第六十一話
続きです。
ここに来てまさかの新キャラが…
よろしくお願いします。
「風冷たい。まじで寒い」
「ねー」
「ですねー」
「まじで辛い。もう帰りたい」
「それでですね」
「うん」
はい残念。やはりふたりからの返事は無い。それについては、まぁそうだろうなと私は思う。
「おーい」
幸は超余裕だし、遠藤さんも待ち合わせの駅で会ってからというか今日の予定が決まってからずっとわくわくが止まらなかったみたいだから、聞こえた筈の私の心からの声を無視した理由はまあ分かる。私と違ってふたりには帰りたがる理由がないのだから。
ふたりともおかしいからにこにこ愉しくしていられるのだ。私を無視して今も何やら笑って会話をしながら私の前を歩いていく。その足取りは軽く弾んだギャロップのよう。馬なの?
「おーいってば」
馬なら人語を理解できなくても納得できる。それに、ビル風が強くて吹くたびにごうごうと煩いから私の声が聴こえなかったのならべつにいいけれど、それでもスルーされるのはなんか腹が立つ。
「おい。なんか言えって」
「あはは」
「ふふっ」
「なんだよ。やっぱふたりとも聴こえてるんじゃん」
振り向いて、してやったりと笑う幸と遠藤さん。その笑顔守りたい…いや違うから。今は殴りたいだから。
「夏織が変なこと言うからだよ」
「ですよね」
ねー、なんつって頷き合うふたり。幸はいつもの自然体、その全てが様になっている感じ。遠藤さんに至っては危機感は皆無。ずっとへらへらとして能天気なものだ。
それを見ているとやはりなんか腹が立つから、危ないから私じゃなくてしっかり前を見ておけと、私は手をしっしって振ってやった。
「ったくさぁ。そんなんじゃ痛い目見るからな」
そうなっても助けてやらないからな、なんて悪態を吐きつつ私はいま前方五メートルくらいに迫っている小さな十字路を見据えている。私はそこで仕掛けるのだ。
二月最初の土曜日、午後九時前。冷たいビル風の吹く中、私は前を並んで歩く幸と遠藤さんを風除けにしながら隙を狙っている。
諦めたらそこで終わりというヤツだから私は頑張って、少しでも悪足掻くのだ。
そして、いよいよそれはやってくる。前に向かって歩いているのだから当たり前。
「よし今だっ。それっ」
私は足を踏み出した。それはもう勢いよく。横に。
「ぐぇ」
寒さが一段と厳しくなる二月。それは、乾燥もここに極まって、お肌かさかさ髪ぱさぱさ、更には厚着をするからバレないだろうと油断して、年末の忘年会から始まって、お正月、新年会と、食べ過ぎてしまう機会を重ねていても、私は出来る子だから大丈夫なんて思って目を背けて放置していると春になったらとんでもないことになっちゃったと凄く後悔してしまうから、そろそろ鏡とか体重計とか去年までの服とか色々と、嫌でも現在の己と向き合わなければいけない月。
ここからどう過ごすのかによってこの一年のサイズが決まってしまうというある意味ではとても重要でとても恐ろしく、まさに一年の計は的な、己の今後はいま決めておけ、さもないと…なんて思わされてしまう月。うへぇな月だ。
実は、私は夏も好きじゃないけれど冬も好きじゃない。夏は前に言った通りだし、冬は寒いからって私の意思とは関係なく、体の奴が勝手に脂肪を蓄えるから。勝手に。
その結果、肥えるから。太るから。そんなのまじうへぇだから。
夏には夏の、冬には冬のお手入れをしないといけないとか、女性で在るということはまじ面倒くさくて本当に大変。
そして私は今や短くなってあまり実感できなくなってしまった春や秋が好き。
春は一日中うつらうつらとしていても、まぁ春だからねで済まされる、私にもってこいの季節だし、秋は暑くも寒くもなくてとても快適だし、秋の日は釣瓶落としで暗くなるのも早いから、五時を過ぎるとオフィスにもみんな早く帰ろうねという雰囲気が漂ってくるような気になれるから。暗くなったら帰り道が危ないし。
