第六十四話
続きです。
よろしくお願いします。
三月。浅春の候、いかがお過ごしでしょうか。幸です。なんちゃって。あはは。
三月。冬の陽と春の陽が三対四の割合で訪れる、水が段々と温む月。
気付くと陽射しが温温でさ、縁側とかで微睡みたくなるけど虫もちらほら出てくるからやっぱ部屋で。とは夏織の談。
まったく。何を考えているのやらと思うけどいかにも夏織らしい。
陽だまりの中で甘いヤツを握ったままうつらとしている夏織を見ると私の中の何かに触れて水と同じく私の頬も緩んでしまうそんな月。
そして、人によっては今までのサイクルを終える、ひとつの区切りとして迎えられる別れの月でもある。
「和菓子? 全般美味いよね」
「我が師だからね」
その恩が尊かったと思える人がどれ程いるか知らないけど、みんな元気でねっ、じゃあまたねっ、なんて手を振ったりハグをしたりして、笑いながら泣きながら今まで所属していたコミュニティに別れを告げて、嬉々としてまたは嫌々ながらも次のステージへと進んでいく。そんな季節だ。
斯く言う私もまた、そんなひとつの区切りを迎えたうちのひとり。私はこれから新しい一歩を踏み出すのだ。
私の場合は涙もないしハグもない。笑みを浮かべてただ次へと進むだけ。
「くくく」
事実。いま花ちゃんのいるフロアに降り立った私は笑っている。私と同じエレベーターに乗っていた人達が少し距離を置いていたのはそのせいだ。結構乗っていたのに私の周りだけ空いていたのだ。きっと夏織ならこの人こわいと呟いて、目的の階など待たずにとっとと降りてしまったことだろう。
「あはは」
私のこのオフィスでのサイクルは今日で終わり。
今回迎えるこの終わりは、全てが私と夏織、そして私自身のためだから、私は微笑みこそすれ涙なんて流す筈がない。今だってこれまで関わった人達との別れの挨拶を淡々とこなしているのだ。
あとは有給を消化しつつ引っ越しをしたり勉強したりと、私は公私ともに次のステージへ進むだけ。
私の目は既に前だけを見ているのだ。
あ、でもなと、私はふと考える。
「花ちゃんは…」
別かも知れない。
新しく始まる生活をとても楽しみにしていても、私は心のどこかで、ふと甘えたくなった時に顔を出せば、その口の悪さはともかくちゃんと甘えさせてくれた手厳しくも優しい花ちゃんを頼りにしていたし、これからはそんなこと、簡単には出来なくなる。
だから花ちゃんなりのお叱りや弄りや揶揄がなくなってしまうことを私が寂しく思うのは仕方のないことなの…なのかな?
「あれ?」
「いい加減にしておきなよ。この馬鹿市ノ瀬」
「ははは。黒いヤツってこわいんだなぁ」
「ははは。また勝った。ここは幸の奢りだからな」
「ははは。幸は無駄に鋭いな。無駄に」
「はぁ。幸って馬鹿だったんだなぁ」
「あれぇ?」
おかしいな。こうして少し思い返してみると、後先考えずにあの花ちゃんに挑んでいく私がどうかしていたとも思うけど、してやられた記憶ばかりが浮かんでくる。頼りにしていたとはなんのことと疑問さえ浮かんできてしまう。
「うーん」
私は花ちゃんに、いいように揶揄われていただけで、花ちゃんには何か、私を励まそうとかそういう意図があったわけじゃないんじゃぁないのかなと思えてくる。
「はっ。まさか」
するとまた今回もしてやられちゃうのかななんて考えが浮かんでくる。
「…いやいやいや。今は挨拶だけだし大丈夫だよね?」
私は頭を振って気を取り直し、嫌な予感を感じながらもエレベーターホールを後にした。
「花ちゃんっ」
「ああ、幸。わざわざ来てくれたんだね。あとで会うんだからその時でよかったのに」
席に着いていた花ちゃんに声をかけると、花ちゃんは椅子ごと私に振り返った。
