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woman  作者: しは かた
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第六十七話

続きです。

なが…


よろしくお願いします。

 


「やれやれだ」


 有難い話のような気もする。けれど、いや、やっぱまじで面倒だよなと、オフィスを出てから今日のことを思い返してはそれについてぶつぶつと呟いてふらふらと歩いていたら、私はマンションのオートロックもなんのその、いつの間にか我が家の扉の前に立っていた。


「ざるか」


 セキュリティに不安要素ありだなぁと心配になりつつ、ああ、鍵鍵と、バッグからそれを出そうとする私の手はなんと、その家の鍵としゃりしゃり甘くて美味いヤツの入った袋を持っている。


「おお?」


 はて、私は一体いつ鍵をとか、これはいつ、どこに寄って手に入れのだろうかとか、何これ怖い的に考え込んでしまうどんだけさ。

 そう。つまり私は少々お疲れ気味なのだ。


 というのは比喩的な表現。いつか観たドラマの再放送、なぜかそれだけは私の記憶にしっかりと残っているえっぐっさんの台詞、イッツアジョークさっというヤツ。

 あの、大股開いて背中を反って立つシルエットは凄くかっこよかった。私はあんな感じになりたかったの。

 己を知るのは必要なことだけれど実に残酷なことでもあるわけ。


「まぁいいけどさ」



 とにかく、私は単に今日あったオフィスでの攻防で疲れてしまった今の気持ちを、なんていうの、こう、研ぎ澄まされたエッジの効いた感じで表してみただけだから。

 エッジ。しゅって。


「エッジ…ふふふ」


 あ、いや。私はちゃんと分かっているから大丈夫。ちょっと遊んだだけだから。私はきっと大丈夫な筈だから。



「よっ」


 私は鍵を掴み直す。その鍵には可愛い埴輪のキーホルダーがついている。どうでもいいけれど、幸の鍵には変な生き物の全然可愛くないヤツがついている。

 私がつけ替えろと言っても頑として聞かない幸のセンスが窺えてしまうダサいヤツ。



「幸のそれダサすぎ」


「夏織の埴輪の方があり得ないでしょう」


「は?」


「なによ」


「替えなよみっともない。てか替えろ」


「いやよ。いつも夏織と一緒にいたいもの」


「は?」


 バッグに夏織がいる気がするのと、キーホルダーのついた鍵を、あのお姉さんおかしいねー、可愛いのにねーって言って、頬ですりすりしている幸。もはやいってしまっているとしか思えない。こわい。


「いや、しないから。それ勘違いだから」


「なんで? だってこれ、夏織にそっくりじゃ」

「おらぁ」


「いたっぁ」


「べーっ」


「がっはぁ」


 私は何も聞いてない。そっくりとか知らない。私は断じてっ、狸になんぞに似ていない。私はただ、何か言っていた幸を無性に殴りたくなったから殴っただけ。


 それは罪。けれど、罪は罪でも道義的には私は少しも悪くない。こういった避け切れない悲しい出来事も時として人生には起こり得るのだ。



「まじアレはない。幸、酷すぎ」


 幸の絶望的なセンスを嘆いて首を横に振る。けれど、こんなふうに誰にでも、渡されて嬉しかったとか失くして超焦ったとか、鍵ひとつでも何かしらのエピソードがあるものだ。私達にもそれは当然ある。幸とのヤツだから嬉しくもあるけれど、今のは内容的には腹が立つエピソード。こんなことあったねと、いつか揃って笑えるそんなヤツ。


「いや、それもないな」


 狸とか笑えないし。私は小さなため息をひとつ吐いて、手に持ったセンスの塊みたいなソレのついた鍵を鍵穴に差し込んだ。



 鍵をえいって捻ってかちりとやって、私は家の扉に手を掛けて、がちゃっと開けて中に入る。

 そこは夜でも安心、人の動きを感知してオレンジ色の明かりがぽわんと灯る、居続ければどんどん明るさが強くなっていく今時の優れもの。それが私を出迎えてくれた。


「ただいま」


 幸は少し遅くなると言っていたから当然幸の靴はない。ここから五歩くらい先にある擦りガラスのはまる扉を通して見るリビングは暗い。

 つまり幸はいないから返事はない。昨日までのように、わーいご飯が帰ってきたと私を迎えてくれることはない。出る時に送ると言っていたメッセージもまだ来ていないし。


「だよね」


 知ってたし。私はちょっとの寂しさを感じながら壁のスイッチを押して廊下の照明をつけた。

 五歩くらいの廊下でもちゃんとそれはある。左右の壁の下にあって、それがつくとこの廊下が無駄に小洒落た感じになる。


 今はよくてももっと歳をとって目が悪くなったら薄暗く感じるだろうから、そしたらもっと明るい電球と取り替えなくちゃなと思っているヤツ。よく見えないと躓いて転んでしまうから。


