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woman  作者: しは かた
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第六十六話

続きです。


よろしくお願いします。

 


 迎えた四月一日。今は午前六時半を十五分くらい回ったところ。


 今朝、私はいつもより少し早起きして、朝から食べるには少々重たそうなヤツを作っている。それは前々から、初日が肝心だからこの日の朝はコレを食べたいと幸が言っていたヤツ。こうして色々と勝ち取ってきたのだろう幸は(げん)を担いだのだ。



「あとは圧だな」


 と、私がその最後の仕上げをしようとする頃、朝の用意を八割方終えた幸が私の傍にやってきた。今、えへへーなんてはにかんで私の背中からお腹の辺りに腕を回したところ。


 その左手、細くて長い薬指にはリングがある。当然わたしのそれも同じ。

 結局、今日からはめたままにすることにしたリング。私はそれを絶対に外さないつもり、というか今は外れない。なんか分かんないけど外れないソレ…くっ。ほっとけ。泣くぞ?


 そのリングついて、オフィスで何か言われるだろうけれど私は全く心配していない。

 私はおかしな人と思われているから、屋敷さんだしなとみんな思ってくれるし、どうとでも言い訳できる。

 ったく、誓い合った愛の証に言い訳をするとかムカつくけれど仕方ない。私達は小を捨てて大を取るのだ。

 それは幸についても同じこと。新しい職場だし恵美さんもいるし幸は優秀で聡明だから、何を訊かれてもどうとでもするだろう。


「いけるいける」


 それにしてもと私は思う。

 不思議と幸にお腹はやめて言いたくなるのだ。理由は全然これっぽっちも分からないから、私はそんなこと口にしないけれど…ほらぁ、泣いちゃったぞっ。




「夏織ご飯まだなの? お腹減った」


「は?」


 私は終わったのにさ。なんて、その言い方はまるで、小生意気になった思春期の娘のよう。あたしご飯待ってんだけど、あとは食べるだけなんだけど、早くしてよなにやってんの、みたいな感じ。 


「ふっ」


 言い方は違っても、毎回のように催促されるのはいつものこと。愛しのはらぺこ幸は今日もつつがなくはらぺこなのだから私は特に気にしない。寧ろ催促しなくなった時の方が心配。その時は確実に体調が悪い筈だから。 


「ふふ。いっぱい食べてね」


「なぁに」


「なにも。もうすぐできるから」


「よっしゃっ」


「ちょっ、朝から声でかいな」


「いいじゃんっ」


「だからうるさいって」


 嬉しいくせにと、幸の唇が私の頬に触れた。首筋に幸の髪が触れてこそばゆい。私の気持ちもくすぐったくなる。


「ほら。こっちにも、ね」


 私は自然に首を傾けて逆の頬を開ける。そしてそこに幸が触れた。


「ふへへ」


「かわいーなー」


「ちょっ、まじで声でかいって」


「まぁまぁ」


 べつにいいじゃないのと、幸が私を宥めるけれど、幸は自分の声がでかいとかそんなことは全く気にもしていない。

 だって幸は今、甘えることで英気を養うことに忙しいし、そして何より私の甘くて美味いヤツの時と同様に、目の前にある出来上がりつつある朝ご飯が凄く気になって仕方ないのだ。それは私にはばればれのばれだから。


「早くしろよぉ。このこのぉ」


「やめろ幸。頬を突っつくなっ」


「あははー。ほれほれ」


「…うざぁ」


 まぁ、こうして口では文句を言いつつも、今みたくキスをしてくれるのも、甘えてくっ付きながら傍に居てくれるのも、私の作る朝ご飯を今か今かと待ち焦がれてくれるのも私としては確かに嬉しい。

 けれど、でかい声を出すのは今は勘弁してほしい。幸はいま私を背中から抱いていて、私の手元を肩越しに覗き込んでいるから耳が近いのだ。



「これをっと」


 私は気を取り直し、食パンに薄くマスタードを塗って、トンカツと、その上のてんこ盛りのキャベツの千切りにソースをかけたヤツが乗っているもう一枚と挟んでぐっと圧をかける。


