第六十八話
続きです。
ふふふ…
よろしくお願いします。
「「おおー」」
私はきゃあなにこれ超素敵と、幸は夏織見てほらこのボリューム、メニューの写真より凄いよと、互いの前に置かれた注文した品に、私と幸は思わずといったふうに揃って声をあげた。私達は凄く仲良しだから。
店員さんがどうですウチのは凄いでしょうと誇らしげにして、ではごゆっくりどうぞとボナペチ的に言ったあと、最後にふふって笑って去っていくような気配を感じたけれど、目の前の美味そうなヤツに釘づけになっている私と幸にはそれを気にする余裕はない。美味そうなヤツを前にしてテンションの上がらない人間などそうはいないのだ。
「ねぇ早く食べようよっ」
そのテンションMax、早くも置かれた料理を手に取った幸は、ぷるぷる震えながらいつの間にか私がその係になっていたいただきますを待っている。
私にはそのつもりはなかったけれど、あたかもお預けを喰らってひーっ、ひーっと、切なく鼻を鳴らしていたタロにしか見えない様だ。
「タロか」
「いいから早く早く」
「だなっ」
はらぺこがその全身で早くしろよと伝えてくる圧に少しこの身を引きつつもそれは私も同じこと。
「じゃっ」
「うんっ」
「いっただっきまっす」
「いただきますはぐっ」
言い終わると同時に齧りついた幸。はぐっ、までがひとつの単語のよう。
言葉を創っちゃうとはさすが幸だと感心しながら私は優雅にナイフとフォークを手に取って、早る心に大きくひとつ、落ち着け私と深呼吸をした。
「よし。では実食ということで」
私のヤツは、それはそれは見た目からしてフルーツとかフルーツとかが満載の、彩り豊かで一口食べれば私の味覚をうりゃうりゃってやってくるだろうと分かる甘くて美味そうな素敵なヤツ。
「えいっ」
それをすうっと切ったナイフをお皿の端に置いてから、持ち替えたフォークでもって突き刺して、私は敢えてゆっくりと、優雅な感じで口に運ぶ。
これは絶対に素敵な出逢いだから最初が肝心。慌ても焦っても駄目。じっくりと。そう。じっくりとよく味わって、というヤツだから。
「あーん。むふっ」
口に入れたその瞬間から私の口の中は、ハーモニーとかなんだこれはで幸せいっぱい。気をしっかり持っていないとあまりの美味さに意識が持っていかれてしまいそう。
向かいでは、幸が見た目からしてお腹がいっぱいになりそうなボリュームのある、パストラミがたっぷり詰まったサンドのひとつ目に齧りついている。
幸はそれをはぐっと口にした途端、むふっと声を漏らしている。既に弛んでいたけれど、更に幸せそうに顔を弛めた幸は凄く可愛い。
もしかすると幸は、私のこと以外ではその瞬間のために生きているんだろうなと思わせる至福さを見せている。美味くてよかったね、幸。
「んー」
一方わたしも負けてはいない。
噛んだガレットの表面はさくっとしながらも中はしっとりとしているソレに惜しげもなくかかっているのはメープルシロップ。
既に感じている旬なフルーツの自然な甘さと香りを殺さない、塗れたメープルの甘さの中に少しだけ塩味を感じるこの生地とフルーツの相性は抜群だし、ふわりと優しく鼻を抜けていくメープルの香りも言うことなし。
そこにバニラアイスを絡めればコイツのさくっとはしねしねになるし、フルーツの甘さも更に倍。なおのこと美味いのは間違いなし。
甘さが続けば箸休め的にベリーだけを摘んでみたり、バニラアイスの隣に控えたレモンシャーベットの酸味でもってリセットされるこの心憎さ。混ぜればそれが一体となって、甘さ控えめさっぱりといただけちゃうとかなおオッケー。
やはり今回のこれは、文句なしの素敵な出逢いだと私は納得した。
「んぐ」
私は最初の一口を惜しみながら呑み込んで、賞賛を贈るためにフォークを一度お皿に置く。
もちろん先に置いたナイフの反対側に。揃えて置いたら下げられてかもしまうから。そんなことをされては堪らない。私はそれこそ気絶してしまうだろう。ではっ。
「うっまーい。幸、コレすっごく美味いよ」
