第六十三話 前
あけましておめでとうございます。
長ーくなったので、前と後とに分けてあります。
こちらが前です。
よろしくお願いします。
二月の終わり。寒さのせいで脂肪を蓄える季節はもう終わる。
そして私の一年もまた、別の意味で終わる。怖いから見ないように顔を背けているうちに、気づけば毎年のように蓄えることを繰り返している、ような気がする。
けれどそれは、二月にバレンタインデーなんてものがあるからいけないのだから私は悪くない。いや、正確には、その日にチョコを贈るなんてことを仕掛けた人がいけないのだ。だからっ、だからっ、だから私はっ…くっ。
「はぁ」
まったく、いい迷惑だなと、まじ余計なことをしてくれやがったよなと私は思った。
そうは思うものの貰ったチョコはどれもみんな美味かった。それがまだあと四つ残っていて私が手に取るのを今か今かと待っている。私がそれを支えにしてなんとか正気を保てていることは覆しようのない事実なのだ。
だから、私はストレスを溜めるよりは脂肪を溜めたほうが精神的には全然いいのではと思うことにした。毎年そう思っているかもだけれどよく覚えていないからそれはそれで構いはしないのだ。
終わったことは終わったこと。成ったことは成ったこと。けれど幸なことに、寒さだけではなく誘惑に負けて育ててしまったかも知れない私に取り憑いて離れない邪魔なヤツは、私の頑張りでどうにかすることは可能だから、いつまでもうじうじと気にするのは無駄。
あの、口に入れた瞬間に、いや、美味いなコレと感動した素晴らしい出逢いの思い出だけをこの胸に抱き、また来年も素敵な出逢いがありますようにと祈りつつ、私は前を向いて生きるのだ。
「来年かぁ。ふふ。楽しみだなぁ」
で、同じ時代、同じ時、同じ季節を生きている筈の幸は、私を始めとする多くの女性が持つそんな葛藤を覚えることのない羨ましくも腹立たしい女性。今朝もご飯が美味しいねと元気にはらぺこをやっていた。
「んっ。ふおいひいへほへ」
「よかった。けど幸、口閉じて。喋るならまず飲み込めって」
幸のそれは、昔、道路脇のだ垣根に顔を突っ込んで、タロは何をしているのかなと思ったら、どうよ? 美味そうでしょ? 食べる? けどあげないよと、見つけた唐揚げさん的なヤツを咥えて自慢げに見せてくれたタロのよう。
あ、こら、そんなの食うななんつって、唐揚げはすぐに私に取り上げられてしまったけれど。雉も鳴かずば撃たれまいというヤツだ。タロったら可哀想に。
ちなみに私も食べていない。捨てたから。幸ならともかく私はそこは大丈夫。三秒以上経っていることくらい私はちゃんと分かっていたから。
「ふあーい」
「だから口閉じろって。わざわざ見せるなって。タロか」
「ふぁふぁふぁ」
その幸は二月の半ばを過ぎた頃からばたばたし始めていた。引き継ぎとか社内外の送別会とか挨拶回りとか、この際だからとなかなかイケてる若い子からナイスミドルな男性まで、幅広い層からの玉砕覚悟の告白とかもあって色々と忙しかった幸は何を思ったのか、私が全く興味のないそれをいちいち報告してくれたのだ。
「夏織。聞いて聞いて。私、なんとっ、告白されたのっ」
「へー。けど、お断りしたんでしょ」
「え? あ、ま、まあね」
「なら、いいんじゃないの」
「うーん」
その二日後。
「わたし今日ね、まーた告白されちゃったよ」
「ふーん」
「あれぇ?」
そしてその次の日。
「夏織。また告白されたよ。結婚を前提にだってっ」
「そっかー」
「くっ」
そしてそのまた次の日。
「夏織あのね。私また告白されたよっ」
「あんはぁ」
「くっ。もう我慢できない。ちょっと夏織っ」
「え、なに? どしたの」
「あのさ、ちょっとは気にならないの? ヤキモチとかないの?」
なんだよーと憤る幸が何を期待しているのか私は分かっているけれど気にならないし無いものは無い。私を絞っても逆さにして振っても、そんな感情はこれっぽっちも出てこない。
なぜなら私の心はこの身と同じようにかっさかっさに枯れ果てているのだから…いやいや、違うから。
