表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
woman  作者: しは かた
67/102

第五十九話

続きです。


よろしくお願いします。

 


「いや、ほんとまいった」


 寝室から戻った私は今は部屋着を着ている。まさかの展開まさかの仕打ち。火の側にいても寒かったのだ。お陰で体がすっかり冷えてしまった。


「いや、びっくりした」


 私はまじあり得ないと思うんですけどと、頭をふりふりエプロンを着け直そうとしたけれど、なんだか妙にムカつくからそれを元の場所に掛けて、再びキッチンに戻り擦った黒胡麻の入った袋を開けた。


「冬はしない方向で」


 幸が喜ぶと思ってというか私がやりたかっただけだけれど、この季節は寒いからエプロンだけでいるのはやめる。てかもう二度としないからな寒すぎだぞくそうなんて悪態を吐いたあと、私はもう一度頭を振って、この反省は次に生かすと決めてそのこと自体はさっさと頭から追い出してやった。


「このくらいかな」


 やりかけだったすり黒胡麻をほうれん草に塗して適当に和えつつぶつぶつと文句を垂れてすっきりしたからもういいやと、私は程よく和えたそれに白胡麻をぱらぱらとかけ、味を見るために胡麻に塗れたほうれん草を少しだけ取って口に入れる。あむ。


「んー」


 目線を上に向けて左右に動いてしまういつもの仕草でもぐもぐすれば、ほうれん草の独特な匂いとえぐ味、そこにふわっと香る胡麻の風味が堪らない。これを美味いと思えるようになった私は大人って感じがする。


 ちなみに私はほうれん草は土の匂いがすると思っている。といっても、この私がいくらアレでもさすがに土を食べたことはないと思うから本当のところは分からない。母さんがなんと言うかは分からないけれど私の記憶の限りではそれはないからそこはたぶん大丈夫。


「うん。美味いなっ」


 その絶妙な塩梅に満足すると、続いて私はさっきまで火にかけていた鍋に目を向ける。



「人参はどうかなぁ」


 味を馴染ませるために火を止めて放っておいた鍋の蓋を開け、そこから菜箸でもって人参をひとつ取ってその具合を確かめるためにふーふーしてから口に入れる。


「ほっ。あっふい」


 ほふほふしながらよく噛んで、柔らかいしちゃんと染みてるさすが私いけたなとほくそ笑えむ。

 まぁ美味いのは当たり前。私の確かな腕に加えてさらには私の隠し技、指をびろびろってやって愛情をたっぷりと注いだのだから。


「うん。我ながら上出来」


 オフィスから帰って一時間弱。途中、寒さに耐えられなくなるという不慮のアクシデントはあったものの、幸のための肉多めな肉じゃがの人参を飲み込んで私はそう独りごー…ちないから。呟いたから。


「…あぶなくごちるところだった」


 なんつってなっ。ふふふ。




 新年の雰囲気はまだ残っていても正月気分はとっくに抜けて、仕事に明け暮れる日々が戻って来ちゃった一月の半ば、私は幸よりもひと足もふた足も早くオフィスを出て真っ直ぐ私達の家に帰って夜ご飯を作っていたところ。


 残すはその昔、これはねぇ、母から教わったのよと、母さんが嬉しそうに教えてくれた屋敷家秘伝のタレに浸かった鰤の切り身のみ。

 それを焼けば今夜のご飯の支度は終わり。


「あ」


 そして秘伝のタレも私の代で終わり。誰かに教えることはできるけれど、血という意味では終わってしまう。そう思うと心臓がきゅと何かに掴まれる感じがする。



「あーあ」


 秘伝のタレだけでなく、父さんと母さんから教わったことや受け継いだものは全て私で終わり。それをどうにもできない分だけ心が痛くなる。きゅと掴まれる。


 こんなことはもう十二分に分かっている今更な話。

 けれど、ふと、そんなことを思って悲しくなってしまうこともある。私の進む方に子供を産んで育てて伝えていくというイベントは存在しないからどうしたって終わるのだ。

 気にしたらきりがないから気にしないようにしていても、今みたくふとしたことで顔を出すこともある。


 父さんも母さんもそれについて何も言わない。言わないでいてくれる。

 私は一人っ子だから、遺してくれるものの全てが私で終わる。その先へと受け継がれていくものはひとつもない。ふたりがそれをどう思っているのか察しはついても面と向かってそんなこと、私は怖くて訊けない。


