かってやったところ。
さっちもかおりも楽しそうにゆらゆら揺れてぷかぷか浮いていたし、やっぱお風呂って素敵って思う。
上がってすぐに計った体重についてはもはや忘れてしまった。増えていなければそれでいいのだ。そこは私の今後の頑張りに期待しておくことにする。
「いいのいいの」
髪をタオルで拭き拭きしながらとことことリビングに戻ってそのままキッチンに入り、冷蔵庫からどっこらせっと、重くてでかい二リットルのペットボトルを取り出して、グラスに注いでこくこくと飲んだ。
楽しくお喋りをして程よくお酒を飲んだから私は喉が渇いているのだ。
「ぷはっ。美味いっ。コレ重いけどなっ」
私は触れたら折れてしまいそうなくらい華奢な腕で重たいそれを頑張って戻し、髪をぶおーとするために洗面所に戻る。
その際に鏡に映ること間違いなしの揺れる二の腕ぷるぷるは絶対見ないと私は決めている。もしも目にしてしまったら泣いてしまうだろうし確実にいってもしまうだろうから。
知らなくていいことはやはり知らないままでいればいいのだ。
怖いもの見たさとかそんなのは後悔するだけだから絶対に要らない。私はしない。
知らぬは己ばかりなりとは本人からすれば実はとても幸せなことなんだと私は知っているのだ。はっはっはっ…くっ。
こうして全てを済ませた日付もとっくに変わった夜遅く、私はソファに転がって、スマホを手に取ったり雑誌を見たり、閉じそうになる目を擦ったりして特に何をするでもなく幸の帰りを待っている。
べつに観たくもないテレビも何かを喋っている。有り難くも静けさを紛らしてくれているとはいえ途切れることなくだらだらと。
テレビなどはそういうものだけれど、まぁご苦労なことで、と思う。
今夜まだしとしと降っている雨は次第に止んで明日は晴れ、絶好のー、だってさ。
「ふーん」
雨は止む。止まない雨はないんだよと、そんな、よくよく考えてみれば今のところは当たり前のことを、超名言じゃん、そうだよなぁ、じゃあ明日も頑張るかぁ、なんて私が思えたのは遠い昔のいつかの日。
今ではもう、普通じゃんソレ、何をしたり顔をしてさも分かったように言ってんの、としか思えない。
だったら私に降り続く雨もとっくに止んでいてもいいでしょうよと思うから。
そういう意味では私はからからに乾いている。枯れているのだ。
いくら雨が降っても、いくらゆっくりお湯に浸かっても、私の心の奥までは染み込んでこない。浸みはしない。それで潤されたりしない。二度と花が咲くことはない。
私は雑草じゃなくて百合。これまでずっと踏まれて揉まれて傷つけられ続けて来たのだから、こればかりはどうしようもないのだ。
「ふわわぁ。幸はそろそろかなぁ」
明日はお休みだから遅くまで起きていても大丈夫。だから私はおかえり幸と笑顔で迎えるつもりでいるの。
扉を開けても暗くなくて、リビングの明かりが漏れる家。そこで待つ誰かに迎えてもらえることが、それが私なら超嬉しいかなぁなんて思ったから。
そう。だから私はそうしたかったのだ。
「あらら。こんなとこで眠っちゃって」
「う? あ、さちだぁ。おかえりさちぃ」
「かは。ただいま夏織。ほらおいで。ベッドで眠ってて。私もシャワー浴びたらすぐにいくから」
「うんわかったさちだっこちて」
「がはっ。いいよっ、と」
「うへへー。さちぃ。んー? お酒くさぁいなぁ。もぉ、飲みすぎはだめだぞっ」
「がはがはっ。がはっ」
「ふふふ。さーち。おかえりぃさーち」
「あはは。寝ぼけてるんだね。ただいま夏織。ベッドにいこうね」
「はーい。ふへへへへー」
雨降りの夜のちょっと感じた不快さを文字通り、眠っているうちに雨に流した私は部屋の明るさに目を覚ます。