つまり、春と秋は私のためにあるような季節。だから私は幸とスイーツの次の次、その次の次の次くらいに、いや、そのまた次の次くらいには春と秋が好きなのだ。
と、いつの頃からか、私の中ではそんな印象を持つようになった二月の頭、ついに恐れていたヤツが私の元にやって来てしまった。
その少し前、全然首を縦に振ろうとしない幸を前に、私はそれをどうにか回避しようと頑張ったのだ。
「あ。けど幸、私その日は確か仕事が…」
「ふっ」
仕事? なに言ってるの? と、幸に鼻で笑われたり、
「あ、そうだっ。夕方に取り引き先に顔出してそのまま飲みに行くんだった。うん」
「はっ」
土曜日なのに? 夏織が? と、幸にあざ笑われたり、
「ち、違うって。遠藤さんだって。だって遠藤さんは土日休めないじゃんっ。なんだ残念だなっ」
「遠藤さんは平気みたいよ。次の日午前休取ったってメッセージきてたからね。あはは」
と、幸に普通に笑われたり、
「いいじゃない。みんな会いたがってるしさ」
「それが嫌なんだって」
「まーたまたぁ。照れてそんなこと言って、やっぱり夏織はかわいいねっ。あはは」
「いや、照れてないから」
と、幸が本気で馬鹿な勘違いをしていたりしたのだ。
しかも幸はまたしても、ちょっと待ってねと、脇に置いてあった呪われたスマホを弄り出して私にメッセージを見せようとする。
「えっとねー」
「いや、いらないって」
それは有り難ですらない、ただただ迷惑なだけのヤツだからやめてほしいところ。呪われてしまうから。
「ほらこれ」
やはり幸はぽんこつ。嫌がる私に無理やりそれを見せて、いい笑顔で、ねっ、なんて言っている。
「だから見せるなっ、てっ…」
「あれ? 夏織?」
おいで
ねぇ夏織さんは?
おいで
おいで
ねぇ夏織さんは?
おいで
おいで
ねぇ夏織さんは?
ねぇかおちゃんは?
ねぇ夏織さんは?
おいで
おいで
おいで
かおちゃんもおいで。
夏、私もかおちゃんでいいよね。ねぇかおちゃんは?
ねぇ?
おいで
おいで
ねぇ?
ねぇ?
?
?
?
「……はっ」
ひゃー。
幸がつらーってやって見せてくれちゃった私が訪れた日以降の血濡れたアイスピックママからのメッセージ。おいでに混じってなんかある。凄くしつこいしなんか他の人のも混じってるし、呼び名がかおちゃんでもべつにいいけれど最後の方は疑問符だけだし、私の意識はちょっと、けれど座ったまま確実に飛んでいた。私は絶対白目だったと思う。
「超スーパースペシャルウルトラマキシマムにこわい」
「またそんな。大袈裟だなぁ。あはははは」
「いや、まじだって」
徐々に戻る意識の中こわいこわいとぶるぶると震え出す私に向かって大笑いとか、このバーのこととなると不思議とおつむのネジがどこかにぶっ飛んで行ってしまう幸は私を気遣うことなく、いつものごとくいとも簡単にとどめを刺した。そう。さくって。さくさくって。
それは私が何かしら嫌だと駄々を捏ねるたびに幸がする、もう何度となくあったそんなシーン。
「夏織。だめだよ。元々は夏織が遠藤さんを誘ったんだから。ね」
「な、なんのこと?」
こてんと首を傾げたものの、私は上手く惚けられなかった。私は忘れていなかったから。何のことかばっちり分かっていたから。
「へぇ……そう」
「あ。いや、あの…」
私を見つめる幸の目のなんと冷たいことか。見つめられ続けたら確実に低体温症になってしまうヤツだ。現に、暖房の効いている筈のこの部屋の温度は下がり始めている気がする。なんかもう既に寒いのだ。
私はさっと目を逸らした。
「夏織、忘れたんだ」
「うっ」
悪寒を感じてたじろぐ私に、なら、私がしっかりと思い出させてあげる的な感じでゆっくりと近づいてくる幸は私のある一点を見つめている。
「はっ」
私はゆっくりと迫ってくる幸に慄きながらこれはヤバいと考える。
左耳。幸の狙いはそこだ。このままでは襲われて確実に上も下も濡れてしまう。異臭騒ぎにおそそなんてもう勘弁してほしい、と。
なるほど幸は私に甘々だけれど曲がったことが大嫌いな性格だから、私が敢えて曲げようとか曲がろうとする時にはこんなふうに少し厳しいのだ。