 それでも私の幸せを一番に考えてくれた度量のでかい愛情溢れる自慢の親だから、もしも私が訊ねても、父さんも母さんも夏織がそんなことを気にするなと、心配するなと、私達の娘の夏織が笑顔でいてくれればそれでいいと笑って言ってくれるだけで、それについて残念だと思うけどとネガティブなことは口が裂けても言わないだろう。


「ぐ」


 親との別れはまだ先のことだけれど、考えないでいられる無邪気で幼い歳ではもうない。

 その日が来てしまうと思うと今から怖くなることもある。きっと、泣き虫な私はからからに干上がってしまうくらい泣いてしまうだろう。

 今だって視界が薄っすらぼやけているけれど逃れることは誰にもできない。その日は必ずやって来る。それについては私のような人間にもすべからく平等で決して溢れ落ちたりしない。はい残念。


 私の事情が特別にこんなことを思わせるのかもだけれど、その日まで、せめて悔いのないようにしようと私は思うのだ。私らしく私なりに。




 少しの時間、溜まった涙を少しだけぽろぽろと零したあと私はごしごしと目元を拭った。


 私はそれを追い出したりしないで心の奥にしまい込む。これは絶対に忘れては駄目なヤツだと私は思うから。


「ふーっ」


 とはいえ、どうにもならないことはどうにもならない。だから大きくひとつ息を吐いて、私はこれ以上は浸らずにその想いを振り払った。今はおしまい。考えるのはまた次のふとした時だ。きっとそれでいいのだ。


「いいのいいの」





「それでえっと。なんだっけな。ああ、鰤を焼くんだったな」


 幸が帰ったタイミングで焼き始めれば六分後には身がほわほわな美味いヤツが出来上がる。最近のレンジは優れものだから。

 完璧。今日も上手くできた。あとは幸の帰りを待つだけ。


「で、いま何時だ」


 私はぽっぽの時計に顔を向けた。ぽっぽは沈黙したまま顔を出さないけれど、時間が来るたびにぽっぽぽっぽと鳴かれてもうるさいし顔を出されてもなんかイラつくからそれでいいのだ。

 ぽっぽとしても二十四時間三六五日、何年間も休みなく働くのはたぶん嫌な筈だと私は思うの。私は優しいから。


「そうそう」



 幸はまだここに越して来ていないけれど、飲み会なんかで自分の部屋に帰る方が楽なとき以外は、ほぼ毎日のようにここに帰って来る。だから私もほぼ毎日のようにご飯を作っている。私はそれを望んでいたし、ここは私達の家だから当然のことだと思う。


 ご飯を作って一緒に食べていちゃいちゃしながら片付けて、洗濯物が溜まれば洗濯機を回してそれを干して、片付いたら一日の終わりまでお茶とかお酒を飲みながら、幸は勉強したり、私はその横で甘くて美味いヤツを食べながら謎の圧をスルーしてにこにこしていたり、そんなまったりとした中で互いの一日の出来事を話して笑って怒って考えて。


 先にお風呂に入ったり、一緒に入ったり、先にベッドに入って幸を待っているうちに気がつけば朝になっていたり、一緒にベッドに入って愛し合ったり、何もせずに抱き合って眠ったり。


 そうやって、始まったというか厳密には始まるのは四月からだけれど、私と幸は私達の日々の暮らしを重ねていく。

 なんのことはない、ただそれだけのことなのだと、いつか分かってもらえるだろう。


 そして私はこうも思うのだ。

 この幸せは私と幸の、言いたいことを呑み込んでいっぱいの愛情を示してくれた互いの家族の上に成り立ってもいるのだから、その分も含めて大事に、大切にして、基本、笑顔で生きていこう、と。