寝室の時計、アラームを使うとき叩くと音が止まって暫くするとまたぴぴぴぴと音が鳴る優れものの針はきりりとした幸の眉と同じ角度、十時十分を指していた。
どうやら今朝は一度も目を覚ますことなく眠りこけていたみたい。
「んー」
覚醒するのを待つついでにもぞもぞと動いて体ごと幸の方へと向けてみると、そこには変わることないいつもの幸が穏やかに眠っていることに安心する。
「ん?」
あ、いや、待った。確か昨日は幸の帰りを待って、その顔を見たのはかなり遅い時間だったようなと、そんな記憶が蘇ると同時に私の中からもわもわって湧いてくる黒い何か。
「いや、ちょっと。あれ?」
昨日の夜、私はなにかやっちまったような……あああああ。ちて。
「ぐは。いや、いやいやいや」
私はすぐにそれを忘却の彼方へと追いやった。これで昨夜、私が抱っこちてとか言ってしまった記憶はもはや私の中には存在しない。
これで大丈夫。ヤツは無事、事象の地平線の向こう側へと葬り去られたのだ。
「ない? ないな。よし。ないない」
こうして私の十八番、ただ、遅くに帰った幸が咽せてふらふらふらつきながらもソファで眠っていた私をベッドまで運んでくれた記憶だけをしっかり残した朝遅く、私は逃避をやめてすうすうと眠る幸を置いてベッドを出た。
もはや限界だったのだ。昨日の夜、私は水をいっぱい飲んだし今朝もいつもの時間に起きなかったから、私のナニはぱんぱんのぱんだから。
「まじやばい」
足早にトイレに向かうあいだ、意味はなくてもその辺りを押さえてしまうのは本能というもの。私はそれだけ必死だったのだ。
「いそげいそげ」
「いや、まさかいけるとは」
少しのおそそもせずに事なきを得て、ほっとひと心地ついた私は幸の元には戻らずにこのまま朝ご飯の支度を始めることにした。
放って置いても幸はそのうち起きてくるし、私はちゃんと手を洗ったから大丈夫。
「おはよう夏織。ご飯まだ?」
そろそろ幸も起きる頃だと焼き始めたバナナと卵白をぐちょぐちょにしたヤツがふわふわなパンケーキのようになりつつある今、最後の仕上げの隠し味、愛情をたっぷり注いでおこうとフライパンに向けて手を翳した丁度その時、リビングの扉がかちゃっと開いて幸が顔を覗かせた。
なぜか少し戸惑う様子を見せてから、私の傍までやってきた。
「幸おはよ。もうできるよ」
「やった。でもその前にちょっとおしっこいってくる」
「おっ、おお。どうぞどうぞ」
その報告は要らないし先に済ませてしまえばいいのに、そんな時でもほうれんそうを欠かさないとはさすがの幸は少しおかしい。
「だな」
お臍の下辺りに手を当てて珍しくも大人しくいそいそとリビングを出ていく幸を見て熱でもあるのかなと心配になるけれど食欲はあるからそれは大丈夫。
となるとやはり我慢の限界。もしくは昨日飲み過ぎたか、でなければマイなんとかとか言うバーでこっ酷くやられてしまったのだろう。
私は昨日、私の世界で由子とかと楽しく過ごしたというのに幸ったら可哀想と私は思った。
「おっと。仕上げ忘れるとこだった」
いけないいけない。私はあらためて手を出して、指をびろびろとやることにした。
「美味くなれー」
本日、七月の第二週の土曜日は幸の試験があったその翌週末。私が勉強を頑張った幸に美味い分厚い肉を食べてもらおうとこっそり決めていた日。予約は既に入れてある。
試験の結果については心配していない。幸が自信満々で余裕と言うからには、そういうことだと分かっているから。