今じゃなくてもよかったのにと言いつつもその顔はちょっと嬉しそうに見えた。
「いえ。挨拶はちゃんとしておかないと」
「そう。幸は律儀だね」
「はい。花ちゃん、お世話になりました」
色々ありましたね。感謝していますと、私はぺこっと頭を下げてその気持ちを伝えた。
「幸には何もしてないけどね。幸は手の掛からないよく出来た子だったからさ」
私は何もしてないよとひらひらと手を振りつつも、花ちゃんはいつもと変わらない淡々とした花ちゃんだった。
その花ちゃんにだったと過去形で言われると、ああ、終わりが来たんだなぁと寂しさが湧いてくる。何も気にしなくていいよと微笑む花ちゃんの姿をなかなか見られなくなることに寂しさが込み上げてくる。
私は分かっていたつもりだけどそれを強く実感してしまったのだ。
「そんなこと…ない」
お互いに本音をぶつけ合ってというか私が絡んでから仲良くしてくれた花ちゃんは、私のことも気にかけてくれるようになった。私も花ちゃんには心を許すようになった。
私にとって花ちゃんは大切な存在。姉のような女性。
「まぁ、気負わず頑張んなよ。幸は頑張り過ぎるところがあるからな。アレも心配する」
溜め込まないで適度に吐き出せと花ちゃんは続けた。
やはり花ちゃんは私のこともちゃんと見てくれている。最初の頃は穿った目だったけど今では夏織に向けるのと同じ、見守るような優しい目で。
しかも花ちゃんは今、アレもと言ってくれたのだ。つまり、私も心配しているよと、そういうことだ。
「はい…」
「傍にいい見本がいるんだし、あんな感じでたまに力を抜けばいいんだよ。疲れたなら少しは楽になる。アレは抜き過ぎだけどね」
「あは、は…そう、ですね。ありが、とう、花ちゃん」
「いいよ」
この女性と離れるのはやっぱり辛いなぁ。
そう思って少しだけ言葉に詰まった私に、花ちゃんは微笑んでくれた。
私のぼやけつつある視線の先の花ちゃんは、すぐにその笑みをにやりと深くしていつもの台詞を口にする。
「ここで泣く? あれからサイズは変わってないからね。ほら幸。おいで」
ゆっさとひと揺らして花ちゃんは腕を広げた。やはりこの女性は凄いけどあほだと分かる。
花ちゃんはここをどこだと思っているのか。ここは花ちゃんの課の入るフロアで花ちゃんの席なのだ。
立ち上がって私に向けて腕を広げている様は側から見ればどうみてもおかしいのだから。相撲に詳しい夏織なら、いや、なんでふたりでぶつかり稽古してるの? 仲良いな楽しそうと、笑っているだろう。
「ほら。幸。どんとぶつかってこい」
「なんでその台詞がいま出ちゃうかなぁ」
「気にすんな幸。ほら」
こいこいと言いながら若干腰を落とすのはやめてほしい。花ちゃんの同僚、周りの人達が吉岡さんは一体何を始めるのかな怖いなぁと恐々として見ているんだから。
「もう花ちゃん。こんなとこでそんなこと、できるわけないでしょうに」
「なんだ遠慮して。最後くらいここで泣いていけばいいのに」
またゆっさとひと揺らししてから花ちゃんはその腕を下ろし、アレなら迷わず飛び込んで来るのに幸は何気に恥ずかしがり屋さんなんだなと笑っている。
「もう、またそうやってからかって」
「ははは。バレたか。けどさすがだね」
そして花ちゃんは、私達のやり取りを見ている同僚達を見渡した。見られていることを分かっていたのだ。
「幸は慎みってものを知ってるもんな。ぷっ」
「そりゃあオフィスでそんな、ん? ぷっ?」
「ぷって? なによ」
「あ。いや。今なんか…」
私いま笑われた? 気のせい? いま花ちゃんの目線はどこにあったっけ? 思い切り見られていたような気がするし、さてはこの女…
「あ。そうだった。幸」
