第六十九話
続きです。
ながながなが…
よろしくお願いします。
いよいよGWの後半が始まる四月の終わり、勉強という心置きあっても、基本的には夏織といちゃいちゃして過ごす五日間を明日からに控えた金曜日の夕方というには些か遅い、夏織なら、いてて、急にお腹が痛くなってきた気がするからとトイレに行くふりをしてそのままいなくなったり、あれ? おかしいな、なんか物が三重に見える気がするどうしようヤバい目がっ目がっ、目の調子がぁと、屋敷さんて乱視でしたよねとツッコむ声を無視して医者に行くふりをしてその場から消えてしまったり、私も二回くらい使ったことのある、むむ、なんか取引き先が私を呼んでいる気がするから行かなくちゃではお先です、なんて適当な理由を付けてとっくに帰っている筈の時間、私は恵美さんのチームの一員として無駄に広い会議室にいた。
そこはミーティングルームと呼ばれている部屋。まさにペーパーレスの最先端を行くかのように各々がノートPCやタブレット端末を持ち込んでプロジェクターに繋いで、自分たちの案を好きなようにプレゼンしているところ。
つまりチームは今、私も含めてクライアントのインテンションをアーキュアリーにグラァスプして、パーパスをアチーヴするためにチームのコンシャスネスをシェアしてディレクションをユニフィケイションするのにネセサリィなミーティングしているというわけ。
「ぷっ」
私は吹き出したのはそんな会話がなされている中にいるからじゃない。ルーだからじゃない。
「ルー…くくく」
言いたいことはちゃんと伝わるし、このオフィスで働く人達は意識も高いし、前もこんな感じの人はいたし面白いし、ここはこんなものなんだなと思うから私は特に忌避感を覚えない。まぁ、私は、だけど。
「くくくくく」
あ、駄目だ。嫌ーな顔の夏織を思い出したら可笑しくて腹筋痛くなってきちゃった。
このままだと夏織の言う笑いのスイッチが入って、万一にも、あははははっ、ひーっ、んがってなってしまったら恵美さんに怒られてしまう。
「あいたたた」
私は慌てて顔を伏せて、体も縮めてここに私が居ない雰囲気を作り出す。俗にじゃなくてこれも夏織の言うところの、周りの風景に上手く溶け込めばいけるし、というヤツだ。
私は笑いのスイッチがオフになるまで周りに気付かれないように何とかしてやり過ごさないといけないから。
…今の私はなんだか夏織みたいだななんて思っていたりなんかして。あはは。
「うっわぁ。もうソレ呪文じゃん」
ようやく新しい仕事に慣れた頃、夏織の用意してくれた少々遅い夜ご飯を食べながら、オフィスがね、色々と横文字だらけなんだよね、話すと変に英単語が混じっていたりする人が何人かいるのよと話をすると、夏織はルー的なヤツとかイラつくし、それっぽ過ぎて最悪だなと、怖いとひきつつ嫌な顔をした。
幸はよく平気だよねなんて言っている。私は出汁のきいたお味噌汁を啜っている。
「だってなんかさ、さぁエビバデ、タイムがナッシングよ。ぼけっとしてないでミーティング、スタートしましょうとか手を叩いてさ、恵美さん、ハリハリハリとかムーブムーブムーブとか言ってそう」
「半分以上は正解かな。さすがに前半のヤツはちょっと違うけど、後半はそんな感じだよ」
「え。まじ? ちょっとってことはさ、大体はそうってことだよね?」
「まあね」
なにわたし当てちゃったのこわいと、夏織は思い切り引いている。
私はその夏織の表情だけでご飯のお供になるなぁ、いや、やっぱりこっちがいいななんて思いながら、先ずは口いっぱいにご飯を頬張ってから今夜のおかず、肉豆腐を同じように頬張った。横にある甘辛いジャガイモの煮っ転がしもひとつ口に入れたかったけど、さすがに入らないから我慢をしたのだ。
「そんなのもうルーじゃん。軍隊じゃん」
「うー?」
「いや、知ってるでしょ幸。大柴さん」