「本当に忘れたの?」
向かい合った私の両の二の腕をがっしり掴んだ幸は、本当に? 本当は? 嘘だよね? そうじゃないと私は夏織を…的な最後通牒を突きつけてくる。
いきなり襲わないのは幸の優しさだ、と思いたい。幸に有利なこの状況を愉しんでいるわけではない筈。幸はそんなことしない。大丈夫。たぶん。
「えっと…ですね」
「なに」
間近に注がれる幸の冷たい視線や今にも飛びかかってきそうな感じとか、私のほんの少しの罪悪感も手伝って、やっぱり無理だなこりゃと、私は白旗をあげた。
「あ、なんかいま思い出した。そうだったな。うん。わたし誘ったわ。そうそう、そうだった」
「でしょう。で、どうするの?」
「えと、その日は今から予定を入れる予定だからそれがだめだったら行く、とかは?」
「ふーん。で、どうするの?」
「あ、だ、だめだよね。うん、知ってたし」
「じゃ、どうするの?」
「い、行くって。いい、行けばいいんでしょ行けばっ」
「よろしい」
負けは負け。私はいってしまった。
その途端、笑顔満タンになった幸がよしよしと私の髪を撫でる。
「うぐぐ」
嬉しいけれど嬉しくない。私は苦虫を百匹くらい噛み潰したような顔だったと思う。その顔酷いよくくくと幸に笑われたから。
「酷いのは幸だからなっ。ていっ」
「はずれ。はい。残念でした」
「ほんとだよ。あーあ。まいったなぁ」
私は力なくその場に崩れ落ちた。燃え尽きて濁った灰になった気分だったから。やり切ったから真っ白だぜ、とはとても言えない残念なヤツだから。
「くくくくく」
「笑うなっ。このっ」
「はずれ」
「くそう」
なけなしの胸を張ってあっはっはっと笑う幸とがっくりと項垂れた私。
と、そういうことになってしまったのだ。まぁ、よくあることだ。
「だな」
「くくく」
「ここか?」
そして今、私は結局、遠藤に擦り付けるいい作戦を思いつかないまま、幸と遠藤さんの後ろを重い足取りでとことこと歩いているところ。
ちらちらと幸の様子を窺って、私の気を知っているくせにお気楽に遠藤さんと話をしている幸にどうにか吠え面をかかせてやれないものかと狙ってもいるところ。
「いや、まだだから。落ち着け」
そう。私達が向かっている先は言わずと知れた、口に出すのも憚られるボルデ…じゃなくてあのバーだ。
「む。今か?」
いい作戦が思いつかない以上、こうなったらもう、まじでどろんしかない。私の思考はもう既に、私はふっと消えて、気づかれないうちに帰ってしまおうかなという考えにシフトしているのだ。
けれど、何度トライしても、そのたびに幸の奴に捕まっているという体たらく。私は確実に彼奴の隙を突いていた筈だというのに。くっ。
「いや、まずいな」
どろんする隙を窺うために幸を凝視しながら逃走経路を確保するためにきょろきょろしたりなんかしていると、いきなり後ろを振り向いた幸と目が合ったりする。
幸の首がぐりんってなる感じがなんか怖いから、私は目を逸らしつつも、あ、あの路地を使ったら上手く逃げられるかななんて考えるということを繰り返している。
そして、いけるかと思った今も幸はぐりんっと振り向いた。
「幸。なに? どうかした?」
「ううん。べつに」
私がなあにとにっこりと微笑めば幸も首を横に振って、にかっと微笑みを返してくる。
さすがは私と幸。皆まで言うなのツーカーというヤツだから…いや、あのね幸、今はお見通しとかそういうの要らないから。
「ふふ。ほんとおふたりは仲良しですね」
「まあねー。ねー夏織」
「そだねー」
「うらやましいなぁ」
そんな水面下の攻防を繰り返す私達に気づかずに、これまたお気楽な感じでへらへら微笑んでいる遠藤さんのなんと危機感のないことか。
それはまるで、今、にたぁと下卑た笑いを浮かべている筈の、なんとかの笛吹き女と化してしまった幸に連れ去られてしまう子供のよう。彼女はこのあと一体どんな目に合わされるのだろう。
「こわい」