私は枯れていない。そんな感情が湧かないのは元からだし、何より幸に充たされているからだ。体については超艶々だから今のところはなんの問題もない。大丈夫。
「ないよ。だってさ、男とかあり得ないじゃん」
「それはそうだけどさぁ」
「それとも幸、女の子に告られたとか?」
例えば、ほらあの娘。いるよね。幸んとこのさ、幸に懐いている営業事務の可愛い娘。仕事ができるから幸もお気に入りの娘、と訊いてみる。私は特に気にしてもいないけれど。
「いや。されてないよ」
「もしもされても断るでしょ?」
「当たり前だよ。私には夏織しかいないもん」
「かは」
ずいっと体を寄せて、そんな当たり前のことを訊くなと幸は頬を膨らませた。その内容と語尾のもんと相まって可愛いことこの上ない。それを間近で見た私の顔が当然のように綻んでいく。
「じゃあ、やっぱないな」
「それはそうなんだけど。そうなんだけどさぁ。なんかつまんないなー」
頬の空気を抜いて、ちぇっと口をとんがらがして拗ねる幸。そんな可愛くも面倒くさい幸の気持ちは分からないでもないけれど、相手が私ではもはや意味がない。
私に不満があるとすればそれに取られる幸の時間くらい。一応、私と幸としての時間は有限だから、私が幸といちゃつく時間が減ってしまうことには腹立たしくもなる。
けれどそれも、幸が言ってくれたまた私を見つけるという言葉を私は信じているから、私達の時間は永遠。永遠だから私は超余裕でいられるのだ。
「じゃあ幸は? 私が男の人に告られたら妬くの?」
「んー。妬かないね」
「女の人に…いや、いいや。わかるから」
「許しませんよ?」
手をぱきぱきってやって幸は笑った。しゃーって感じで凄く不敵に。それは、鬼気迫るものを感じる凄いヤツ。その顔も間近で見た私がすぐにトイレに行かなくてならなくなってしまうヤツだ。
「こわい。ちょっとトイレ」
「しゃー」
「ちょっ、幸。私ひとりできるからそれやめて。なんか馬鹿にされてる気になる」
「しゃー?」
「やめろって。逆に止まるから」
とにかく私達は私達なのだから、何か特別な事情でもない限り、状況がどうしても許さない限り、自ら諦めない限りは男性とはあり得ないのだ。
「でしょ。だからだから」
「そうだけど。夏織はヤキモチ妬いてくれたことないからなぁ」
「焼いてほしいの? お餅食べたいの? お餅まだ残ってるから食べるなら焼くけど?」
私は幸にどうする食べるよね的に訊いてみた。これは振りだ。
するとやはりさすがの幸は空かさない。私の振りにちゃんとのってくれた。
「うん食べたい。磯辺と安倍川ひとつずつがいいな、って、ちがーう。違うからっ」
ばしばしと床を叩く幸のリアクションはまるで私のそれと瓜二つ。側から見ていると面白いけれど少し恥ずい。
「はっ」
幸は今それを素でやってしまったのかも。
となると明らかに拙いのではと私は思う。
おかしなリアクションを終えた幸も心なしか愕然として、今はわなわなと震えている。そこまでのことじゃないだろうよと思うけれど、私としても心配の方が先に立ってしまう。
「ねぇ幸大丈夫? もう確実に私が移ってるよね?」
「だめ、むり。けど、今はヤキモチの話だよ」
「ごめんね移しちゃって。それで、幸。今からお餅焼くけどさ、磯辺と安倍川でいいの?」
「うん。お願いね。美味しいもんねお餅って、違うからねっ。食べたいけど今は違うからっ」
ばしばしと二回床を叩いて幸は固まった。それからじわりと涙を溜めてそれをこぼした。つーって頬を伝うそれが幸の受けた衝撃の大きさを物語っている。いや、そこまでのことじゃないでしょと私は思う。
「うぐうぐ」
「そんな哀しそうにに泣くなって。私だって傷つくことはあるんだからな。な?」
さらに驚愕して、肩を落として震え出した幸。いやいや、おかしいでしょと思う私。なんとなく悲しくなってくる。
「うぐうぐ」
私はなーんか納得がいかなかったけれど、一応幸を胸に抱いて、その嘘泣きが止むまで、おーよしよし移るなんて可哀想にと、優しくしてあげようと頑張ったのだ。
「い、いや、待った。可哀想とか絶対おかしいでしょ」
「うぐう……くくっ、くくくくく」
「なんだよ幸、やっぱ嘘泣きじゃんか」