さすがの幸は試験のたびにいるかもしれない神様に、まじお願いしますコレ一生のお願いだしと、必死こいて祈っていた私とは全然違うのだ…いや、泣かないから。元が違うのだから気にすることはないのだ。人は一長一短。この私にも優れているところはある、筈。いける。
「このぶんならいけるな」
私は今朝起き抜けに、明日は梅雨前線が南の海上に下がっていますから久しぶりに日差しが戻って夜まで雨の心配もいらず絶好の洗濯日和になりそうですよと誰かが昨日の夜遅く、お風呂とかお手入れとかをしながら幸が帰ってくるのをまだかまだかと待っているあいだ、音がほしくてつけ流していたテレビで言っていたことをふと思い出していた。
いま洗い物をしているキッチンの窓からも天気が良さげなのが分かる。どうやら予報は当たっていたらしいのだ。
「よし」
ならばと、私はどっさりと洗濯をすることにした。元々するつもりだったけれど、今日は最低でも三回は回すことになる。大物もあるから確実に三回。
「じゃあ、やるか」
食器を洗い終えた私は先ず、新しく入れ直したアイスコーヒーのグラスを持って幸の元へ。
その幸はローテーブルの前、ノートPCを開いて何やらメモらしき紙を見ている。
「はいコレ。ここに置いとくから」
少し離れたところにそっとどうぞとグラスを置くと、幸は顔を上げずにただうんと頷いた。
幸は集中しているのだからそれで十分。私は気にすることなく洗面所へ向かう。
「さてと。仕分け仕分け」
ごごごと唸る洗濯機。この短時間で三回とかまじ辛いんですけどごごごと伝えてくるような気になる洗濯機にまぁ頑張れと伝えておいて、私はキッチンとか寝室とかお風呂とかトイレなんかの掃除を順にやり始める。
リビングは今はパス。幸の邪魔はしない。
「よいしょ」
掃除をしているうちに終わった第一陣の洗濯物をカゴに入れて、ぴっぴってやって、第二陣の洗濯をスタートさせる。洗濯機は諦めてくれたみたい。すぐにごごごと動き始めた。
「えらいえらい」
私ははっと思い出し、お風呂に入って窓を開けて、さっちとかおりを仲良く並べて窓辺に置いて外気に当てる。
ぐわわ
ぐわわー
そう喜んでいるに違いない二匹の頭を順に指で撫でた。
「よしよし。気にすんなって」
それから私はカゴを抱えてとことことベランダに出ると予報の通り、雲はあっても朝から晴れているせいで、気温は高めで日差しは既にじりじりと肌を焼くよう。
「うっ。暑いなくそう。なんだよもう」
それを繰り返すこと三回。私は超頑張った。シーツとかも干せるだけ洗ってやったのだ。洗濯機もえらかったし私もえらいから。
「終わったぁ」
ひーこら言って干すこと三回。その最後のでかいヤツを干したあと、やってやったぜ参ったかこのやろうと、空を見上げて誰にともなくぶつぶつ言って洗濯カゴを片手に部屋に入る。
そのリビングでは幸がかちゃかちゃとやっていて、その姿はやはり惚れ惚れするほど様になっている。
「さすが。かっこいいな」
そして今、私は幸の邪魔をしないよう、ローテーブルの端の端に造った、たった五匹しかいない動物園にいるそのうちの一匹を手に取って、たぶんこれはひぽぽだよなと当たりをつける。
「美味ーい」
掃除、洗濯、日差しに負けじと頑張って、私は凄く暑かったから本当はアイスを食べたかったけれど、私は賢明な判断のできる人だからそれを我慢したのだ。
動物園なのに動物が五匹しかいないのもやはり、私の賢明な判断によって無用な圧を避けたから。
何度か試してみたところ、五匹までなら不思議と謎の圧がかからないことを私は発見していたのだ。
少ないけれど、まぁ食べられないよりはマシ。
「マシマシ。うん。やっぱ美味いなコレ」