「よいしょっ」


 私はバッグと可愛いエコバッグの袋を上がり框に置きつつどかっと座り、さも煩わしげにいつものぺったんこな靴を脱いだ。

 私は精神的に疲れているのだ。だから座り込むのも声を漏らすのも仕方ない。これは元々のスペックの違いなんかの問題じゃないのだ。


「とにかく気をつけないと」


 女性の私でもキャリアを積んでいくとこういうこともあるんだなと、油断は禁物だなと、自分をそう戒めてそれをいったん脇に置く。


 この話はあとで幸に聞いてもらえばいい。幸は私の話を笑って聞いてくれたあと、お疲れ様だったねと髪とか頬を撫でながら優しく労ってくれるだろう。


「ふふふ」


 まぁ、やれやれ事は回避できたし、私はこれから夜ご飯を作る。だから私はソレを頭から追い出すのだ。

 つまらないことをいつまでも考えていては、今から作るご飯が不味くなってしまう。作り手の気持ちはそこに出てしまうものだから。


「そうそう」



 私はよっこらしょっと立ち上がり、いつか流行った履いていると痩せるかもね的なスリッパに足を突っ込んで一歩進んだところで立ち止まる。


「…いや、やっぱこっちで」


 私はいつもの可愛いヤツ、これまた幸とお揃いの普通のスリッパに履き変える。ふくらはぎは既にぱんぱんだし、私は精神的にも疲れているのだから。


 私は今日も頑張った。今日も頑張ったのだから、今日のところはこれ以上無理をすることはない。無理が通れば道理はどこかに引っ込んでしまうから。

 ちょっと違うけれど、まぁそんな感じで。


「いいのいいの」



 さて、先ずはこの甘くて美味そうなヤツを隠しておかないといけない。

 幸は遅いからまだ時間はあるなと余裕ぶっこいて、そこらに置いたりおやつ入れに置いてぼーっと油断していたら幸が目敏く見つけてしまう。

 幸は意地悪だから、まったく夏織はーとか言い始めて、私をねちねちと責めてくる筈。




「あ、なにこれ? また買ったんだ」


 幸が私のおやつ入れから取ったのは今日買った、小豆を砂糖で固めた長方形のキャラメルくらいの大きさの、食べるとしゃりしゃりして甘くて美味いヤツ。

 私は内心、聡いな幸と焦りながらも、甘くて美味いパンを千切って口に入れながら余裕の(てい)で返事をする。


「前からあるし」


「嘘。今朝そこにあったのは、ジェリービーンズとアポロのチョコ二箱とヨーチときんつばふたつと甘いナッツのヤツとバウンドケーキ、あとその、しれっと食べてるそのぐるぐる渦巻いた貧乏パンだけよ」


 もぐもぐ食べている私を指して、さらに幸は、あと、冷凍庫にもカップのアイスが四つもあるよね、それも昨日までは五つあったと思うけどひとつはどこに行ったのかしらと、私のお腹に指をずらしてそんなことを言う始末。さすが、愛しの幸はこういう時も無駄に鋭い。


「こら。首を傾げるな」


「ふぁたっ」


 惚けても無駄よと軽くでこピンをくれた息巻く幸はますます鋭いさすがの幸。

 いま私はどこ吹く風を装って千切ったパンをまた口に入れながら首を傾げてみせたけれど、口いっぱいに美味いヤツを入れたから、なんのこと? とは言えなかったのだ。


 そして私はおでこを摩りつつ、なんだよ幸、なんで全部覚えてんだよこええよと思うし、せっかくの買ったヤツがバレてあーあーと思うけれど、なるほどそうやってひとつひとつ挙げられると、幸は、だけとか言ったけれど、いま私のおやつ入れが半分くらいしか埋まっていなくても、まぁまぁの量がある気がしてなんだかほっとする。


「結構あるね」


「ぷっ、あはは。やっぱり夏織は面白いねっ。じゃないっ」


「なんだよ幸。落ち着けって」


「誰のせいよっ。とにかくこれは今日はだめだからねっ」


「え。ひとつ、いや、ふたつくらいいいじゃん」


「だめ。我慢しなさい」


 こうなると、最近の幸は梃子でもゆるふわ攻撃でも動かない。いや、動くんだけれど幸は最近、意見を曲げることはなくなってしまった。人は歳をとると頑固で意固地になるとは本当のことだったのだ。