 ちな、私は普通に揚げ物をする。だからこのトンカツは私がいちから作った愛情たっぷりなヤツ。

 この時代、家で揚げ物をするのは油の処理とか跳ね汚れとか、後々ちょっと面倒だからと倦厭(けんえん)されがちだけれど私は気にしない。

 料理は本来手間のかかるもの。用意から片付けまでを含んでの料理だと私は思うし、幸が喜んでもりもり食べてくれるからそれでいいのだ。


 そして私はトンカツならヒレが好き。基本、お肉ならなんでも来いの幸はロースも好き。幸曰く、ヒレよりも見た目ボリュームがあるし脂身も好きなんだよね、甘いからさ、だって。

 それでも幸は太る気配すらみせないこの摩訶不思議。


「うーん」


「なぁに」


「なんでもないよ」


 脂身が好きとか、よく噛むと甘くて美味いのは私も知っているけれど、ほっそい幸が言うとやっぱりなんかイラつく。


「くそう」


「なぁに」


「なんでもない。ぎゅぅぅ」


 だから、いま挟まれている一枚のロースカツに、私は私の思う絶妙な力加減で圧をかけながら、美味しくなぁれと想いを込めつつ太ってしまえやおらーと念も送る。


「ぎゅぅぅぅ」


「それ楽しそうだねっ」


「幸。うずうずしないで大人しくしてて」


「だって面白そうなんだもん」


「そういうのいいから」



 平日の朝。時間の進み方は休日と同じ筈でも気持ち的には忙しない。

 それに、これ以上幸にちょっかいを出されると遅々として先に進まないから私の朝が確実にけつかっちんになってしまう。


「あのね幸。ここはすごーく大事なところなの」


 私は幸に邪魔をされないように、分かる? カツサンドはこの圧をかけるところが肝なんだからと、いかにも出来の良し悪しに関わるところなんだぞ的に言ってみる。


「これ。この感じ」


 そんなのどうだか知らないけれどそう言ってみたのだ。


「そっか。わかった」


 幸は大仰に頷いて後ろから私を抱いたまま大人しくなった。それでもその腕に力が籠るのは早く食べさせろ半分、それ私にもやらせろ半分という気持ちが出てしまっているのだ。

 いずれにしてもうずうずしているのが伝わってくる。腕を回された私のお腹になっ。


「いや、ちょっと…」


 私のお腹のナニに食い込んだ、リングのはまる指で無意識にむにゅむにゅするのはやめてほしいところ。


 はっ。なななにぉ、く、食い込んだだとー。


「なんだとこらー」


「なぁに。いきなりどうしたの?」


「おらぁ。このやろー。あ、いや、やっぱだめ」


 くそうくそうと、カツサンドに圧をかける私の手に力が入りそうになったけれどやめておく。潰れたら美味くなくなってしまうのだからそれは駄目。


「変なの。あはは」



 ともあれさすがの私の狙い通り、美味さの分かれ目となればいくら幸でも聞き分けのいい、素直ないい子になるのだ。

 もう殆ど終わりだけれど、幸はちゃんと大人しくなった。



「よし。こんな感じか。あとは…」


 カツサンドがいい感じで纏まったかなと思うところで気合の入った掛け声とともにパン切りナイフでその耳を削ぎ落とす。


「ふっ、悪いな芳一。その耳もらうから。うりゃ」


「なにそれ? 耳だけに? あはは」


 私が削ぎ落としてやった耳のひとつを咥えると、あっ、ひとりだけ食べるなんてずるいっ、なんて言いながら幸が横から手を出して纏めて置いたパン耳を素早く口に入れている。


「いただきっ」


 なんつって、ずるいとかバンの耳でしょどんだけよと思うけれど、私は仕上げにカツサンドを三等分に切り分けて、お皿に盛って、はいお待たせと幸に渡した。


「これぜーんぶ幸のだから。持ってって」


「うおおー、やったっ」


 幸はとても嬉しそうに受け取って、ローテーブルまでの動線を滑るように持っていった。