私の時よりも酷いことになるのかなと思うと心配だけれど笑えてもくるし寧ろそうなったらいいなと思わないでもない。
良心の塊みたいな私でさえも、人のナニって甘くて美味いよねと思うから。聖人君子など、どこにもいはしないのだから。
だから私はこの程度のおふざけ、人の不幸を笑っちゃうことを酷いこととは思わない。
だって、私達は普段から、私達の内面を思い切り否定されるような嫌なことに晒されているのだから、それくらいで傷ついたりへこたれたりなんかしないから。
まぁ、私は今まじでへこたれているけどなっ。
…とにかくっ、それを止めてくれる、このくそ社会から無くしてくれる聖人にも君子にも出会ったことがないのだから、そんなものいるが筈ないのだ。
サンタさんとおんなじで、居てもあくまで形だけ、素敵なプレゼントを持って私達のところにやって来たりなんてしないのだ。私はそれを知っているのだ。幸も、そしておそらくは遠藤さんも。
「ちっ」
私は前を歩くふたりに目を止めて、楽しそうだからまぁいいかなと、不快なヤツを頭から追い出した。
「にしてもなぁ。よく笑っていられるよなぁ」
いま立場的には私も遠藤さんと同じ。あのバーのお姉様方のおもちゃ、生贄だ。
「超こわい」
今度はどんな目に合うのかなと思うと当然わたしは笑えない。自分が可哀想だし自分が可愛いから。
同じ立場なのに今も笑っている遠藤さんと怯える私。はて、この差は何だろうなと私は思う。
ああそうか、知らないってことは、知ってる側からすれば不幸にも思えるけれど、本人にすればとても幸せなことでもあるんだなぁと、私はすぐに思い当たった。
「お、うらやましいの? そう言う遠藤さんは好きな人できた? もち、夏織で以外でね」
「ひっ。い、いえ。今は特にいないです」
「そうなんだ。可愛いのにね」
「えっ。もう、やですよー。可愛いだなんて。ふふ」
今また前を向いて、遠藤さんと並んで先をいく勘のいい幸は、そうやって気の抜けた風を装って、実は私のことをいちいち確認しているってわけ。
だから私は幸の奴、敵ながらあっぱれだなと思っているところでもある。
「いや、あぶなかった」
にしてもやはり今じゃなかったなと、私はほっと息を吐いて、また様子を窺ってとことことふたりの後ろをついていく。
けれど、私に残された時間はあと僅かだから、私はこのままでは絶対ヤバいと途方に暮れてもいるところ。
「このビルだよ」
「ここですかぁ」
「え。まじで」
と、そんな幸と遠藤さんの会話が聴こえてくる。遠藤さんが感慨深く古びた雑居ビルを見上げているけれど、なぜそんなことをしているのか私には理解できない。
とはいえつられて私も見上げれば、もはや手遅れ、ここは確かにどうしても忘れたかった筈の、けれど確かに見憶えのある建物。
「くそう。やっちまった」
そう。私は、次はいつはぐれようかなと幸の様子を窺っているうちにそのタイミングを逸してしまったのだ。幸と来たのは一度だけだから、道とかよく覚えていなかったし、まだ着かない筈、なら、なんとかなるなとたかを括っていたのだ。私は楽天家だから。
「行くよ夏織」
「屋敷さん。早く行きましょう」
ほら、エレベーターで。なんつって幸が笑っている。遠藤さんに至っては、いきましょうとか縁起でもないことを口にする始末。
「…わかった」
ふたり揃っていってしまえと思いつつ、もはやこれまでと、私はとぼとぼとふたりに遅れてそれに乗り込んだ。
そう。終わったのだ。まじ残念。
こうしてここまでやって来る途中、私が何度か迷子になれそうなところを、そのたびに幸の奴がこっちだよと腕を取ってくれちゃったり、どこ行くのよと首根っこをぐいってやったりしてくれちゃったの。
私の腕をがしっと掴み、その都度わたしの手を引いてくれちゃうという念の入れよう。ともすれば、絶対に逃さないからねという強い意思をも感じてしまうヤツ。幸は優しいけれど疑い深いから。
「幸は私を信じられないの?」