「幸も食べていいよ?」


 このパンも。食べる? 美味いよと、私は千切ったパンを幸に差し出しながら、けど、それもしゃりしゃりしてて超美味いんだよ。幸にもひとつあげるからさと、私は幸に食い下がる。


「だめ」


「いいじゃん」


「だーめ。アイスも食べて貧乏パンも食べてるんだから、明日にしなさい」


 私のパンを遠慮なく受け取って食べている幸。やっぱりこれは美味しいねとか言っている癖に素気無く否定するとか、どうやら賄賂作戦は失敗したみたい。

 ああ、これでお終い。そう思うと私の目に涙が滲んでくる。


「なっ、なんだよっ、このっ、頑固ばばぁ」


「あはは。はいはい」


 幸は余裕で受け流し、私の持つパンの袋に手を入れて勝手に私のパンを千切って口に入れている。

 あ、こら、勝手に食うなこの頑固ばばぁめがって思うけれど私はどうしても言いたいことがあった。それは、私の中では凄く大事なことだと思うこと。


「幸」


「なぁに」


「ダッツ」


「ふぉ?」


 私のパンで頬を膨らませている幸に、私は冷凍庫の美味いアイス達を馬鹿にするなと言ってやる。全てのアイスを愛する私でもアレは特別。そこらのアイスと一緒にするなんて絶対に駄目だから。そんなことをしたのなら、あの花ちゃんも怒髪天突くというものだ。


「アレはダッツだから」


「なんなのそのこだわりは」


 幸がはぁとため息を吐く。どうやら幸は納得できない様子。そんな馬鹿にするような態度では黒いヤツ来るよと花ちゃんに言われてしまうのに。


「頑張れ」


「なに急に」


「いいの。とにかくアレはダッツだから」


「はいはい。わかったわかった」


 その言葉とは裏腹に呆れ顔の幸は何も分かってないだろう。

 かちんときていた私は、花ちゃんにこのことをちゃんと報告するつもり。甘ラー同士、どこどこに甘くて美味いヤツがあったよとか情報を教え合ったりする、ほうれんそうはとても大事なことだから。


 きっと幸はいつものように頑張って花ちゃんに挑むだろう。幸は本質は野性だから、普段は大人しくしていてもこうした機会が訪れたなら、ボスの座を狙ってつい好戦的になってしまう面倒くさい奴だから。


 そして結局は、幸はまた花ちゃんに泣かされてしまうのだ。何度も挑んでいく幸素敵と思うけれど、絶対に敵わないのに、それを学習するのが遅いのだ。私のように尻尾を巻いて逃げればいいのに、野生ってまじ大変だねって思う。

 タロでさえ、駄目だよと言われてそれを理解するまでに、二、三回は同じことを繰り返していだだけ。だとすると幸よりもタロの方が賢いことになってしまう。


「はっ」


 だ、だだだとすると、タロは私よりもずっと賢かったということになる…いや、泣いてないし。


「まじかぁ」


 私はほんの少し泣きそうになっただけだし。うぐ。





「幸こわい」


 幸ったら恐るべし。私はそんなことを妄想しながら五歩くらいの廊下をとことこ進んでリビングの扉を開けてキッチンへ向かう。


 え? 私? 


 そりゃあ、私のことが棚に上がっているのは当たり前。

 物事を見る基準が私である以上、私におかしなところはどこにもない。つまり私は至って普通。


「そうそう」




 と、私が帰宅したのは午後七時十五分というところ。定時に上がったあと、疲れた心に癒しの糖分をと、美味そうなヤツを買うために寄り道したからまぁこんなもの。


 お帰り夏織お疲れ様お腹減ったねご飯まだ? と、昨日まで自分のはらぺこに私を巻き込むように出迎えてくれた幸はいない。

 そしてこれからの平日は、私が幸を迎えることになるだろう、てかなる。あの恵美さんの下なのだから確実にそうなる。


「だな」


 幸はきっと、いつでも元気よくただいまと言ってくれるだろうけれど、本当は疲れている幸をゆるふわく癒すように出迎えるのも、今や私の特権のひとつになったのだ。



「で、まずはこれを、と」


 キッチンは私の城。ということで、そこの引き出しのひとつ、調味料のストックなんかを入れてあるところに買ってきた甘くて美味いヤツを隠すことにした。それが八つしかないのはやはり、漂う謎の圧がじわじわと効いているからだろう、知らずのうちに小さい方や少ない方を選んでしまうようになっていたのだ。