「むふふ」
幸はまた一口とサンドを頬張っているから、鼻から空気を抜くように笑って、よかったね夏織と微笑む顔を向けてくれた。
「うまうま」
「むふっ、むふふふふ」
ということで、四月も半ばを過ぎて、短い春が足早に満開になろうとする週末のお昼前、私達はカフェにいて、幸はわっふわっふとご飯を食べていたタロのように、私はどこかのグルメリポーターとか孤独じゃないけれど美味い美味いとひたすら食べるあの人のようになっているところ。
今朝起きた時、幸が行こうと誘ってくれたから、朝とお昼を兼ねたご飯を食べにここにやって来たのだ。
朝と言うには少し遅い時間に仲良く目を覚ました私達は、おはようと挨拶を交わしたあと自然の呼ぶ声を無視して暫くベッドでいちゃいちゃしていた。
「ちょっといい?」
「なぁに」
私はこの家で暮らし始めてから、あれあれこれはもしかしてと、触れるたびに感じていたことを確かめたくて、幸の胸に顔を押し付けながら手を脇に持ってきてそれをくいくいっとやってみたのだ。
「これってやっぱそういうこと?」
幸は私のいつもの甘えタイムだと思ったようで文句も言わず私の好きにさせてくれたけれど、私がくいくいってやっていたあいだ、いつも堂々と張る胸を少し丸めていたのはたぶん少しでもナニのところに弛みができるように頑張っていたからだと思う。
バレてるからな幸ったら浅はかだなぁと笑っちゃうけれどその気持ちはよく分かる。嫌でも私には分かってしまうのだ。
だって、ちょっとのことでは動じない、びくともしない動かざること山の如しなこの私でも……あ、いや。ちょっと待った。山はないから。山はなんか嫌。
「えっと、たいたいたい…」
そう。ぴくりともしない泰然自若なこの私でも、例えば服を試着をする時とか幸が無遠慮にお腹を摘んでくる時とか、よせばいいのに二年くらい前に買ったパンツを履いてみようと思い立っちゃった時とか、本来のナニよりもワンサイズは下に思われようと、思いたいと頑張って、お腹をぐってやって引っ込めたくなるのだから。
「それなー」
思わず出た言葉が棒読みのようになったのは仕方ないの。だって昔と違って私は最近そんな涙ぐましい無駄な努力をしょっちゅうやっているのだから…いや、泣くし。そんなけな気さとか絶対泣くし。
「うぐ」
いやいや今は幸のことと、私が涙を堪えてくいくいってしていると、依然として慣れ親しんだ愛着のあるかちかちではあるものの、またほんの少しだけ柔らかく膨らんでいる感触が伝わってくる。そして私は分かってしまった。
「幸、太った?」
「はあ?」
何を馬鹿なと幸は呆れている。
まぁ、言った私もそれはそう。私はそう言ってみたかっただけ。幸に限って太るとかまじあり得ないから。
「だよね」
「そうよ。むしろ少し痩せたんだから」
「はあ?」
そんな馬鹿なと私は震えている。すぐにあえいおうと声を出す。それを繰り返す私のことを幸がますます呆れているけれど気にしない。
「あえいおう。なんだよちゃんと聴こえるとか。くそう」
私は今、私の耳がおかしくなっていないことを確認したの。藁にもすがる思いの私には、それはどうしても必要なことだったから。
「幸。まじ?」
「まじまじ」
「はぁ、これだよ」
「あはは」
あははと笑うこの女、あれだけ食って痩せたとかまじあり得ないんですけどと私は思いつつもやはり幸は幸なんだなとも思わされるこの不条理さ。くそうくそうと包まる布団をばんばん叩きたくなる。
けれど平気。その不条理も今のところは、だから。
そうやって我が世の春と馬鹿みたいに笑っていられるのも今のうち。盛者必衰は世の常ならむというヤツだから。
「だな」
なぜって、いずれ歳を取れば代謝のバランスは崩れるもの。たとえスーパー幸でも人間である以上、その理からは逃れられはしないのだ。
つまり、幸のお腹をぷにぷに摘んでなかまなかまと笑ってやる日がやがて来る。絶対。