確かに私は知っている。けど私は美味しいご飯で頬を膨らませたまま首を傾げて惚けてみせて、それに間髪入れずにツッコミを入れた夏織に対し、私も負けじとすぐさま反対側に傾げてみせる。
返し。夏織のゆるふわ、何の型は知らないけどソレだ。
「むっ」
これで眉を寄せて私を訝しむ夏織には、この私がさぞかし可愛く見えていることだろう。幸ったら可愛いななんて微笑んでくれるに違いない。くくく。
「うーん」
その思いを知ってか知らずか、夏織は眉を寄せたまま私の顔をじっと見つめて何かを悩み出す。その目が私の目で止まって、見つめ合う私達はとてもおかしな構図。無言の時が数秒流れていく。
頬が膨らんで咀嚼を止めている私は少々息苦しいから早く何か言ってほしい。ならもう一度惚けてみせてあげましょう。
「うう?」
「いや、可愛くないな」
またしても間髪入れず、酷いことを言って退ける夏織はさすが思ったことを口にする素直な性格。私はそれを忘れていたのだ。
「んむむっ」
「飲み込んだら?」
その口の中のヤツ。早くしないといっちゃうから、私そんなの嫌だからと夏織は続けた。
何だろう。凄く馬鹿にされている気がするけど、私はその言葉に従って頬張っていたものを飲み込んだ。
「ちょっとっ。可愛くないってなによ」
「だって幸、どうでもいいけど顎にワカメついてるし。結構大っきいヤツ」
ワワワワカメ? と、再び固まる私に夏織がとどめを刺した
「いや、頬にご飯粒なら可愛いけどさ、顎にワカメは間抜けに見えてただ笑えるな、てか笑う」
だってソレ結構大っきいしと、夏織ははははと笑いながら手を伸ばして私の顎のワカメを取ってくれた。それは確かに大きく見える。私はなんで気づかなかったのか。くっ。
「はい取れたよ。ね、でかいでしょコレ。幸ったら面白い」
「…うん」
「ねぇ幸。熱くなかったの?」
コレに気づかないとかさすが幸だと思うけど、さすがにちょっとひくと、夏織が真顔。
いやさ、そりゃさ、私も少しは顎の辺が熱いなと思ったけど。
「けどさ、ご飯が美味しかったんだもん」
「そっかーそっかー」
それなら気づかなくても仕方ないな、コレでかいけどと、夏織は笑っていた。くっそう、いい笑顔だなぁと私は思った。
「くっ」
「くっ?」
「くっそうくっそうっ、くっそうっ」
「ちょ、幸。埃が立つからやめろって」
「ふんっ」
そして夏織は摘んだワカメを自分の口に入れながらうそうそ可愛かったよ幸まじでまじでと、それはもう嘘っぽーくにやついて、けど、幸。軍隊ならさ、いつかのハンドサインとか役立つねと、夏織は手をさささと動かしてみせた。
もうワカメの件は満足したらしかった夏織。私はまだ悔しさが残っていだけど、らしいと言えば夏織らしい。
夏織は話しをながらも新たに思いついたことについて、頭の中である程度予測した会話を組み立てている。だから夏織は話の展開が早い。
そして、あとになって思い返してくくくと笑っている時に、いきなり話が飛んだように思えるけど実は飛んでいないということに私は気づいたりする、時もある。もしかすると、夏織はみんながついて来れないだけで、本当はかなりの天才なんじゃなかろうかと思うこともあったりなかったりする。なんとかと天才は紙一重というヤツだから。
けどまぁ、夏織が周りの評価を気にしていない以上、どちらにせよ、基本どうでもいい話。
私がそれを悔しく思うと口にしても、ぶぶーっ、残念、幸それはずれだからと、私はずっとこんな感じだし、幸が私を知っていてくれたらそれでいいのいいのと夏織は屈託なく笑うのだから。
「こう。で、こう」
「こう? で、こう?」
そうそう。で、こう。ヤバっ、恵美さん来た的な。
え? こう?
うんうん、それそれ。それでこうして、まだ動くなよ的にして、そんでこう。今だ逃げろ的な。
こう? それともこう?
いや、それは止まれでしょ。それじゃあ確実に捕まるから。こうだよ。
これ止まれなの? こう?
だからなんでいま阿波踊るの? 目立ち過ぎ。なら声出しても一緒じゃん。こうだってば。
踊ってないよっ。こう?