なんて訊いてみたりもした。掴まれた腕に少し目を向けて、わざとはぐれようとしているんじゃないのになと、じっと幸を見つめる瞳が涙目なのはゆるふわとは違う。本当に嫌だったし、世間の冷たい風は目に沁みるし、風で髪が舞ってそれが目に入ったからだ。寧ろそのせいでゆるふわを発動するのに失敗してしまったくらいだから。
「はいはい」
「かはっ」
案の定、幸は私の言葉を素気無く一蹴した。けれど、となりの遠藤さんには通用したようだった。
「そっちじゃない」
かはかはとよろける遠藤さんを見ながら、違うから、意味ないから、お前じゃないぞと私は思った。
「しくしく」
「はいはい」
「かは」
「もー。意味ないんだって」
「あはは」
そんなわけで、残念ながら逃亡計画は失敗に終わった。とうとう魑魅魍魎の巣窟に辿り着いてしまったのだ。
けれど、それと同時に私ははっと閃いてしまう。
天啓だ。最後の最後にまたしてもソレが降りて来てくれたのだ。役立たずでもやるしかないなと私は即断した。
「着いたよ。ここ」
「おーっ。ついに来たかぁ」
では実行。私は扉の前で話をしているふたりにバレないように後退って、ふたりが立っている扉の一つ前、スナック純という看板のある扉の前に立った。
「ここ?」
私はちゃんと気づいていたけれど、敢えてすっとぼけて首を傾げて小さく呟いた。
内心、ほんとまじなんなんだよこのビルの店はと思ったし、役立たずのヤツが気にせず今はただそうしろと、それに集中しろと私に語りかけてきたからだ。たぶんそれは内なる声というヤツだと思う。
けれど、さすが役立たず。あとは頑張れお前次第だぞと、あっという間にその声は聞こえなくなってしまった。あほかっ。
「へー。ここなんだぁ」
こうなったらもう出たとこ勝負私ひとりで頑張るしかない。
私は初めて来た体を装って、そのままこのお店に入ってやろうと思ったのだ。背に腹は変えられないのだから。
横の方から鋭く刺さる視線をぐさぐさと感じながらも、私はこのまますぐに入ってしまおうと思っていたけれど、もはや定番、扉から向こうから超懐メロのカラオケの歌声が漏れ聴こえちゃって、違う意味で怖ーいお店だから躊躇ってしまった。
「いや…ここもちょっとなぁ」
すると、目の前の扉に影ができて、戸惑う私の両肩をがっしっと掴む何か、というかそれは明らかに笛吹き幸の綺麗な手。私の連れて行くお店はそこじゃないよと、もっと怖いところだよと言われているみたいで私はびくってなってしまった。
「夏織。何してるの?」
「見てるの」
「そうなの。なんで?」
私に呼びかける幸の声は普段と同じでとても優しいけれど、私の肩は徐々に痛く、そして重くなってくる。幸の指先がじわじわと食い込んでくる。
「ててて」
幸の指は長くて細くて綺麗なのに、なんて馬鹿力なのかしらと、まるでゴリラのようかしらと、ゴリラの握力なんて私は知らないけれど、そんな思いが頭に浮かんでくる。
私の肩がりんごだったなら、うほっなんて唸りながら軽く潰されて、ぐしゃぐしゃに潰されていただろうなと思わず口に出てしまうくらい力強い幸ゴリラのソレ。
「りんご」
「へ? 急になに?」
「りんご」
「えっと、 ゴリラ」
「ぶぶー。正解は幸ゴリラだから幸のま、あだっ」
「誰がゴリラなのよ」
「幸が。あたっ」
幸は空かさずのってくれた。幸は優しいゴリラだから何かあるたびに手が出てしまうのは仕方ないのだ。それに、ふんを投げつけられるよりましだから私は怒らない。やたらと手を出したら駄目だよと、上手く教えられなかった私も悪いから。
よし、これからは、どこに出しても大人しいゴリラだねぇなんて褒めてもらえるように私がもっと頑張るからねと、そんな思いを込めて私は幸を見つめた。
ふと、優しい気分になったのだ。バナナが無いのが残念で堪らない。
「その優しい目はなに?」
「ううん。バナナなくてごめんね幸ゴリ、いてっ」
「いい加減にしない」
「わかったそうする」
そして、この一連のやり取りを見ていた遠藤さんはようやく何かが普通じゃないことに気づいたみたい。今、ぽかんと口を開けてどん引いているけれど気にしない。