「うんうん」




 だからというかなんというか、寒くて諦めた裸deエプロンのことなど私はもう忘れてしまった。だって笑顔が大事だから。

 大体において、この私が、真冬にエプロンだけを身につけて料理をしていたなんてあり得ない。私はそこまでアレではないからそんなことはしない。する筈がない。そんな記憶はないのだからそんなことは最初からなかったのだ。


「なんのこと?」


 そして父さんと母さんに抱く申し訳なさも今は胸の奥底で大人しく眠っている。

 私が幸と幸せに生きていくことで、その姿を見てもらうことで、私という確かなものを残せたのだと思ってもらえる筈だから。


「いけるいける」


 こうやって、私の隣にいなくても幸は私を癒やしてくれる。幸を想っていれば、切なさや遣る瀬なさを抱えながらも私は笑顔で生きていけるのだ。


「うんっ」



 というわけで、幸はそろそろ帰ってくる。ぽっぽの時計もそう教えている。

 今日みたいに一緒に帰らない時は、オフィスを出る時にでも知らせてねと私はお願いしておいた。

 そうすればお尻の時間を計算できて、チンすると味が落ちてしまう焼き物なんかを焼き立てほやほやで食べてもらえる。つまり今夜の鰤もそういうこと。


 そしてさっき、私がちょうど家に着いたタイミングで幸らしいメッセージが来たのだ。



 いま出た。お腹減った


 気をつけてね。私は今からご飯を作るから


 うん。今日はなに?


 肉じゃがと鰤照り。あとはビールとお摘み。ご飯は炊きたて。これお代わり自由だから


 そっこー帰る


 気をつけてね



 やり取りはそこで終わった。幸はご飯を作る私の邪魔をしてはいけないと思っているのだ。いつまでも続けているとご飯がいつまでもできないことを幸は身をもって知っているから。前にそんなことがあったから。




 ご飯ご飯と勇んで帰ってきた幸に、私は見れば分かるでしょ的に現実を突きつけた。


「まだ途中」


「え。嘘」


「てかさ。なんて顔してんの幸は」


「そ、そんなー。わたしお腹減ってるのにー」


 幸は、なんで作る時間たっぷりあったじゃんおかしいよねと真顔で固まったあと、たぶん、私を責めちゃった感じがして少し気まずかったのだと思う。慌てて台詞棒読みの小芝居を始めたのだ。


「だろうね。けど、まだなものはまだだから」


 けれど、それでも幸は半分は本気だった。幸の目は笑っていても、その奥の瞳はいやにぎらついていた。私にはそう見えたのだ。


「遅いぞー。もうできてると思って楽しみにしてたのにー」


 小芝居を続ける幸は頑張っているけれど私は特に気にしていなかった。私のスイーツと同じく、はらぺこ幸ならご飯のこととなれば不機嫌になることもあると思ったから。私はよくなるし、私はいいけど幸は駄目なんてことを私は思っていないから。


「しょうがないじゃん。幸がいつまでもメッセージ送ってくるから。手が空かないんだからできるわけないでしょ」


「ぐぬぬー」


 そして幸は、今日は忙しくてお昼を食べ損なったんだよーとか言ったけれどそんなことは私の知ったことではない。

 はらぺこだから可哀想だと思うけれど、それが幸にとって大切なものなら他の何を置いてでも食べればいいのだ。これも私が隙を作ってスイーツを食べにいくのと同じこと。私は食べたいから食べにいくのだから。


「そうしなかった幸が悪い」


「なっ、なんだとー。ふーんだ」


 もう夏織なんて知らないっ。そんな感じの幸はどかどかと私の横を通り抜けて、動くと余計にお腹が減るからできるまで動かないとかなんとか呟いてお腹を押さえてじっとソファに座っていた。


「ぷっ。なんだそれ」


 その、動くと傷口が開くから治るまで大人しくしていようとする野生の獣の本能的なヤツを想像させる、目を閉じて空腹に耐えてじっとして動かなくなった幸の姿は異様にかっこよく、それでいて凄く笑えた。もしも本気でないのなら、幸の芝居の腕は確実に上がっていると思えるヤツだ。