「タロだな」


 私は色違いでお揃いのカップにコーヒーを注ぎながら、なんとなく、大好きな骨っこ的なヤツをもらった途端、独り占めして食べようと、ソレを咥えてちゃっちゃっちゃっと床を鳴らしてどこかへ行ってしまうタロの後ろ姿を思い出す。そういえば、尻尾が千切れそうなくらいぶんぶんと揺れていたっけ。


「ふふふ」



 これで本日の朝ご飯は出来上がり。ミネストローネスープ、カットしたりんごとバナナも既にローテーブルに揃っている。りんごは私の、バナナは素早く摂れるエネルギーだからと、さちちの好物だから。


 そのさちちがバナナを持って早く来いよと私を見ている。私を急かしつつも、頑張って待てをしているのだ。


「はいはい。いまいくから」


 そんなさちちの成長を嬉しく思い、まじ可愛い奴めと思いながら、私は残ったパンの耳と、コーヒーを注いだカップをふたつ持ってローテーブルに向かった。


 パンの耳はスープに浸しておいていい感じに柔らかくなったところを食べる。

 私はちょんちょん付ける派じゃなくて、べちょべちょに染みらせる派。

 スープのクルトンも、フレークとかシリアルとかに牛乳をかける時は暫く置いてふやかすのが大好きなのだ。そのままぽりぽり食べるのも好きだけれど、水分と混ぜる時はいつもそう。アレはアレで超美味いから。


「そうそう」




 そして午前七時前、朝ご飯は無事にローテーブルに並んだ。私達も触れるように並んで座っている。


 私達は仲良しだから当然だななんてぼーっと考えていたら幸に怒られてしまった。

 笑っていても圧を感じるまじなヤツ。幸の得意技だ。


「ねぇ夏織。まだ?」


「あ。はいはい。ごめんごめん」


「もう食べていい?」


「食べよ」


「うんっ」


 ああ、カツサンドは幸の分だから。私は朝からカツサンドはちょっと胃がなぁ…ということで、チーズを乗せてトーストしたパンを食べる。その半分を千切ってスープに浸しておく。さっきも言った通り染み染みになってまじ美味いから。


「ふふふ。染み染み」


 はいそこのあなた。ひいてはだめ。この場合はチーズもあるし、オニグラスープみたいなものだから。


「ねぇ。まだ?」


 また軽くいっちゃっていたら、変なことしていないで早くしろよと幸が私を睨んでいた。もはや笑みは浮かんでいないまじなヤツ。私は平気だけど、みんなを竦ませる幸の得意技だ。これに顎くいが付いたら私でも無理なヤツ。私はトイレに駆け込んでしまうだろう。


「まじでごめん」


 私は素直に謝った。待ても過ぎればただの意地悪、やられた側にとっては単なる悪意でしかないのだ。


「じゃ、いっただっきまっす」

「いただきます」


 幸が勢いよくカツサンドを頬張った。途端に綻んだ顔が凄く美味しいよと伝えてくれる。

 それを眺めていると朝からとても幸せな気分になる。

 その気分のまま私は先ずコーヒーをひと口啜った。


 美味いなと、私はほっと息を吐く。

 新しく始まっている私達。さらに今日、正式に新しく始まる幸と私の迎えた朝はいつもと変わらずわちゃわちゃやってこんな感じ。

 けれど、完璧だなって私は思うの。


「ねっ」


「ほいふぃ」





 四月。春。春先にもこもこもこって土から出てきちゃった虫も、新しい生活にいよいよ足を踏み出す人もいっぱいいる月。

 その人達の多くは、さぞかし希望で胸を膨らませているんだろうなぁと、それについてはもはや枯れている私が欠伸を噛み殺す苦労を覚えなくても済むありがたい季節でもある。


 前にも言った通り、私は春は嫌いじゃないの。昔と比べるとだいぶ短くなったなぁと思う春は、ぼーっとしてても周りから何か言われることもないし、うつらとしてても大丈夫だし、気候的にもぽかぽかしてて過ごしやすいから。