下手くそか。ま、なんか違うけどたぶんそれでいける。
は? 同じでしょ。
なんてふたりでちゃかちゃか手を動かして、それが凄く楽しくて、私達は暫くあははふふふと笑っていた。
「にしても敢えて横文字多用するとか。まぁいかにもそれっぽいし、恵美さんてやっぱこわいよね」
「べつにこわくはないでしょう」
「いやいや」
恵美さんだけじゃなくて、仕事となるとそんな感じになる人いっぱいいるんだよ今のオフィス。そう教えてあげると当然夏織は驚愕する。
「え。まじ?」
「まじよ」
「いやいやいやいや」
そんなのいかにも過ぎて超こわいでしょ。幸はかぶれちゃ駄目だからと夏織が真顔を向けてくる。
「ルーはだめだから。いるとイラつく」
「なぁにそれ? あはは」
そして、けどやっぱ転職したのが私じゃなくてよかったなありがと幸と、夏織は私ににっこり微笑んでくれながらも、自分の体を抱いて首をああああああと小刻みに振っていた。きっと怖さもあるけど、あー嫌だ嫌だと、くわばら的に思っていたのだろう。
「あー。怖かった。よっ」
がさがさ
私はご飯を頬張りながら夏織を見ている。
そしてやっぱり私はほんの少しだけ、こうした夏織の短い時間で色んなことを想像して忙しく移って行くその思考の素早さをもう少し仕事に活かせないものかしらと思ったりもする。そうすれば周りの見る目も違ってくるのになと。
ただ面白おかしく騒ぐ夏織を見ていても、それはとても楽しいけど、私からするとなんとなく、もったいないなぁとも思うから。
「ん? なに幸」
がさがさがさ
「なんでもないよ」
「そう。ならいいけどさ。これはなにかなぁ?」
ヨーチ美味いよ幸にもあげるはいどうぞ四つ置いとくね。あ、コレは食後のおやつだからご飯終わってからだから。先ずはご飯だからと、私が圧をかける間もなく夏織は笑顔でヨーチを食べ始めた。
「実はね、瓢箪とか小槌みたいなのが入ってるのコレ」
「動物なのに?」
「なのに」
夏織は頷いて、ほらコレ見てみて幸と摘んだその手を私に向けた。そう言われるともう瓢箪にしか見えないそれを、まじいみふだしと言いつつ口に入れて微笑んでいた。
「美味いからいいけどなっ」
今日は甘いお菓子を食べ過ぎでしょうにと思わなくもない。夏織は私が帰ってくる前にきんつばとアイスも食べた筈だから。
そう思ってはみても、実のところお見通しでも私はすっかり絆されたていた。
つまり私は罪悪感を微塵も抱くことなく笑顔満タン、嬉しそうにヨーチを食べる夏織にやられてしまったのだ。
つまり、圧をかけるも何も、私はその笑顔がいつまでも続きますようにと思わずにはいられなかっただけのこと。私は夏織に甘いから。夏織が嬉しいと私も嬉しいから。
「ちょろいなぁ私」
摘んだヨーチを見つめている夏織。そんだけ食べていればもう何が何かなんて分かるだろうにと思うけど夏織は夏織。そんな夏織を見ているといつもと同じく胸がいっぱいになる。
これから歳を重ねる毎に、今この時と同じ夏織はいなくなる。生きていくことは能動的でも受動的でも何かしらを経験することだと私は思うから、人はその影響を受けて、劇的にでも徐々にでも変わっていってしまうもの。
それは私も同じこと。極端なことを言えば、成長でも退化でも、一日だって同じ自分などいはしない。停滞などありはしない。
けど、どう変わってもやはり夏織は夏織だから、私の愛する夏織に変わりはない。代わりもない。
そこは絶対だと分かっているけど、どうかそのまま失くさないでと願わずにはいられない私の特別と目が合った。
「美味ーいっ…どしたの幸? どっか具合悪いの?」
「ううん。私は元気だよ」
「ほんと?」
「ほんとよ」
「そっか。よかった」
