第六話
続きです。
よろしくお願いします。
「げほごほごほ」
私は今、ピタっとして冷えるヤツをおでこに貼って大人しく布団にくるまっている。
「ごほごほげほ、げはっ」
うう。咳とかほんと疲れるし、なんか寒いし頭もぼーっとしているし、鼻は詰まっているし喉も節々も痛い。
それでもさっき処方薬を飲んだから朝よりは少しマシな気がしているんだけれど。
「ゔー」
そう。私は風邪をひいてしまったのだ。
一昨日の夜から喉が変だな、なんか怪しいなと思っていたら案の定、今朝起きたら酷いことになっていたのだ。これはまさにあの、私はいつも風邪をひくのは喉からですというヤツだ。
昨日、のど飴を舐めたりこまめにうがい薬を使ったりエナジーなドリンクを飲んだりしたけれど、残念ながらケアをするのがひと足もふた足も遅かったようだった。
お゛ばよ゛ゔございま゛ず、ぶち゛ょゔ。がぜぴい゛だんでやずみ゛まず
声の調子に合わせて部長にメッセージを送ったあと、それだけでは何だからと律儀に電話で連絡を入れたのに、辛いならメッセージで遊ぶんじゃない、ところでお前は誰だ?と言われてしまった濁声で部長に今日は休むと伝え、本当に屋敷さんですか?酷い声ですね、ところでどちら様ですか?と言われてしまったアポを入れていた取引先の担当者にすいませんと連絡を入れてから、ふらつく体でなんとか医者に行ってきた。
その帰りに薬局で処方薬を貰い、コンビニでお粥とかお粥とかお粥とか百%のオレンジジュースとか、今や侮ることのできない美味さのコンビニスイーツをいっぱい買い込んで、プリンを半分だけお腹に入れて処方薬を飲んだ。
そうこうしているうちにお昼過ぎになってようやく私はベッドに転がることができて、いま布団にくるまって大人しく寝ているというわけ。
その間に、どこでどうやって知ったのか分からない幸が二回も生存確認のメッセージをくれた。
肉体的にも精神的にも弱っている私はついつい、無理、死んじゃうかも、助けて幸と甘えたメッセージを返してしまった。
「ゔー」
呻き声まで濁声とか酷すぎる。
幸いインフルエンザではなかったみたいだけれど、喉をやられて凄く痛いし、今朝は熱が三十八度を少し超えていたのだから辛いものは辛い。
おっかしいな、馬鹿は風邪をひかないんじゃなかったの、あっ、そもそも馬鹿は風邪をひいたことに気付かないからひかないんだったな、そういえば私はまあまあ優秀な女性なんだから、それなら私が風邪をひいたことに気付いてしまうのは仕方ないんだなと納得する。
こんなことを考えていることからも私の頭が熱でやられているのが分かる。
「げほごほっ」
暫くすると薬が効いてきたのか、私は少し苦しいながらもうとうとし始めて、いつの間にか眠っていた。
「やっぱりね。いると思った」
今日は居るかなぁ、居て欲しいなぁと思っていた人はやっぱり居てくれた。
「あ、夏織。またサボりなの?」
「まぁね。美術とかかったるいから」
「あきれた」
そこは懐かしい場所だった。
私は今、校舎の北側最上階に幾つかある空き教室の内のひとつの扉をがらがらと開けたところだ。
ここは埃っぽいし古い備品がたくさん積んであるから狭く感じるけれど、先生達は空き教室には鍵が掛かっていると思っているらしくあまりここに来ることはない。だから奥の方でこそこそしていれば授業をサボったり何かをするのには特に打って付けの場所だったりする。
「いいのいいの」
私が居てほしかった人、ひとつ上のせいちゃんは受験勉強の息抜きのために週に一回か二回くらいふらっとここにやって来る。ひとりの時は少しぼーっとして過ごしたり、友達や私のような知った顔の後輩が居たり来たりすれば、その人達と話をしたりしているようだった。
私は木曜日のこの時間だけ、せいちゃんに会えることを期待してほぼ週一でここに来る。そのためにサボれる授業がこの時間にある美術だけだから。
私は今、見た目はギャルぽっい、毎日を適当に生きている女子高生だけれど、大学には絶対に行くつもりだから美術以外の勉強、特に受験に必要な科目を疎かにするつもりはぽっちもないのだ。
「だめだと思うよ」
この、私が選択科目の美術をかったるいからサボるという理由は建前で、本音は別のところにあることをせいちゃんはもちろん気付いていない。サボってこの空き教室に来ても友人に囲まれたせいちゃんと話せないこともあるし居なくて会えない時もある。そういう時は、私はそっと扉を閉めて肩を落としてとぼとぼと美術室に向かう。