「バレた? あはは。だってべつに嫌じゃないからねー」
「え。だめだよ幸。幸は私みたくなっちゃだめだから。私の生き方が魅力的なのはよく分かるけどさ、こっちはこっちで色々大変なの。だから幸、諦めたらそこで終わるんだから諦めちゃだめ」
「え?」
「ん?」
何を言っているのかこの人は的に互いに顔を見合わせる。
けれど私は真面目にそう思っているから、望んでこっちに来るというのならべつに構わないけれど、幸はやる気のスイッチにオフが付いていない人だからこっちに来くるべき人ではない。あまりに楽過ぎてきっと耐えられないと思うから。
それに、楽に生きるということは、その先にあるものは自堕落なソレだ。
私のように朝目を覚ましてから夜眠るまで、毎日のようにその誘惑と戦うことはまじで大変なのだから、そんな馬鹿くさい要らぬ苦労を幸にはしてほしくない。
「だからだめ。絶対だめ」
「ぷっ。なにそれ。あはははは」
幸は今、お腹を抱えてんがんがと笑っている。そこまで笑う要素は無かった筈だと思いながらも、私はその姿を温かく見守ってあげたのだ。私は幸には凄く優しいのだ。
「あー、面白かったー」
「そう?」
「うん。夏織の変な理論」
「うーん。そこも否定できないな」
「でしょう? あはは」
幸の笑いが収まったところで、私はもう一度確認をしておくことにした。はらぺこ幸は絶対に忘れていない筈だから。
「で、幸。お餅食べる?」
「うん。食べる」
「わかった。待ってて。焼いてくる」
「やったっ」
そんなわけでその十五分後、私達は今お餅を食べている。安倍川と磯辺、それと、お餅の焼いているあいだにちゃちゃっとおろした大根おろしのヤツだ。
それをびろーんとやっているところ。美味い。
「くそー。せっかく夏織を妬かせるいい機会だと思ったのに」
「ないよ。ま、私は女性でも妬いたりしないけどさ」
「そうなんだよね。なんで?」
「んー。元々の性格なのかなぁ。考え方とか恋愛観とかさ」
幸が他の女性と何かをしても、それが幸のしたいことなら私は口を出さない。その意思を尊重するし出す必要性を感じない。私達は恋人だけれど、個々に存在する確固たるひとりの個人だから。
だから幸が私のそういう行動に口を出したいと思うのなら私はそれで構わない。
わざわざ溜め込んでまで我慢する必要はないと私は思うから、何か言いたいことがあるのなら言えばいい。もちろん、私は私のしたいようにするから、私がそれを聞くとは限らないけれど、伝えたいなら伝えるべきだと私は思う。
それを、またかよもう面倒くさいなと私は思うけれど、決して嫌がったりはしない。
まぁ、那由多が一、幸が私以外の女性とそうなったとしたら、それはそういうことなのだから、妬くどころの話ではない、もはや手遅れというヤツだ。
嫌だ嫌だと泣いて喚いて引き留めたとしても、壊れたものは壊れたまま、私達の関係は以前のように同じには戻ることはない。私達の間にあった筈の大事な物は確実に壊れてしまったのだから。
まぁ、無量大数が一、そうなってしまったら、幸がそれを望む以上、さっさとその手を放すしかないと私は決めている。惜しみなく奪ったところで、相手に我慢をさせるのは絶対に違うと私は思うから。
結局お別れはやって来るのだ。そうなれば、耐えられようが耐えられまいがひとりで泣き喚いて途方にくれるしかない。
それを思えばやれ誰々と何処に行ったとか何をしたとか告られたとか、そんなどうでもいい些細なことにいちいち目くじら立てるのはそれこそ無駄オブザ無駄なのだ。
相手がしたいことや望むこと、移ろう心を止めることを私はしない。そもそもの話、その心の移ろい、誰かを好ましく想う感情は誰にも止められやしないのだ。
相手に良くみせようと背伸びしてまで頑張っみても私が疲れてしまうだけ。それで側に居てもらっても、喜びよりも虚しさが勝ってしまうだけ。
だから私はそんなことしない。私は私だから、私は私でしかない。私はその時その時の、存るままの私で在りたいのだ。
「だからさ」
だからこそ、それがいいんだよと、それが私の好きな夏織だよと、この私を深く愛してくれる幸に私は全幅の信頼を置いて、何よりも深い愛を捧げているのだ。