「じー」


「ふふふ。けど、なんか効果音違くない?」


「ぴたっ」


「は?」


 幸は目を開けて私に顔を向けた。余計なことはいいから早く作れとその瞳は伝えていた。やはり半分は、いや、三分の二くらいは本気だなと私は思った。


「じー」


「わかったから。すぐやるから待ってて」


「おーう。よろしくなー」


 片手をあげて横柄に頷く幸に、不覚にも私は笑ってしまった。妙にツボって面白かったのだ。


「ぷっ。ふふふ。待っててねっ、幸っ」


「がはっ」


「ふふふふふ」


 そのお礼に軽くゆるふわを魅せて、喘ぐ幸を置いてキッチンに戻り、冷蔵庫から取り出した買い置きしておいた国産豚ロースの薄切り肉に塩と黒胡椒をトルコのシェフみたいに腕をぐいってやってぱらぱらぱらと振ってからちちゃっと焼いてお皿に盛って、サニーレタス的な葉っぱと味のアクセントに柚子胡椒を添えて、もはや野生の獣でもなんでもなくなって、ご飯のたびに期待に胸を膨らませていたタロのようにお皿を凝視している幸の前に置いた。


「待った」


「おおおぉぉ」


 私は壊れかけの幸に、いい? こうやって、この葉っぱに肉を巻いて食べるんだよとひとつ作って幸に渡した。


「はいどうぞ。これ食べてもう少し待ってて」


「やったっ。ありがとう夏織いただきます」


「いいよ」



 そしてその五分後、私は食べ終わったお皿を悲しげに見つめていたタロっぽい幸を傍に呼んで味見をいっぱいさせてあげた。


「これ。味見てみて」


「うん。美味しいね」


「はい。こっちも」


「おー。これも美味しい」


「当然でしょ」


 なんだかこれは餌付けみたいだなと、段々と元気になって私にくっ付いて離れなくなった幸にそんなことを思いながらもこれはこれで楽しいからまぁいいかなとも私は思っていた。


「ちょっと。今くっつくなって。あぶないから」


「あーん。あーん」


「たくっ。親鳥か。はいあーん。熱いよ」


「やった。あむっ、あちっ」


「ふふふ」


 結局のところ私達はいつものように、ご飯が出来上がるまでいちゃいちゃしていただけだったのだ。



「けど幸。帰りに何か摘んだらよかったんじないの? コンビニとかで。唐揚げさんとかフランクフルトとかさ」


「食べたよ両方とも。美味しかった」


「え。で、あの感じ? まじ?」


「足りないもん。だからまじまじ」


「やっぱ幸はすごいな」


「えへへ。そう? へへへ」


「少年か」


 えへへへと、鼻の下を人差し指で擦っていた愛しのぽんこつはらぺこ幸はこの時に、とにもかくにも私の手が塞がってしまうようなことはしないように気をつけることを学習したのだ。




「さてと」


 今は午後八時を過ぎ。メッセージからしてはらぺこな幸はたぶん、私のために何か甘くて美味そうなお土産を買ってくるつもりはなさそう。なら、そろそろ帰ってくる時間。



 ピンポーン


 間を置かずにドアホンが鳴った。愛しの幸のお帰りだ。


「焼くか」


 私は鰤の切り身をグリルに並べて火をつけた。これで六分後には鰤の照り焼きが出来上がる。大根おろしを冷蔵庫から出しておくのも忘れない


 やはりお土産はなさそうだけれど、私は幸がいればそれが一番なのだから、つまんないなと小さく嘆息してお出迎えのためにキッチンを出てリビングの扉を開ける。と、幸はもう目の前にいた。