 その反面、その後半を迎える頃には徐々に薄着になっていくわけだから、私が二月をどう過ごしたのかが確実にバレてしまう嫌な季節でもある。

 日中、暖かいからと半袖になって、間違って手でも振ろうものならもう大変。

 あの、恐ろしくも他人のそれなら笑えてしまう、二の腕ぷるぷるを見られてしまうのだ。止めた後も震えていたらもう手遅れなヤツ。


 それを誰かに指摘でもされたなら、私はごめんねごめんねと謝りながらその人の口を封じなくてはならくなって、異臭騒ぎどころではなくなってしまうのだ。


「こわぁい」


 今だって確実に揺れるのだから、そっちの方については私の今年はもう既に終わっている…って、違うっ。そこっ。違うからなっ。


「…くそう」



「くくくくく」


「はっ」


 とにかくっ、私も社会人になった時は、仕事はともかく誰に憚ることなく好きな時に好きなだけ甘くて美味いヤツを食べることができるという、大人としての自由を得たことに喜びを感じていた。

 実際にそうやって甘くて美味いヤツとの素敵な出逢いを重ねてきたし、社会的には陰でこそこそしながらも、私は私の思うがままに笑って泣いてそれなりの恋もしたのだ。


「それな」


 けれどその代わりに、大人としての責任とか義務なんかをがっつり負わされて、さらには仕事で自由な時間を失った。前者はいってしまうまで、後者は定年まで確実に続くのだ。


「いや、それなぁ」


 自由は得たけれど結局は縛られるとか。

 私はそれに気づいた時、抱えたモノを抜きにしても、凄く頭のいい人達やどこかの議事堂に集うお偉い人達が、だって法律がそうなんだもーん、だからいいんだもーんなんてのたまって、合法的に搾取できるシステムが確立されたこの社会で生きていくということは、それだけで中々に辛いんだなぁと思ったものだ。


「ね。幸」


「おう。まかせとけ。私は負けない」


「あ。聞いてないなこれ」


 幸は今、頭の中は今日とこれからのことを忙しく考えていて、やる気で少々おかしくなっちゃっているのだ。めらめらのめらなのだ。


 なら、聞いてなくてもまぁいいやと、私はすぐに諦めて目の前のミネストローネからでろんてなった千切ったパンのひと欠片を口に入れた。


「うん。染み染み。やっぱコレだな」


「美味しいねー」


「適当だなおい」


 口いっぱいにカツサンドをもぐもぐやってる愛しの幸もまた新しくスタートを切るうちのひとり。

 やはり幸は幸だから、新しいサイクルが始まる今日、幸は朝からめらめらと燃えている。

 べつに、今に始まったことじゃないけれど凄くわくわくしているのが分かる。見ていると頼もしいけれど面白くて少し暑苦しい気がする。



 その幸は、私と一緒に暮らしを始めた三週間を経てほぼほぼ前だけを向けるようになった。望んだものを手に入れて、その人生にひと区切りついて、精神的に凄く落ち着いたのだ。

 それは私も同じこと。いつまでも囚われていたらこの先のふたりの時間がもったいないから。


 幸は過去の嫌だった事柄にも区切りをつけて一旦フラットにしたのだ。

 そして幸はこの先もずっと私達について回る懸案事項を意識しないことはできなくても、ここまでくれば私達に何かが起こってもふたりでなんとかするし、そんなもの、これからはちゃいちゃいだし、いざとなったら家族や私達の世界を頼りにして開き直るだけだし、くらいには思えるようになったのだと思う。


