第七十五話
続きです。
よろしくお願いします。
七月に入って試験も終えたその二週目、迎えた週末金曜日の午後七半、私はオフィスにいて来週半ばにクライアントに渡すための資料を纏めている。それももう終わる。試験と同じ、私にかかればまぁ楽勝というところ。ふはははは。
「よし。終わった」
それをぴってやって恵美さんに送れば私の本日の業務は終わり。
「行けやー。そりゃっ」
くくく。ちょっと夏織みたいにやってみると案外楽しい。そしてやっぱり笑っちゃう。
「行ったな。なんちゃってなっ。くくく」
それから私は側にあったドリンクの容器に手を伸ばす。
ストローを咥えて感じる違和感。そのたびにおかしくて笑っちゃう。
「ぷっ。くくくくく」
七月とはいえ梅雨はまだ明けていないから、私の好きな夏の夏織、じゃなくて夏の香り、あの焼けたアスファルトに雨の降ったあとの独特な匂いを今年はまだ嗅いでいない。
とても待ち遠しい気がしている。元々夏は好きだったけど、今はもっと好きな季節になったから。
その理由である夏織は最近、朝の忙しい時間や夜お風呂から上がったあと、鏡の前で念入りにお手入れをしながら、そろそろ本格的にやって来るなくそう汗とか日焼けとかまじ勘弁だからとぶつぶつ文句を言っている。
「くくく」
夏はもう少し先。けど、私の傍には年中夏が、夏織が傍にいてくれる。鼻先を付けるように抱き締めて思い切り吸い込めば、気分も落ち着く何とも言えないいい匂いがする。私の好きな夏の匂い。
「ちょっと。や。今はだめ」
「なんで?」
「汗かいたから」
「いいからいいから」
「幸。だめだってっ。ぐわ」
いま頭に思い浮かべた夏織は異臭が異臭がぁと、やめろやこらーと顔を顰めて暴れている。
「くくく」
妄想とはいえ私が笑ってしまうのは仕方のないこと。
そうやってひとりくくくと笑っていると、まだ残っているチームの人達が何か言いたそうにこっちを見ていることに気づく。いちいち顔を向けて確かめなくても私には分かる。だって私は私だから。
「はは…」
私は普段からこの容姿のせいでというかお陰というか、人から視線を向けられることに慣れている。だから向けてきた人をいちいち確かめることはしない。
そうされることは仕方のないことだと思って生きてきたし、このみてくれのお陰で得をしたことも多くある筈だから文句はない。
夏織ふうに言えば、私は罪作りな女性。けど、このみてくれは私のせいではない。自然とこう生まれついたのだ。
だから私に罪はないし、そんなの周りが勝手にやっているだけだし、と、まぁそんな感じ。
なんちゃって。あはは。
それに私は間接的にでも、もしかすれば陰からでも、奇異な目を向けられて生きてきた。私の抱えるモノがそうさせるのだけど、それにも私に罪はない。自然とこう生まれついたのだから、なんちゃって、なんて絶対に思わないしあははなんて笑えない。
私は生まれついたこの社会がくそだから仕方なく、そのことも受け容れて生きてきたのだ。
「はっ」
私は表情を険しくしてそれを嘲るように声を出していた。
「あ」
そして私はまたやってしまったことに気づく。今度はなんだと私に向けられた視線を感じてしまう。
「ははは…」
良い意味で注目されることに慣れてはいてもこのされ方はちょっと苦手。
私は優秀で聡明な女性だから、身内以外から大丈夫的に見られることに慣れていないから。
「うっうんっ」
気をつけないと。私は咳払いをひとつして、澄ました顔を作る。夏織直伝、無かったことに、というヤツ。
その甲斐あってかどうかは知らないけど、皆さんの視線はすぐに感じなくなった。
大丈夫だと思うけど、取り繕ってももう遅い的に、あー、市ノ瀬さんはそんな感じな人なんだね、みんなもそこは触れないようにねー、はーい分かったーと、みんなの頭にインプットされてしまったかも知れない。
私はちら見して見たみんなの様子からその可能性を捨て切れないことを悟ったのだ。