私はそう信じているし、もしも私達から目を背けていなければ、天に御坐す筈の神は片手間にでも全てを見ているのだから。まぁ、たぶんだけれど。
現状を知っていて敢えての試練など私は、私達は要らない。私達はもう、いっぱいいっぱい耐えてきた筈だから、そろそろ少しずつでもいいから報われてもいいと思う。
「あーあ。居るならちゃんと見てくんないかなぁ」
「夏織。大丈夫?」
「うん。私は大丈夫。幸がいるから」
「なによもう。夏織ってばこのこのぉ」
「いてて。痛いから突くなって」
私はその考えに希望を託し、いつか絶対笑える筈だしその暁には遅えよと文句を言いつつ笑ってやるからなと、その期待を胸に秘めて今はただ幸を褒めてあげることにした。私は性格に少々難ありでかなり気まぐれな人だから。
ああ、そこは幸も分かってくれているから大丈夫。だからこの先も私は幸にだけは嫌われたりなんかしない。第一それで嫌われてしまうくらいなら、そもそも幸は私を好きになってくれていない。
そして、それは私も同じ。幸の少々面倒くさいところもひっくるめて全部が幸なのだから、私がそんなことで幸を嫌いになる筈がない。それを補ってなお余りあるいっぱいの魅力を、愛しの幸は持っているのだから。
「ね」
「うん。うん? え? 嘘。待って夏織。私って面倒くさいの?」
「わかってるでしょ」
今さらなにを的に私が呆れて首を横に振れば、幸は信じられないといった顔をする。冗談にしても笑えない。
「いいえ。全然。まったく。あり得ない」
「はーはーはー。幸ったら面白くないなっ」
「なななっ」
いつものように固まった幸。その姿が私の中の何かをきつく掴んで離さない。そうやって、意図せず私の感情を強く揺さぶってくる間の抜けた顔を晒す幸。なんと無防備であることか。
そして私はこれからもずっとこの愛すべき女性、可愛らしくもぽんこつではらぺこ幸と過ごしていけますようにと、どうかどうか今よりも先に進んでいける素敵な道を愛しの幸に、できればついでに私にもくださいと願ったのだ。
ちゃんと御坐しているかも知れないから、もしかしたらまじで叶えてくれるかも知れないから、私はそう願わずにはいられなかったのだ。私はご都合主義の調子のいいヤツだから。
普段からストレートの人達と同じように笑って泣いて過ごすだけの私達はみんな、抱えたモノについて、決して陰口を叩かれたり蔑まされたり差別をされたりしていいような人間じゃない。悪いことはしていない。恥ずべきこともしていない。在るがままでこの社会にいるだけなのだ。ただそれだけ。なのにっ。
くそう。私はもう、それの何が悪いのかいい加減考えるのにも飽きてきた。だからお終い。いつものように頭から追い出すだけ。消えろ。
「やっぱりな。少し大きくなってる」
この辺とか。私は幸の横乳をくいくいとやる。私の頭は既に切り替わっているから大丈夫。
くいくい
幸は少しくすぐったがりながらもご満悦。嬉しいことには素直なのだ。私と同じで単純なのだ。
「そうなんだよね。えっへん」
「あ、戻った。幸。そうやって胸を張っちゃだめ。せっかく増えた分がどっかいっちゃうから。幸は周りから無駄な脂肪を集めて寄せて上げられないんだから。増えたのはまじほんの少しだけだから」
「なんだとー」
「あたっ」
ぽかりと私を叩く幸。それでも幸は嬉しそう。都合よく、大きくなったの言葉だけが頭に残っているのだろう。
いくら幸が完璧女史であっても悩みはあるのだから、希望が見えればそうなるのも当たり前。ただ気になるのはやはり、思考回路が私に似てきてしまっていること。それはまさにインフェクションというヤツ。
私のウィルスなんかに負けるな幸と私は思った。幸は幸。私は大人としては駄目な方だから、私と同じになっては駄目。
「そうだなぁ。まぁ、これくらいかな」
私は指で五ミリあるかないかの微妙な隙間を作ってみせた。
けれど、その倍は一センチ。だとすると、もしもこのまま順調に、幸の胸が育つようなことがあれば、いずれ幸は、ちゃんとAカップだよと言えるようになるのかも。