その私達の絆を思えばこそ、幸が何をしても、幸に何が起こっても、信じこそすれそこに不安など少しもありはしないのだから妬くなんてことは私にはあり得ない。
「てことなの」
「なるほどねぇ。そっか。うんっ、そっかぁ。愛されてるんだなぁ。私って」
「そうだよ。私は幸を凄く愛してる。だからありがと幸。幸も私を愛してくれて」
「ななっ、なにそれかわいすぎ。ほ、ほほほ」
「ほ、ほほほ? さちち。ほら、落ち着いて。そこはうほ、ほほほだから」
「うっほほっ、ほれてまうやろがこのたぬきー。誰がゴリラだこらー」
「なんだそ、ぐわっ」
がばっと幸が抱きついて、私達はその勢いのまま床に倒れ込んだ。私はそのまま幸を抱いてその頬に唇で触れた。
それを離したあと微笑んで幸を下から覗き込むと、はにかむように照れ笑う幸のなんて可愛らしいことか。
「とっくに狸に惚れてるくせに。ふふふふふ」
「そうだった。あはは」
「ね。幸」
「なぁに」
「誰が狸だっ。うりゃ」
「あたっ。あはは」
ね。私達はどんなことでもいちゃいちゃにできてしまうという、世にも稀なるおめでたくも幸せなカップルというわけ。とはいえ最初からいちゃいちゃでしかなかった気もするけれどなっ。
「ねっ」
「だね。くくくくく」
「けど幸。もしも私を捨てたら恨むから。呪うから」
「え、なに?」
だって、もしも幸と終わってしまったら、私は悲しみのあまり世を儚んで甘くて美味いヤツも喉を通らすに、げっそりと痩せ細って、幽鬼のようにふらふらとオフィスやバーに顔を出すたびにみんなから心配されてこれ食べなよと甘くて美味いヤツをいっぱい貰えて、それを無駄にしないように頑張って食べているうちにようやく復活する頃には、気づけばもの凄いリバウンドをかましている筈だから。そんな二重苦、怖過ぎるから。ちくしょう。
「くそう。振られてさらに太っていくとかあり得ないからなっ。わかったかっ。この幸めがっ」
「えと、分かったけど夏織、なんで泣いてるの? なんでそんな怒り口調?」
「うぐうぐ。振られたのに太るなんてっ。くっそう、幸の奴っ、よくもよくもっ。うぐうぐ」
「いや、ちょっと。あの、夏織。おーい」
「…はっ」
ひとしきりぎゃあぎゃあ騒いだあと、気づけば私を振って私を太らせた筈の幸が心配そうに私を見ていた。というか、うわぁ、って感じで引いて見られているのは気のせいか。
「よくわかるけど、幸、その顔はやめて」
「…いや、さすがにヤバいと思うよ」
「だよね。わかる」
想像したら怖くて怖くていてもたっても居られなくなってしまったのだから仕方ないとはいえ、さすがの私もこんな反応をした私が不安になってくる。
「けど、くくく。やっぱり夏織はおかしいね。くくくくく」
「だよね。わかる」
幸も笑ってくれているし、まぁ、私は私だから、不安なんてほんの少しだけだけれど。
「はぁー、面白かった」
「笑いすぎだぞ」
「ごめんごめん。ね、夏織。私はどこにも行かないよ」
「ほう。なら許してやるよ」
「え。今度はなに? なんで威張ってるの? ほんとに大丈夫?」
「ん? なんのこと?」
「こわっ」
「ふふふ」
私は笑った。
嫌なヤツはすぐに頭から追い出してしまえばいい。身軽に生きることはとても大事だから。私にはとても簡単なこと。
私は決して、不安を笑って誤魔化しているわけじゃないのだ。
「ふふふふふ」
「こわいなぁ」
そして、そんなことがありながらもいよいよ迎える三月。なんといっても幸のことがある。
来る三月最初の週末、幸は有給の消化を始めるとともに、ついにっ、このっ、私達の家にっ、住み始めるのだっ。くぅぅぅ、いやっふぅぅ。
「やったっ。やったっ。やったぁぁ」
…はぁはぁ、はぁはぁ。
残すはあと十日あまりだから、ちょっと肥えちゃったかもなぁとかいうくだらぬ過去などとっとと忘れて私がいまはぁはぁと息を荒げて大の字になって慣れつつある天井を見上げながらも前だけを見ているのは当然なのだ。
「うはははは」
「うほ、うほほうほうほほ」
「わかった、さちち。後にいけばいいんでしょ」
「うほうほ」
読んでくれてありがとうございます。