「くっ」
いやぁ、それにしても、今のような痛ぁい視線を気にしないとか、夏織ってやっぱり凄いなぁと思いながらも、ころころと忙しく表情を変えていた私はやっぱり夏織が移ってるのかなぁと若干の不安を感じつつ画面を閉じてそのままログアウトした。
「ふぅ」
頭の後ろで腕を組み、背もたれに背中を預け、ひと息吐いて窓に視線を向けけてみる。
「降ってるよねぇ」
外は雨。たぶんそう。
もう暗いしブラインドが掛かっているし、それの微妙な隙間もオフィスの明かりが反射しているからはっきり言って全然見えない当たり前。
「あはは」
梅雨の終わりはもう近いのに最近は雨ばかり。空気はじめじめ、蒸し蒸しの蒸し。不快で少し憂鬱な気分になる。普段はめらめらの私でも雨ばかり続けばそうなる時もある。毎月のヤツと重なれば気も重くなることもある。特に二日目は最悪。
私は単純にオンオフだけの人ではない、ファジーな部分も持ち合わせている繊細な女性。私は人知れず涙していたこともあったのだから。それを知っているのは今は夏織だけ。
「繊…何?」
それは何処の幸のことなのとでも言いたげに、夏織は首を傾げて私を見つめている。
「酷いなぁ」
本当は分かっているくせにと、私のことならお見通しでしょうと、私が微笑みかけても夏織は何か悩んだ顔をしたまま。
そんな顔も可愛くて襲いたくなる衝動が湧き上がる。私はこのあとベッドに連れ込んでしまおうと密かに決めた。
「え、まさかウチの幸のこと? これが? 繊細?」
そう呟いてぷっと笑った可愛い顔の前で、夏織は右手のひらをわざとらしく大袈裟にひらひらと振った。
「ないな。ないない」
「もうっ」
「あだっ」
こんな感じ。だから平気。雨でも何でも私の憂鬱な気分が長く続くことはそうはない。
そのあと夏織をこれでもかってくらい蹂躙、じゃなくて目一杯愛することもできたし。
くくく。
二日目のずーんと重くて少し辛くなる時も、夏織は気圧が関係しているんだなたぶんとそれっぽいことを言ってソファでぐだる私に手を伸ばす。
「幸つらい?」
「ちょっとね。けど夏織の手があったかいから凄く楽になるよ。ありがとう」
「いいのいいの」
ソファに横になっている私のお腹を優しく摩ってくれる夏織の口からはたまにぼりぼりとかりんとうを齧る音がするだけで、痛いの痛いのーとは聴こえなかったけど私は悲しくなんてならなかった。
それを催促して、だってそんなの効かないじゃんとか言われなくてほんとよかった。
その代わりなのか、夏織は私にもかりんとうをくれたから。
「美味いよ。はいどうぞ」
「いや、今いらなあむっ?」
「遠慮すんなって。美味いでしょ?」
「ぼりぼり。あ、美味しいね。ぼりぼり」
黒じゃない、茶色くて細くて砂糖のついたかりんとうを、夏織三、私一の割合で、コレ食べやすくて好きなの美味いよねとぽりぽとふたりで食べて微笑んで、私のお腹を暫く摩ってくれていた夏織はかりんとうが無くなったタイミングで、そうだちょっとごめんねと立ち上がった。
「よいしょ」
心地よくて眠たくなっていた私は、うんと返して目を閉じた。
だいぶ楽になったなぁと思いながらもそのままソファに転がっていると、夏織は私の傍にしゃがみ込んで、取ってきたブランケットをちょっとこれで我慢しててと私に掛けくれてあと、よいしょと呟いて立ち上がり、私の傍からまたいなくなった。
「幸」
夏織が何やらばたばたとやっている音をBGMにうつらうつらととしていたら、レインコートを着た夏織が私の傍にちょこんと座っていた。
「よしよし」
私の髪をそっと撫で、幸は血を増やさないとだから今日はレバニラに変更だからちょっと買い物に行ってくる。幸は大人しくしているように、なんて言ってまたまた立ち上がった。
「あとコレ。今回は特別に私だと思っていいから。じゃあ、いいな幸。大人しくだぞっ」
「あっ、ちょっと」
待ってよと声をかけるも、しゅたっと手を上げて、あり得ない素早さであっという間にリビングから消えた夏織はそのまま出掛けてしまった。