そんなことを考えて、おいこら花と、闘志をめらめらと燃やし始めていると、花ちゃんは夏織に怒られるかなと呟きながらかがみ込んで、デスクの下から細長い袋を取り出してそれを手渡してくれた。
さすが花ちゃん。それは私の気を逸らすのに十分過ぎるヤツだった。
「はい。これあげる。持ってって」
「うおおっ。花ちゃん、いいのっ?」
「いいよ」
「やったっ」
手渡されたそれはお高いドンなシャンパン。しかもロゼ。ビンク色した美味しい奴。
まじですか、うおおーと、感動している私に、お別れというより門出、お祝い的な感じがするからさと花ちゃんは言ってくれる。
「おおおー」
さすが花ちゃんまさにそれ。花ちゃんのことを除けば、私はこれから先のこと、新しく始まる夏織との暮らしや仕事が楽しみで仕方ないのだ。
「ははは。やっぱ幸も面白いんだなぁ」
ドンを持って華麗に小躍りする私を呆れながらも褒める花ちゃんとは、私のばたばたが落ち着けばこれからも会える。それは分かっているから私はきっと大丈夫。
けど今日が私と花ちゃんにとってひとつの区切りであることには変わりはない。
なら、これがここでの最後の掛け合い。私は小躍りをやめてそれを始めることにした。
「あ、わかった。花ちゃん、これ重いからとっとと渡したかったんでしょう?」
「はあ?」
夜、夏織と三人でご飯を食べに行くんだから、その時でもよかったでしょうとにやついてみせると、花ちゃんはちゃんと乗ってくれた。
「なら返しな。幸にはあげないでアレにあげるから。重いからもう持ちたくないし」
ま、アレも超重いんですけどと文句を言うかもなぁなんて呟いて、花ちゃんは手をくいくい、早く返しなとやっている。
けど、貰ったものは返せないからなと夏織はよく言っているから、私もそれを見習って、花ちゃんの魔の手からドンを守ろうときつく胸に抱いた。
「やだ。これは私の。貰ったからには返しませんよ」
「おー。やっぱ幸は慎ましいね」
はて。私は返さないと言ったのに慎ましいとはどういうことか。
この女。一度だけならともかくこれで二度目。もはや、なんのことですか? と流すことはしない。できない。
花ちゃんをいつまでも調子に乗らせて置いてはいけない。つけ上がるから。
「すごく慎ましいのな。てかさ、慎まし過ぎる」
ほらね。花ちゃんが薄ら笑って私を見ている。正確には、私が絶対に返すつもりはないドンをしっかりと抱えている、夏織が大好きだと言ってくれる、ちょっとだけ成長したけどまだまだうっすいこの胸をなっ。泣くぞこらー。
「ねぇ花ちゃんいまなんて?」
「おおこわい。こわいからそんなに睨むなって。ぷ」
「ぷ、だぁ。おいこらばか花ぁ」
「あ? なんだって?」
「ああ。歳だから聴こえないんだ。ば、か、は、な」
「幸。調子に乗るな。泣かすよ?」
「ばぁ…」
やだ。花ちゃんたらこわい。超こわい。
怒りに任せて口が回ってしまったけど、こうなったからにはというかこうしたのは私のような気もするけど、腰は引けても後には引けない。私は最後、なんとしても花ちゃんに勝つのだっ。
そのついでに、いま私達を遠巻きにして私に何かを期待している目を向けて祈るようなポーズをしている花ちゃんの同僚達のその目に私の勇姿もちゃんと焼き付けてもらうのだ。
そう。億が一にもこのフロアのボス的な花ちゃんにぎゃふんと言わせることができたなら、私はこのフロアでは語り継がれるほどの伝説の人物になれる。営業成績以外にも確かなものを残せるのだ。私はみんなの期待に応えるのだっ。
なんて、もはや思考は夏織のよう。夫婦が似てくるとはこういうことなのかもと嬉しいような拙いような複雑な気持ちを抱えつつ、集中出来ていないし、元から無理だなこれはと諦めながらも強大な敵に挑んでいく私は一体なにをしているのか。もはや謎でしかない。