こうして幸の傍でひとり遊びながら、ぽりぽりやりつつベランダに目を向けてみると、日射しにやられてうへぇとなりながらもさっき干した洗濯物達がたまに強く吹く風にばさばさっと揺れたりしているのが見える。
私と幸のヤツが仲良く並んで揺れていて、部屋の中から見ている分にはなんとなく、穏やかな日の何気ない一コマという気がして凄く平和な感じがする。
「ふふふ」
視線を部屋に戻せば斜め前には幸の贅肉のない細い背中がこの目に映る。
綺麗な文字でびっちり埋まったメモらしい芳一的な紙と、分厚い辞書を開いて横に置いて、かちゃかちゃかちゃかちゃとキーボードを叩いて鳴らす幸の頭はノートPCの画面に向いたまま、極たまに何かを確認するために横を向くだけで殆ど微動だにしない。
「うーん」
そのメモよく読めるなさすが幸と思うし、もはや特打どころの騒ぎじゃないでしょソレと思う文字を打つ速さとかまじ異常だし、ブラインドタッチもそこまでいくと恐怖心すら湧いてくるなと私は思う。
「ちくしょう」
私のメモは、名前の他にも何か書いた方がいいんじゃないですか、というかなんで名前なんですか? と吉田君に言われ、せめて何か書いた方がいいからじゃん、そんなことも分からないの吉田君ぺらぺらと、そんな会話をするくらいいつだってすかすかだというのにっ。
しかも、私が主に両の人差し指を使うツービートなら、幸のは十本の、けれど十六ビートを刻む感じのソレ。そしてブラインドタッチ的なものを知らない私の頭は三拍子。画面、手元、資料と、確実にワルツを躍ってしまうというのにっ。
「くっ」
見ていると平和で穏やかな気分が何となく、不快なものに変わる。だから私は目を逸らした。
私は泣かない全然平気。だって、ベランダを見れば大丈夫だし、書類を作成するにしても決して早ければいいというものでもないのだから。
「だ、だなっ」
だってさ、書類や資料を作成する際に最も大事なことは、ミスなく丁寧に、且つ確実に、だから。
何かを伝えるのに、これまでにない斬新な、ぷっ、大胆で、ぷぷっ、且つスピード感をー、なんてヤツは要らないのだ。笑っちゃうから。ぷぷぷっ。
まっ、私の場合、それでも打ち間違いとかが結構あったりするけどなっ。
「そうそう…ぐはっ」
と、いうわけで、私達は遅い朝食を食べ終えて幸とお喋りをしてひと息入れたあと、ちょっとやることやっちゃうからねと言った幸は仕事をしているところ。それはもう終わると思う。
私は私のお仕事をと、洗い物とか洗濯を済ませて掃除も終えて、私は今、幸が何かをしている時に私の定位置となっている幸の斜め後ろ、ソファに座ってアイスコーヒーを片手に幸の背を見るのをやめてヨーチをぽりぽりつまんでいるところ。
「ぼりぼ、む」
けれどやはり気になる愛しの幸に視線を戻すと、出来上がった書類だか何だかの確認のためか、画面をじっと見ている幸の指でくるくると回るペンが気になってしまう。
「むむむ。ぼりっ。ぼりっ」
いっぬならボール、ぬこなら猫じゃらし的に、なぜか私を惹きつけて止まないソレ。
「よっ」
こうなったら私も幸みたく華麗にくるくるさせてやるからまぁ見ていろと、二本しかなくても、ものの見事に散乱しているとしか言い様のないローテーブルにある幸のペンを一本拝借して気合とともに回してみる。
「そいや。あっ」
結果はお分かりの通りと言ったところ。
ペンの奴はすっ飛んで、幸の背中に当たって床に落ちた。幸が当たったところに腕を回して無意識にぽりぽりと掻いている。
気にもならないその感じが私の中の何かを粉々に砕いて私は少し悲しい気分になる。
「くっ」
けれど私は私だから、ペンを拾いながら、べつに指の間でくるくる回せなくたって世界が終わるわけでもなしと、それを頭から追い出した。