「幸。よかったね」
私はもう一度くいくいっとして、うん大丈夫、あるあると言ってあげた。
「あるある。いけるいける」
誤差ほどの五ミリ程度の成長とか実は成長していなかったとか、形や厚みがどうであれ、私は幸の胸が大好きだからべつにどうでもいいけれど、幸が嬉しいのなら私も嬉しい。
「あーもう。そうやって馬鹿にして。夏織なんて相変わらず柔らかくて気持ちいいくせにっ」
ここ。ほら。夏織の柔らかさには敵わないよと、励まされたお返しなのかなんなのか、幸の奴は遠慮なく私の胸…じゃなくてお腹のナニをぷにぷに摘んでそんなことを言いやがった。
「あ。うっせ。とりゃ」
「あだだだだ」
「その手を離しやがれ」
「いやよ。あはは」
「くっ。くそう」
こんなふうにいちゃいちゃしたあと、さて、そろそろヤバいから、先ずはトイレに行かなくてはと思ったところに天気もいいしたまには外で優雅に朝ご飯を食べようよと幸が言ったの。
「それはいいけどさ。どうしたの?」
「駅の向こうのカフェあるでしょう。オープンテラスの」
「うん。ある」
中庭がオープンテラスになっているそのカフェのパンケーキは中々のもの。美味かったから何度か足を運んでいるし、目印的な意味での私の地図にもなってくれている。
そのカフェを左に曲がって道なりに、暫くとことこ歩いて行くと商店街が見えくる。そこをさらに越えてまたとことこと歩いて行くと今度は大通りに出る。そこをまた左に曲がって少しとことこ歩いて行くと、私達の使う最寄り駅とは違う地下鉄の駅に辿り着くのだ。
「ウチは二路線使えるんじゃん。超便利じゃん。ね、幸」
「だねー」
なんつって、私はそれを発見した時、なんだかこれは自慢できちゃうなと思ったけれど、わき目も振らず黙々と歩いても私の足では三十分はかかったから、幸はともかく私は一度しか歩いたことはない。
まじ大変だったから幸とふたりで休日とかに、あっちのお店こっちのお店とふらふらする以外には、私はたぶん二度とひとりでは歩かない。私は軟弱者なのだ。
「私とふたりならいいの?」
「そうだよ。楽しいし」
「そっかそっか」
「それで幸。あのカフェがどうかしたの?」
「あそこ、今月から土日限定の特別メニューを始めたみたいなの」
「へぇ。そうなんだ」
「で、そのメニューにスイーツもあったの」
「まじでですか?」
私はトイレに急ぐことも忘れて幸を見る。スイーツと言われては放っておくことはできないのだ。
「まじまじ」
チラシを配っていたんだよね、無意識に捨ててなければまだバッグにある筈だよと幸は頷いた。
「そんな大事なモノ捨てちゃだめでしょ」
「捨ててないって。たぶんね。くくく」
物的証拠があるのならあとで確認するとして、どうやら確かな情報らしい。
素直でちょろい私を騙して、あ、残念だけど今日はやってないね、じゃあまた歩き回るのもなんだしあそこにしようかと、お昼前からその辺りの焼肉屋さんとかトンカツ屋さんに連れて行くつもりはさすがにないように思える。まだ開店していなければ並ぶ羽目になってしまうし。
「あ」
そうだった。私は既に二度くらい、そうやって幸に騙されいるのだ。
定休日だなんて知らなかったんだよーと薄ら笑っていた幸にそのつもりはなかったみたいだけれど、私達は結果だけを重視される社会人だから、私が酷い目に遭わされた事実だけが重要であってそんな言い訳など私の知ったことではない。
「あっ」
そうだった。一度なんて実際に、お店が開くまで寒風吹き荒ぶ寒空の下で幸とふたりで一時間近く並んだのだ。そのあいだ、もう開くよ大丈夫だよあと五分かななんて微笑む幸のことを、私は愚かにも信じて待っていたのだ。このっ、風避けにすらならないほっそい薄っぺらぺらな幸となっ。しかもっ、愛するスイーツのためでなくたかだか揚げた豚肉のためとかっ。
いや、私は揚げ物も好きだけれども。
「くそう」
そんなことを思い出したら腹も立つというもの。気づけば私の両手が拳を作っている。なるほどそれならこうするほか致し方なし。