けど賽は既に投げられてしまった。私の勝ち目は七以上。つまり、ひとつしか投げていなければ出る筈のない目。くっ。
「な。なにそれ? 調子に乗っているのはどっちなのかしらね。やれるものならやってみなさいよ、花。ちゃ、ちゃん」
そんなの絶対に無理に決まっているかしらと、ますます混乱していく私が頑張って張った、精一杯の虚勢を見透かして、あっそ、じゃあ遠慮なくって感じで花ちゃんは私の胸を指す。
「それな」
私はびくっと身構えてしまう。
あ、待って。やっぱりむりですごめん花ちゃん謝りますからそこはやめて下さいお願いしますと口を開こうとする前に、花ちゃんは私を攻撃し始める。
「だいたいおかしいんだよ。私やアレなら余裕で埋もれるのにさ、なんで幸のだと埋もれないの? ちょっとくらい埋もれてもいい筈なのに。物理的におかしいだろそれ」
「ぐはっ」
容赦のない攻撃。それがもたらす圧倒的な衝撃で蹲る瞬間に見えた、自分のナニをゆっさゆっさと揺らす花ちゃん。その顔が楽しそうに笑っていたのはこの掛け合いを楽しんでいるだけではない。
幸お前ね、絡むにしてもなんでソレ? なんでそんな慎ましいモノで私に挑むの負けちゃうに決まってるじゃんやっぱ幸って馬鹿なんだなという明らかな失笑も含まれていて、ここじゃ最後だし徹底的にやるとするか的な、わっるい笑みをも浮かべていたのだ。
そして蹲る瞬間、私に見えたものはそれだけではなかった。このフロアの何人かの女性が悲鳴とともに胸を押さえて私と同じように蹲る様も見えてしまったのだ。
花ちゃんまじ恐るべし。まさに恐怖の大魔王と呼ぶにふさわしい。
いま私の耳には、でんでれれれっでんでん、マインファーテルっ、マインファーテルっと、あの曲が確かに聴こえている。まさに迫り来る大魔王花。超こわい。
「ふっ」
何人もの犠牲者を出した花ちゃんはいま一切の憐れみを捨てている。しかも確実に鼻で笑いやがったこの恐怖の大魔王。
「ま、まさかまた笑った?」
「そりゃあ、ねぇ」
「わーわーわー」
それ以上はやめて。
私は夏織の得意技、耳を塞いで声を出すヤツを慌てて繰り出して防御態勢を整える。
見れば蹲っていた女性達も私に遅れて似たようなことをしようとしている。まさに、助けてマインファーテル。魔王が迫って来るよというヤツだ。
けれど全ては遅かった。あの歌詞と同じように結末は変わらなかった。夏織の得意技などなんの役にも立ちはしなかったのだ。まったく、あの役立たずめがっ。はい、残念でした。
「いや、アレもたまに言うけどさ、同じ女性でこうも違うなんてほんと人間て不思議」
聴こえた言葉にわなわな震えて耳を塞いで蹲る私の肩をぽんぽんと叩く花ちゃんは本気で私、だけじゃなく、周りで蹲る女性達をも意図せず潰そうとしている飛んだとばっちり。
「幸。辛い? 辛いよな? けどさ、女性の価値はそこだけじゃあ決まらないから大丈夫。生きてはいける。実際、幸はやけに堂々と生きてるし。な? ふはははは」
ああ無惨。それは止め。それでばたばたと倒れていく仲間の女性達。もはや全滅、今の攻撃で確実にいってしまったようでぴくりともしていない。
今この戦場で動いているものは、辛うじて息をしているこの私とそれを高笑う大魔王と、この話題には関係のない人達と私達を気にせず仕事をしている真面目なサラリーマンの鑑のような人達だけ。
「うはははは」
高笑う大魔王ったら超こわい。私は慣れているからなんとか大丈夫だけど、いってしまった女性達には絶対にトラウマものだ。
そしてその終い、横棒一本ないだけで幸が辛くなるなんて笑っちゃうふははははときたもんだ。
「うはははは」
こうして戦いは終わった。そう。終わったの。これで終わり。
「ぐ」