 私はそれを本当に嬉しく思う。これからも何かを聞いて怒ったり、それを自分に置き換えて、時には泣いたりもするだろうけれど、やはり幸にはできるだけ笑っていてほしいから。そしたら私が幸せだから。

 幸だけに、幸は幸せでいなければいけないと私は強く思うから。



 その幸が引っ越して来た次の日の夜、私達が大事な大事な儀式のようにして、ふたりで順番に名前を書いて判を押した白地に茶色い枠のヤツがある。

 それは今、タンスの中に大事にしまって置いてある。いつでも出せるように、なんて少しも思っていないけれど私達には超大事なもの。




「ね。幸。見てこれ。昼間、役所に行って貰って来ちゃった」


 夜ご飯を食べてあと片付けを終えて、私は甘くて美味いヤツを食べながらバッグから一枚の紙を取り出した。

 本当は帰ってすぐにでもそれを見せたかったけれど、私は我慢のできる人だからこのタイミングになったのだ。



「これ書こう」


 それは、今の時点では私達にはなんの役にも立たない婚姻届。私はそれを昼間の時間にちゃちゃっと行って役所からいただいて来たのだ。

 ダウンロードしてもよかったのだけれどなんとなく自分の足で、という気持ちがあったから。

 私はそれを幸に手渡した。


 幸は受け取ったそれに目を落とし、きゅっと眉を顰め、次にその眉を下げ、最期には形のいい眉を歪めた。


 幸がそうなるのはよく分かる。悔しくて、嬉しくて、心がぐちゃぐちゃになって泣きたくなったのだ。私もその帰り道は凄く大変だったから。


「かお、り」


 もはや言葉は必要ない。私は肩を震わせる幸を抱き締めて、形のいい眉がいつものようにきりりとするまでこの胸に抱いていた。


「よしよし。いいのいいの」



 その少しあと私達はそれぞれに、ペンペン、判子判子と呟きながら、見つけたそれを手にぎゅと握り締めつついそいそと持ってきて、襟を正して並んで座って、順番に名前を書いて判子を押した。