「ぷっ」
にんにんって呟いていたようなないような。けど、確かにそう聴こえたような気がしていた。くくくくく。
「まったく」
すぐに血になるわけでもないでしょうに夏織ったらと私は呆れてしまうけど、夏織の想いが痛いほど伝わってくる。
夏織はあれで真剣だから。私のためにと真剣だから。夏織は今頃レバーで頭をいっぱいにして、雨の中を早足に歩いているのだろう。とてもありがたくて涙が出てくる。
「うぐ」
そしてあのレインコート。
髪がぺたってなることも、傘を差すのがへたっぴだから濡れてしまうことも、この黄色い可愛いレインコートで万事解決、髪はフードで隠せるし服も濡れない。わたし天才だなって、それを着て見せてくれて笑っていたのはここ最近のこと。
かはかはする私に、幸も要る? 要るなら買ってくるよと笑っていた。
「ううん。かはっ。私は要らないよ」
「だよね。知ってたし。くそう」
「あたっ。あはは」
悔しそうに私をぺちぺちと叩く夏織に、私は胸がいっぱいになった。
夏織がいないといやに広く、しんとしてとても静かに感じてしまうリビング。
「かおりぃ」
早く帰ってこないかなと、うつらとしながら渡してくれた狸を抱いて私はそのとき思っていた。
「幸」
呼ばれて目を開けると夏織が傍に座っていた。抱いていた筈の狸はもういない。夏織が放り投げたのだと思う。たぶんそこらに転がっているのだろう。
私が夏織に腕を伸ばすと夏織は体を預けてくれた。
「おかえり」
「ただいま。買ってきたよ」
「レバー苦手なのに。ごめんね」
「謝るなし。そこはありがとうでしょ」
だからレバニラいっぱい食べてね。私はレバー苦手だからもやしとニラだけ食べるから平気。あのタレはなんか好きだから。
夏織はそう言ってくれた。
「だね。ありがとう」
「いいの。あ。あとね」
「なぁに」
抱き合っていた体を離して手を伸ばし、ローテーブルの上の袋をふたつ取って掲げる夏織は嬉しそう。
「見てこれ。ふたつで百円」
「ふっ…もう」
またそんなもの買って、食べ過ぎるよと思うけど不思議と圧は出てこなかった。
それから夏織はまた私のお腹を摩ってくれた。
「ありがとう」
「いいってば」
そのお礼も伝えると、夏織はえへへとはにかんで、もう片方の手に持つ新しく仕入れてきた小さな袋に入ったココナッツのクッキーのようなものを齧りながらとても可愛らしい顔をまた見せてくれた。私はかはかはと苦しみながらもそれで癒されていたのだ。
「おっ、さくさく。美味いなコレ。はい幸も。あーん」
「あーん」
そして気づけばいつの間にか、お腹の重さはどこかに消えてその代わり、いつもの通りにお腹の虫が鳴いていたりする。
「夏織」
「なに?」
「なんかお腹減ったねっ」
「もう大丈夫なの?」
「ばっちり」
「そっか。幸が食べたくなったならしょうがない。作るか」
「よろしくね」
またはらぺこに巻き込まれちまったけど食欲があるのはいいことだからと、私の頬をひと撫でして唇にも触れて、夏織はキッチンに向う。
「ありがとう」
もう一度その背に向けてお礼を伝える。
振り向いた夏織は笑っていた。気にすんなしと言ったあと、任せておけと袖を巻くった両手をぎゅっと握ってみせた夏織はとても可愛いかった。
こんなことがあったまた違う雨の日。
「あ、ねぇ。さちちにお願いがあるの」
今から凄く大事なことを伝えるよぉと夏織はさちちの肩に手を置いた。
ちなみにさちちは私、幸のことです。
「うほ?」
「あのね」
この時期、たとえお腹が減っても古いの食べちゃ駄目だから。机とかに置いてあっても怪しいから駄目。カビとか生えててお腹痛くなっちゃうから面倒でもちゃんと買って食べるか、ちゃんと信頼できる人から貰うんだよ分かった? と、私に向かって全力で何かの釘を刺してくる夏織はさちちを何だと思っているのか。