掛け合いを始めた私が悪くても、それがいかに愚かでも負けて悔しくても、それで外野であった筈の女性達を巻き添えにしても、恐怖の大王が超怖くても、私はそれが理由で泣いたりなんかしない。私は負けず嫌いだから。
いま私が泣きそうなのは別の理由だ。
「うぐっ。あるもん。ないように見えて少しはあるもんっ。残念でした。ばーかばーか」
負けは負け。それが理由で泣いてなくてもついには子供の文句みたいになってしまった私に花ちゃんがとどめを刺した。
「あるっていうのはこういうのを言うんだよ」
それはないって言うんだぞ、ね、みんなもそう思うよね的に、誇示するように再び揺する花ちゃんのナニのなんと重そうに揺れていることか。
「もうっ、うるさいっ。ばか花っ」
「いたっ」
痛いな幸、暴力反対だぞ幸と、夏織が言うと全く説得力のない台詞を口にして頭を摩っている花ちゃんの姿が少し寂しそうに見えるのは気のせいじゃない。それは私も同じだから。それが私の寂しさを一層のものにする。
「ぐぅ」
唇を噛み締めて、必死に堪える私のことを花ちゃんはは仕方ないなぁこっちおいでとフロアから連れ出してくれた。
エレベーターホール横の非常階段まで行って、そこの一番上の段に座らせてくれた。
そして私は泣いてしまった。失う時間の大切さが今あらためて分かったから。私はそれが辛かったから。
「ううう。ばなぢゃん」
花ちゃんは私に寄り添って背中をぽんぽんしてくれていた。
私は恥ずかしながら呼吸困難になるくらいに号泣した。花ちゃんが私をからかって、黒いヤツ来るよなんて言ったけど、それは大丈夫。私は私の感じるままに素直に涙をこぼしていたんだから。恥ずかしいけど恥ずべきことではないんだから。
「私で泣いてくれるとはね。嬉しいよ」
「うぐっ、ふぐっ」
「けどもう泣くな幸。このあともあるし、連絡はいつでもとれるから。何かあったらすぐしておいで」
「ばい。うぐうぐ」
「また遊ぼう。な、幸」
「ばいっ。ふぐっ」
「あちゃー。ま、いいか。ほら幸、気の済むまで泣いていいよ」
「ふぐぐっ?」
そして花ちゃんは私を抱き寄せてくれた。驚異的で豊満で柔らかくも暖かいその胸に。胸囲だけにねっ。
それがまた嬉しくて、それでもやっぱり寂しくて、私が泣き止むまで結構な時間がかかってしまった。
「すんすん」
ややもするとまた花ちゃんの前で泣くようなことがあるかもしれないけど、そのあいだずっと私の背を摩ったり優しく叩いてくれていたその手の感触を私はきっと忘れない。その、驚異的で豊満な胸の感触も………胸囲だけにねっ。
「しつこいね」
「ごめんなさい。あはは」
私はもう平気。そう顔を上げると花ちゃんの目も濡れていた。それについて、私が何も言わずににっこり微笑んでみせると、花ちゃんもにっこりと笑ってくれた。
終わりだけど終わらない。私達は続いていくから心配するな。その笑みは私にそう思わせてくれた。
「ふぅ。落ち着いた。ありがとう花ちゃん」
「いいよ。あ、幸。その目元、擦らないで冷やしておきなよ」
「そうする」
「あーあ。どうしよう。戻るのやだなぁ。あの雰囲気がなぁ。私が幸を虐めたみたいになってたよね」
「花ちゃん。それ私だけじゃないと思うけど。結構な人がいってたよ?」
「まぁそうだね。幸と違ってみんな打たれ弱いよなぁ」
「私も傷ついたけど?」
「だよね。ごめんごめん」
私はもう一歩花ちゃんに近づこうと、夏織と話すようにタメ口をきいた。姉妹だからそれでいいよと、花ちゃんは気持ちよく笑ってくれたのだ。
「けど幸。私が姉だからね」
「それは大丈夫。もうね、よーくわかったよ」
「ならいいよ」
じゃあまたあとでねと背を向けた花ちゃんに私は後ろから抱きついた。感謝の気持ちを伝えたくなったから。それと、ついでに驚かせたくなったから。