「できたっ。じゃ、判子を」


 世間様から見ればそんなものは、遊びのような余興のような取るに足らないなんの意味もないものだけど、私達は真剣そのもの、判子を押す私の手は少し震えていた。


「あ…」


 お陰で乱視の人が見るようになってしまった。

 その時はくっ、ってなったけれど、いま見返してみたら私らしくてちょっと笑っちゃうと思う、てか笑う。



「これでよしっ」


 と、幸が書き終えて、全てが埋まった婚姻届。私はその、意味はなくても私達には意味がある、互いの文字で埋まったとても大事な、たかだか紙切れ一枚ごときを手に取った。


「やった、結婚…した。でき、た」


「うん。結婚だ」


 ふたりでこれを書いて結婚したことにすると決めていた私の勝手な思い込み。幸はそれを知らない。私は言わなかったから幸が知る筈もない。


 けれど幸は、感極まって絞り出すように呟いた私の声にすぐさまそう返してくれた。私の思い込みを認めてくれたのだ。


「夫婦だ夫婦。ねっ、夏織」


「うん。夫婦」


 最初、無字のそれを見て泣いていた幸はすっかり笑顔になっていて、私の計らいというか、やりたかったことを一緒にやってくれて、さらに一緒に喜んでくれたのだ。


「ありがと幸。まじで、ありがと」


 私を愛してくれて本当にありがとうと、心からの想いを伝えたあと、私はそれを大事に大事に胸に抱いた。


「嬉しいなぁ」


 所詮はおままごとだよねとか社会的な効力がゼロだとかそんなものはどうでもいいの。幸も書いてくれたのだから、これは私の宝物になったのだ。


「こっちこそ。ありがとう夏織。すっごく嬉しいよ」


 幸が私の髪を撫でる。私は幸に半泣きの笑顔を向けた。


「なら、よかっ、た」


 幸はそんな私に一層微笑んでくれて、ほらおいで夏織とその胸に私を誘ってくれた。

 結婚かぁ、そうかそうかぁ、なんて幸の楽しそうな声が私の中に直接響いてくる。




「なんか緊張したよねー」


「確かに。幸の字、珍しくミミズみたいだし」


 私は幸にそれを見せて、ほらよく見ると震えてない? こことかさ、なんて指を差した。


「あ。ほんとだ。けど、夏織の判子もなかなかのモノだよ。どうする? やり直す?」


「やだ。これがいい」


「そうだね。私もだよ。大事にしようね」


「する。するけどさ、私がしたかったんだからこれは私の」


「えっ?」


 私の。私は幸に頷いてみせた。議論の余地がどこにあるのかと言わんばかりに。


「ねぇ夏織。ちょっとそれ貸して?」


「盗るからやだ。これはふたりのだけど、やっぱ私のだから」


「私もほしい」


「なら幸も貰ってくれば? そしたら書いてあげるから」


 私は腕を上げて、ささっと書く真似をして幸を見る。その幸の目が据わる。まずい。

 私は腰が引けつつも身構える。なんとしても死守しなければ。


「やだ。なんかそれがいい。それちょうだい」


「うりゃ」


 幸が伸ばした手をぱしっと叩いて撃退する。

 そして訪れた沈黙。幸の目がますます据わる。


「ちょうだいっ」


「だめっ。あ、やめろ。絶対だめっ」


「こらっ、よこしなさい。あはは」



 幸は楽く笑っていた。そして私も笑顔だった。まぁ、半泣きの。


 モノを抱えたことのない、私達を嫌う人達に何をどう思われたって関係ない。

 これを奪おうと手を出す幸が緊張までしてちゃんと書いてくれたのだから。おままごとのようでも、私は凄く嬉しかったのだから。



「しょ、しょうがない。はぁはぁ。私と幸のでい、いよ。もう、だめ疲れ、た」


「やったっ」


 私がそれを幸に渡すと、幸はそれを広げて嬉しそうに眺めて、へへへー、ふへへーって、ずっとによによしていた。


 私は幸のすぐ傍で、はぁはぁ息を整えてながらその姿を見つめていて、まじ、何にも言えねぇなって思っていたの。そんな顔されたら、胸いっぱいになっちゃうよって思っていたの。


 想いを込めて書いたところで提出しても受理されない婚姻届。

 それが私達を法的に、社会的に繋ぐことは今はない。なんだかなと思うけれど、それは分かっているから軽く悪態を吐くだけで怒りはしない。そんなの無駄だから。けっ。





「あ。こぼしちゃった」


 この歳で口から溢すとかヤバくない? 私は素早くミネストローネを拭き取って、それをなかったことにした。幸はやる気のスイッチが入っているから気づいていない。


「あぶなかったな」


 婚姻届のイベントはそんな感じ。

 そして私はこんなことも思うようになった。

 私達が無理でも、次の私達、その次の私達の同胞達がきっとそうなれますように、と。


「なったらいいな」


「おいふぃなぁ」


「幸。スープも残さないで食べてね。野菜」


「これで頑張れるぜっ」


「いや。まぁ、いいけどさ」


 楽しくも嬉しい出来事だった婚姻届のことだけでなく、いま最後の一切れを齧る幸は、私と一緒に暮らす毎日が何気なく過ぎていく中で、確かな絆を手に入れたと実感して充たされたのだと思う。そして幸の傍で過ごす私という存在もまた、幸を充たすことができたのだと思う。


 それゆえに、幸が私に甘える理由は確実に変わった。甘え方もそう。ただいちゃいちゃして触れ合っていたいだけ。

 私の綺麗で豊かな胸にぐりぐりと顔を擦り付けては、かおり、うふふと笑っていた幸。単なる乙女と化していた幸はまじでくっそ可愛かった。


 まぁ、変わったのは私達の暮らしと精神的なところ、気の持ちの部分だから、変わらないこのくそったれな社会で生きていく限り、感じてしまう不愉快や憤りを吐き出す必要はこれからもあるだろうけれど、私達の新たなステージが幸にいい影響をもたらしてくれたことを素直に喜びたい。