けれど、今日のようにせいちゃんとふたりだけになれた時は、私の中では週一のデートだと思うことにしている。
せいちゃんはそんなこと全く思っていないし、馬鹿な話をしたり真面目な話をしたりしているだけで特に何ということもない時間でしかないけれど、それでも私はこのせいちゃんと過ごす時間をとても楽しみにしているのだ。
「せいちゃんなんて受験生じゃん。そっちこそ、そんなんで大丈夫なの?」
「まぁ、それはそうなんだけどね」
そう言って微笑んだせいちゃんの姿は、教室に差し込む陽の光に照らされてきらきらして凄く綺麗だった。
私は思わずどきっと高鳴る胸を両手で押さえながら、やはり名は体を表すんだなと、くすりと笑ってしまった。
「くすくす」
「なにを笑ってるの?」
「な、なんでもないよ」
せいちゃんの名前は月島聖羅。名付けた当時はまだやんちゃだった両親によって与えられたキラキラした名前。
せいちゃんはこの、ムーンに代わってパニッシュメントしてしまうのかなと思わせるフルネームと下の名で呼ばれることを凄く嫌がるから、私はせいちゃんをせいちゃんと呼んでいる。
今ではせいちゃんもそれに慣れてくれたけれど、呼び始めた頃は、私がせいちゃんと呼ぶたびに、せい、の所で思い切り睨まれていたことが何度もあった。
私は忘れていたけれど、せいちゃん一家が引っ越すまで、せいちゃんと私はご近所さんだった。一緒に小学校に登校していたとか一緒に遊んでいたとかどうにも記憶が曖昧だから幼馴染みと言えるかどうかは微妙なところだけれど、私はせいちゃんの名前だけは忘れていなかった。
私は子供心に、いいなぁセイラでムーンまで付いてあのアニメと同じだなんて。ああなんて羨ましい名前なんだろうと、本気で思っていたからだ。
今はまぁ、ちょっとあれかなぁと思わないでもないこともないのかなと思う。
「あれ?どっちだコレ?」
「ん?」
そんな私がせいちゃんと再会したのはこの高校に入った一年生の時、二学期が始まった頃だった。生徒会役員をやっていたせいちゃんの名を、私は役員紹介名簿みたいなヤツで偶然見つけたのだ。
名前と朧げな記憶がすぐに一致して、私はさっそくせいちゃんに会いに行った。凄く綺麗になっていたせいちゃんは私の顔をまじまじと見ながら、んん?あなた誰?ってなっていたけれど。
「えーっ。もしかしてあの夏織ちゃんなの?私の前でアニメの主題歌とか歌ったり踊ったり決め台詞を言ったりして嫌がる私をよくからかっていた、あの夏織ちゃん?」
「えっ。いや、えと」
「ふふふ。冗談だよ」
せいちゃんはにんまりと笑った。私は何となく鬼気迫るものを感じてしまう。
「でも、いい?夏織。あの主題歌を歌ったり踊ったりしても、決め台詞を言うのも絶対に駄目だからね」
「わ、わかった」
私はこくこくと頷いた。せいちゃんはより一層、にんまりを深くした。私は確実に凄味を感じてしまう。
「あとね、フルネームと名前呼びも絶対に許さないからね」
「わ、わかった。せ、せ、せいちゃん?」
「…まぁ良しとしようかな」
せ、のところで私をきっと睨んだせいちゃんは優しく微笑んだ。
「本当に久しぶりね、夏織ちゃん。またよろしくね」
「うん。こっちこそ。せ、せ、せいちゃん」
一気に戻って来たせいちゃんとの記憶。その幼い頃の思い出も手伝って、せいちゃんの素敵な優しい微笑みに私はやられてしまうかもと、その時そんな気がしてしまった。
私がこうして妙に女性を意識してしまうのはせいちゃんで二人目だった。
初めて意識した女性は中学の部活の先輩だったから、ただの憧れとか敬愛と言えたかも知れないけれど、せいちゃんに会ったのは久しぶりだから、私がせいちゃんに抱いたものは憧れや敬愛とは明らかに違う別なものだと分かる。
これで今の私が抱えている、もしかしてと自分に向けている疑惑はいよいよ深まるばかりとなってしまった。
けれど、そう思った時点で答えは既に出てしまっていた。ただ今はまだ、そうとは気付かないだけで。あるいはそれを認めたくないだけで。
「いいものがあるよ。これ買ってきたから一緒に食べよう」