「ちくしょう」


 私は袋を開けてそれを出して、ひとつを残して奥に置かずに敢えて手前に並べて置いた。それはもう、もの凄く自然な感じで。題して、森見て木を見ず作戦というわけ。


 だから、万が一幸がそこを開けてそれを目にしちゃったとしても、幸は何かの調味料だと思う筈。

 あまりにも自然な感じで置いたから、今それを見てる私でさえ、なんだこれ? 何に使うんだっけっこの調味料ってなるくらいの出来。


「完璧」


 これでよし。私は残しておいたひとつを口にした。


「あむ」


 すぐに甘さが広がって、しゃりしゃりとすると歯触りとぷりっと弾ける小豆の粒々が堪らない逸品。


「美味ーい」


 やっぱ買って正解だったなと、私はとても満足して夜ご飯の支度を始める。けれどその前に着替えてこなくては。

 私はあまりの美味さと隠し方の出来の良さにふふふとにやつきながら寝室に向かった。





 そして私は今、私の妄想の通りにダッツを食べているところ。夜ご飯の支度を終えてほっとひと息入れたのだ。

 夜ご飯の前にお菓子を食べるんじゃありませんと昔はよく怒られたものだけれど今日のところは大丈夫。


 私は既にご飯は済ませたから。つまりこれはデザートだからなんの問題もないの。

 今夜はポトフと鶏肉のサラダとご飯。お代わりもあるし、幸は喜んで食べてくれるだろう。


「うん。やっぱ美味いなダッツ」




 午後九時前。幸はもうすぐ帰ってくる。

 そして私は、首を長くして幸を待ちながら私の疲れの原因になった今日のことを考えているところ。


 今朝、私は超頑張ったから遅刻しなかった。新たな年度の始まりということで、部全体の朝礼があって、そこで部長が話し出す丁度そのタイミングでこっそりオフィスに忍び込めたのだ。


 気配を消して抜き足差し足歩く屋敷さんは忍びのようでしたよとは二年後輩の吉田君の談。

 やるな私、にんにんと、私は思った。


「あ、そう」


「ええ」


「けどさ、吉田君にはバレてるね?」


「まぁ、たぶんうちの課のみんなはわかってますよ。笑ってましたから」


「あ、そう」


 駄目じゃん私、にんにんじゃないじゃんやれてないじゃん私と、私は己の評価を訂正せざるを得なくなる。


「くっ」


 そろりとしたりぱっと小走ったり壁に張り付いていた私のことを可愛く思うも恥ずかしくもなる。


「面白かったですよ」


「そこは可愛かったって言えやこら」


「いてて」



 部長の話が始まるなか、その吉田君の視線は目敏く私の左手に向いていた。この私でも、というかだからこそというか、そういう視線はすぐに気付くもの。

 にしても、この短時間でリングに気付くとは男性の割に聡いなぁと思ったけれど、私は大丈夫、全然平気。

 寧ろ、リングの件はこれで片がつくからウェルカムなのだ。部長の話など聞いていられない。いいオポチュニティというヤツだから。


「ところで屋敷さん。ひとつ訊いてもいいですか?」


「いいよ。なに?」


「それ。もしかしてもしかします?」


 私の左手を指す吉田君。その、意外ですみたいな顔が何を意味しているのか私には謎。


「吉田君。顔」


「え、だって。あ、いや。すいません」


 気づけば周りのみんな、課長は私を見ては頑張ってまた部長を目を向けるということをしているけれど、課の連中は興味津々、私の次の言葉を期待して、部長の話をそっち退けにしてじっとこっちを見ている。耳はダンボのようになっている。

 けれど残念。私はみんなの期待には応えてはやれない。


「どうなんですか?」


「ぐいぐいくるね。そんなに知りたいの?」


「そりゃあそうですよ」


「もしかしない。これね、気に入って買ったはいいけどさ、この指にしか合わなかったから」


 がたがたがたがた


 ずこってなった吉田君他、課長を含む課のみんな。部長の有難い話をなんだと思っているのか。不謹慎にも程があるというものだ。

 私は平気。抜かりはない。だって私は話を聞いているふうにして、顔を部長の方を向けていたから。


「吉田君。てかみんなも。部長の話、ちゃんと聞いておいた方がいいよ」


 睨んでるよほらと教えてあげる。

 みんなえぇぇとなっていたけれど私は間違っていないから気にしない。聞く振りは大事。

 どうでもよくても、頭に入ってこなくても、最低限の礼儀というものがあると私は思うから。


「そうそう」



 復活した吉田君が、まぁ、屋敷さんだもんなぁ、そうだよなぁと呟いた。

 まるで、だよねだよねと頷いているみんなの思いを代弁するかのよう。終いには、みんなも納得したように、仕方ないなぁと首を横に振っているここまでが昔懐かしフラッシュモブ。