「このっ、このっ」
「あた。ちょっと、いきなりなに? あたた」
「このっ、行こう行こう詐欺師めがっ」
「なによそれ? あたた」
あの時はよくもよくもと怒る私をまぁまぁと手の平を向けて宥めつつ、幸が続きを話したそうにしている。たとえ幸が私を嵌めた風避けにすらならない役立たずでも、弁明の機会を与えてあげるのは素敵な大人の女性として当然こと。私は先を促した。
「でね、今週は季節のフルーツガレット二種類のアイスを添えて、だって」
「え。なにそれ超美味そう」
幸は素晴らしいことを教えてくれた。
その幸がしてやったりな顔をしていても、そんな魅力的な話をされてしまえば私の怒りなどどこかへ消えてしまうというもの。
「それで、いつも私のこととか家のこととかお世話をしてくれてありがとうの感謝の気持ちと愛を込めて、そこは私の奢りなんだけど、どうする? いく?」
「いくっ」
こうなるともう私は止まらない。私は返事とともに速攻でベッドから抜け出して、ほら幸、早く支度をしようぜと幸の腕を取ってぐいぐいと引っ張った。幸は私にされるがまま体を起こしながら優しく笑っている。
「幸、早く起きてっ。無くなっちゃうからっ」
「はいはい。起きるよ。あはは」
寝坊助幸はちゃんとベッドから出てくれた。長い手足をぴんとして、うーっと気持ちよく伸びをしている姿はさすが様になっている。
私は満足してトイレに向かう。さっきから自然に呼ばれているのだから、先ずはその用事をさっさと済ますのだ。
「いそげいそげ」
「あ、待って。私も行きたい。こういう時はじゃんけんだったでしょう」
「なっ。今そういうのいらないからっ」
私は足を早めた。だって無理だから。私の限界は近いのだから。
がしっと掴まれそうになる腕をすり抜けて、先に行かれてなるものかと焦る私の背後でくくくくと、幸の忍び笑いが追いかけてくる。
怖い。何時ぞやのデッドヒートのようなことは、今はまじで勘弁してほしいところ。
「夏織ってさ、たまに素早いよねー」
私よりも。なんて幸が私をからかってくる。切羽詰まれば人は限界を越えられるのだ。私の場合は、おお、これが幻の六速ギアかぁ、私にもあったんだなって感じ。
「けどまじで焦ったからな。ていっ」
「おっと。はい、残念でした」
「くそう」
「冗談なのに慌てちゃって。けど可愛かったよ」
「ふんだ。ベー」
「かは」
早くしないと売り切れてしまう。そう焦っていても私達は女性。私達には譲れないもの、譲ってはいけないものがいっぱいある。
だからその四十五分後、頑張って全てを整えてから、今やようやく私達のと言えるようになった街をふたりで並んで歩いてそのカフェに向かう途中、ていていやって幸に文句を言いながらも私は件のフルーツガレットを思い浮かべては涎を呑み込んでいて、かなり忙しかったのだ。下手したら気管に入って咽せていたことだろう。
「夏織。涎。出てるよ」
「あ。それでか。なんか喋りにくいと思った」
「なにそれ? あはは」
幸が笑っている、というか笑われたけれど気にならない。涎が出るのはいいことだし、楽しく笑うことは凄く大事ないいことだから。
と、咽せることなく無事にカフェに着いて、待たされることなくテラス席に案内されてメニューを開くと、そこにはちゃんと美味そうなソレがあった。
「私はこれを」
「はい。限定のフルーツガレットですね」
私は大人で素敵な女性っぽく優雅に頷いておいた。限定ってまじ素敵だな、早く食べたいなって思いながらも、向かいに座る幸のようにがっついている姿を見せるのは女性として駄目だと思ったから。
「どっちにしようかなぁ」
「どっちも分厚いでしょ」
「あ、そっか」
私はお目当てのものを、幸は少しのあいだ分厚いお肉とぺらぺらなお肉で悩んでいたけれど、私の指摘にどちらも分厚いサンドに変わりないことに気がついたらしく、店員さんにお勧めされたぺらぺらな方をチョイスして注文を済ませたのだ。
ぺらぺらとか。
「ふふふ」