「ただいま夏織」


「お疲れけちおかえりっ」


「ん? 今なんて?」


「お疲れ幸おかえりって」


「だよね。うん」


 そして幸はもう一度、ただいまと言ってくれた。だから私も微笑んで、軽くその唇に触れてから抱きついてもう一度幸を迎えた。


「おかえり幸」


「くくく。ちゃんと言ってくれたから許してあげる」


「やっぱバレてたか。ふふふ」


「それにね。私はけちじゃないのよ」


「なにかあるの?」


「あるの」


「まじ?」


 ここにねと、幸がバッグをぽんと叩く。その中に甘くて美味いヤツが入っているのだ。

 潰れてしまうから結構な力で叩くのはやめてほしいところ。けれど、余計なことを言うとくれないかもしれないから私は大人しく口を噤んでおく。


「まじ。貰い物だけどね」


 やはり口を噤んで正解。幸はにこっと笑ってはいこれお願いねと私にバッグを渡してそのまま私の横を通り過ぎた。

 幸は洗面所にいくのだろうけれど私はバッグの中を覗くので忙しいからそれは今はどうでもいいことなのだ。


「なにかなぁ」


 渡されたからには遠慮は要らない。お土産は既に私のものみたいなものだし。

 私はバッグがさごそとやって美味そうなヤツを見つけた。


「おっ、三笠山。三つもある」


 ここのヤツ美味いんだよねーと洗面所に向かって声をかけると、夏織に二つあげるーと幸の声がした。分かっていたけれど素直に嬉しい。


「やったっ。ありがと幸」


「あはは。いいよ」


 幸は全然けちじゃないなと私は思った。





 幸が手を洗ったりしているあいだに私は三笠山を三つ抱えるように持ってキッチンに戻った。字面だけ見ると凄く力自慢に思えるけれどそうじゃない。私はか弱い女性なのだ。


「あ」


 幸のバッグをその場に置いてきてしまったことに気づく。単純に忘れたのだ。


「ま、いいか」


 けれど幸が洗面所から戻りがてら回収するから大丈夫。第一あれは幸のだし。



 私のおやつ置き場に三笠山を置いて、肉じゃがを熱々にするために鍋を火にかけてからグリルの鰤を確認する。


「美味そう」


 もうすぐ焼ける。私は出来た順に料理をお皿に盛り付けてローテーブルに運んだ。



 本日のメニューはみんな大好き肉じゃがとブリの照り焼きとほうれん草の胡麻和え、あとはお味噌汁とご飯、幸の摘みにお惣菜屋さんで買った唐揚げを三つという献立。


 その際わたし用の、チンした白い物体ばってんも忘れない。

 といってもそれは、プレーンヨーグルトにおからとオリゴ糖を混ぜた、別段美味くもないけれど花を咲かせるのには最強の組み合わせのヤツ。

 夜、食前にこんくらい食べると綺麗な花が咲くんだよと花ちゃんが教えてくれたヤツ。花ちゃんだけになっ。




「おっ。今日も美味しそう」


「でしょ」


「ありがとう」


「いいのいいの」


 洗面所から戻った幸のそのひと声で全てが報われる気がする。好きでしていることだから特に見返りを求めているわけじゃないけれど、そういう言葉はとても大切だと思う。実際、言われた私は凄く嬉しいのだから。


「美味いよ。ちゃんとびろびろってしたし」


「あー、アレねえ、私の時は効かなかったね」


「幸の愛情が足りないんだな。やっぱさ、そういうって出るんだよね」


「酷いっ?」


 ローテーブルの前に隣合わせて座ってそんな会話をしながらも、もう待ちきれないといった様子の幸にじゃあ食べようと声を掛けて揃って挨拶をする。


「いっただっきます」

「いただきます」



 私が先ず口にしたのは温かいヨーグルト。それを少し舌で転がして味わってみる。それが最近の定番。といってもまだ一週間かそこらだけれど。


「んー」


 やはり美味くも不味くもない相変わらずのお味。もう一口、口にしてもやはり何も変わらない。


 箸を手に持ったまま綺麗な顔に少し眉を寄せた幸がもごもごやっている私に訊いてくる。これも最近の定番だ。


「それ美味しい?」


「美味くも不味くない。食べる?」


「要らない。私あまり好きじゃないんだそれ。ヨーグルトは好きだけどね」


「知ってるんじゃん」


「あはは」


 そう。私はここ一週間くらい腸内にお花畑を咲かせることに精を出している。

 あの、麗蘭さんからいただいた栗のヤツのお裾分けのお礼にと、花ちゃんがこれは痩せるとかお通じにいいとか美肌効果とか、女性には何かといいことがあると、最近すっかり綺麗になってしまった花ちゃんの秘密の一端を私に教えてくれたのだ。