さちちはそんじょそこらのゴリラとは格が違う。その正体は私だから、さちちがそんなことをする筈がない、筈。
「だからじゃん」
「は? どういうこと?」
思わず人間であることを露呈してしまう私。あまりのことにゴリラ語を使うことを忘れてしまったのだ。
「いいからっ。わかった? 幸はともかくさちちは拾い食いとかしちゃ駄目だよ?」
「幸って、うほうほっ。うほっ」
「めっ、だよ」
いくら幸でもそんなことしませんよ、心外ですね。ゴリラ語でそう伝えたつもりでも、動物を躾ける的な、いつもと違う優しくゆっくりとしたその口調とは裏腹に夏織は垂れた目の奥は真剣。そこから伝わる一体なんの為なのか全く理解できない圧。
「めっ」
これは私達がお得意の掛け合いの筈なのに、なんでそんなに真剣なのか分からないまま私は掛かる圧に負けてしまった。
「…うほ」
「よしよし。いい子だねー」
「うほっ、うほっ」
「ああ。もういいよ幸。ちょっと長かったしさ」
「なななっ」
「あ、そうだ。幸もだぞ。拾わないように、てか拾っても口に入れないでゴミ箱に入れて」
「うん。わかった、よっ」
「うひや」
「そうやって馬鹿にしてっ。覚悟なさいっ」
「うひょっ、幸。耳はやめろってっ」
「さちち。難しい言葉、わからない、うほほっ」
「さちちっ、めっ。うひゃっ。めっだってばっ」
と、少し塞いだ私の気分を分かっているのか、夏織はこんなふうに私を、よく言えば茶化しながら、悪く言えば馬鹿にして、ちょっと遊ぼう幸と私を気遣ってくれるから。
それでいいのか幸よと思うかもしれないけど私はそれが楽しいし、そしてとても嬉しい。私のちょっとした心持ちの変化を鋭く察してくれる夏織はいつでも私をちゃんと見てくれているんだと分かるから。私のもうひとつの片割れ。隙間を埋めるピース。
その存在を心から望んでも、そうは手に入らないものだけど私にはその存在が傍にいる。無理をせずとても自分らしくいる。
だから私はそれでいいの。
「くくく」
あ。さちちは拾い食いなんてしないから。分かっていると思うけど一応言っておく。さちちは実は私のことだからそんなことしない。
だってこの私でさえ、誰のかな? いつのかな? まぁいいかなんて思って口に入れたのは、今年はまだ二、三回くらいしかないんだから。
なんちゃって。うほほ。
「幸。だから言われたんだぞ」
「げ。聞いてたのっ。そそそそんなの、じょじょじょ冗談だよっ」
「冗談には…いや、まぁ、いいけどさぁ」
この私でさえいくら甘くて美味いヤツといえどもそんなことしないのにと、夏織が哀しい顔して見つめていた。私がそれに気づいたと分かるとすっと目を逸らしてくれちゃった。
「いやぁ」
やめて。私を憐れまないでお願いしますと私は思った。
またある日の梅雨の晴れ間。
梅雨が肌寒く感じたのはもう今は昔。雨ばかりとはいえ、晴れれば気温と日射しは夏のそれ。
四月から始まって五月六月と初夏のように暑い日が既に何日もあったから、一年の季節の変化は確実に進んでいるように思う六月のそんな晴れの日には、もう暑いとかまじ嫌なんですけど幸なんとかならないのと騒いでいた私の最愛。
「ちりちりくるな」
日射しめがぁと、夏織は手をかざして空を見ている。もう日焼け止めとか日傘がいるのかと面倒臭そうにしている。
「ねー」
「温暖化超進んでる。まじで」
「だね」
「あ、なんだっけ幸。ほら、女の子いたよね?」
「女の子? いっぱいいるでしょう。それじゃ全然わからないよ」
「なんだよ幸。温暖化で女の子、と、くればいるじゃん。旬じゃん。なんかさ、ちょっと甘くて美味そうな名前の」
「甘くて美味そう?」
「あっ、思い出した」
私が思い当たった環境問題に取り組む女の子の名前と違う、甘くて美味そうってなにって思って訊いてみる。私が知らないそんな食べ物があるのなら食べてみたいと思って。
「誰のことなの?」