なんか共食いみたいだなと私はこっそり笑った。
「ね、幸。まだかなぁ」
「もう。いま頼んだばかりでしょうに」
そして料理を待つあいだ、幸は暖かい日を浴びて気持ち良さげにぼーっとしたり伸びをしたりしていた。私は虫が少し気になるけれど幸と同じように、緑だなぁと思いながらぼーっと庭を眺めていた。
思い思いに何かしていても、黙っていても苦にならない。やはり気を置けないと凄く楽。
きっと、幸もそう思っているだろう。
「ふふふ」
「だね」
「楽しいなぁ」
「ねー」
幸と一緒に美味いヤツを待っている。そんなことでも私は楽しい。思わず漏れた心の声。幸もそう思っているみたいだから余計に楽しい。
私は幸が落ち着くまでは、休日でもこうやってゆったりまったりできないだろうなと思っていたけれど、転職した幸がばたばたしていたのは最初の一週間かそこらで、今は早くも落ち着いている感のある不思議。
「どう? 大変?」
「え、もう慣れたよ。ねぇ。これ、お代わりあるの?」
「そ、そうなんだ。さすが。お代わりあるよ。ちょっと待ってて」
「やったっ。ありがとう夏織」
「いいよ」
毎晩九時頃に帰って来て、夜ご飯をもりもり食べて余裕の笑みを浮かべていた幸はさすがの幸。
平日は忙しくしているものの、帰って来てもため息を吐いたり頭を抱えたり、ましてやベッドに入ったあと、夏織ぃ、思っていたよりつらいよぉ、恵美さんたら鬼酷いんだよ慰めてよぉと泣き言も言わず、今までと変わらずに私を愛してくれる余裕まである幸は、特に苦労することもなく新しい仕事を普通にこなせているようなのだ。あの恵美さんの下でっ。
「まじ、で、眠ら、なくっ、てへい、んっ、きな、の?」
「なにが?」
「んんっ。いや。んっ、なん、でもっ、んっ、な、いよっ」
「うふふ。かわいい」
夜、私達の秘め事のいつもの構図。毎晩でなくても、へろへろのへろになって堪らずしがみつく私と攻める幸。みたいな。
私は仕事で少し面倒なことになったけれど、それは、結果としてはほぼ相変わらずだし得したし、つまり私達の暮らしは始まったばかりだけれど頗る順調なわけ。
「うまーい」
「おいしー」
「ね。ふふふ」
「ねー。あはは」
こんな感じだからたぶんこれからもずっと。と、言いたいところだけれど、私に予知能力はないからこの先私達がどうなって行くのか私は知らない。分からない。
私が分かっていることは、私が知っていることは、愛しの幸が、私が人生を閉じるまで私の傍に居てくれるということだけ。
幸は、夏織がいるから私は頑張れるんだよと言ってくれた。私達はふたりでひとつ、そう感じたよと、今回、転職したことでそれがよく分かったよと言ってくれたのだ。絶対に離さないからねときつく抱き締めてもくれた。
それは私も同じこと。帰る場所が、拠り所があるから私は私なりに頑張れるのだ。
それは私には凄く特別なものだから、それをくれたお返しに私も愛しの幸の傍に居る。幸がその人生を閉じるまで。
まぁ、お返しなんて言ったけれど、結局のところ、私が幸の傍に居たいのだからそれは当然のこと。
それだけが今わたしが知っている確かなこと。私達のあいだに在る、揺るがないもの。
自分の中だけで極めた想いとか覚悟とか、目に見えない言葉だけの、互いに相手を信じていなければ伝わることもない曖昧で頼りないものを結ぶ赤い糸のようなものだけれど、私達の赤い糸は呆れるほど丈夫なヤツだから、絶対に切れないし、何者も切ることのできない凄いヤツで私達は繋がっている。
だから私達は大丈夫。何があってもいけるいけると私は思うわけ。
「ごちになりました。ありがと幸」
「いいの」
「お礼に今夜はお肉にするから」
「まじ?」
「まじ。お肉。和牛」
「やったっ」
私達はお腹いっぱい、私はガレットに、幸はパストラミサンドのこれでもかってくらいのボリュームにお腹のついでに心も充たされてカフェを出た。
「どうする? てか、お肉買って帰ろうか。幸は勉強しないとだから」