私が持つ袋には少し溶け始めてきたカップのバニラアイスがふたつと大福がひとつ入っている。それを袋ごと、いまだにきらきらしているせいちゃんの前にかざして見せた。
「よくバレなかったね。先生達、最近は休み時間中見張っているのに」
「それは裏の話じゃん。皆んなあっちから出てくからさ。普通に校門から出たら大丈夫だったよ」
「盲点ね。どこで何を見張っているんだか」
「ね。笑える」
「ふふふ。確かに」
「で、それは…なに?」
せいちゃんは今、私のしていることを怪訝な顔をして覗き込んでいる。私はその顔をちら見して可愛いなと思いながら今やるべきことを遂行していく。
「まぁ、見ててよ」
私はせいちゃんにアイスをひとつとスプーンで半分に切った大福を渡したあと、まずは自分のアイスの蓋を取って、そこに半分こした大福を乗せた。
続いて大福の中の餡子をスプーンで掻き出してバニラアイスと混ぜていく。それから餡子を掻き出した分だけアイスを大福の中に入れていった。
これで完璧。私は自分の仕事に満足して、気分良くクリーム餡蜜ぽくなった筈のアイスを口に入れた。
「んーっ。せ、せいちゃん、これはヤバい」
前からやってみたかったアイスと大福のコラボ。自分でやっておいてなんだけれど、それは驚くほどの甘さと美味さだった。
「嘘でしょう?」
「いや、全然嘘じゃないし。食べてみて」
私はバニラと餡子がちょうど良い加減で混ざっている甘そうで美味しそうなところをスプーンで掬ってせいちゃんの口元に差し出した。
せいちゃんは少し戸惑ってから、観念したのか、えいっ、という感じでそれを口に入れた。そしてすぐに驚愕の表情を浮かべた。
「ね。ヤバくない?」
「ええ。ヤバいわね」
「そうするとこの、クリーム餡蜜的アイスイン大福もたぶん相当ヤバいと思う」
私はアイスを詰めた大福を指で摘んで、いざ実食と一口齧る。
せいちゃんは固唾を飲んでもぐもぐやってる私と摘んでいる大福を交互に見ている。その瞳がとても忙しそうだ。
「ぐはっ。せ、せいちゃん、これもヤバい」
「ほんとに?」
「食べてみて」
私はせいちゃんの口元に指で摘んだままの大福を差し出した。今度は何の戸惑いや躊躇いもなくそれを齧るせいちゃん。
あれ?もしかしてそんなに食べたかったの?と私が思うのと、美味しいというせいちゃんの声が重なった。
「ね、かなりヤバくない?」
「ええ。かなりヤバいわね」
そのあと私達は、ヤバい、甘い、美味しいを連発しながら仲良くアイスと大福を食べていた。
「次はカステラとプリンなんていいかも。あ、ドーナツでもいいね」
「それはちょっと…」
「いや、いけるって」
「そうかなぁ」
週一とまではいかなかったけれど、せいちゃんとこうして過ごせたことはとても楽しかった。そのたびにせいちゃんをどんどん好きになっていった私を、私は酷く葛藤しながらも受け入れることにした。生まれ持っているモノには敵わない。無理には自分を変えられない。それを自覚して受け入れたつもりの私は決断した。
私はせいちゃんの受験が終わったら告白すると決めた。
好きという気持ち、想い、その感情が理性を上回ってしまったのだからもう手に負えない。私のした決断はまさに若さの特権というヤツ。
私は年相応の小娘で、精神的にまだまだ幼かったということだったわけ。
「うっ、ゔうぅ」
懐かしの場面が変わる。
明日からの冬休みを控え、終業式もホームルームもつつがなく終わった。それから結構な時間が過ぎて殆どの生徒達がいなくなった筈の校舎の一画、正確には美術準備室に私はいた。
「はい屋敷さん捕まえた」
「げ。先生。見逃して」
「ダメ。ついてきなさい」
私は日頃から頑張って逃げ回っていた美術の先生にあっさり捕まって準備室に連行されていた。先生は私が帰るために昇降口に現れるのを陰で見張っていたのだ。
「屋敷さん。あなた、欠席か遅刻のどちらかが殆どなのよ。分かってる?」
「はい。すいません」
「本当に分かってる?」
「はい。ごめんなさい」
私はこうしてサボリについて長々と説教をされたあと、冬休みの間に何でもいいからデッサンを一枚描いてきなさいと課題まで出されてしまった。
けれど先生は実はとても優しくて、凄く緩い条件を出してくれた。
「えっと、つまり、その課題をやればサボったことをナニしてくれるということ?」
「そうよ。あなたは他の科目については良い成績のようだから、私の科目で足を引っ張るのも可哀想かと思ってね」