 納得するのは私の狙い通りでいいのだけれど、あまりにもあからさまでなんか不快。


「くそう」


 お前ら覚えておけよと私は思った。




 その朝礼のあと、すぐに始まる筈の課のミーティングは遅れていた。

 課長が部長に呼ばれていたからだ。うちの課だけ騒いでいたから、なんださっきのアレはと怒られていたのだ。


「ぷっ。ざまぁ」


 部長の部屋。そのガラス越しに見えるぺこぺこしている課長の様子に私は満足したのだ。はっはっはっ。



 というわけで、今日、私がやれやれだったなと思ったのは薬指のリングのことではない。

 私がこのおふたりは大丈夫なのかと思ったそれは午後、私が取り引き先から戻った時に起こったのだ。



「ふふふ。おやつおやつ」


 買ってきたコーヒーを一口飲んで、がさがさと袋を漁って、はいこれ猿と確認したあと、あむっとひとつ、口に入れてぼりぼり噛み始めれば途端に広がるしけた感じとほのかな甘さ。美味い。美味すぎる。


「お、屋敷。お疲れさん。今ちょといいか?」


「いくはないですけどなんですか?」


 午後三時半。私はヨーチを取り出して、それを食べ始めたところ。

 ひとつ食べるたびにまじ美味いなコレと呟いてしまうほどのお気に入りになった、ヨーチと私との時間を邪魔する無粋な奴は部長と課長。こっちに来いと私を呼んでいる。


「なんだよもう」


 呼んでいるなら最初からいいかもくそもないじゃん、断っていいのかと思っちゃったじゃんかと思いながら、私はヨーチをもうひとつ口に入れて、ひとつも減らずに大人しくここで待っていてねと仕方なく立ち上がった。

 ただしコーヒーは持っていく。私はほっとひと息入れたいのだ。





「お断りします」


「だよな」

「だろうな」


 コーヒーを啜り、憮然とした顔の、私の不貞腐れた態度と言葉におふたりは納得したご様子。

 ここ、部長の部屋に於いても、私のナニはナニなのがよく分かる。


「だいたい、それが私にできると思います? 私はできない自信しかないです」


「まぁ、そうだろうな」

「なんだか凄い自信だな」


「じゃあ、この話はなしということで」


 まだまだ仕事がありますから的に、私は立ち上がってヨーチの元に…席に戻ろうとしたけれど、おふたりはまた私の邪魔をしたのだ。


「まぁ座れって」

「あのな」


 私は耳を塞いで、わーわーわーと言ってやろうと耳を塞ごうとしたけれど、私は手にコーヒーを持っていたからそれはできなかった。

 コーヒーなんて持ってこなければよかったのだ。そうしたらそのままこの部屋を出られたというのにっ。


「くそう。私の馬鹿」





「実は屋敷を行く行くは管理職にしようと思ってな」

「それでな」


「え、いやですけど」


 それがこの部屋に来て切り出された話。この展開を予想すらしていなかった私は固まった。えっと、確か管理職って胃に穴が開くヤツでしょ。胃潰瘍とか嫌なんですけど、おふたりはなにを馬鹿なことをと、暫く呆然としていたのだ。


 そして、次に意識が戻った時、おふたりは適材適所という言葉を知らないのかなと、大丈夫なのかなと私は思って、それが口から出て行った。


「馬鹿ですか? 私にできると思いますか? 私にはできない自信しかないです」


「酷いなおい。うん。やりたくないか。屋敷ならそうだろうなぁ」

「やっぱりそうかぁ」


「できない、です。やりたくないからやらないこととできないことは、結局しないんだからおんなじことなんです」


「いや、実はな、化成の方からお前に引き合いがきてな。あそこ、ほら、屋敷と仲良かった市ノ瀬が辞めたろ? で、どういうわけかその後釜にお前を欲しがったんだよ」


「まぁ、日頃の態度はともかく屋敷はここでトップの成績だからな。どっかからそれを聞いて、使えると思ったらしいんだな」


「はあ? あんな意識の高い集団のところなんて絶対やです」


「そうだろうなぁ」

「俺たちも屋敷を出したくないんだよ。けどな、あそこはアホみたいにプライド高いしウチで一番の稼ぎ頭だからたまにごり押しするんだよ。自分達が一番だから言うことを聞けってな」