なっ、うおおと、素で驚いて少し慌てていたものの、花ちゃんは少しのあいだそのままでいさせてくれた。
「うおお、だって。くくく」
「やられたなぁ」
先を歩く花ちゃんの背に私は戯れている。花ちゃんが素で慌てる様子を見ることはほぼないから。
私は最後の最後にようやく一矢報いてやったのだ。あっはっはっ。
「うおおとか。くくく」
「はいはい。よかったね」
そしてその夜、私と夏織、花ちゃんは三人で鍋を囲んだ。
鍋と言ってもしゃぶしゃぶ鍋。お肉お代わり自由だからたっぷり食べてね幸と、夏織が選んでくれたなかなか美味しい和牛のお肉を出してくれるお店。さすが夏織。分かってらっしゃる。
「今日までお勤めお疲れ様でした。幸、これからもよろしくね」
「お疲れ幸。さっきも言ったけど、ほどほどに頑張れ」
「ありがとう。ふたりとも」
「じゃ、かんぱーいっ、の、いっただっきまーす」
私と花ちゃんはグラスを掲げて音頭を取った夏織の掛け声に合わせることはできなかった。というか今のヤツだとそれは無理。
「かんぱーって、ちょっと」
私は合わせようとしたけど、花ちゃんは反応しなかった。早々に諦めたのだ。さすが花ちゃん、夏織を分かってらっしゃる。
「夏織、合わせづらいよ」
「だね」
「ぷはーっ。ん? へいきへいき」
「夏織さんさぁ」
「夏織さぁ」
「なに? ふたりは飲まないの?」
「いや、飲むけどさ」
「いいよ、幸。ほら、乾杯」
「あ。うん」
グラスを付け合う私達を見ていた夏織はにこにこと笑っていた。私と花ちゃんの距離感がまた変わったことをたぶん気づいたのだと思う。やはり夏織はよく見ているのだ。
そして、あんなことこんなことあったよねーと、あははふふふふははと笑って楽しく過ごしながら、三皿目のお肉が心許ないから今のうちに自分でボタンをぴってやってお肉のお代わりを頼もうかなと夏織の側にあるボタンをさっと手に取った時にそれは始まった。
「ね、ね、花ちゃん。また幸と仲良くなったよね?」
「まあね」
なんて感じで始まる、いわゆる夏織と花劇場にようこそというヤツだ。
「ボタンボタン」
「でさ。幸が泣き出しちゃってもう大変だったんだよ」
「なんだ幸。呼んでくれればよかったのに。なんなら今からでもいいよ。泣く? ほら、幸は知ってるけど、DだよD」
「私はEだよ。ほら幸。今度こそおいで」
ぶるぶるゆっさゆっさと、擬音を付けるととても煩く感じる四つのたわわなソレが私の前と横とで揺れている。
私はお肉も食べなくちゃいけないし、お代わりを頼まなくちゃいけないから、いつも癒してくれて、さっき癒してくれたソレ達には申し訳ないけどはっきり言って凄く今は邪魔。
「ほら」
「ほら」
今ここが個室でよかったなと思っているのはたぶん私ひとりだけ。コイツら姉妹はこうなると止まらないのだ。
「いらないよ。私はお肉を食べるので忙しいから好きにしてて」
「癒されるのに」
「柔らかいのに」
「「ねっ」」
コイツらほんと仲良いなぁと、忙しなく肉を食らいながら私は思う。私もその中に入っていると思うと今は些か微妙だけど、お肉があれば私は幸せだから胸が云々については腹は立たないし、どうぞ幾らでも続けてくださいなその隙にふたりのお肉も食べちゃうからさとも思う。
「うん。美味しい」
「ねぇ幸もちょっとゆら…いや、やっぱなんでもない。あだっ」
「ばかだな夏織。幸にできるわけ、いったあ」
「お前達は野菜だけ食ってなさい」
「「あ、ずるいぞ幸」」
「ふたりとも痩せたいんでしょう? なら野菜だけで十分。あ、春雨なら食べていもいからね」
「「な、なんだとー」」
「うるさい。私は食事中なの。忙しいの」
「幸が冷たい。しくしく」
「ほんとだね。うぐうぐ」