「いいのいいの」
こんなふうに、幸は幸で過ごしていても、私は私で朝のひと仕事を済ませても忙しい。つまり私は平常運転。体のどこにも異常なしの快調ということ。
おつむはとかきいたらぜったいだめ。のろう。えろえろえろっさいむ的な? てか、えろえろえろざく? でもいいけどなっ。
「はっはっはっ」
私達はこうして今日もまた、私達の日常を、ありふれた一日を積み重ねる。誰にも触れられることのないような一日、触れられないように一日を過ごす。
その先にあるものが確実に私達を待っているとしても、この歩は絶対に止められはしない。私達も例外にはなれない。けれど、それはまだ先の先。私はそれまでの毎日を幸とともに生きていくだけ。
「だな」
私が私の人生をこうやって特別意識してしまうのは、やはり私が私で在るからだと思う。
何かに縋りたいとか頼りたいとか思っていたわけじゃないけれど、私にはこれがあるから大丈夫と、やっていけると思わせてくれるものが欲しかったのは事実。
そして私は私が私で在ったがために、心底欲していたものを手にすることができた。
幸。幸との暮らしがそれ。絶対に誰にも奪わせたりしない私の宝物。
私にとって幸は、いってしまうまで幸と生きることは、超スペシャルに特別で大事で大切なもの。
もしもそれを失えば、私は甘くて美味いヤツも喉を通らず激痩せしてしまうだろう。
「だよなぁ」
そして私の抱えるモノが、受け入れてくれた父さんと母さんとの確かな親子の絆とか、私を気遣ってくれる姉のような優しい花ちゃんとか、同胞として時に一緒に笑ってくれて悩んでくれて、叱ってくれて支えてくれる恵美さんや麗蘭さんをはじめとするバーのみんなをも私に与えてくれたのだ。
これらの全てが私の人生において、特別なもののように思える大事なもの。失くせないものであり、失いたくないものだ。
もしも失くしてしまったら、甘くて美味いヤツは暫くすればまた少しは食べられるようになるくらい大切な繋がり。私は二度と太ることはないだろう。
「だな」
それが今、この手の中に確かにある。
モノを抱えたお陰で手に入れられなかったものや手に入らないものに替えて、この人生で私の得たものがそれ。私の自慢で私の誇り。
こんな私に向けてくれるあの人達の揶揄いとか優しさとか笑顔とか、さり気なくでも直接的にでも私を嗜める言葉とか、私がそれを素直に、時に反発しながらも受け入れることができることを、その繋がりをとても大事な大切なものだと意識させてくれることを、私はこれでも凄く感謝しているのだ。生き難くてもそこだけは。
だけと言えどもその全てが私には十分過ぎるほどに有り難くて貴重なもの。失くせないものだ。まじで。
「だなっ」
「夏織」
画面そのままノートPCをぱたっと閉ずに、幸が私を振り返った。
「なんどす?」
「なんどすって、あはは。じゃなくってさ、終わったから変なところがないか確認してくれる?」
幸はにんまりとして、PC画面をさっと私に向けた。
高度で難解な文章。頭に入ってくるかなぁ、無理だろうなぁと思いながらも私は見てみることにした。幸が望むなら頑張る所存。
「所存て」
「いいの」
まぁ、無理なことは見るまでもなく分かっていたけれど。覗いていたし幸の肩が笑いを我慢できずに震えているから。
「えーっと、なになに。って、できるかっ。全部英語じゃんこれっ」
私は見事なまでののりツッコミを披露する。幸の震えは大きくなっている。もう我慢しないみたい。
「くくく。やっぱりだめかー」
「おい幸っ。笑ってんじゃないぞっ。ていっ」
「いたた。あはははは」