 で、屋敷を出さないために、ここでお前を育てるって言って断ったんだ。それにこれは女性の登用ってプロジェクトに添う意味もあるんだぞって部長が言うけれどそんなのまじ勘弁だから。


「それもいやです」


「だよなぁ」

「だよな」


「ひとつ確認ですけど、私を出すつもりはないんですよね」


「ああ」

「もちろん。いなくなったらこっちが困るからな」


「ならこのままで。そのための試験を受けろとか研修なんか始まったら、時間取られて私の売り上げがっつり下がりますよ。第一、管理職なんてなったら営業出ませんよね。そしたら売り上げぜろですよぜろ」


 ぜ、ろ、と、私は親指と人差し指でしょ輪っかを作る。私はここで、私達を嫌う奴らの馬鹿の一つ覚…得意技、生産性がーと、いうヤツを使ってやったのだ。


 大体、人をしっかりとマネージメントできるならまだしも、そうでなければ管理職なんて威張るだけのただの穀潰しみたいなもの。いま使えて結果を出し続けている人間を、わざわざ使えない人間に作り変える必要はない。


「違いますか?」


「はぁ。屋敷は自分にも容赦ないのな」

「自己評価が低すぎないか?」


「女性云々じゃなくて、男性でも女性でも、ちゃんとマネージメントできる人でいいじゃないですか。私にソレができると本当に思いますか?」


「それは…」

「そこは追い追いなんとかなるだろ…なるよな?」


 立場が人を造るという説もあるけれど、素質がなければいくら頑張ったって所詮そこそこ。その程度のものにしかならないのだ。


「ほら。おふたりともそう思ってますよね? それに私はプレイヤーでいたいんです。私にはそれが一番向いています」


 できればずっと。私はこれからも、私のことを責任を持って守ってやらないといけないのだ。私は私が大事だから。

 これからは幸のこともそう。幸は私にとってわたし以上にとても大切な女性だから。そして私達のこともそう。私には凄く大事な絆だから。


 だから他にも責任を負うことは私には無理。既に両手じゃ足りないのだから、私はもういっぱいいっぱい。そんな立場なんぞ私は絶対に要らない。ほしくない。


「…そうか。まぁ、屋敷だしなぁ」

「けど、となるとなぁ」


「私は吉田君なんかいいと思いますけど」


 おっしゃ、いける。

 私はここぞとばかりに生贄を差し出した。といっても吉田君なら私よりも上手くやれると私は思う。

 成績は私より遥かに下でも、向き不向きでいえば私よりも遥かに上だから。女性にこだわらなければ、おふたりもたぶん選んだ筈だから。


「吉田ねぇ」

「吉田なぁ」

「吉田君かぁ。いけるなぁ」


 屋敷は人をよく見てるし、その意見は参考にできるな、その線でいってみるかなんてひそひそとやり出すおふたり。

 どうやらおふたりのターゲットは私から吉田君に移ったように思う。


「やった」


 つまり、ここらが潮時。またこっちに振られても困るだけ。私は再び立ち上がる。潮が引くようにここから消えるのだ。


「じゃあ、私はこれで」


「まぁいいか」

「けどまだ諦めてないぞ」


「そういうのはいいですって」


 私は扉に向かってくるりと振り返る。なんといってもこのおふたりは、あの、人も仕事もスーパーハードで恐ろしい部署から、のらりくらりとここで過ごす私を守ってくれたのだから、お礼はちゃんと伝えておかないといけない。


「部長も課長も、私を出さないでくれてありがとうございました」


 これからもよろしくお願いしまっすと、私はあざとく微笑みながらも心からのお礼を言った。特別にゆるふわを魅せてあげたのだ。


 だって、幸のいた部署なんて激務で耐えられないから。周りが意識高くてぼんくらな私はひとり孤独になっちゃうから。痩せちゃうから。それならほんの少しくらいお肉がある今の方が遥か彼方にまじマシだから。