大丈夫。私はべつに腹を立てているわけじゃない。ふたりに付き合ってあげただけ。
「あ。花ちゃんこんなのは? 見ててね。うりうり」
「ほー。よく揺れてるね。面白そう。うりうり」
「うん。ほんと美味しい」
大体このふたりは、くだらないことでやり合うこともままあるけれど、波長は合うし仲良しだからタッグを組んだらすごく面倒くさいの。
「夏織。うぇーい」
「いいね。うぇーい」
今だって私に叩かれたのも、私がお肉のお皿を独り占めしたのもお構いなしで、けらけら笑って体を細かくゆらしながら、下ろした腕をぴんと伸ばして体を前に倒したり後ろに反って、それをお互い交互に繰り返して、ぎったんばっこん、うぇーい、うぇーい、とナニを揺らしている。
もはや私を慰めようとしたことなど忘れているのだ。馬鹿だから。大馬鹿共だから。
ええ、ええ、平気。私は大丈夫。私は怒ってなんかいない。
「うぇーい」
「うぇーい」
「美味し…い」
私はべつに、私のための送別会的なヤツなのにこうも好きにいじられるなんて酷いなコイツらなんて思っていないし怒ってもいない。
「はぁ」
けど見ているとなんかイラつくし声もウザいし、こうなったらお肉をたらふく食って財布を空にしてやるしかないなと思いつつも、やっぱりこの時間が減っちゃうのは惜しいなぁなんて思いながら、私は追加のお肉を頼むために店員さんを呼ぶボタンをこっそりと押した。ぴって。
夏織じゃないけど私にも降りて来たの。ちょっと前に。凄いのが。くくく。
「うぇーい」
「うぇーい」
私を馬鹿にするコイツらに恥をかいてもらえって私の中の私がそう言うの。だから、私は全然怒ってないけど心の声に従うことにしたの。私は頑張り屋さんの素直でいい子だし、これは天啓だから絶対に逃しては駄目なヤツだから。
そう考えながらも、私はやっぱり夏織に似てきたなと、ちょっと厄介なものを抱えてしまったなぁと少しもやっとしたけどそれはまたあとで、そうなった時にでも考えることにしようと思う。
まあ、この思考もなんとなく夏織っぽいけど気にしては駄目。こうなってしまった私もまた私。私なりに成長しているいうことだから。
「うんうん」
「そろそろかな」
さぁそこの馬鹿共。精々その馬鹿面と鬱陶しいあほな動きを店員さんに晒して思い切り恥をかくがいい。あはははは。
「うぇーい。うりうり」
「うぇーい。うりうり」
こんこん
「失礼します」
きたきた。さて、どうなることやら。くくくくく。
「はーい。どうぞー」
「ねぇ。もう疲れたからやめよう花ちゃん」
「そうだね。いい加減もういいね」
「ななっ」
がらっ
はい。残念でした。くっそう。
まったく。これだから変に勘のいいヤツらは手に負えない。
「あーあ」
けど、夏織も花ちゃんも楽しそう。
「わっ。肉だよ。花ちゃん」
「うん。肉だね」
店員さんの持ってきたお肉のお皿を見て、お肉っお肉って騒いでいる。
やっぱりいい歳をして何をしているんだかと思うけど、箸とタレのお皿を持って今か今かと期待して、律儀に私の許可を待っているふたりを見ると絆されてしまうのもまた事実。私がこのふたりに抱く好きの意味はそれぞれ違っても、私はやっぱりこのふたりが大好きだから。
「もう。しょうがないなぁ。食べていいよ」
「「やったっ」」
「あはは」
よし。私も食べよっと。
お疲れ様でした。いつもありがとうです。
私事ですが『魔王』を久々に聴いたら面白かったです。
「マイファーザっ、マイファーザっ」
「あはは。楽しい?」
「うんっ。悲惨だけどなっ」
さて、どっちにするか。と、いまだに悩む私に合いの手を。
「よっ」
いや、違うから愛の手だから。なんっつて。あはは。
あ、なくても大丈夫。これを書きたかっただけです。私は泣がないじ。
読んでくれてありがとうございます。