考え込んでいるうちに箸を止めていただけの私を不審がるなんて、夏織は私をどれだけはらぺこだと思っているのかと、それは心外ですね夏織さんと言いたいところだけどそれは事実だしその掛け合いも楽しそうだけど、可愛い顔を曇らせて私の心配してくれたんだから伝えない。私にはいま伝えたいことが他にある。
「ね。夏織」
「なに」
だから掛け合いの代わりに、私は夏織を見て湧いていた想いを口にした。
夏織のように伝えたいことを伝えておきたくなったから。これも事実だけど、いつ伝えても伝えられても嬉しい想いだし、そのひと言で私が抱いた色んな感情を簡単明瞭に伝えることのできるとても万能な言葉だから。
「大好き」
「ふへへ。私も好き。だから幸には特別にもう一個あげる」
照れて微笑む夏織が袋をがさがさとやって差し出したヨーチ。
超特別だからねと、ほらこれゴリラが手をついて歩いてる気がしないでもないでしょ。食べてもいいけどさちちの仲間だから仲良くねなんて本当に楽しそう。
「ゴリラ? これが?」
「ゴリラじゃん。さちち」
綺麗な指に摘まれたソレ。そう言われても私には牛かバッファローのようにしか見えないピンク色のゴリラ。
「はいどうぞ。超特別だから」
それが前の四つと一緒になっている所にちょこんと置かれた。もうそこ動物園だなって笑っている夏織がまたしても私の中の何かに触れる。私には本当に超特別な女性。
「超特別かぁ。ありがとう夏織。くくく」
「いいのいいの」
私が手を伸ばして髪を撫でると、夏織は気にすんなしとより一層はにかんだ。
その、可愛らしくも愛らしい夏織を目の当たりにした私が顔を赤くして、かはかはかはってなってしまったのは仕方のないこと。
「市ノ瀬さんなんか震えてるけど大丈夫?」
私と同じ転職組で四年目、三十八歳既婚で子持ちで子煩悩な男性、隣に座る鈴木さんが小声で私を気遣ってくれた。小声なのは恵美さんが怖いから。
けど案の定、私が大丈夫ですと返そうとしたその時、鋭い声が聴こえてきた。
「鈴木さん。なにかあるの?」
はい。残念でした。仕事モードで全てが研ぎ澄まされている感のある恵美さんを誤魔化すことはさすがにできなかったのだ。
その冷たい声に鈴木さんが震えていた。もう四年も一緒に仕事をしていても怖いものは怖いのだろう。
「ありません」
「集中して」
「はい」
私は夏織とのことを思い出し笑ってお腹が辛いだけだから、少し申し訳なく思って、鈴木さんにすいませんと小さく会釈をしておく。
鈴木さんは顔を端末に向けたまま、いつものことと、ひらひらと手を振ってくれた。
私も集中しないと拙い。なんと言っても私は新参者なのだ。だから私は頑張って、もう忍ぶことをやめた。
「ふぅ」
そして自分の端末に目を向ける。ミーティングの進捗状況をチェックしながら頭の隅で考える。
いや、それにしてもヤバかった。まだお腹は痛いけど。あはは。
「だから」
「でもですね、部長」
「でももへったくれもないわよ。なんでこのやり方の良さが分からないか私には分さっぱりだわ」
と、ミーティングが始まってからずっとそんな感じで見事に踊り狂っている。恵美さんを筆頭に、みんながみんな自分のやり方が一番だと自負している。
確かにこの環境は夏織には辛いだろうなぁと、私は夏織を想いながらも私も意見を言いたくてうずうずしているところ。
「いいですか?」
「なに? 市ノ瀬さん。何かあるなら、どうぞ忌憚ないご意見を」
恵美さんはいま夏織の言うところの仕事モード。たった今、まだここに来たばかりの私の存在を思い出したかのよう。
貴女はまだこの仕事を齧り始めた程度なのよと、億劫そうに顔を向けて、くだらない意見を言うつもりならそこに座って黙って聞いていて頂戴ねと私を冷たく見据えているかのよう。