「「ぐはっ、がっは」」


 お、おう、こっちこそよろしくな。なんて、赤くした可愛くもない顔で照れたような声を揃えて返事をしているおふたりにもう一度ゆるふわく微笑んで私は部長の部屋を出た。


「ぐっはっ、がっはっ、ごほっごっほ」


 いやに苦しそうだけれど私の知ったことではない。とにかく私は生きて帰ってきた。私は事なきを得たのだっ。



「いや疲れた。ぼりぼり。まじあぶなかった。ぼりぼり。にしてもやっぱヨーチは美味いな」


「屋敷さん。なにかあったんです?」


「ないよ。まぁ頑張れ吉田君。ぼりぼり。これあげる」


「お。ありがとうございます」


「美味いよソレ」


 私はご機嫌でヨーチを食べている。吉田君は私の横の席であげたヨーチを睨んでいる。なんの動物かさっぱり分からないだろう。


「素人か」


 そこはこの私でも分からないヤツばっかりだけどなっ。


「ぼりぼり。それいたちでしょ」


「いたち? これが?」


「たぶんね」


「いたち、には見えないけどなぁ」


「いや、その感じどう見てもいたちでしょ。ぼりぼり」



 私は、私からすれば可哀想な吉田君にもヨーチを三つあげたのだ。いたち、梟、ひらめ。私にはそう見えるヤツ。

 その吉田君は諦めたらしい。それを口に入れて、あ、懐かしい、美味いとか言っている。


「でしょ。もう一個あげる」


「うっす」


「いいよ」


 私だってたまには他人(ひと)に優しくなれるのだ。





「たっだいまー」


 その時、タイミングよくドアホンが鳴って幸の声がした。やったっ。愛しの幸が帰って来たのだっ。


「それっ」


 私は、普段決して見せることのないあり得ない素早さで駆け出したのだ。




「でさ」


ほぉんで(それで)どほぉなっふぁの(どうなったの)?」


「無事に切り抜けた」


ほぉっふぁ(そっか)


 ってことがあったんだよ幸、と、私はポトフと一口大の大きさの焼いた鳥の胸肉の乗ったサラダをおかずにご飯をもりもり食べる幸に今日のことを聞いてもらった。

 私が思っていた通り、幸はあははと笑って大変だったねと労ってくれた。


「幸?」


「ん? なんでもないよ」


 幸がなんでもないと言うのだからなんでもないのだろう。あははと笑った幸の顔は、私が話を始めてから徐々に引き攣っていったのだけれど。


「そ。じゃあ、幸はどうだった」


「私の方はねー」


 水を向けると幸は嬉々として今日の出来事を話し出す。

 引き攣っていた顔は既になく、いかに周りの人達も優秀だとか、いかにやり甲斐のある仕事だとか、だだだだだだって感じで話してくれた。


「でさっ」


「たいむたいむ」


 矢継ぎ早に難しい話はやめてほしいところ。お陰で私の頭は混迷を極めて、私が漫画の登場人物なら目がぐるぐると渦を巻いるところ。


「ま、そんな感じ」


「お、終わった?」


「終わり」


 幸は楽しそうに色々と話してくれたけれど、私の持った感想はただのひとつだけ。


「やっぱ恵美さんまじこわい」


「そんなことないよ。普通でしょう」


 と、不敵に笑う幸を、くぅぅ、やっぱ幸はかっけえなぁと見つめながら、類は確実に友を呼ぶんだなぁと私は思った。

 私に花ちゃん。幸に恵美さん。いつか四人で会えたなら、なんかもの凄く面白そう。そんな感じのヤツ。





「幸のせいとか」


「だから、まさかそんなことになるとは思わなかったんだってばっ」


「まさか幸。嵌めた?」


「ち、違うってば」


 四月一日、現在時刻は午後十一時時過ぎ。私と幸は私はベッド上でピロートークと言うには程遠い会話をしている。

 私は幸を抱きつつ、まったくもぉ何してくれてんのと呆れているところだから。


「まったく、余計なことを」


「ごめんごめん」


 それはもうもの凄く。

 だから、胸に抱いている幸の震えが伝わってくるのは当たり前。


「いいけどさ」


「へ? いいの?」


 腕で自分の脇腹を固めて守る幸が不思議そうに訊いてくるけれど私はべつに怒っていない。


「うん。けど呆れてはいる」


「う、ごめん。でもなんで?」


「わかるくせに」


「私が怒って嬉しかった?」


「まあね。面倒くさかったけどなっ」


 つまりこう。


 ことの発端は幸が辞めると上司に告げた時。


 当然、幸はとても仕事の出来る女性だから留意された。

 けれど、幸は私を深く愛してくれているし、転職は私達ふたりのためだし、既に気持ちは新しく、よりやり甲斐のある仕事に向いていたし意志の強い幸が翻意などする筈もなく、少し時間がかかったものの、幸のそれは受理された。