「甘いな」
だって笛吹き幸はともかく、私が遠藤さんを攫ってきたわけではないのだから。
遠藤さんは自ら望んでここまで来てしまったのだから、全てを諦めてその事実を受け入れてしまうしかないのだ。私達程度で引いていたらホラーハウスなど、絶対に耐えられるわけがないのだから。私のようにトラウマにしかならないのだから。
私は幸にちょんちょんとやって、ほらあれと、小さく遠藤さんの方を指差した。
「ね。幸。平気かな?」
「ん? 大丈夫だよ。たぶん」
これでだけで私の言いたいことが分かるのだからさすがの幸はやはり聡明。
「大丈夫だよね?」
「知らないよ。てか、なんで私に訊くの?」
「だって。ねぇ?」
「だから知らないって」
けれど私も分かってしまう。引いている遠藤さんを見て、どうかなぁなんて思った幸もようやく気づいたのだ。
「遅いぞっ」
「あはは」
そう。どこかおかしくなければ、これから過ごす夜は辛いだけで終わってしまうことになる。だから私には凄く辛い夜になるわけ。
つまりはそういうことだから。
「ね」
「はーはーはー」
そして私は実は、幸ゴリラに叩かれた時に閃いてしまっていた。またしてもアレが降りて来ちゃっていたのだ。この超短時間で二度目のヤツ。
コレを生かすも殺すもわたし次第。ここがまさに踏ん張りどころ、やるしかないと私は思い込んでいるのだ。私は少しおかしいから。それっ。
「けど幸さぁ、今は幸がゴリラとか名前がさちちとかさ、どうでもいいでしょ」
「はぁ?」
会話の脈絡が繋がらないのはヤツの指示のせい。タイムラグがあったのだからそこは仕方ない。
だから怒るなさちち。ほら、それよりもここを見てよここと、私は青く光る看板を指した。
「いいから。ほら。ね。ゆ。ゆがでかいなって」
「ゆ?」
『純』の上にはじゆんとルビが振られている。ひと目見て、私はちゃんと気づいていたのだ。たぶんこのビルにはこんなお店しかないのだ。
「小文字の筈がでかいままだからここでしょ幸の行きつけ。ここ。スナック純」
じゆんて。と、思いながらも、私は、ほらと看板を指を差し、みんなで入ればたぶん怖くないよと、だから入ろうよとその扉を指した。
「残念でした。こっちだよ」
はい残念。私は抵抗する暇もなく、まったくもうと呆れている幸にコートの襟のところをむんずと掴まれて、私はずるずると連行されてしまった。
今までも幾度もあったそれは、きっとこれからも何度となくある絵面。
「そこ。笑うなこら」
「ふふ、ふふふ。屋敷さんてやっぱりおかしな人ですよね」
私を見ていた遠藤さんが爆笑して、もはやデフォルトになってしまった私の印象を口にする。
彼女はすっかりどん引いているんだろうと思ったけれど割と図太い神経の持ち主みたい。やっぱり屋敷さんいいですよねとか言っている。
その図太さにすかさず幸が反応する。
「夏織はあげないよ。絶対」
「ひっ。じょじょ、冗談ですって」
「私は本気だよ」
「わ、わかってますってぇ」
何かをへし折るポーズをみせながら詰め寄る幸とぶるぶると震える遠藤さんを見て、愛されてるなと私は思った。ふへへ。
「もう充分遊んだよね。そろそろ入ろう」
「面白かったですよ」
「まだ足りないけど?」
またも無視。私は九割方諦めて、幸に連れられたまま扉の前に立っていた。私の顔がこれでもかってくらい引き攣っているのが分かる。
「じゃ、夏織」
いま幸に宜しくみたいに言われたけれど、私は一体何を宜しくされたのか。
「おかしい」
なぜに私が扉に一番近いのか。ふたりを後ろに控えさせているのはどうしてなのか。この先は幸の世界なんだから、幸こそが扉の前に居るべきだと私は思う。
「なんで?」
そう幸に振り返ったけれどお前が開けろと言わんばかりに、幸はにっこり微笑んで顎をくいっとした。隣の遠藤さんも心なしか早く開けろと伝えている気がしてしまう。
「くっ」
私は9割五分方諦めて、思い切りため息を吐いてから前を向いてその扉に手を掛けたところで自然と目に入るエの文字。