そう。幸はこの先試験を控えているのだ。せっかくの休みだけれど、幸にはやるべきことがある。
いくら楽しくても幸の邪魔は今は駄目。私はちゃんと弁えるのだ。ま、私は洗濯以外、特にやることはないけどなっ。
「ねぇ夏織。今日はもう少しふらふらしようよ。デートしよデート」
まだこの街で行ってないところがあるからその辺を探索しようと幸が言う。
「えっ。いいの?」
「いいよ。当たり前でしょう。ほらっ」
幸が私の背中を押した。そっちは私達の家とは反対の方向の、まだ行ったことのないエリア。
「早く」
行くよと幸は笑っている。元々そうするつもりだったのか、さっきの私の心の移ろいを感じ取ってくれたのか。
「ああ」
たぶんその両方なのだ。
私は幸が押してくれた方へとことこと歩き出した。その横に幸が並ぶ。
木々は少ないけれど、確実に緑に染まりつつある私達の住む街の様子が目に入ってくる。
「ありがと幸」
「夏織はそんなこと、気にしなくていいの」
「うんっ」
「じゃあ行こう」
「おー」
また幸に甘えてしまったけれど、幸のことだから勉強のことはしっかりと考えているだろうから、何にしろ私はもう遠慮はしない。
なんか楽しいねと、幸と並んて暖かな陽の降り注ぐ街を歩いていく。
こっちは何があるかなぁ、何だろねぇ行ってみよっかと、わくわくしながら、互いに肩とか腕とか手に触れながら、私達は進んでいく。
それを抱かれたり絡ませたり繋いだりできないのは残念だけれど幸が誘ってくれたのだ。
「んーんーんー」
だから私は今、嬉しくて堪らないの。そりゃあ、鼻唄も出るというものだ。
「あ、そう言えばさ」
「なに?」
「先週から新人の面倒みてるでしょう。どう?」
「どうってべつに。実際に彼女のお世話してるのは補佐の吉田君だし」
丸投げ。私が課長に押し付けられた、うちの課に配属された今年の新人の指導係とかいう面倒くさいヤツを、私は吉田君を私の補佐に任命して全てを任せたのだ。ちゃんと課長に許可は貰ったから大丈夫。
「そんなわけで吉田君。よろしく」
「…うす」
「これあげる」
「…うす」
と、吉田君は嫌な顔ひとつだけして引き受けてくれたのだ。ヨーチの賄賂も効いたみたい。けれどそれだけだとなんだから、吉田君にはそのうちお昼を奢ってあげようと思っている。お財布的に課長も誘って。完璧。
「そ。けど夏織。浮気すんなよ」
言っておくぞ、分かってるよな、みたいな真顔でそんなことを言う幸は面倒くさい。
「幸さぁ」
大体において私はモテない…くっ。泣くぞっ。
それに、一途に幸だけを愛する私が浮気なんてする筈がないのだ。
「ほらぁ。やっぱ幸って面倒くさいじゃん」
「なぁに?」
あらぁ。やっぱ私が幸に移ってるじゃん。
呆けた顔を傾げる幸を見ているともはや手遅れのような気がしてくる。だから私は諦めることにした。
「なんでもないよ。あ、幸。あそこに美味そうなお店があるよ」
「ん? どこ?」
ふと目に映った美味そうなお店。私の地図のランドマーク的にも使えそう。
普段は当てにならなくても、こういう時の私のセンサーは中々のものなのだ。
「幸。寄ってくよ」
「あ、ちょっと」
私は幸の腕をさっと掴んで引っ張って行く。幸はいま食べたばかりでしょうにと呆れている。けれど、私の中ではさっきのアレはご飯だから、これはデザートと言うべきもの。
そう。つまり…
「別腹別腹」
私は堂々とそう言って退けるのだ。だって何も間違ってなんかいないか、あだっ。
お疲れ様でした。いつもありがとです。
さて、わたくし実は若い頃にドラムを叩いておりまして、初めて組んだバンド名がインフェクションというヤツで、ウチらの音がみんなに伝染してしまえっ、みたいな感じで私が付けたんですけど、いや、もうね、なんとも恥ずかしいなぁと思いながら書いていました。そういうのって不意に思い出しますよね。若いって怖い。
「はぁはぁはぁ。黒いヤツきつかったぁ」
「なかまなかま。まっ、幸のだけどなっ」
「くっ」
読んでくれてありがとうございます。