 そして幸は、私と違って立つ鳥後を濁さず的な考えの持ち主だから、自分がいなくなって、売り上げ的に迷惑を掛けることを少し気にしていたのだ。

 だから、幸の穴を埋めるのに内でも外でもいいから誰か心当たりはないかと訊かれた時に、少し頭がどうかしている幸の奴はこともあろうに私の名前を出したのだ。馬鹿だから。


「馬鹿って。ねぇ、夏織は本当に怒ってないの?」


「ないよ」


「そうかなぁ」


「ないって」



 で、その時の会話がこんな感じ。



「屋敷?」


「営三の」


「あそこか。あんなところのじゃなぁ」


「は? この私が名を挙げたんですよ? ご不満ですか?」


「あ」


  「ああそうかぁ。もしかして部長、私の人脈舐めてます? べつにそれでもいいですけど、それなら私にも考えがありますよ?」


「なっ。ち、ちょっと落ち着け。怖いぞ市ノ瀬」


「いつも人を見下して、そうやって馬鹿にしてると笑われますよ? いい人材が身内にいたのにわざわざ予算使ってまで外から人を連れてくるとか本人が一番使え無いじゃんって。ねぇ、部長?」


「怖い怖い。分かったから。とにかく落ち着いてくれっ。な、な」



 そんな感じだったって。その部長、そのあとすぐにトイレに行ったって。暫く帰ってこなかったって。


「最後に濁すとか。馬鹿でしょ幸」


「だって。なんかさ、夏織を馬鹿にされた気がして悔しかったんだもん」


「ありがと幸。けどさ、私はそういうのは平気。慣れてるし、私からそうしてるとこいっぱいあるし」


「それでいいの?」


 幸は顔を上げて、納得いって無さげに私を見ている。けれど私の答えはいつもと同じで決まっている。私は無理に頑張ったりしない。出来ることをするだけ。


 それじゃあ成長しないよと思うかもだけれど、人間的な成長は仕事を通さなくても十分できる。てか、できている。だって今、私は余計なことをしてくれた幸のことを全く怒っていないのだから。


「いいのいいの。楽だから」


「そうだよね。やっぱりそれが夏織らしいかな。あはは」


「ふふふ」


 私はそれで大丈夫。大事なことは私が周りに評価をされることじゃない。

 大事なことは今この腕の中にいる愛しの幸のこと。その幸に私を愛してもらうこと。

 そして、幸が私を分かっていてくれる。私はそれでもう充分なのだ。


「ね」


 私の想いが伝わったのだろう、幸がぐりぐりと私の胸に潜り込もうと頑張っている。大事な幸が甘えているのだから私は幸の好きにさせる。

 少し体温の高い幸。それが私に生命(いのち)を感じさせてくれる。私を愛してくれる紛れもないただひとつの生命(いのち)。とても愛おしく、なんとなく不思議な感じがする。


 私は幸に回した腕に力を込めて抱き締めた。


「うぐうぐうぐ」


 満足して変な声を出した幸に、私は確かな幸せを感じるのだ。


 そして今日は大事なことがもうひとつある。

 今は午後十一時五十分。あと十分しかないのだから私はそれをすることにした。


「ねぇ幸」


「なぁに」


 私達は素敵な大人の女性だけれど、乙女なところもいまだに持ってるとても可愛い女性だから、可愛いヤツをひとつ。


「わたし幸のこと、すっごく大嫌いだから」


「うん知ってるよ。私も夏織のこと凄く嫌いだもん。あはは」



 私達は嘘を吐いた。ばればれの、互いに照れてくすぐったくなるようなそんな嘘。


「えへへ」

「てへへ」


 その少しあと、おやすみ夏織ーと間延びした声がした。

 私も幸をしっかり抱いてから、おやすみ幸と声をかけて目を閉じた。



「幸。大好きだよ」


「うーん。むにゃむにゃ」


「ふふふ」





お疲れ様でした。いつも長々とすいません。


そして私は今、動物ヨーチにはまっています。

だってアレまじ美味いから。実は今も摘んでいたりして。あはは。


「なかまなかま」


「だね」


「あれ? しはかた嫌じゃないの?」


「ないよ。なかまなかま」


「やったっ」


夏織は嬉しそう。幸は私を睨んでいる。超こわい。

ということで、私はお手洗いに行ってきます。では。


読んでくれてありがとうございます。

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