夏織なら、じわぁと浮かぶ涙を目に溜めて、とっととトイレに駆け出しているだろう。本当に可愛いことこの上ない。
けど、私は平然と見返してやる。私を舐めてもらっては困る。私は新参者だけど即戦力として恵美さんに望まれてれここにいるのだ。
冷たい視線を絡め合う私と恵美さん。周りもじっと私を見ている。お手並み拝見といったところ。燃える。
「くくく」
やっぱりここは夏織には辛いだろうなと私は思わず忍び笑ってしまった。
私が馬鹿にしたと思ったのか、それに気付いた恵美さんの眉がくいっと上がった。さて。
「では遠慮なく。まず、恵美さんが合理的だと主張しているその部分なんですけど」
「ええ」
ばちばちと音がする。まさに丁々発止というヤツ。聴こえているのは私と恵美さんのふたりだけかと思ったらそんなことはないみたい。みんないいとても顔をして私をみているから。やはり燃える。
「無理がありますね」
「は?」
私の新しい職場は、その道を知る人は知っているグローバルな外資系企業。
私のところ、恵美さんの部署はほぼ日本人だけだから普段の会話は日本語でも、部署によっては諸外国の方も多くいる。そことのやり取りは基本メールでも英語は必須。
読み書きはともかく、会話は今はまだちょっと辛いけど私は平気、全然余裕。
使ってなくて忘れた言葉でもそのうち思い出すだろうし、私が負けず嫌いの意識が高い系で本当に良かったと思う。
「スピードでラーニングしてるしなっ」
「まぁね。お陰で思い出してきたよ」
「おー。さすが幸」
じゃあテストするから超簡単な会話しようと、夏織がううっんと咳払いをした。
喉の調子を整えているのだろうけど、そんな仕草も可愛いらしくも愛おしい夏織がそうする理由はいまいち伝わってこない。夏織のことなら何でも分かると言えないところがちょっと悔しい。
けどまぁ、なんといっても夏織は私の斜め上の下の横を歩く女性。
優秀で聡明な私の枠さえ超えているんだから、今はその悔しさは放っておいて、私はなんでも来いやと余裕の笑みを見せた。
じゃあくよと、言ったと同時に夏織はキッチンの方を指していた。
「ばすいすとだすっ?」
「へ?」
「ばすいすとだすっ?」
「えっと。その音、聴いたことある。なんだっけ?」
「もう、幸。今のはドイツ語だから。これはバスですか? でしょ。基本じゃん基本」
「なんでドイツ語? まぁいいけど、そうだったかなぁ?」
英語の話をしていたのになぜドイツ語なのか謎だけど、やはり夏織は夏織ということでそれはまぁいいとしても何かが違うような気がする。
私は学生の頃の記憶を辿って考える。
「これはバスですか? ばすいすとだすっ? じゃん」
「それ違うでしょう。これはなんですか? だよ。確か」
「は? ばすだよ幸。ばすはバスじゃん。だからバスでしょ」
「いいえ違います。ばすはヴァス。ホワットだからバスじゃないよたしか」
私は学生の頃の齧ったドイツ語の極々浅いところを思い出し、それを夏織に教えてあげた。
以前夏織の言っていた、しゅってエッジの効いた冗談なのかなとも少し思ったけど、どうやら夏織は本気でそう思っていたみたい。わなわなと震えてかなりの衝撃を受けている有様。
「ね。うそでしょ? ね、幸。ね、ね」
いつもはあまり気にしない夏織が珍しく慌てている。嘘だと言ってと私の肩を掴んでぐいんぐいんとやっている。
バーで何回か披露しちゃったし、誰もツッコミ入れてくれなかったし、思い出すとまじでこっぱ恥ずかしいし、私はそう理解して十年も生きてきたんだからいまさら変えられないからお願い幸ハリハリハリーと言われても違うものは違う。はい。残念でした。
「ごめんね。本当よ」
「くっ」
夏織は暫くのあいだ、くそうくそうとソファを叩きまくっていた。
「次、いくよ」