まだエがでかいままなのかと、恥ずかしげもなく扉に貼ってあるプレートをじっと見てしまう。
「ああ。なるほど」
渚さんことアイスピックママはこれを直す気はないんだなと私は思った。
さらに私は気づいてしまった。
このフロア、あいも変わらず隣のお店から、ながさきぃぃわぁぁぁきょおぉもぉぉぉと漏れ聴こえてくる。
周りのお店、特に向かいのお店も負けてはいない。いーしだーたみっ、あぁぁぁーと聴こえてくる。
「輪唱?」
「ちょっ、そんなわけないでしょう。くくく、あはははは」
「ぷぷっ」
「違うの?」
「あはははは」
「ふふふふ、ふふふ」
首を傾げた私は他のお店はどうなんだろうねと、よく聴いてみるから先に入って待っててね、たぶん夜が明けちゃうけど的に、あはははと笑って、んがんがやり出したふたりを置いてその場を離れようと、奥には行かずにもと来た通路を早いペースで後退る。
もちろん奥は駄目。行き止まりだから。私は周りをよく見ている人。普段から非常口とかをちゃんと確認して覚えておく人だから。
「いける」
しっかりと視界に収めているふたりはいまだに笑っている。私はこれ幸いとさらにペースを上げて、先ずはスナック純を通り過ぎた。
その、たぶん一分後、私は絶対いける。そんな思いで、やったねとか日頃の行いの良さついにが出たなとか、そのままずっと笑っていてねとか、ぶつぶつ呟きながら通路の角を曲がって小さいなエレベーターホールまで辿り着いたのだ。
「いけた」
自分でも驚いてしまうくらいどろんが上手くいって、私は上機嫌でエレベーターのボタンを押そうとしたけしたけれど、私はふと気がついて一度伸ばしていた指を止めた。
もしも不用意にエレベーターを呼んで、ちん、あ、きたきたなんて言いながら乗ろうとして万が一にもアイスピックママとか真里奈さんと美波さんとかが降りて来ては堪らない。
「うーん」
普通はあの歳くらいの方々は階段を使わないだろうからそっちを使うべきなのでは?
「だな。やっぱこっちで」
こうして私は何時ぞや幸と上がったホール横の階段を選択することにしたのだ。
「ふふふ」
こつこつこつと足取り軽く降りていく私。最後の最後で上手くいったのだから薄ら笑いも漏れてしまうというものだ。今なら一段抜かしも出来るかもしれない。
「いや、やめとこ」
目が回りそうになるけれど、こそは我慢をして、くるっと二階の踊り場を通り過ぎた時、下からの足音に気づかなかった間抜けな私は出会ってしまった。そう。出会ってしまったのだ。ひゃー。
「げ。嘘だ」
「あ、かおちゃんだ」
「あ、本当だ」
「いや、ないわぁ」
驚いて立ち止まり、咄嗟に出てしまった言葉には気づかないでくれたお二方は、久しぶりやっと会えたね嬉しいよなんて、階段を駆け上がってくるところ。確保ーみたいな感じで。
「まじかぁ。ないわぁ」
「あ、こら。夏織。どこ行ってたの、よ。え?」
お姉様方に両脇をがっしりと固められてお店に入って来た私を見て幸がすぐさま近寄ってきた。たぶん、居なくなった私に連絡していたのだろう、その手にはスマホが握られている。
私を追いかけてこなかったのは遠藤さんがいたからで、その遠藤さんは今、カウンターでアイスピックママと愉しげに話しをしているのが見える。私も最初はあんな感じだったから、まぁ、今のところはだけれど。
「なにやってたの?」
幸は呆れていた。手にはスマホを持ったまま。きっと、私のスマホを確認したら、幸からの着信が何件もあると思うと急に申し訳ない気分になってしまう。今は両手が塞がっているからできない。
「ごめん幸」
「まったく。私はともかく、遠藤さんにはちゃんと謝ってね」
「うん。わかってる。けどごめん」
「気にしなくていいの。それでこそって感じで、夏織らしいもの。それに、ねぇ?」
苦笑から微笑みに変えた幸は私を優しく撫でてくれたあと、私の両隣を見て納得したようだったというか今にも吹き出しそうだ。
「かおちゃん、何かあったの?」