「そんなことして先生は大丈夫なの?」
「あら。心配してくれるの?やっぱりね。あなたはいい子だと思っていたのよ」
「べべべつにいい子じゃないし」
「ふふふ」
「…あのっ、先生ごめんなさい。あと、ありがとうございます」
「ほらね、やっぱりいい子じゃない」
「べべべつにいい子じゃないからっ」
話はこれで終わりよと、先生は立ち上がって私を促した。
失礼しますと声をかけようとすると、私も職員室に戻るからとふたりで一緒に準備室を出た。
私は昇降口に、先生は職員室に向かうために並んで廊下を歩いていると、先生が、ん?と声を出して窓の外を見ながら足を止めた。私もつられて足を止める。
「へぇ」
「先生、どうしたの?」
「昔ね、あの金木犀の下で告白すると上手くいくって生徒達の間で噂になっていたことがあったの。かなり昔の話なのに、まだ噂を知っている生徒もいたのねぇ」
先生は窓の外を向いたまま、懐かしいわねとそんな噂話のことを教えてくれた。
「へー、そうなんだ」
それならあそこで告れば私も上手くいくのかな、なんて思いながら私は金木犀へと視線を向けた。その途端、私の恋は砕け散った。
その日、駐輪場の脇にある大きな金木犀の木の下にいたのはせいちゃんだった。いつも仲良さそうにしていた、せいちゃんがいつも嬉しそうな顔をして話をしていた男の子と一緒に。
「うううっ」
「はっ。はぁはぁはぁ」
うなされていた自分の声で目を覚ますと部屋は薄暗くなっていて、スマホの時計を見ると五時を回っていた。
私は部屋を見回してここが現実であることにほっとしながら、私の目の周りが少しだけ濡れていることに気がついてそれをごしごしと袖で拭った。
「ごほごほ」
「ごほごほ」
「……寝よ」
そう思ったもののとても眠れそうもない。
私は布団に潜り込んでいま見た夢のことを考える。
あのあと夜になってから、私はせいちゃんに会いに家まで行って、そこで私がせいちゃんを好きだと告白したんだっけ。馬鹿なの?
「超こわい」
せいちゃんは驚いたあと、無理、悪いけど気持ち悪いよごめんねと言ったんだよね、確か。
それで私は、私は、えっと……私は泣きながら家に帰って、それでお終いだったかな。
それ以来空き教室でせいちゃんと会うこともなくなった。受験があるし三学期だから三年生はあまり学校に来ないから。けれど理由は別にあるし、それはまぁ当然だと思う。
ただ一度だけ、そこに居ることを期待して空き教室に顔を出してみたことがあった。
確か、どうしても話したい衝動に駆られて居ても立ってもいられずにコンビニまで走って大福とアイスを買ってから、学校まで走って戻ったあとそのまま廊下を走って階段を駆け上がって、空き教室の扉を思い切り開けたんだっけ。
「せいちゃんっ」
そのあと続けたアイスと大福買ってきたよって言葉は弱々しく消えてしまったんだったな。そこには誰も居なかったから。冬の陽だまり、それと埃と備品が積んであるだけだったから。
ちょっと特殊だけれど、側から見れば振られて終わった世界中のどこにでも転がっている話。
当時は振られたことよりも言われたことの方が何倍もキツかった。
それでも私にとっては大事な大事な恋の話。
馬鹿でも超こわくても無理でも気持ち悪くても、私はそれを叶えようと一所懸命頑張ったのだ。
「そんなこともありました。懐かしい」
それにしても、体が弱っているからこんな夢を見てしまうのだろうか。せいちゃんは今、どこでどうしているんだろう。
そうは思ったけれど、それこそもう十年以上も前の話だから私は特に引きずっているわけでもない。
「どうでもいいか」
私は女性だからちゃんと上書きできている。それに生理的に受け付けないもの以外になら、私達は何ものにでも染まれるものだ。消えてしまったものといつまでも同じ色でいることはない。せいちゃんの色はとっくの昔に落ちているのだから。
なら、今の色は……
幸。ああそうだ。幸はいま何をしているんだろう。
「幸に会いたいな。よし、早く治そ」
私は一度ベッドを降りて汗で湿ってしまったスエットを脱いだ。
それからタオルを出して体を拭いて水を飲み、あらたなスエットに着替えてから再び布団に潜り込んだ。そして私は幸のことを考えることにした。
「ごほっ、ごほごほ」
読んでくれてありがとうございます。