 何の憂いもなく、とは絶対にいかなくても、幸が頗る安定していれば私はそれで嬉しいのだ。





 私はそんなことを思いつつ、今はトーストしたパン、上にチーズが蕩けた美味いヤツの半分を齧りながら幸を見ているところ。


「けどなぁ」


 私は幸よ、少し落ち着いてくれよと思っているところ。



「くくく。やったるでー」


「やったるはいいけど幸うるさいよ。落ち着いて食べて」


「くくく。くくくくく」


「聞いてないし」


 私が幸を深く愛していなければ、暑苦しくて傍迷惑な奴だなこの女と思ってしまうくらい幸はテンションが高い。私と同時にベッドを出るとか少し心配になるくらい。



「まぁ幸っぽいけど」


「当たり前でしょう。私はやるからにはどこでだってトップを狙ってるんだから」


 私に不可能の文字はない。そう、にやりと笑う幸は残りのカツサンドを一口に頬張った。


「あ、通じた。幸、無理だけはだめだから」


 私も気をつけて幸を見るし、しっかり者の幸は大丈夫だろうけれど、体だけでなく気負い過ぎて精神的にも疲れてしまわないかとちょっと心配。


「わふぁっへるっへ」


「ちょっ、食べてる時は口閉じろって。こっちにバンかす飛ばすなっ」


「夏織は細かいねっ。あはははは」


「たっかいなおい」


 テンションMaxな幸の口から出て私のお皿に着地した何か。

 たぶん幸の口の中に見えたパンだろうなと思いながら、私は幸に声をかけつつ確認する。


「幸。ご飯をの時は落ち着けって。ん? なんだよこれトンカツじゃん」


 トンカツのかすとか、幸のヤツだからどうでもいいけれどキャベツと一緒によく咀嚼されているし、なにかこう、妙にリアルに感じてしまうソレ。


「うーん」


「そんなのいちいち気にしなくていいのに」


 吸い込まれるようにそれをじっと見ていると、いいのいいのそんなの気にするな的に私の髪を撫でる幸。


「ね」


 高いテンションの割に、その触り方が優しくて私はつい頷いてしまった。


「うんっ。あ、いや、待った。違うぞ幸。絶対それ違うからなっ」


「あはははは。夏織はやっぱり面白いねっ」


 幸が高らかに笑って私の肩をばしばしと叩き出した。

 今、箸はどこにも転がっていない、というか今朝は箸を使っていないのにだ。


「いや、まじ謎だし」


 幸がご機嫌ならそれでいいけれど私は首を捻る。

 けれど、今ここに恵美さんがいたなら幸と同じように笑っているだろう。

 やはり私にはできる女性の高笑うポイントが微妙に理解できないことは理解した。


「なるほど」


「スープも美味しいねっ」


「忙しいなおい」



 こうして私達はわいわいやりながら、私は私の、幸は幸のペースで朝ご飯を食べた。

 会話が噛み合ってないようでも、私達自身はしっかりと噛み合っているような気になる平日のいつもの朝の景色。日常。



「ご馳走様でしたっ。美味しかったよっ」


「お粗末様でした。ふふふ」


 挨拶を終えて、私は片付けと洗い物を、幸は最後の仕上げをするためにそれぞれに動き出す。


「よっこらしょ。ててて」


「よっ」


 べたっとラグに座っていた私の膝の関節がちょっと軋む感じのする私と違って、幸はすくっと立ってあっという間にここから消えた。


 …この差はなんだと私は思った。





 その幸の出掛け、苦もなくひょいひょいと靴を履く姿はいつものように様になっていた。履くたびによいしょと呟く私とはどこか違う。差はもう分かっていた。なんのことはない。元々の持つスペックが違う、次元が違うのだ。