まだ分かんないの? 仕方ないなぁ、いい? いくよと、優越感を丸出しにする夏織を見て、分かっていないのは夏織でしょうにと思った途端、自信たっぷりに言い放った夏織はやっぱり夏織だった。
「ガルボっ」
「グレタでしょう」
「あっ。ソレだっ」
思わず正解を被せて、文字数以外なにも合っていないなんて、さすが夏織さんぱねえっすねと私は笑った。
当の夏織はなんか似てるからまぁ正解で、うん、ガルボさんもありだなと適当なことを満足げに呟いている。
「美味いよねアレ。ぽきぽきってさ」
「そうね。くくく。私も好きだよ」
「え。なんだよ幸、急に。照れるじゃん」
夏織が私の腕をぱしぱしと叩く。私は叩かれるまま思っていたことを確信を持って口にした。
「やっぱり夏織さんはぱねえっすっねっ」
「まぁね」
夏織は満面の笑み。暑さや日射しのちりちりはとっととどこかに追いやって、今日も楽しそうでなによりな私の最愛はそのあと何かに気づいた様子ではっとした顔を私に向けた。
「あ。わかった」
「なにが?」
「グレタガルボ。なんか聞いたことある。それのせいだ。ね、幸」
「は?」
「あるよね? いや、いるだったか?」
「あー」
夏織はグレタとガルボが仲良く並んでるから間違えたんだなぁとにっこにこ。
「ならしょうがないなっ」
また何か突拍子もないことを言い出すのかと思えばこれ。確かその名の女優さんがいたような気がする。
何気に近い答えを導き出していた夏織の思考は忙しい。久しぶりに食べたいからあのチョコのヤツ買おうと、もはやガルボにとり憑かれている様子。
「幸。コンビニ寄ろう」
「はいはい」
「ついでにアイスも買って食べながら帰ろっかな」
「だめよ」
「なんで? ふわふわになるヤツだよ?」
「かはっ。とにかくだーめ」
「くっ。やっぱだめか」
作戦失敗はい残念と夏織は軽く地団駄を踏んでいる。私は笑ってそれを眺めながら、まぁ今回のグレタとガルボについては私も納得、当たらずともあまり遠からずとは、さすが夏織はわけがわからないねと思いつつ、悔しがる夏織を笑顔で慰めてあげた。
「次、頑張って」
「わかった。次は勝つ。頑張る」
夏織といると面白い。そして楽しい。
私の傍で毎日こんなふうに自分の思うままに過ごす私の最愛。私を笑わせて、癒して和ませる私の最愛。愛おしくも愛らしい私の最愛。
私はまた、側にあるタピオカドリンクの容器を手に取った。そのストローを口に咥えるとついくくくと笑ってしまう。
私にとってタピオカやドリンクの味などどうでもいいのだ。私はこれがしたかっただけだから。
「ふふふふふ」
「どうしたの?」
「これ太いでしょ。初めて咥えたときさ、えっ、なにこれってなって笑っちゃった」
容器に刺さったストローを笑いながら指す夏織。慣れたものとは違う、確かに違和感がある太いストロー。
実は私も初体験の一口目は、味よりもそれにうわっ、なんだってなってしまったソレ。
「あはは。そういえばそうだね」
「でしょ」
美味いからいいけどなんて言って、ちゅうちゅうやっていた夏織。私の中の何かに触れたそれ。
「お疲れ様。メール見たわよ」
「あ。お疲れ様です」
仕事を終えて回想も太いストローで笑うことも終えて、私は帰り支度を始めていた。
クリーンデスクポリシー。何だそれはと思いながらも、申し訳程度にデスクの上を片付けていると恵美さんが側に立っていた。
「思っていたんだけど、毎回すごいね」
そこ。と、私のデスクを指している恵美さん。私も人のことは言えないけどと笑った。
「よく褒めてくれますよ。凄いなって」
「それ、褒めてないでしょう」
「確かに。あはは」
「ふふふふ」
「それでね、市ノ瀬さん。さっきのメールの内容なんだけど、二、三確認したいの。いい?」
「はい」
そして今、電車に揺られる私と恵美さん。
今夜これから私達は私の世界、ヴォルデ…じゃなかったマイウエイに行く。
週の頭においでとひと言だけの、いつものお誘いメッセージが来て、私は元々行くつもりだったから。
「夏織は来ないのよね?」