そして幸は今度こそ、画面を閉じてノートPCを閉じた。私をからかって面白かったと笑う幸。朝からもりもり食べて仕事をした幸は今日も絶好調。
つまり私と同じで異常なーし。つまり私達はつつがなく私達。それが一番の何よりなことだ。
「はいお終いっと。お腹減ったね。お待たせ夏織」
「は?」
私は幸が仕事を終えるのを今か今かと待っていたわけじゃないし、やることをやるのは当たり前だし、したいことをいつ何処でするのか決めるの幸の自由だと私は思うから、折角のお休みなんだから仕事していないで私に構ってよと思うこともない。
私はただ今、幸の台詞が少しおかしかったような気がしているだけ。なんていうか、同意を求められた的に。
「お仕事お疲れ様。けど、なんで私がお腹減ったの我慢して幸を待ってたみたいになってるの?」
「なんでって? だってほら。って、うわぁ、もう一時半なんだっ」
ぽっぽの時計に目を向けて、どおりでお腹も減るわけだねーなんつって、幸の口から放たれた幸らしくもおかしな言葉。
「夏織も減ってるでしょう?」
しかも私を巻き込むとか。朝ご飯を食べたのは十一時頃。しかも私はいまヨーチを五つ食べた。
「減ってない」
「またまた。じゃあなにか食べにいこう」
「誘うな。やめろ」
まだ行かないと首を横に振る。そして私はさっと耳を塞いだ。
その手を小刻みにぱたぱたとやって幸の声を訳の分からないものにする感じで。私の耳は優れものだからたぶんいける。
えええいいいこここうううよよよ
やった。幸の声はこんな感じで聞き取り辛い。だからなに言ってんのか分からないと惚けることは可能。やはり私は天才なのだ。
やややめめめろろろ
そして私の声も震えている。
これはなんか、宇宙人のヤツみたいで面白いななんて私はぽっちも思っていない。小学生の頃やったなと思い出して、ちょっと懐かしいなと思っただけ。
「いいいかかかななないいい」
だからつい、手を喉に持ってきて小刻みに叩いてしまっただけで、これで幸と遊びたいと思ってやったわけじゃないの。
「いいいこここうううよよよ」
けれど幸はさすがの幸。それをいたく気に入った幸は、あ、懐かしいねと、にこにこ顔で私と同じことをやり始める。われわれははははと楽しそう。
「ううちゅちゅううじじんんででで」
「いいいかかかななないいい」
そしてすぐに私達は互いに好きなように騒ぎだす始末。
「あああいいいすすすたたたべべべたたたいいい」
「やややきききにににくくくがががいいいねねね」
要は私達は馬鹿なのだ。けれど楽しいからいいの。私と幸は今、笑いたいのを堪えて遊んでいるのだから。
「けけええききけけええきき」
「ににににくくくく」
そのうちに疲れて飽きて満足して、どちらともなく遊びをやめて、ふふふあははと笑い出す。
「もう終わり。疲れた」
「じゃあ、いく?」
「はいはい。わかったよ」
「やりぃ。あはは」
「ったく。ふふふ」
こんな時わたしはいつも、仲良しって私達のための言葉なんだなとちょっと思う。
「あ。けど、肉はなしで」
「えっ。そんなっ」
「夜食べるから。分厚いの予約しておいたから」
「へ?」
あのね幸、お店の載っけた写真に嘘偽りがなかったらこんくらい分厚いヤツだから。幸、頑張っていたからご褒美的な。これ私の奢りだからと幸に本日の予定を明かす。
固まる幸に、三百グラム残さず食べてね残したら承知しないぞってゆるふわーく微笑むことも忘れない。
「か、夏織、かは、まっ、かっはっ、まじ?」
「まじまじ」
「くぅー。やったっ。やったっ。ふーっ」
くぅいやっふぅぅぅと、変な踊りを披露してくれる幸はやはり面白くて可愛いくて凄く好き。