かなり暴れて満足したらしい夏織は気を取り直して、では次の問題、じゃーじゃんとか言い出した。
「クイズなの? 英会話じゃないの?」
「幸うるさい。いくよ」
「はいはい」
「いっひりーべでぃっひ」
「「ふへへへへー」」
見つめ合って一拍の間を置いたあと、私達はだらしなく弛んだ顔を上に向け合って笑った。愛しい夏織からの愛の告白は、どんな言語でも、いつされても嬉しいもの。
夏織はそれで満足したらしく、クイズはその二問きりで終わり。会話しないのと私は訊いた。
「夏織。会話は?」
「だってわたし英語話せないから。会話なんて出来るわけないし」
「えぇぇ」
「知ってるでしょ」
私は単語を連発するだけだし。ディスカウントプリーズとか、ホェアタンタラス? とか、マイファーザーアンドマザーリブイントーキョーとか。
父さんと母さんのことは訊かれたことないけどまぁそんな感じ。結構なるとかなるもんだよねと、話せなくてもなんかいけるよねと夏織は自慢げのどや顔だ。
「けど幸。私は縦は大事だと思う」
「縦?」
「うん。縦」
縦が分からないとか、なに幸もうかぶれちゃったのと、私は縦読み文化を大事にしたいしと、私に真顔を向けた夏織はやはり夏織。
私の想像の斜め上のその下の左横をいっているやや残念な女性のように思わせておいての実は私達のお互いがしっくりくるいつもの並びの定位置にいるという私の愛しい恋人なのだ。
「私は左」
「私は右」
「ばっちりだなっ」
「ねー」
私達は普段から、それこそ出逢った頃から傍に居る時や出かけて街を歩く時、今や毎晩ふたりで眠る時でも自然とその並びになる。どうでもいいことかも知れないけど、私達にはそれすらも嬉しいことだったのだ。
「だから、こちっちのやり方で進める方がウチのメリットも大きくなるわけです」
と、私が熱く力説すると、おー、ほー、と、周りから声が聞こえる。実は恵美さんの妹さんじゃないの怖くない? なんて声もする。
それは即ちさすが恵美さんが連れてきただけのことはあるね的なヤツだ。燃えに燃えた甲斐があったというものだ。
「うーん。なるほど。納得した。よし。ならその方向で進めます。みんなも、それでいいわね?」
「「「「「はーい」」」」」
「で、このクライアントは私が直で担当するけど、今までみんなのフォローに回ってもらっていた市ノ瀬さんには今回、私のサブをやってもらうことにします。いい?」
「「「「はーい」」」」
「じゃあ市ノ瀬さんは先ずその、みんなの案を取り纏めて精査したヤツを、そうね、休み明けの六日はちょっとアレだから、七日のお昼までに私に出してちょうだいね」
「はい」
よし、じゃあこの辺で終わりましょう。何もなければみんなとっとと帰ってねと言った恵美さんは、がたがたと席を立って部屋を出て行く中、私の横にやって来た。
「お疲れさま。やっぱり幸さんは優秀だわ」
「そこは否定できませんね」
「そうね」
「くくく」
「なに? 笑ったりして」
「いや、夏織みたいだなって思って」
「ほんと。真逆だけどね。ふふふふ」
「ですね。あはははは」
「真っ直ぐ帰るの?」
「はい。夏織がご飯と一緒に待ってますから」
「本当にはらぺこ幸なのね」
「そこも否定しませんよ」
違った仲良しねぇと羨ましそうにしているけど、恵美さんも陽子さんと仲良しなのは知っている。
お昼とか休憩中とかふたりだけの時は、恵美さんは嬉しそうに陽子さんとの話しをしてくるから。この鬼軍曹じゃなくて鬼大佐は、プライベートは何気に惚気体質。私もだけど砂糖を何袋もぶちまけるくらい。
「けど恵美さん、本気で夏織をここに連れてこようと思っていたんですか?」
夏織には若干いじめのようにも思えただろうその真意を、私は恵美さんに訊いてみたかったのだ。