 確かにそんな噂を聞いたことがあったけど私は疑っていた。

 けれど、実際に綺麗になった花ちゃんが言うのだから間違いないなと、私はそれを信じることにしたのだ。


 そして花ちゃんは凄く嬉しいことも聞かせてくれた。それは私も幸も本当に嬉しいと思えたこと。





「今日も頑張った」


 三連休開け午後遅く、例のスペースで幸と花ちゃんを待っていた。

 私はコーヒーを片手に暫しぽーっとしたあと、テーブルの上に置いた件のいただきもの、箱から出した時にずっしりときたその感じがもう既に美味そうに思える栗のヤツを六つに切り分かることにした。ひとり二切れずつのつもりで。


「幅はこのくらいかな」


 けれど、その時に限って私の手がいうことを聞かなかったのだ。


「あれおかしいな」


 ひとつふたつみっつと、できるだけ均等に切っていくうちに、私はこのままだと七切れできてしまうことに気がついたのだ。

 けれど、気がついた時にはもう遅かったのだから仕方ないなと私は気にせずナイフを入れていく。



「この私がミスるなんて」


 終わってみれば六等分のつもりが七等分になってしまった。三掛ける二は六だから、どうしても一つ余ってしまう。


「これは…」


 余ったからには仕方ないと、七切れ目、けれど端っこから二番目を食べてしまうことにした。

 このままで置いておくと、はらぺこと甘ラー先輩とで私が食べるからとか言って、確実に喧嘩になってしまうし、端っぽいところがふたつないと、謎として要らぬ推測をされてしまうから。あのふたりは頭がいいから確実にバレるから。私のお土産なのに、夏織が食べたんでしょなんてふたりから責められては堪らない。私は泣いてしまうだろう。


「ならしょうがないなっ」


 つまり、そうならないようにするためにはいま私が食べるしかないというわけ。


「では。実食っ」


 私はそれを両手でもって一口齧り、いつも取ってしまう仕草でよく味わってみる。


「んー」


 しっとりとした生地は柔らかく、その下の方にたっぷり入った栗の程よい噛み応え。ほのかに香る栗の風味がまたいい感じ。甘くて美味いのは言わずもがな。


「…美味ぁい」


 私は口いっぱいに残る余韻を楽しんで、なにこれ凄く美味いんですけど、一口、もう一口と夢中になって食べているうちに、それはあっという間に私のお腹へと消えてしまった。 


「美味かったぁ」


 とても美味くてとても満足。けれどまだ満足はできない。なければないでよかったけれど、嬉しいことに私の目の前には栗のヤツがあと六切れもあるのだ。私の手によって、あたかも手が付けられていないように空いた隙間を上手いこと隠して並べ直されたヤツがそこにあるのだ。


「うーん」


 もう一つ食べちゃおうか、いや、ふたりを待って一緒に食べるべきかなとか、私が栗のヤツに手を伸ばしたり引っ込めたりしていると、私の気持ちを察したかのようにふたりがやって来てくれた。