「え、ええ。まぁ」
「ん? なにかあるの?」
「あ、いえ。夏織はいつものバーに行くって言ってましたよ」
「そうなんだね。残念」
「あはは…」
私達は恵美さんのオフィスで二、三の確認を終えたあと、コーヒーを飲みながら今後の展開について熱く戦略を練っていた。
「いいわね。それで進めましょう」
「はい」
それが終わると私達の雰囲気はがらりと変わって、友人のような気さくな会話が始まった。
「今夜は? 真っ直ぐ帰るの?」
「いえ。今夜はバーに行きます。最近ご無沙汰だからそろそろ顔を見せておかないと」
「マイウエイね。すっごいところだって夏織が言ってた。私もそのうち行ってみたい」
合う合わないは別として、恵美さんもね、一度くらい経験した方がいいよと、夏織が言っていたとかそう言われたとか。
夏織はぴっぴってできなかったタバスコの代わりに、それで恵美さんを嵌めようとしたのだろう。
「まったく」
「どうしたの?」
恵美さんなら何があってもさらりと躱すだろうに。けど、仕方ないなぁと思いつつも私は夏織にのってあげた。
「いえ。なら行きますか? 今夜」
「行く」
と、ふたつ返事の恵美さんを今夜、私の世界に連れて行くことになった。
そこに夏織はいない。
「なに言ってんの幸。行くわけないじゃん」
「えーっ。行こうよっ」
「幸」
「なぁに」
「ルックルック。い、や、だっ」
お誘いの来た日の夜、一緒に行こうよと夏織を誘うと、予想通りのリアクションと拒絶が返ってきた。何とか先生のものまね付きで。
「お誘い。夏織にも来たでしょう?」
「ななななないない」
「来てるじゃない」
「ししししし知らないっ」
顔をぶんぶん振って、これについてはもう議論の余地なしと、夏織は慌ててこの場から消えようと手をつこうとして私の参考書にその指先が触れる。
「なんだよ邪魔だなっ」
それからさっとと立ち上がって、ローテーブルや床にある私の参考書なんかを、邪魔だしもう必要ないでしょと遠慮なくを足蹴にしだしたのだ。
「ていっ」
「それ何してるの?」
「何って、片付けだけど。ていっ」
「片付け?」
「そうだよ。だってさ、手でやるとぐきってなるかもだから」
誘われたことが嫌なのか、夏織曰く、憎っくき参考書達が嫌なのか、それとも両方か。
まぁ、たぶん両方とも。そこに怒りをぶつけているのだと思う。ていっ、ていっていいながら、足を使って私の使っていた参考書なんかを、ずーっ、ずずずってリビングの片隅まで運んでいこうとというかなんというか、とにかく足蹴にしている。
「足でも重いとか。ていっ」
私はその姿をじっと見ている。ちょっとひいてしまうけど、やっぱりなんか面白い。
「ていっ、ていっ」
ソファの後ろを回って、リビングの窓の側まで移動させると満足したのか夏織は私に振り返り、またしても訳の分からないことを言い出した。けどその顔は真顔。
「幸。ここ。幸ゾーンね」
「幸ゾーン? なにそれ」
「だから、幸ゾーンだってばっ」
何で分からないの幸って顔して私を見ているけど、いきなりそんなことを言われても、さすがの私にも分かるわけ何ない。何も伝わってこないのは当然。
「幸ゾーン?」
だからもう一度訊いてしまうのも当然。本気で分からないんだけどと私は首を傾げていた。
「馬鹿なの?」
まったく、優秀とか聡明とかはったりかよこのぽんこつめがって酷い言われよう。だからぽんこつって言われるんだぞっと言いつつ、夏織はだからさぁと説明してくれた。
「幸ゾーンは幸の思うままに散らかしてもいい場所だから。だから幸ゾーン」
そう言って夏織がくいくいと、囲む感じて指を動かしてみせたスペースは畳で言えば半畳も無いくらい。
なんなら狸とか全部そこに置きなよ。てか置け。布を被せるから埃もつかないし、私の目にも入らないしもう最高だなって、なぜか半ギレ
「えっ、と? 夏織?」
「嫌なら二度と私を誘うなっ。いいなっ」
「は? なにそれ。あはは、あはははは」