だから私はばたばたうるさいからやめろと幸を止めることなく暫くそれを眺めていることにする。
「ふふふ。幸は凄いな」
これもきっと私の大事な思い出のひとつになると私は思うから。
そしてその出掛け、ああそう言えば昨日どうだったのと、ぺったんこの靴を履いて鏡で自分をチェックしながら訊いてみる。
期待で胸がはち切れそう。
「普通だったよ」
「やっぱなっ。てことはさ、出ちゃったんだ。なまはげ的なヤツ、やっぱ出ちゃったんだな。恵美さんったら可哀想に」
アイスピックを持ってうろうろするヤツ。私は両手を握って何かを持っているふうにして、きょろきょろ何かを探す素振りをする。
「恵美はどごだぁ」
こんな感じでしょと、私はそこに居なくてなくてまじよかったなと胸を撫で下ろした。
「いつもはそんなんじゃないんだってば」
「そんなこと言われてもさ、私それしか知らないし」
私はもう一度、スイッチの入った渚さんの真似をしてみせる。
恵美はどごだぁどごいっだぁと、若干の楽しさを感じつつ、もしかすると危ない兆候なのかもなと我に帰ってとっとと真似をやめた。
「で。どうなの。なにがあったの?」
「だから、普通だったってば」
「だからなまはげカバディとかさ、マイウなんとか劇場へようこそでしょ。それが普通じゃん」
「違うよ。落ち着いて飲んでただけよ」
「またまた」
「うそじゃないよ。それが普通だからね」
「またまたまた。恵美さんのツインテ写真とかあるでしょ?」
「ないよ。そんなことしてないもの」
やいのやいのとやりながら、おかしくないよね、うんオッケー可愛いよなんて互いの姿を確認し合って外に出て扉を閉めて鍵を掛ける。
「まーたまた。幸。私を騙そうとしてもむりだから」
「ないの。普通に過ごしたからね」
「うそだね」
「はいはい」
「あ。なんだよその呆れた感じ」
「だって、ねぇ」
「ねぇじゃない。もしそうなら私の時だけって絶対おかしいでしょ」
「たまたまだよ。偶然偶然」
「笑ってんじゃないぞ。ていっ」
「はずれ」
なんつって、エレベーターへと向かうあいだもやいのやいのを続けながらボタンを押してそれを待つ私達。がっこんって動き出した音が聴こえる。
「もう夏織。しつこいよ」
「だって絶対おかしいじゃん。恵美さんずるいじゃんっ」
「やっぱり人柄なのかなぁ。ねぇ? 夏織。くくく」
「なっ。なんだとこらー」
こんな言い合いも私と幸が重ねていく日常。私達は確かにここにいてこうして暮らしているんだぞっていう、そのうちの一コマみたいなヤツ。
この何気なさは私達にとって特別で大事なこと。
「とりゃ」
「ほいっ」
「くっ」
けれど、大事なことでもさっきの宇宙人的なヤツと一緒でそのうち忘れてしまう、ああ、そんなこともあったかもなと思うくらいのそんな日常のうちの一コマ。
人が生きていくとは基本日常の積み重ねだから、あったこと全てを、何もかもを胸の内にしまって取って置けるわけでもない。
だから、この何気ない一コマをいずれ忘れてしまうのも当然のこと。それでも幸とふたりで馬鹿やって、凄く楽しかったよなぁという思いはたぶん残る。
「うりゃ」
「またはずれー。あはは」
「くそう」
私はいま凄く楽しいし、楽しく笑っている幸の顔を見ていると、それでいいんだと私は思えるの。
お疲れ様でした。ありがとうございます。
長々と続けていますが、私が楽しく書けているということで、ここはひとつご勘弁を賜りたく思います。
けど平気。たぶん大丈夫。
いけるいけると夏織と幸が笑っている。
なら、私はそれで十分。なんちゃって。あはは。
読んでくれてありがとうございます。