「「お疲れ夏織」」


「あ。幸も花ちゃんも早くこれ食べよう」


 待ってたよ、早くそこに座って一緒に食べようよと手振りで私の両隣を示し、栗のヤツを指す。

 コレ超美味いよ、あ、いやたぶんだけどね私もお初だからさと、あたかも初めて口にするかのように頑張って今の失言ぽいヤツを誤魔化しつつも素早くその一つを手に取った。


「落ち着け夏織」

「あはは」


「だって花ちゃん。コレ、手に入れてからもう四日も経ってるから。わたし今日まで我慢したんだから。花ちゃんと幸と一緒に食べようと思ってさ」


 ね。幸と、私はもぐもぐしながら幸を見る。もう栗のヤツは私の口に入ってしまったから。


「花ちゃん。夏織ったら箱を開けて覗いてはまた閉めて、なんてことをしきりにやっていたの」


「へえ」


 おかしいですよねと笑う幸の説明に、花ちゃんは優しい顔を私に向けた。私も笑顔を返す。気持ちが伝わって嬉しいし美味いし、笑顔になるのは当然のことだ。


「じゃあ、花ちゃん。私達も食べよう」


「うん。美味しそうだねこれ。夏織、ありがとう」


 私は微笑んだまま頷いた。もぐもぐしている口が忙しくて話せないからだ。



「あ。美味しい」


「おー。凄く美味しいねこれ」


「ふまいほね」


「口に入れたまま喋るなって」


「あはは」


 三姉妹。窓に向かって仲良く並んで座ってこうやって、わいわいとしながらもぐもぐ食べる。

 これはあと三ヶ月で終わり。

 終わるのは本当にもったいないなぁと私は思っていた。幸も花ちゃんも今そう思っていることも私は分かっていた。私は明るく声を出した。何となくそうしたかったのだ。


「うん。やっぱ超美味いなコレ」


「やっぱ?」

「やっぱって?」


「そそそ想像通りってことだから」



 そして事件は起こる。ここが現場でなくても、ただのだだっ広い休憩スペースであってもそれは起こるのだ。


「けどさ、箱に対してこの量だと少し小さくない?」


「それ私も思った」


 私の分は既になく残った二切れ、幸と花ちゃんの分を見てぶつくさ言い出すふたり。

 そんなこといいから早く食ってしまえと思う私。

 けれどふたりはそれぞれのヤツを取って、はい幸、はい花ちゃんと置いては上げて、それを交互に包まれていた紙に置いていく始末。



「うん。やっぱり隙間ができるね」


「細かいな。小姑か」


「ほら。この包んであった紙の折り目から考えても小さくない?」


「よく見ると薄っすらナイフを入れた跡もあるね」


「そんなの見えないけど」


 私のツッコミを一切気にせずに、ほらこれのちょうど一つ分だよ、ああ本当だね、なんつーことを言い出すふたり。バレるのは時間の問題。いや、もうバレているのは確実だ。


 まったく。これだから勘のいい女性共は困る。私のようにのらりくらりと生きていればいいものを。そうすれば、気づかないのだからこんな事件など起こり得ないのに。ふたりはラブアンドピースという言葉をを知らないのだろうか。