「いいえ。なにもないですよ」
「夏織ったら逃げ出したの」
「ばっかっ、幸。お前なぁ」
「本当のことでしょう?」
「ちち違うしっ。ト、トトトイレだしっ。お腹痛くなったんだしっ」
「かおちゃん?」
「かおちゃん?」
「かおちゃん?」
逃げただとぉと、私に訝しげな目を向けてくる御三方。
御三方? カウンターで遠藤さんの相手をしていた筈のアイスピックママがなぜいま側に居るのか私には理解できない。その手には氷とアイスピック。
「こわい」
やはり、どこかおかしくなければただ辛いだけ、ここはそういうバーなのだ。幸の言う、落ち着いてーとかいうヤツは、幸の思い込みでただの幻想に過ぎないのだ。幸もおかしいから。
「それにしても夏織、結局捕まったんだ。間抜けだねー」
「う、うるさいぞっ。幸っ。こうなったら絶対にげてやるからなっ」
「なるほどカバディね」
「つまりカバディなのね」
「カバディかぁ。久しぶりだっ」
「は?」
「あはは」
みんなカバディよっ。鬼はかおちゃんよっ。なんつって、店内に響くお姉様の声。よーし頑張るよーと、それに応じる常連のお客さん。見れば遠藤さんは、ぽかんと間抜けた顔でカウンターに座っている。
大丈夫それが普通だよ。だから理解できなくてもいいんだよと私は彼女に向けて二度頷いた。
伝わったのかは分からないけれどそれはどうでもいい話。ここに連れて来た時点で私は約束を果たしたのだから。それに私は今それどころではないのだから。始まっちゃうから。
「「「「カバディカバディ」」」」
迫り来る軍勢。その中にしれっと混じる愛しの馬鹿を私は見つけてしまった。
「いや、なんで幸までいるの?」
「だって夏織が鬼なんて楽しいじゃんっ。捕まえるのは私しかありえないからね。浮気はさせない」
笑ってそんなことをほざいたかと思えば、幸は最後に目を細めて私を見つめたのだ。幸はいま確実におかしいから。
「……なんだよぉ。もう面倒くさい、なっ」
私はやっぱこのバー超面倒くせぇじゃんか覚えていろよ幸の奴と思いながら足を踏み出した。横に。
「まてー」
ほら鬼がそっちに行ったよーなんて声がする。
鬼ってなに? カバディじゃなくて鬼ごっこ的な? ならなんで私が追いかけられてるのおかしくない? いや、おかしいからおかしくないんだそうだった、なんて思いながらも私はカウンターへと向かっている。
だってそっちはいまだぽかんとしいる遠藤さんがいるんだから。擦りつけるには今しかないんだから。
「たっち」
「えっ? えっ、えっ?」
「頑張れ」
私に肩を叩かれて、遠藤さんは訳も分からず席を立った。鬼が変わったわよーなんて声がする中をいま必死の形相で逃げている。
まぁ、あまり広くない店内だからすぐに捕まってしまうだろう。
「まぁ頑張れ」
何にしてもとにかくいけた。私はほっと息を吐く。そして私は分かっている。幸だけは絶対に私のところにやってくると。
「夏織っ。つかまえたっ」
ほらね。
「幸。私はもう鬼じゃないんだけど?」
鬼はあっち。私は揉みくちゃにされていると思われる遠藤さんの方というか人集りを指した。
「そんなのいいの。私は夏織を捕まえたの」
「そっか。ふふふ」
思ってすぐに愛しの幸が私に抱きついてきた。私を胸に抱えるように。その力強さはまるで、外敵から子供を守るゴリラのよう。
こうしてきつく抱かれながら、さすがさちちこと幸ゴリラ、ここは安心感が半端ないなと私は思った。笑みも溢れてしまうというものだ。
「うほほ」
ちょっ、さちち、やめなさい。強い強い。苦しいから。苦しいってっば。
「いくかと思ったぞっ」
「あはは」
お疲れ様です。
新キャラはさちちでした。うほっ。
あ、だめです。怒ってはいけません。連載が一年を越えたということで、私は至って真剣に、それはもう真面目に書いたのです。ほんとです。
「ほんと?」
「ううう嘘じゃないしっ」
「うほ?」
「あ、さちち。いたっ」
ね。たぶんへいき。いけたいけた。
読んでくれてありがとうございます。