一緒にミーティングルームを出て並んで歩く恵美さんが立ち止まる。
「まぁ、最初のうちは泣いたかもしれないわね。けど、幸さんがそんなこと言うなんてちょっと意外だわ」
出来ないと思うのかしらと、恵美さんはそんな顔をしている。けど、私はそれを心配している訳じゃない。夏織ならその気になれば何とかしちゃうと思うから。
「私はね、こういう環境に放り込まれても、夏織ならなんとかしちゃうと分かってるの。私はあの子の能力を疑っていないから」
だから本気で声をかけたのよと言ったあと、恵美さんは歩き出す。私もまた並んで歩き出した。
「でしょうね」
その通り。夏織はその気になりさえすれば必ず化けるだろう。力を抜いている今だって結果を出し続けているのだから、本気になったら私よりも…いやいや、私と同じくらいやれちゃうのは私だって知っている。
「それは私もそう思いますけど…」
けど、夏織は夏織。まず体力が無い。出したやる気も続かない、というか続けない。
そして夏織は私や恵美さんのように、やり遂げた仕事で得る達成感や充実感、それに伴う名誉とか称賛とか得る地位とか、そいういものに露ほどにも魅力も生き甲斐も感じていない。
夏織の場合、それで得るのは解放感だけ。
やっと終わった疲れたなと、私は頑張ったから甘くて美味しいヤツを今日は多めに食べちゃおうかななんつって、帰宅途中にそれをたくさん買い込んで、家に帰って仕事のことなどもはや忘れてゆっくりと、やっぱ超美味いなコレと、じゃあこっちのヤツはどうかなぁと、それを笑顔で頬張って、美味い美味いと満足するだけだから。
あはは。はい。残念でした。
「先ずやる気になるかどうか。夏織ならきっとこんなとこやってられるかって、とっとと辞めちゃうんじゃないかなと」
恵美さんは立ち止まった。まるで、忘れていた何か大事なことにいま気づいたように口があって形になっている。
そして頷いた。
「なるほど。そっちの方が可能性が高いわね。考えてなかったわ」
「いや、恵美さん。まずそっちを考えないと。夏織をどうやってその気にさせるか」
「うーん。やっぱりお菓子かしら」
「ですね。それも、お高くて飛び切り甘くて超美味いヤツを定期納入する感じですね。じゃないと絶対に無理ですよ」
「なるほど」
それなら上手くいくかもねと、私達は声を揃えて笑った。
その恵美さんと一緒にオフィスを出たのは八時少し前。
恵美さんは、連休前でみんなそわそわしてるし、仕方ないから今日はもう解放してあげたのよと本気で言っていたけど、いつもとあまり変わらない遅くも早くもない時間ですよと私は思った。
「では。私はこっちなので」
「夏織が待ってるもんね」
「はい。恵美さんはどうするんですか。 陽子さんは?」
「陽子は今日は夜勤。だからバーに行く。みんないるし、由子もいるし。たぶん美帆さんもね」
「由子?」
「あれ? その話、夏織から聞いていないの?」
当然、私は話を聞いている。去年の今頃、夏織が見つけて声をかけた女性のことだ。夏織が声をかけた若い女のこと。
たしか、インターンシップを使っているとかだから、そのうちオフィスで会えるだろう。そのとき太い釘を刺して、誰が夏織の恋人かをしっかり分かっておいてもらわないといけない重要な案件だ。
「いえ。由子って言うと、夏織がナンパして仲良くなったと思ったら、いま話に出た美帆さんとかいう別の女性に盗られてくそうくそうとなってしまったとかいうその由子ですか?」
「なんの話なの?」
かなりおかしく伝わっているわねと、恵美さんは呆れ顔で半笑っている。
そして私は思い出してしまった。この綺麗でとても優秀な恵美さんも、ナンパ目的で夏織に声をかけて、好きになった可愛くも愛すべき夏織をこっ酷く振った血も涙もない冷血女だったような?