「笑ってんじゃないぞ幸っ。私は絶対にっ、マイウっ、やべっ。とにかくっ、そこには行かないからなっ」
「あはは、わかっ、たよ。あはははは」
「ったく」
そうやって嫌だ嫌だと駄々を捏ねて、私を思い切り笑わせてくれた私の最愛。
「ていっ」
ついに壊れたその最愛は今は参考書なんかを元に戻している。
「ていっ。くそう失敗し、てはないけどめんどくさいなっ」
「めんどっ。ちょっと、やめてよ、夏織。あははははは」
やらなきゃ良かった的なその呟き。それ以上はお腹痛くなるからもうやめてほしい。
「んがっ」
「らしいわねぇ」
私は夏織について話をしている。電車の中、最近もこんなことがとかあんなことがありましたよと伝えたのだ。
「ええ。まったくです。くくく」
「けどね、幸さん。さっきの妄想具合、貴女ますます夏織に似てきたと思うよ」
「なっ」
いや、待って、違う。私達はともに暮らしている。だからどこか似てくるのは当然と言える。恵美さんだって、きっと陽子さんと似てきている筈。
「うーん」
私には無い多くのものを持っている私の最愛。それを羨ましいとは思わないけど少しは憧れるあの感じ。
もしも私が夏織のようになったとして、私達の家でふたり、どんな暮らしになるのだろうと想像してみる。
「いや美味いなこれ」
「うん美味しいよこれ」
「これ買っちった」
「私はこれ」
「気にすんなって」
「そうだねっ。あははー」
ばたばたわちゃわちゃ、なんか収拾がつかなくなりそうな予感しかしない。楽しそうだけどとても疲れそう。
けどそこは夏織も私がふたりになったら大変だなって、嫌だなって思っている筈。
「失礼だなぁ」
けど、ふたりで暮らしていく中で、私達はこれから少しずつ、夫婦の機微のような、阿吽の呼吸のようなものも身に付けていくと思う。
それは、打てば響くという他の人では決して音が出ない、私達だからこその音色のような素敵な音だ。
そしてそれは、私達だけじゃなくて、恵美さんにも花ちゃんにもそれぞれに、それぞれの音が生まれるのだ。一緒に生きていくということは、きっとそういうこと。
「うん」
そこは私にとって嬉しいこと。夏織もきっと同じこと。なら、それでもいいかなと思う。思えてしまう。
「あれぇ?」
私が夏織に似て、夏織が私に似てくる。それが結局、良いんだか悪いんだか、なんだかわけがわからなくなってきてしまった。
「大丈夫?」
「恵美さんっ。どどどうします? ねぇ、どうしましょうかね? このままでいいんですかね? いいんですよね?」
「ほら。そういうとこよ」
「なななっ」
なんちゃって。
実は、私は夏織に近づけたことがとても嬉しい。
私達のような人種は所詮、このくそ社会では誰もがひとつには成れない他人のままのふたつの個性。死してなお、厳密には同居すらできない私達。ならせめて、生きているうちに少しでも最愛に近づきたいと望むのは当たり前。
理解できなくても構わない。他人は他人。私は私。私がそうなれたらいいなと思っているだけのこと。誰に迷惑を掛けるでもなし、とやかく言われるとは思わないけど、とにかくそんな筋合いはない。
私達についてもそう。気持ち悪いとか生産性がーとか優遇するなとか、事ある無しにいちいち突っかかってくる人達は余程時間を持て余しているだろう。弱い立場の人間を虐めて満足するとか。なんとまぁ、非生産的であることか。はーはーはー。
「暇人どもがっ」
「大丈夫。私はわかるよ」
「ですか。なら嬉しいです」
お疲れ様でした。皆様さすがです。ありがとうございます。
わたくし、タピオカ用の太いストローを初めて咥えた時、なんとも言えない気持ちになりました。皆様も何か心当たりがある筈。
「あの違和感は笑える」
「ね。うえっ、なんだこれって感じ」
「だよね。なかまなかま」
「だなっ」
「だねっ」
「やったっ」
しはかたはうおおと喜んでいる。
読んでくれてありがとうございます٩(๑❛ᴗ❛๑)۶