「「夏織」」


「た、食べたけど? たた食べましたけども?」


 逃避から戻された私は微妙に開き直ってみた。とぼけても無駄だし、いい大人の女性はこれくらいことは余裕で捌ける筈だから。


「へー」

「ほぅ」


「だだだって、余っちゃったんだからっ。喧嘩になっちゃうからっ。残って、く、腐っても困るからっ」


 いい大人の女性とはなんだろう。気づけば必死に言い訳をしていた。そんな私を優しい目で見ていた幸と花ちゃんは顔を見合わせて笑い出した。


「あはははは」

「ふはははは」


「なになに?」


「ちょっとからかっただけだよ。ね、幸」


「そうそう。そうだよ、夏織」


「は?」


 幸と花ちゃんが、夏織の頂き物なんだから余計に食べても全然いいんだよなんて言って微笑んでいる。

 そんな顔を見て、また馬鹿にしたななんだよくそうと私は思ったけれど、それよりももっと楽しかったからよしとした。



 失うと分かっているともの凄く特別に思えてくるものだと私は、そして幸も花ちゃんもちゃんと分かっているから、前にも増してこうしてはしゃいでいるのだ。

 みんなおんなじ。少しの時間でも毎日のように笑って過ごした三人のいた日々を忘れたくないのだから。



「そうそう。結婚式の日取りが決まったよ。ふたりとも出席してね」


 六月。まあ、来てくれるのは分かっているけどよろしく的な感じで、嬉しさは隠し切れていないものの割とあっさりと伝えてくるあたり、花ちゃんはやはり花ちゃんらしかった。


「わっ。ジューンブライドじゃん。あらためておめでとう花ちゃんっ。絶対出るから」


「花ちゃんおめでとう。私も喜んで出席しますよ」


「うん。ありがとう」


 いきなりぶっ込んできた花ちゃんはとても嬉しそうに笑って照れた。私も幸も心から喜んでいた。

 結婚という人生の節目、新たな生活を大手を振って誰に憚ることなく迎えることのできる花ちゃんを羨ましく思う気持ちはもちろんある。けれどそれはそれ。他の人達に抱く気持ちとなにも変わらない。それよりもなによりも、花ちゃんの、姉の結婚。嬉しくない筈がない。



「けどジューンブライドなんて言ってもさ、日本じゃ梅雨だよ梅雨。わたし大事な時に限って雨が多いんだよね。ぐっさんも雨男だし」


「花ちゃん大丈夫だから。わたし晴れ女だから。頑張るから」


「私も」


「そう? じゃあ私も頑張るかな」


「いや、花ちゃんが頑張っちゃ駄目でしょ」


「いや、頑張る」


「「駄目だってば」」


 確実に雨だなこれと、ふふふあははふははとみんなで声を揃えて笑ったあと、花ちゃんはもう一つぶっ込んできた。それは確かに聞こえた神の声だった。花ちゃんこそが神かと私が思えたこと。


 おお神よと、両手を合わせる私を見ながら、幸の奴はくすくす笑っていやがった。覚えていろよと私は思った。



「ところで夏織。まだ痩せる気ある?」


「ちょっと花ちゃんまだってなに。あるし。てか、あるし」


「じゃあ、栗のヤツのお礼に私の痩せた方法を教えてあげよう」


 綺麗に痩せた花ちゃんは余裕な顔をしている。私の幸せを夏織にも分けてあげようかなと、痩せてもなお主張している胸を張った。

 その途端、逆隣りの幸が項垂れてしまったのが視界の端に見えて、私はその肩をぽんぽんと叩いてあげつつ食い気味に花ちゃんに確認する。


「まじでですか」


「まじまじ」


「やった。花ちゃんありがとっ」


 私は花ちゃんに抱きついた。でろんとまではいかないけれどかなりの体重を預けた。

 妹として姉の花ちゃんに甘えてみたのだ。


「う。重い重い」


「は? 重くないからっ」


「あ、こら。ふたりでくっつくなー」


 項垂れていた頭を起こしてわたし越しに花ちゃんの腕を掴んでぐいんぐいんと揺らす幸は楽しそう。見れば、私と一緒に左右に揺れている花ちゃんも笑っている。


「いてて。引っ張るな幸」

「あたた。幸やめろって」

「はーなーれーろー」


 そんなふたりに挟まれている私も当然笑っていた。

 終わりはすぐにやって来る。そんなのみんな知っている。けれどそれぞれに始まるのだ。




「これ美味しい」


「当然。ウチの秘伝のタレだから」


「おー」


 事実、私達は始まっている。

 肉たっぷりと喜んで、魚もいいねお代わりあるのとご飯と一緒に頬張る幸を見ていると望んだものを手に入れたことを実感できる。

 この代わりなどあり得ない。どこにも存在しないなと私は思う。


「ないな」


「なななっ」






長くなりました。ここまで来てくれてありがとうございます。


さて、四月を迎えれば、夏織と幸のお話は区切りがつきます。

そのあと、前作の様に後日談的なものを書いていくのか、元々考えていたエピローグ的なものを投稿して終わりにするのか、悩ましく思っている今日この頃、寒くなってまいりましたが皆様いかがお過ごしでしょうか?


「なんつってな。あだっ」


「あはは」


始まればいずれ終わりがくる。とはいえ寂しい気持ちもありますので、綺麗にたたむことができるか分かりませんがもう少し悩んでみることにします。


読んでくれてありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