「こわいこわい」
「確か恵美さんに夏織が想いを寄せたことがあったんですよね?」
「昔の話よ」
さらに呆れた表情になった恵美さんは、とても残念そうに私を見つめてため息を吐いたけど、私はこの人に夏織を盗られていたかも知れないのだ。
夏織は私の獲物、じゃなかったよすがなのだっ。
「がるる」
気付けば私は、夏織は恵美さんのことを好きだったんだよなと、このふたり、今はどうなんだろうかと、野生の本能の赴くままに探るような目を恵美さんに向けていた。いつでも飛びかかれるように身構えてもいた。だって私は馬鹿だから。
「まさか私を疑っているの?」
「夏織は私のですからね」
「いや、ちょっと。なんて言うか…」
「いくら恵美さんでも夏織は譲れませんよ」
「はぁぁぁぁ。幸さんてアレなのね。ちょっと意外。それになんか…」
「アレ?」
「なんか面倒くさいってことよ。それに、夏織の話になるとおかしくなるその思考の飛ぶ感じ、とても夏織っぽいよ」
「なななっ」
「けど、そこはそんなに気にしないで。私は仕事のことについては幸さんを全く疑っていないから」
「…そうですか。はい」
ならいいのかなと私は思ってしまった。
そのあと少し仕事の話をして、じゃあ休み明けにまたと挨拶をし合って、私はそのまま最寄りの駅に、恵美さんは地下鉄の駅へ向かう通路へと消えた。
ただ、その最後、優しい声でお大事にねと聴こえたのは幻聴だと思う。
「あ。そうだ」
私はスマホを取り出して夏織にメッセージを送る。ご飯ができていないと待っているあいだひもじくて辛いから。ここから家までの帰り道、とても苦しい私の戦いが始まるのだから。
ちゃちゃっとフリックして送ったメッセージにすぐについた既読に頬を弛める。そしてまたすぐに返って来たメッセージ。そこには、ご飯はお代わり自由だから。気をつけて帰ってきてねとあるいつもの言葉に満足する。
「よし。早く帰ろう」
その四十分後、無事、私達の最寄駅に着いた私は私らしく颯爽と歩いている。急ぎ足なのはお腹が空いて死にそうだから。
このままだと直ぐそこに見えるコンビニとかでついつい買い食いしてしまうような気がするから。
「あ。美味しそう」
ラーメン屋さんの前で立ち止りそうになるけど私の帰りを待っている愛しい夏織の元に帰るために頑張って左右の足を交互に出す。くっ、遮眼帯がほしくなる。
ああ、よちよち歩きから始まって、自然と身についたことがこんなにも難しいことだったとはっ。
なんちゃって。あはは。
家はもうすぐ、その角の赤提灯を左に曲がれば見えてくる。着くまでには恐ろしい誘惑、焼肉屋さんと焼き鳥屋とかがあるけどねっ。
「うわっ、いい匂い。くっそう。美味しいそうだなぁ」
「ただいまー」
「幸おかえりっ」
玄関で靴を脱ぐと同時にリビングの扉がばんっと開いて夏織が五歩くらいの廊下を突進して私に抱きついた。
私は余裕でそれを受け止める。夏織は自分で思っているほど重くも太ってもいないから。夏織はただ柔らかいだけで、女性として自分の理想が異様に高いだけだから。
それから私はその細い首筋に顔を埋めて夏織を確かめる。私のよすがを抱きながら、今日も何事もなく過ぎたことをありがたく思う。
「ご飯できてるよ」
「やったっ。私、もうぺこぺこなんだよ」
「知ってる。じゃあ、手を洗ってきてね。用意しておくから」
夏織は少しだけ見上げるようにして私に向けて微笑んでから頬に唇で触れた。
それから、ぎゅっと抱いていた私を解放してリビングへと戻っていく。幸も時間に正確になってきたとか、いいのか怖いのかよく分からないな、なんてぶつぶつと呟いて。
午後九時少し前。このひと月、私の帰宅時間はほぼこの時間。けど実はもう少し、あと十五分くらいは早く帰ってこられるのだ。
そう。お店の前で立ち止まりさえしなければ。
「あはは」
「ねぇ。いつも言うけどさ、そんなに減っちゃうなら夕方とかに少し食べればいいのに。それっぽくブランチ、とか言ってさ」
「ん? 食べてるよ?」
「あ、うん。そうだった。私それ知ってたな」
「なぁに。変なの」
「幸がな」
「いいえ。私は普通」
「へー」
もうすぐ今日が終わる。つつがなく終わる。それはただの日常の積み重ね。
大それたことがなくても、穏やかであればもうそれで充分幸せなのだと私は思う。
きっと、夏織もそう思っているだろう。
お疲れ様でした。ここまで来るとは流石です。ありがとうございます。
この先そのうちに彼女達の時間が飛ぶかも知れません。飛ばないかも知れません。誰が言ったか知りませんが、それはまさに、神の味噌汁、というところ。
「まじな感じのとこなんだけどさ、しはかたワカメついてる」
「まじ?」
「まじまじ」
「くっ」
「なかまなかま。よかったね幸。ワカメなかまじゃん」
「それはいやだなぁ」
「なななっ」
私は地団駄を踏んだ。
読んでくれてありがとうございます。