「お先に」


「うん。気をつけて。遅くなる?」


「たぶん。けど、そんなじゃないよ。帰る時にメッセージ送るからね。ご飯はウチで食べる。いい?」


「いいよ。当たり前でしょ」


「そっか。ありがとう」


「だからいいって、ぐわっ」


 朝ご飯をもりもり食べてくれた幸。

 それからばたばたと用意し始めて、トイレの争奪戦とかがありながらの、私よりも先に完璧に仕上げた幸は玄関まで見送りに出て幸に引っ付いた私を思い切り抱き締めてくれた。


「ん」

「ん」


 お見送りのキス。ちょんと唇を触れ合うだけのものだけど、私はやっぱり幸せだなと思う。


「じゃあ、行くよ」


「はい。行ってらっしゃい」


「浮気すんなよ」


「はいはい」



 あはは。じゃあね夏織、また夜にね。

 そう優しく笑って扉を閉めた幸。今は通路を颯爽と歩いているのだろう。もしかしたらエレベーターを待ち切れずに階段を使っているかも。五階なのにほいほいと降りていく幸を想像すると呆れながらも笑みが溢れる。


「幸。ふふふ」


 私は幸の愚かしくもかっこいい姿を想像しながらリビングに戻り、天気もいいし洗濯でもしちゃおうかなと洗面所へとことこと向かう。


 ふんふんふんと鼻唄を奏で、洗うヤツの仕分けをしながら、汚れた物が綺麗になるのは気分爽快、気持ちいいもんなんだよなぁなんてと思ったところでふと我に帰る。


「あ。違うじゃん」


 幸にかまけていた分だけ私の時間は押している筈。第一に今日は平日なのだ。つまり私にもやらなくちゃいけない仕事というものが存在するのだ。


 私は幸を見送ったあとリビングに戻ってからこの瞬間までそれを忘れていたのだ。ご存知わたしは馬鹿だから。いま季節は春だから。頭になんか沸いちゃうから。


「あ。なら…」


 春眠うんたらかんたらだし、屋敷さんだし仕方ないなと、私なら余裕で許されるかもしれないぞなんて考えが頭をよぎる。


「いける? いやいや。いけてもだめでしょ」


 そんなことでは頑張る幸に顔向けできない。幸は笑ってくれるだろうけれど私は私で頑張らないと私の矜持が廃るのだっ。


「だなっ」



 私は浮かんだ甘い考えを諦めて、あり得ない速さでリビングに戻り、ぐりんと首を回してぽっぽの時計を確認した。


「あだっ」


 首がごりごりってっ鳴ったけれど気になどしてはいられない。


「まじヤバいけどまだいける」


 私は気づいてよかったまじ馬鹿じゃないのと思いながらばたばたと用意を始めた。


 服を着替えて髪は纏めるだけにして、最後に頑張って顔を作る…いや、作ってないから超自然だから。この顔まじ超ナチュラルだから。


「できたっ」



 いやに慌しくなってしまったけれど、これも私の望んだ暮らしの一部であることに変わりはないのだから私にはなんの不満もない。


「だなっ」


 コレはアレ。いとをかし。超趣きがあるというヤツだから。つまり私は凄く楽しいのだ。そんな暮らしが始まったのだ。



「いやいや。今そんなこと言ってる場合じゃないぞっ」


 それっ。いそげいそげ。





お疲れ様でございました。


こうして新たなステージを迎えた彼女たちです。先ずは祝福を。


「よっ。ご両人。ひゅーひゅー」


「昭和だなおい」

「ねー」


「ぐはっ」


この先も淡々と進む日常とかいちゃいちゃとか笑って過ごす日々の生活とか、そんなものばかりならいいなぁと思っていますが果たしてそれはどうなのか?


読んでくれてありがとうございます。


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― 新着の感想 ―
[一言] 本当におめでとう やっと2人で前を向ける環境を手に入れることが出来ましたね なかなか認められないことを気にしてもしょうがないけれど何とかならないものなのかな…
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